2023年10月31日火曜日

多様性の時代に語る金子みすずの詩

 私たちの周りには、様々な人がいます。見た目も様々ですし、個性も様々、そして考え方も様々です。このような違いを全部丸っとくるんで多様性と言います。一人一人が違うのです。
私には愛媛県と山口県という二つの故郷がありますが、その山口県には金子みすずという詩人がいます。その金子美鈴の作品の一つに『私と小鳥と鈴と』というものがあります。こんな詩です。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

金子みすずは多少末期から昭和初期の人ですが、まさに現代に住む私たちに問いかけてくるような言葉です。
 違いがあるということは、比較ができるということです。そしてその違いが評価を伴うようになると差別や区別や偏見を産み出します。しかし、そのような差別や区別、偏見は本来あってはならないものなのです。
 神様は、すべての人を大切な存在だと言われます。そしてその人にしかできない役割を与えてくださるのです。ですから、神様の前に不必要な人間や役に立たない人などいないのです。誰もが神様の前で大切にされ、生かされ、尊ばれる。そんな世界が来ることを神様は願っておられます。そしてそのような人間社会を造るのは「わたしたち」ひとり一人なのです。なぜなら、この人間社会は私たちが作り出しているからです。
 その神様が願う人間社会を作り上げる大切な存在として、神様はあなたを招いておられうのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師は「すべての人を生かすキリスト」という3分程度の短いメッセージで語ります。下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページにある▶のマークをクリックして、お聴きください。(このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです)

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b8cqr?fbclid=IwAR3RHE_-LouWcdQ5rkQ1F6xUBDOLiXH6ebvtoz5mvSagYe8cF5ZoNAJBSHw

宗教改革記念礼拝説教・救われるための努力

2023年10月第五主日宗教改革記念聖餐礼拝「救われるための努力」     

旧約書:創世記17章1節から2節
福音書:マルコによる福音書12章28節から34節
使徒書:ピリピ人への手紙4章8節から14節

 

 10月31日というと巷ではハロウィンですが、一般的には11月の第一主日に、多くの教会、特にルター派の教会では宗教改革記念礼拝を行っています。そのように宗教改革記念礼拝を行うのは、言うまでもありませんが、私たちの教会がプロテスタントに属するからです。
 宗教改革は、1517年の10月31日付けで、宗教改革の祖でありマルティン・ルターが95ヶ条の提言というものを公に現したことをきっかけとして始まっりました。だからそのことを記念して、11月の第一主日に宗教改革記念礼拝を行うのです

 この95ヶ条の提題というのは、正式には「贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論」と言います。この贖宥というものは、カトリック教会の罪の赦しの秘跡に関わるものです。罪の赦し秘跡というのは、昔風の表現で言えば懺悔(ざんげ)の秘跡と言った言い方になります

 カトリック教会における罪の理解は、大きく分けて原罪と自罪の二つに分かれます。原罪は、アダムとエヴァが犯した罪が先祖伝来の罪として私たちの内に宿っているというものです。それゆえに、本来私たちが持っているはずの神の前に正しいことを行う義なる性質、これを原義と呼ぶのですが、その原義が損なわれてしまっているというのです。
 ですから、カトリック教会が考える原罪はすべての人が生まれながら共通して持っている罪です。それに対して、自罪とは、ひとり一人の人間か、個々に犯してしまった罪です。その自罪が大罪と小罪とに分けられる。その大罪とは、モーセの十戒に記されている事柄や、七つの大罪といわれる事柄、すなわち傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰といったものを、これをすれば大罪になるとわかったうえで、それを意図的に行った場合に、大罪となります。

 これら大罪は新約聖書でいう「死に至る罪」として、罪の赦しの秘跡で、神父さんにその大罪を告白し罪を犯したことを悔いていることを伝えて、神父さんから「あなたの罪は許された」という罪の赦しの宣言を受け、その罪を償うために、断食をしたり、決められた祈りの言葉を何回も唱えると言った償いのための行為をするのです。これが赦しの秘跡というものです。
 それに対して、小罪とは、意識しないで犯した罪や、非常に些細な道徳的な過ちのことであって、これらは「死に至らない罪」として赦しの秘跡の対象にはなりません。

 そこで先ほどの贖宥(しょくゆう)ですが、贖宥(しょくゆう)とは、先ほど申し上げた罪の赦しの秘跡の中の償(つぐな)いのため行為です。カトリック教会では、大罪の中にも重い軽いがあり、それぞれの大罪に対して償わなければならない内容が決められています。これをカズストリーというのですが、ルターは、このような償罪(しょうざい)の行為は、罪の赦しにおいて必要はないのではないかと言ったのです。それが、あのルターの95ヶ条の提題と呼ばれるものなのです。
 人は、罪の赦しのために償いなど必要ない。イエス・キリスト様の十字架の死によって、もはや罪の償いは完全に成し遂げられている。だとすれば、その恵みを受け取るだけで十分なのではないか。ルターはそう言ったのです。それを、プロテスタントの教会は信仰義認と言います。

 私たちは、私たちの犯した罪や過ちに対して、何の償いを求められることなく、ただ恵みによって、その罪が赦されるというルターの主張そのこと自体は、真にもってそうだと思います。少なくとも、聖書においては、イエス・キリスト様の十字架の業は、私たちにとって完全な救いの業です。その意味で、すべてが終わったのです。

 ところが聖書は、救いについて実に奇妙な言い方をします。それは、特にパウロという人の書簡の中に見ることができます。パウロという人は、救いというのを、「救われた」という過去形で語りつつ「救われている」という現在形でも語り、そして「やがて救われるであろう」という未来形でも語っているのです。
 先ほどお読みしたピリピ人への手紙4章8節から14節などは、まさにその「やがて救われるであろう」ということ、未来形の救いが言われている箇所であると言えるでしょう。この箇所において、手紙の著者であるパウロは、

13:兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14:目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

と言っています。このパウロが「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」得ようとしている「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与」とは、文脈から読み取りと復活の出来事です。パウロは、救いの完成である完全な救いは、死から蘇る復活の出来事なのです。

 みなさん、パウロが、このピリピ人への手紙を書いていた時、彼は自分の死期が近いことを感じていました。その自分の死を意識する中で、救いの完成としての復活の出来事に希望を抱いていたのです。そして、「なんとかして死人のうちからの復活に達した」と願い、それを追い求めているというのです。しかしパウロは、同時に「そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」というのです。
 このキリスト・イエスによって捕らえられているということは、パウロはもう既に救われているということです。にもかかわらず、彼は、救いの完成を目指して、それを追い求めているというのです。つまり、彼は救いの完成である復活の出来事を求めて、今、努力し頑張っているというのです。

 みなさん、イエス・キリスト様を信じる時、私たちに復活の出来事は約束されている確実な未来です。そうです。イエス・キリスト様の約束を信じていれば、私たちは確実に復活の恵みに与ることができる。ありがたいですね。にもかかわらず、パウロは救いの完成を目指して頑張っている。これは一体どういうことか。パウロは言います。

 それは、わたしがキリストを得るためであり、9:律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

 「キリストの内に自分を見いだすようになる」、それはイエス・キリスト様のご人格の中に実を結んだ、錬られた品性であり、十字架の死に至るまで従順に歩まれたイエス・キリスト様の神を信じる信仰です。その品性と信仰を、今、生きているこのときの身に着けたいと願い、今を、精いっぱい努力して信仰を生きているのです。

 みなさん、信仰とは信じるものです。しかし、信じることは、信じたということで終わるものではありません。今、私たちがイエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様のように、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するものとなるために生きて行くことが信仰なのです。キリスト教における救いとは、イエス・キリスト様を信じる者となったからこそ、イエス・キリスト様のように生きることなのです。それこそが、旧約聖書に記された律法の精神を生き、律法が完成することなのです。
 もちろん、私たちは完全にイエス・キリスト様のようになることはできません。しかしだからと言ってあきらめるのではなく、少しでも、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するものとなるように今を生き、やがて私たちが死から蘇り、復活するときに完成することを待ち望むのです。

 ルターが言うように、私たちが神を信じ救われるということは、ただ神の一方的な恵みによるものです。この神の恵みなしに私たちはかみを信じることはできません。そしてその神の恵みによって、私たちは主イエス・キリスト様に捕らえられ、このお方を知る絶大な知識を得ました。だからこそ、今、信仰を生き、イエス・キリスト様に似たものとなるという目標を目指し努めるのです。

 先ほどお読みしました。「汝わが前に歩み全かれ」と言う旧約聖書創世記17章2節の言葉は、旧約聖書の時代にイスラエルの民だけに語られた言葉ではありません。今日にあっても、神を信じる神の民に対して語られている神の言葉であり、私たちにも語られているのです。

 みなさん、聖書は一貫して、人は神の造られたものとして、神の前で生きることを求められています。そしてそれは神を愛し、隣人を自分自身のように愛するもののとして生きるということなのです。
 もちろん、そうはいっても現実に私たちが生きている場は、具体的な文化や社会環境、そして歴史においれ、世界中の様々な地域で違っています。さらには聖書の書かれた時代と今の時代という時間的差異もあります。ですから、聖書を読んでいても、聖書が語っていることがピンとこないことも少なくありません。だからこそ、私たちの意識をイエス・キリスト様に集中することが大事です。そして、イエス・キリスト様ならばどうするかに思いを馳せて、その思い浮かべたイエス・キリスト様に倣って生きればよいのです。
 そのようにして、私たちがキリストに倣いつつ生きて行くことが、神の救いの中で、救いの完成に向かって、今を生きて行く生き方を歩んでいくことなのです。

 宗教改革は救いにおける神様の恵みということを強調しました。それは決して間違っていません。正しいことであったと私も思います。しかし、それが「恵みのみ」という言葉で、人間の努力が切り捨てられていった点は反省しなければならないと思います。
 神の救いの業は、単に私たちの罪を赦すという赦しの業を集約して語られるのではないのです。もちろん、確かに救いには罪の赦しという側面もある。しかし同時に神の救いの業は、神様が人間を創造した目的にかなって、人が人として人間形成なされていくことであるのです。そこにおいては、神様がなされる神の業と同時に、私たちもまた神の業に参与し、神と共に働くのです。

 この私たちが神と共に働くものとされたということに感謝したいと思います。だって凄いことですよ。神様と私が、神様とあなたが、一緒の働くことができるのです。神の恵みというならば、それ以上の恵みはない。そのことを心に思いながら、しばらく心を静め、声も音もたてず、私たちを神と共に働く者としてくださった神を想い、神と共に働く者の模範としてこの世界に来てくださったイエス・キリスト様のことを思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。

 

2023年10月30日月曜日

糖質ダイエット?

 糖質ダイエットというダイエットの方法がありと聞きました。
 私は三つの持病を持っていますがその中の一つが糖尿病です。この病気は厄介な病気で、生活の中で厳しい糖類の制限が求められます。当然、それにともなって食事制限と食事の管理をしなければなりません。私は、この糖類の制限をきちっと守りながら生活をしています。具体的には一食の糖類の摂取量を目安ですが40グラム以下に抑えるようにしています。そのような生活を続けていると、一年ぐらいで15kgほど体重が落ちました。そんなわめで、「なるほどこれが糖質ダイエットというものか」などと思っていましたが、それでも、そのような生活をしていく中で、非常に「甘いもの」が欲しくなることがあります。体が「甘いもの」を欲しているのです。
  糖尿病に限らず、「甘いもの」というのは、あまり体によくないと言うイメージがあります。しかし、体が欲しているということは、それが体にとって必要とされているからです。何らかの理由で、今は「甘いもの」必要だと言う状況が体の中に起こっているのです。
 そんな「甘いもの」が欲しくなったときでも、私は頑張って甘いものを食べるのを我慢していました。するとなんだが、気持ちがイライラしてくるのです。そんな私の様子を見て、妻が、糖質オフもしくは糖質カットの甘いお菓子を買ってくるようになりました。それを食べると、すこし気持ちが落ち着くのです。「甘いもの」は体が欲していただけでなく、心が欲していたのです。
 ストイックに生きるということは、一見、カッコいいように見えます。しかし、ストイックに生きているなかで、ほっと息を抜く、自分を甘えさせる時が必要なのかもしれません。ストイックに生きようと思っていなくても、今の社会は生きているだけで過度なストレスがかかるような社会です。私たちは、絶えず結果を求められ、成果を期待され、そして何かをするというDoingを基本とする生活を強いられているのではないでしょうか。そう、何もしなくてもイライラが募るような社会の中で私たちは生きているのです。
 そんな中で、私たちには、ほっと息を抜き、自分を甘えさせる一時が必要なのかもしれません。それはDoingを求められる世界の中で、何もしなくても良い、あなた方が私のそばにいるだけで良いという私たちのBeingを大切にしてくださるお方のそばに身を置くときです。結果の如何に関わらず、あなたが私のそばにいてくれるだけでいい。そんな眼差しを神様は私たちに注いでくださっています。だからこそ、私たちの心に神様は安らぎを与える絶対的に必要な「甘いもの」なにのです。
 それに通じる話を、私の友人の岩本遠億牧師が、「甘いパン菓子」という岩本牧師がパプアニューギニアに行かれた時に経験を語るショートメッセージの中で語っています。そのメッセージを岩本牧師の許可を得て掲載します。下記のアドレスをクリックし、新しいページを開き、そこにある▶マークをクリックしてください。そうすれば岩本牧師のショートメッセージ(5分程度)を聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b7fd2?fbclid=IwAR2xWe8v7nTX0HkOFj_eKbdHZ24fJgYCvNBPtJCeQ60YPrYGTprFhwSqygU

2023年10月29日日曜日

舌は火である

  口は災いのもとという言葉がありますが、言葉を発するということは難しいことです。
 元々悪意をもって人を卑しめ、陥れるような言葉は言語道断ですが、正義の思いを持って発した言葉でも、相手も傷つけてしまうことがありますし、悪意がなくても、言葉は容易に人を傷つけてしまうことがあります。また、たとえ自分は正しい思いを持って話していると思い、相手の非を問いただすためであると思っていても、相手を傷つけていいわけではありません。そのようなことを考えると、言葉を発信するということは、本当に難しいことです。
 言葉は剣です。しかも諸刃の剣です。ですから、使い方によってはとても恐ろしい武器になるのです。
 私は牧師という仕事をしていますが、牧師という仕事は言葉を用いる仕事です。また、牧師が用いる言葉は、自分自身の言葉であると同時に、聖書という古代に書かれた神の言葉を扱います。聖書には、様々な差別的な言葉の用い方があったり、男尊女卑的な言葉が散見されます。それは古代の人たちの間では普通に使われ、あまり問題にされなかった言葉遣いです。もちろん、そのような言葉遣いやその言葉が指し示す思想は、今と言う現代において受け入れて良いものではありません。むしろ、現代という状況の中で、その言葉の奥にある神の意図を汲み取り解釈して用いなければなりません。にもかかわらず、そのようなことに心を配ることを忘れて、誤って聖書の言葉を使うことがあるのです。そんな時には心から反省し、自分自身の配慮のなさを悔いるのです。
 昔、古代ギリシャにおいてイソクラテスという人が修辞学という学問を開きました。修辞学は、人を説得し納得させるための弁論に技術として発達していきましたが、その発祥の意図は、良い言葉は良い思想をから出ているので、良い言葉を学ぶことで同時に良い思想を見に次ようというものでした。それで、良い話し方は何かが研究したのが修辞学という学問なのです。
 聖書には、舌は火のようなもので様々な害悪をもたらすと言います。そしてその舌を制することがとても難しいと言うのです。そのように害悪をもたらすような言葉を発することがある私たちだからこそ、神様に心を整えていただき、配慮のある言葉を発するものとなりたいと思います。
 そのことについて、私の友人の岩本遠億牧師は「ことばを清める」という2分半弱の短いメッセージを語ってくれています。そのメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページの▶マークをクリックすれば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b6efp?fbclid=IwAR1ZlG54x56QiC7ulY5yzrZEjF-dZuUxB6ULCjOCv0sH1m_krHzpLU-WCoA

そこで語られるメッセージは、それを岩本牧師御自身が音声として語ったものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて、ここに啓示させていただいています。


 


2023年10月28日土曜日

私たちは成長できるのだ

  どんなに強い人間でも、何かしらの弱さを持っています。また完全主義の人や「完璧だ」と思われる人であっても、どこかに隙があり欠点をもっているものです。そして、自らの強さを誇る人ほど、その弱さを認めることができず、「完璧」を目指す完全主義名人ほど、自分の隙や欠点を赦せなかったりします。そのような、弱さや、隙や欠点を悪いことだと思い、それを隠そうとするのです。逆に、自分は弱い人間だと認めている人や自分は欠点だらけだと思っている人は、その弱さをあきらめ、欠点を克服する努力を放棄してしまう傾向が見られます。
 このような二つのタイプに日とは、まったく相反するタイプですが、自分の弱さや欠点というものを嫌っています。それを喜んで受け入れることができないのです。だから隠したり、あきらめたりするのですそして、多くの人はこの二つのタイプの人の間にある人々であり、自分の弱さや欠点というものに折り合いをつけながら生きています。しかし、それでもなお、自分の弱さや欠点を決して好ましいと考えてはいないだろうと思うのです。
 このように、「わたし」という存在は、欠点や弱さを抱えて生きています。どんなに嫌で好ましいとは思えなくても、その欠点や弱さを含んで「わたし」は「わたし」なのです。にもかかわらず、「わたし」たちが、自分の弱さや欠点を嫌い、好ましいと思えないと言う現実は、「わたし」たちは、どこかで完全に自分自身を受容できず、完全に自分自身を愛するということができないでいるのです。もし、自分自身を完全に受容でき、完全に愛することができていたとしたら、自分の弱さや欠点をも愛することができるからです。
 ところが、神様は、そのような弱さや欠点を抱えたままで「わたし」たちを受け入れ、愛してくださるのです。「わたし」たちが弱さや欠点の中にあってなお、「わたし」たちのすべてをくるっとまとめて、「わたし」たちを価値あるかけがえのない存在だと認めてくださるのです。「あなた」は、私にとって完全な存在で愛すべき存在だと言ってくださるのです。それだけではありません。この「あなた」を愛し、あなたを立っというと言ってくださる神を信じ、心に受け入れるとき、神様は「わたし」たちの内側に、ご自身の霊である聖霊なる神を与えてくださいます。その聖霊なる神が、「わたし」たちに力を与え、少しずつ、その弱さや欠点を乗り越えていくことができるようにと育み成長させてくださるのです。
 私の友人の岩本遠億牧師が「私の弱さの中に」という3分程度の短いメッセージの中で、そのことを端的に語っています。その岩本牧師のメッセージは下記のアドレスをクリックしてくださり、「366日元気の出る聖書の言葉」のページに行き、▶マークをクリックしてくだされば聴きことができます。この「366日元気の出る聖書の言葉」というのは、岩本牧師のご著書のタイトルであり、そこで語られるメッセージは、それを岩本牧師御自身が音声として語ったものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて、ここに啓示させていただいています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b5co8?fbclid=IwAR1dm7ZYhginG8e2vDWrI-7FUYTWueIi4zdh6ZERrBUteLtfz3auhngdGzU&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB3QqDIBgA0Ccq2Q9rBGNs1ELYTTGJutPUlJV92Ocin37nGERYc0JWWNDqnbvBLD7ZlEg5QDpZ9yWK7DWwmQbQpbhrMUxW3uj2aA5yzvrOjNZVV3X8Fa2nSfZi3acNitpzlObSl41%2FMlRv1PHEg3GjrCL7A4wd9691AAAA

2023年10月27日金曜日

知性の限界

  昔、ドイツのカントという哲学者が『純粋理性批判』という本で、人間には人間の知性で知ることのできることと、人間の知性では知ることのできないものとの二つがあるということを明らかにしました。
 カントは、知りうることのできるものを後験的なものといい、知ることのできないものを先験的なものと呼びました。後験的なものは、生まれた後から経験することで理解し、認識することができるものです。しかし、先験的なものは生まれたときから人間の心に刻み込まれている概念で、人間の知性の限界を超えた先にあるものです。例えば善とか美とか真や愛といったものです。そして神もそれに相当します。神は人間の知性で知ることはできないお方なのです。
 同様に善や美や真や愛といったものは、それ自体が何かはわかりません。確かになんとなく感覚としてはわかります。というのも、善いもの、美しいもの、真実なもの、より愛おしいもの、あるいはより愛されることといったように、なにかを通してそれが存在することは感覚的(直観的)にその存在を捕らえることができるからです。しかし、善それ自体は、美それ自体、真実それ自体、相それ自体が何であるかとなると、私たちは説明することはできません、それが何であるかを知ることはできないのです。ただ、この世界にあるものや現象を通して、善や美や真といったものを感じ取るだけなのです。
 同時に、私たちはこの世界のあらゆる物事の中に、善や美や真といったものを求めます。より善いもの、より美しいもの、より真実なものが存在し、それがこの世界の中に現れ出ることを、そしてそれが「わたし」の人生の中に訪れることを求めるのです。
 実は、この善や美や真というものは、神様の御性質に属するものなのです。それで、そのような神様の御性質のことを神の属性と言います。その神の属性を私たちが「わたし」の人生に訪れることをもとめるのは、私たち人間は、生まれたときから神を求めて生きる者とし生れてきているからです。私たちは、私たちの人生に神が関わってくださることを願い求めて生きる存在なのです。しかしそれが何であるかは、私たちの思考の及ばないことなのです。そのことを、私の友人の岩本遠億牧師も、「思考の及ばないところ」という3分弱の短いメッセージで語っています。岩本牧師のメッセージは下記のアドレスをクリックしてくださり、新しく開かれた「366日の元気の出る聖書の言葉」のホームページに行き、▶のマークを再度クリックしてくだされば聴くことができます。このメッセージは、岩本牧師の著書『366日の元気の出る聖書の言葉』にあることを岩本牧師自身が音声として伝えたものですが、岩本牧師にご承認いただいてここにリンクしています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b385a?fbclid=IwAR2H2bzk2kKbWAXxgO7k83Ge_j1-MI5zPuZwjYTqm-d901zUxnSmbrp2r1Y

2023年10月26日木曜日

神様はあなたの伴侶となり、あなたと共に歩まれる。

 私が最も大切にしている書物は言うまでもありませんが、それです。聖書は神の言葉として、私の人生を導き、聖書を通して、神様が私を慰め、励まし、時には叱責を与えます。それは、まぎれもなく、神が私と共に歩いてくださっているという証左です。
 アブラハム・ヘシェルという人は『人は独りではない』という本を書いておられますが、それは、神様が決して私たちを見捨てず、見放しておられないということを教えています。そして確かに、神様は私たちの人生の伴侶となり、私たちに伴ってくださっているのです。
 その私の人生は、良い時もあり悪い時もあります。そのような時の善し悪しに関わらず、神は私たちと共にいて下さるのです。そのように、神が私たちと共にいてくださるのは、私たちが神にとって役立つ働きとなりからではありません。また私たちが神に有益な存在だからでもありません。むしろ、全能である神にとって、私たちは無益存在であり、神のために役立と存在ではないのです。
 もし、様様がなされようとするならば、全能の神お一人がことを進めた方がすべてよく、早く事が進みます。むしろ私たちと足並みをそろえ、私たちと共に歩いてくださることで、物事は神の完全さに対しては不十分なものとなり、その足取りも遅くなります。それでもなお、神様4は私たちの伴侶となり、私たちと共に歩いてくださるのです。それは、神様が私たちを愛しておられるからです。
 神様は、私たちを愛しておられるがゆえに、私たちを、「あなた」を決して見擦れることはなく、また見放すこともせず、私たち決して独りにはせず、私たちの人生と共に歩んでくださるのです。そして、あえて私たちを神の働きのために用いてくださるのです。
 そのことを、私の友人である岩本遠億牧師は、「神様は捨てない」という3分程度のショートメッセージ聖書に出てくる葦とほの暗い灯芯の譬えを用いながら、実に適切に表現し語っています。そのメッセージが神のアドレスで聴くことができます。下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページにある▶マークをクリックしてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b2ckn?fbclid=IwAR2xABr9s0389RXKFJfQhoXFY3xHtyLLHJK0cVOkugBEv6AY-_Q-6p5omKM&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB0QqDIAAAwC8yZVHUYAyDoqVj1MOwp5GWKbWUtFV%2FvzvlvXVXCJ01XsuzW4QyK9gHHnTWBrNeJjhAOjKUJVvEc36XXMy6vz123FwOnK2pQ2GSNowUlayVYUUbHqU%2FKS0rgsT7NW1jlv9i3IJPDWIbmS95%2FgHITLf7dQAAAA%3D%3D

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです

2023年10月25日水曜日

悔いのない人生

 この夏、妻の父が突然天に召されました。
日曜日の朝、主日礼拝を終えた直後、娘から電話があり、義父が亡くなったと知らされました。私も妻も牧師という仕事柄、親の死に目に会えないこともあるということは覚悟していましたが、本当に突然のことで、心の準備もできないまま義父の死を迎えることになりました。
 聞きますと、義父は亡くなる前に「もう少し長生きがしたかったが、私の人生に悔いはない」と言っていたそうです。義父はくりすちゃんでしたので、「私の人生に悔いはない」というその人生は神を信じて生きた人生です。私はその言葉を聞いた時、私は私の恩師であり、もっとも尊敬する牧師のひとりであるM牧師の最後の言葉を思い出しました。それは「神を信じて生きた私の人生は幸せだった」というものです。
 私の義父も恩師のM牧師の死も、突然訪れたものです。ですから、十分に準備して語られた言葉ではありません。しかも、義父の死は事故が直接的原因ではありませんでしたが、しかし事故が誘発した突然の死であり、M牧師の死は医療事故ではないかと思われるような突然のものでした。しかしそれでもなお、人生に「悔いはない」、「幸せだった」というのです。
 そこには、神を信じて生きた人生があります。その人生は、神を信じたから順風漫歩であったかというと、必ずしもそうとは言えません。むしろ、試練も多かったのです。しかしそれでもなお、神を信じ抜いていきた人生を、その死の間際であっても「悔いはない」「幸せだった」というのです。いえ、死の瞬間まで神を信じて生き貫いて生きてきたからこそ、「悔いはない」、「幸せだった」と言えるのでしょう。
 この言葉は、残されたものに、どれだけ慰めを与え、励ましを与えたことか。神を信じて生きた人の人生は、生きているときだけでなく、死んだ後もなお、人を慰め、励ますものなのです。
 そして、私もそのような人生を生きたいものだと思います。そしてきっと生きられるのだと思うのです。そう、私も「あなた」も神を信じる人生を生き貫くなら、必ずそのように「悔いはない」「幸せだった」と言える人生を生きることができるのです。
  今日も、私の友人の岩本遠億牧師のショートメッセージをお届けします。4分に満たない短いメッセージで、「死の備え」というタイトルのメッセージです。神のアドレスをクリックし、新しく開かれた「耳で聴く366日の元気の出る聖書の言葉」のページで、同名のタイトルの▶マークをクリックしてお聴きください。 なお岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b0snv?fbclid=IwAR0lKUm8w9jpg10LgXKkTDaRNWieN0weREZKzA-aHhvwrq1beP7lzW8n18s

2023年10月24日火曜日

光は闇に輝く


 人間の人生は、時を刻みながら変化していきます。それこそ、心と体とか気が付かないうちに成長していくのです。もちろん、その在り方は人それぞれですし、ひとり一人の存在の在り方は違っています。しかし、ひとり一人がその人の人生を歩いているのです。しかし、その歩みは必ずしも思うようにいかない時もあります。実際、私たちは正しい方向に向かって歩いているのかどうかもわからないのです。
 18世紀のヨーロッパに啓蒙主義という考え方が起こってきました。人間は知性を持つ存在であり、その知性をもって世界の様々を知り、理解できるというものです。そしてその延長戦上に、様々なことを知る理解することでより発展した良い社会をつくることができると言う一種の進化思想が私たちの中に刷り込まれてきました。
 実際、医療や科学の発展は、私たち人間に様々な良いものをもたらしましたが、しかし同時に、二つの大きな世界大戦は、私たち人間がどんなに知性的な存在であっても、正しく歩めない者であるということを明らかにしました。知性で考えれば戦争など良くないことだという個とは誰でもわかることだからです。また、科学の発展は産業社会に有益に用いられ多く用いられるようになりましたが、反面で自然破壊や環境問題などの地球規模の問題を引き起こしました。それを何とかしなければならないとわかっているのですが、経済の問題、つまりお金儲けが絡んでくると、そんな問題意識など吹っ飛んでしまうのです。
 これが、私たちの現実です。そしてそのような現実は世界が闇に覆われているからで、その闇の中で、私たちはどう生きたらよいかわからなくなってしまっているのです。
 暗闇の中を歩くために必要なものは光です。そして、この世の中を時々刻々過ぎてゆく時の流れの中で生きて行くために、足元を、そして未来を照らす光が必要です。神は、その光としてイエス・キリスト様というお方をこの世界に送ってくださいました。だから聖書は、イエス・キリスト様のことを「世の光」というのです。
 この「世の光」に照らされるとき、私たちは私たちの人生を生きる力を与えられ、歩む道を見いだします。その歩むべき道とはイエス・キリスト様に倣って生きるということです。このイエス・キリスト様に倣って生きるという道を歩むとき、私たちは必ず、神の愛と恵みへとたどり着くことができるのです。
 そのことを、私の友人である岩本遠億牧師が「ソーラー時計」という3分程度の短いメッセージで伝えてくれています。そのメッセージは下記のアドレスで聴くことができます。アドレスをクリックし、あたらしく開かれたページにある▶マークをクリックしてください。そうすれば、聴くことができます。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2aulh9?fbclid=IwAR15gEv18YN2OLgcF6XNU3bEOyxkh8lR-1ZjNUicO3WBaHJcMKuIdsHyrOA

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。



2023年10月23日月曜日

内側にある力ではなく、外側にある力で

 
努力は必ず報われる。私たちはこのことを信じて頑張ります。確かに人間には才能と呼ばれるものがあるかもしれません。しかし、努力と頑張りがあるならば、その才能ある人に追いつくことも、場合によってはその差を乗り越えることができることもあるのです。
 その反面、私たちがどんなに努力してもどうしようもないこともあります。そのような厚い壁のぶつかった時、私たちは茫然と立ち尽くすしかありません。そして絶望するのです。
 しかし、絶望を乗り越える力があります。それは私たちの内側にある力ではありません。私たちの外側にある力が、私たちにはどうしようもないような壁の前に立ち尽くす私たちに新しい道を切り開いてくれるのです。
 才能や努力は私たちの内側にある力です。では私たちの外側にある力とは何でしょうか。それは神の力です。その神の力が私たちの前に新しい道を切り開く、その道へと導いてくれるのです。だから、目の前の壁にガッカリし、茫然と立ち尽くす必要はないのです。
 むしろ、ハーと息を噴出して、心と体とをリラックスさせ、神の力が私たちを新しい道へ導いてくれるまでゆっくり止まっていればよいのです。
それは、死という人間にとって最も絶望的な事態においてもそうです。たとえ死という私たち人間が決して乗り越えることのない現実の前に立たされたとしても、その死を乗り越える希望へと神は私たちを導いてくれるのです。
 この神の力について、私の友人岩本遠億牧師が「眠っている間に」という三分ほどの短いメッセージで語ります。そのメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで▶マークを再度クリックすることで聴くことができます。
 なお岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2atqjb?fbclid=IwAR0H70oG-hpjknfI4hR9ZeJ3qqz6s-WCUfmYIm2P9fLvQjFSQJx_jK3U8sk

2023年10月22日日曜日

神の愛は変わらない。

 
 私たちにとって本当につらいことの一つに裏切りがあります。信頼していた人、尊敬していた人、愛する人からから裏切られる。それは本当につらい出来事だと言えます。そのような出来事を経験すると人間不信になってまったとしても仕方がないことだと言えるでしょう。
 イエス・キリスト様はそのような裏切りを、その人生の中で、しかも立て続けに2度も経験します。一つはイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を殺そうとしている人々に銀貨30枚と引き換えに、イエス・キリスト様の所在を教え捕らえさせると言う出来事であり、もう一つは、イエス・キリスト様の腹心ともいえるペテロが、捕らえられ裁判にかけられているときに、3度にわたってお前のイエス・キリスト様の弟子だろうととわれて、3度とも、そんな人は知らない、その人は私と何の関係もないと言った出来事です。
 どちらも、イエス・キリスト様の12弟子であり、約3年間、一緒に教えを広めるための旅をし、寝食を共にした人たちです。その二人から裏切られ、その裏切りの中でイエス・キリスト様は死んでいくのです。
 しかし、このお方は、一度もこの二人に対して恨み言を言いませんでした。逆に、この二人を変わらずに弟子として愛し続けたのです。二人はイエス・キリスト様を裏切りましたが、イエス・キリスト様はこの二人を決して裏切らず、変わらずに愛し続けたのです。ですから、イエス・キリスト様など知らない。その人は私と何の関係もないと言ったペテロは、その後、弟子として復帰し、最後は殉教するにまで至ったのです。それは、なにがあっても変わらないイエス・キリスト様の愛に触れたからです。
 この変わらないイエス・キリスト様の愛は、神のひとり子としての愛です。それゆえにその愛は神の愛です。神の愛は決して私たちを裏切ることなく、私たちと共にあるのです。その神の愛が「あなた」にも注がれているのです。
 いつもの通り、私の友人の岩本遠億牧師の3分程度のショート・メッセージを紹介します。そのショート・メッセージのタイトルは「大丈夫だ、さあ、行こう」です。それは、いつも変わらないイエス・キリスト様の愛、神の愛があなたと共にあるから、大丈夫、この世界の中で生きて行こうと言う励ましがあります。是非お聞きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2asm2a?fbclid=IwAR1hwloaJZdG2bIQEY0x8AybqhNSfeVJlPdTbXpPwXigWKmqC_rQTAsjOJ0

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

ナザレのイエスは神の御子である

 23年10月第四主日礼拝説教「ナザレのイエスは神の御子である。」

旧約書:イザヤ書61章1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書10節22節から31節
使徒書:ピリピ人への手紙2章6節から8節

 今日の礼拝説教での中心となる箇所は、聖書箇所は先ほどお読みしましたヨハネによる福音書10章の22節から31節です。本当なら、イエス・キリスト様が、父なる神様と決して切り離すことができない一つの存在であり、永遠の命を与えるお方、つまり神の御子であるということ宣言なされたことが述べられている箇所です。

その冒頭の22節で「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった」とあります。「そのころ」というのは、おそらくイエス・キリスト様が、9章において生まれつき目の見えなかった人をお癒しになった出来事があった「そのころ」ということであろうと思われます。
 この生まれつき目の見えなかった人をお癒しになったという癒しの物語は、その話の最後において、本当に神様の間に目の見えない者は、イエス・キリスト様に見えなかった目を癒してもらった盲人ではなく、むしろ、聖書に忠実に生きていると自負し、イスラエルの民を教え、導いているパリサイ派の人たちであったという「落ち」がつき、そして、10章の1節から21節本当に、神の民を導く「良き羊飼い」は、イエス・キリスト様であるという結末に至る見事な話の展開になっています。そのような、9章から10章21節の物語が展開した「そのころ」に「宮きよめの祭り」があったというのです。みなさん。「宮きよめの祭り」というのは、イスラエルの人々ハヌカと呼ばれる祭り、別名では光の祭りと呼ばれるお祭りで、今日でも行われています。

 この宮清めの祭りの起源は、セレウコス朝・シリヤがイスラエルの民を治めていた紀元前2世紀までに遡ります。セレウコス朝・シリヤと言いますと何かアラブ民族の国のように思ってしますますが、そうではなく、マケドニアのアレキサンダー大王の末裔によって治められていたギリシャ人が支配する国家でした。そのセレウコス朝シリヤは、支配地域をギリシャ化し、ユダヤ教を迫害し、エルサレムの神殿にギリシャの神々の像を持ち込むなどしました。中でも、アンティコス・エピファネス(アンティコス4世)は、祭壇に、イスラエルの民が汚れた動物だと言って良き嫌っていた豚の血を注ぐという、まさにイスラエルの民の信仰を冒涜するようなことをしたのです。
 このことを機に、イスラエルの民の中の祭司の家系であるハスモン家のマカバイが反乱を起こし、3年間の戦いの後、マカバイが神殿を取り戻し、豚の血で汚された神殿を浄めて、再び神に捧げた。このことを祝う祭りがハヌカと呼ばれる宮清めの祭りなのです。そう言ったわけで聖書協会共同訳では、この「宮きよめの祭り」を「神殿奉献記念祭」としているのです。このマカバイの物語は、アポクリファと言われる旧約聖書外典の中にマカバイ書として納められています。

 この「宮清めの祭り」の「時は冬であった」とありますが、だいたいクリスマスの時期に八日間行わます。その八日間にハヌキヤーと呼ばれる特別な燭台に、私たちがクリスマスのアドベントに時期に、一週間ごとに蠟燭の火を一本ずつ増やしていくように一日に一本ずつ蝋燭の明かりを増やしていきます。しかも、このハヌキヤーというのは、特別な燭台です。ふつうはメノーラーという中央の種火となる蝋燭の両側に6本の枝をつけ、7本の蝋燭が建てられる燭台なのですが、ハヌキヤーはそのメノーラー種火の両側にある枝を一本ずつ増やした9本立ての燭台なのです。なぜ、このハヌカと呼ばれる宮清めの祭りの時に燭台の灯を増やすのかについては、色々調べてみましたが、よく分かりませんでした。祭りの日が八日間なので燭台の枝が八本なのかもしれませんが、なぜ8日間なのかがわからない。いずれにせよ、宮きよめには、普段と違う新しい灯の光が加えられるのです。

みなさん、私たちは先ほどイザヤ書の60章1節から3節までのみ言葉に耳を傾けました。そこには、次のように記されていました。

1:起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。2:見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。3:もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。

 このイザヤ書は、イスラエルの民がバビロン帝国に支配される、奴隷として隷属されるという闇の時代の中にある中で、そこに神の救いの御業が現れるということを語る言葉です。バビロンの地に奴隷となり、暗い表情で希望もなく打ちひしがれている神の民に、神は、「起きよ。そして光りを放て」と言われる。それは、彼らを覆っている黒雲を打ち破って朝日のように主の光が輝き、あなた方を奴隷とする支配から解放する神の業が起こるのだ。だからあなた方は暗い顔を捨て、立ちあがって光を放て」と神は約束されるのです。
 まるで、そのことを思い出させるように、このハヌカの祭りに、新しい灯の光が加えられた。セレウコス朝シリヤのよって支配され、迫害された辛い時代に救いの業がなされ、新しい時代が始まったというかのようにして、新しい光がそこに現れ出るのです。

 みなさん、考えてみますとイスラエルという神の民の歴史は、他民族に支配され迫害されるということを繰り返してきた歴史です。そして、そのつど神の解放の業に与って来た。そのことをイスラエルの民は、過ぎ越しの祭りや宮きよめの祭りとして自分たちの記憶の中に刻んできたのです。
 そのような宮清めの祭りを背景に、「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という物語が始まり、その冒頭でイエス・キリスト様が、父なる神様と決して切り離すことができない一つの存在であり、永遠の命を与えるお方であるということをお語りになるのです。

 この一連のスートーリは、「するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」という言葉から始まります。口語訳聖書では、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか」となっていますが、聖書協会共同訳は、「いつまで私たちに気をもませるのか」と訳しています。もともとのギリシャ語を見、直訳しますと、「いつまで、私たちの魂を上げるのか」あるいは「私たちの魂を高揚させるのか」となります。

ユダヤ人は、イエス・キリスト様の言動を見ると魂の高揚を感じるというのです。心が騒ぐのです。しかし、聖書の文脈を見ますと、この魂の高揚は、決して良い意味ではの高揚ではないのではないかと思うのです。なぜならば、このユダヤ人というのは、9章で言われているユダヤ人たちであり、イエス・キリスト様を快く思っていない人たちなのです。
 その人たちが「あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」という。口語訳聖書を訳した人たちは、イエス・キリスト様に尊敬の思いを持っておられるので、丁寧な言葉遣いをしていますが、実際は、もっと荒っぽい言い方だったろうと思います。その点、聖書協会共同訳は、その歴史的文脈のニュアンスを汲み取って「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と訳しています。

 メシアというのはヘブル語でギリシャ語のキリストということです。そしてその意味は、油注がれた者、油注がれた王という意味です。ですから、「あなたが王ならばはっきりそう言え」と言っているのです。これは、私の個人的な推測ですが、彼らはイエス・キリスト様が、「私は王だ」とはっきりといったならば、その言葉をもって、イエス・キリスト様をその当時イスラエルの国を支配していたローマ帝国に、「彼は自分自身を王だと言って、ローマ帝国に反逆しています」と訴え出るつもりだったのではないかと思うのです。そうすれば、イエス・キリスト様を抹殺できる。つまり、端からイエス・キリスト様を受け入れるつもりはないのです。そしてそれは、9章から一貫しているユダヤ人の姿勢だと言えます。
 だからこそ、イエス・キリスト様は、そのユダヤ人たちの心を見透かすかのようにして「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている」といい、ご自分を羊飼いに見立てて「あなた方は私の羊ではない」と言うのです。

 これは、このヨハネによる福音書を記した著者が、10章1節から21節までで、イエス・キリスト様がなさった「よい羊飼いのたとえ」を意識していたからだろうと思われます。そして、そこにある、パリサイ派のユダヤ人たちへのイエス・キリスト様の鋭い批判を見逃さなかった。そして、その上で、ご自分が、決して神と引き離すことができない一つに結ばれた存在であり、永遠の命与えるものである」というのです。
 その結果、「そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」という事態になった。石を取り上げたということは、彼らは宗教的な理由でイエス・キリスト様に制裁を加えようとしたということです。もし、イエス・キリスト様が、私はキリスト(ヘブル語でメシア)であると宣言しますと、それは自分が王であると宣言することですから、先ほど申し上げましたように、時の支配者であるローマ帝国に訴え出て、政治的制裁を加えることができる。

 しかし、イエス・キリスト様は、そこのところはユダヤ人の思惑通りにはふるまってくれないのです。しかし、だからといってご自分の立場を明らかにしないわけではありません。「あなたたちは、わたしの父の名によってしているすべてのわざをみているだろう。それのわざが、わたしがだれであるかということことをあかししているではないか」といい「わたしは、彼らに永遠の命を与えるものだ。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」といって、「私は父と一つである」と宣言なさる。

 この言葉を聞いて、ユダヤ人、主にはパリサイ派の人々だと思いますが、その人々は、イエス・キリスト様に対して、もはや政治的制裁ではなく、宗教的制裁を加えようとする。それが石を取り上げ、石を投げつけ処刑しようとする態度となって顕れるのです。みなさん、この当時のイスラエルの民には、人を処刑をする権限が与えられていませんでした。だからもし、それをすれば彼らが罰せられることになる。にもかかわらず彼らが石を取り上げたのは、もはや自制することのできないほどの憤りが彼らの心にあったからです。
 それは、イエス・キリスト様が、神を父と呼び、私は神と一つだといって、ご自分が神と切っても切り離すことができない神の子であると宣言なさったからです。そして、人々の永遠の命という神の命を与えるものであると宣言なさったのです。

 このお方を、キリスト教会は救い主であり、キリストすなわち油注がれた王として、2000年の教会の歴史の中で信じ受け入れ、そして告白してきた。そして、このお方の中に、罪と死が支配する「この世」という世界の中で、私たちを慰め、励まし、私たちに生きる力を与える希望の光を見てきたのです。そしてきょうもまた、そのお方が、私たちを慰め、励まし、希望を与えてくださっているのです。最後に、先ほどお読みしましたピリピ人への手紙2章6節から8節をお読みして、今日の説教を締めくくりたいと思います。

 6:キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7:かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8:おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

静まりの時を持ちます。

2023年10月21日土曜日

神に見ていただく


私たちは、人には誰にも見せたくない自分の姿を持っています。それは「弱さ」であったり「汚さ」であったり「嫉妬深さ」や「意地悪さ」であったりします。もし仮に、そのような見せたくない姿を知られたならば、それまで築き上げた人間関係や信頼関係にひびが入り、非難されたり拒絶されてしまうかもしれません。ですから、自分自身のすべてを人前にさらけ出して見せるということなどは、とてもできないのです。そこには、自分を見る周囲の良く満たれたい意識されています。基本的に、私たちは人から良く見られたいと思う存在なのです(もちろん、ごくまれに自分を悪く見せようとする人もいないわけでありませんが…)。いずれにせよ私たちは、周囲の目を気にして生きているのです。そしてその傾向は、私たち日本人には、さらに強くあるのかもしれません。

 このような傾向は、言葉を換えて言えば、周囲の目が私たちの思いや行動を支配しているということができます。周囲の目、それは世間とも言えるものですが、この世間を恐れ、世間に受け入れられるために、私たちはありのまま間の姿をさらけ出すことができないのです。そしてそれは、自分が自分自身を受け入れることができないでいるということでもあります。
 そのような「私たち」に対して、聖書は神様は「私たち」の隠れたところを見ておられると言います。つまり、神様は私たちのすべて、ありのままの姿を知っておられるというのです。だとすれば、その神様の前に、「良い格好し」をしても何もなりません。むしろ、自分の「弱さ」や「汚さ」や「嫉妬深さ」等々の否定的な一面も全部さらけ出して見ていただくことが大切です。そして、こんな私を受け入れてくださいと訴えることが大切なのです。もちろん神様は、神様の前に自分自身のすべてを見ていただくためにさらけ出す私たちを受け入れてくれます。その時に、私たちを縛り付け支配している世間の目というものから解放されるのです。

 もちろん、世間の目から解放されたと言っても、私たちは世間の中で生きています。世間の中で生きているからこそ、私たちは人間なのです。そして人間である以上、世間のルールや法律を守りながらいきていかなければなりませんし、そのようなルールや法律をないがしろにして良いわけはありません。そして、その世間の中で頑張って生きて行かなければならないのです。そのような中で、私たちはただ神の前に進み出て、神の前に立ち、私たちのすべてをさらけ出して見ていただくとき、私たちのすべてを受け止めてくださる神の愛によって慰められ、励まされ、再び世間の中で生きて行く力を得ることができるのです。

 この「神に見ていただく」ということを、私の友人の岩本遠億牧師が四分足らずの短いメッセージで語っています。岩本遠億牧師は、私がここで書いた内容とは少し違った視点で「神に見ていただく」ということを語っています。それは、自分の力ではどうしようもないような強力な悪の力、罪の力が支配する現実を神に見ていただき、神がなしてくださることに期待をし、信頼することの大切さを伝えています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで▶マークをクリックしてくだされば聴きことができます。なお、この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2arlsq?fbclid=IwAR2w_GKquYL4j46CV9zy-ZDVEwkqIHbZW6ns69_f1YGKjh4X2stQP_JNAio

2023年10月20日金曜日

自分の力で立ち上がれない者を

 
 私は、牧師になって間もない頃、「もう牧師なんてやめてしまおう」と思った時がありました。一生懸命教会に仕え、教会員の方のために働こうと思い、自分なりに精一杯頑張っていたのですが、一部の方に理解されず、むしろいろいろと批判される言葉を耳にしたからです。それで、心の糸がぷつんと切れてしまって、「もうやめてしまおう」と思ったのです。それで、妻に「やめようか?」と心のうちにあった思いを話しました。
 すると妻は「やめたら」というのです。その言葉で、私はもう一度、頑張ってみようと思いましました。妻や子供を抱えており、まがいなりにも従業員を五千人を抱える一部上場の大企業に勤めていた中、牧師になると言って会社を辞め、神学校に行き牧師になって、まだ日も浅いのに「やめようか」と言い出す私に、「やめたら」と言って、私の心中を察し寄り添ってくれる言葉に、私は「ここでやめるわけにはいかない」と思い、失意の中から立ち上がることができたのです。
 私は言葉によって打倒され、言葉によって立ち上がることができたのできました。言葉は人を殺しもし、生かしもするのです。
 しかし人間の人生には、もう立ち上がれないと思われるような経験をすることがあります。周りの人が励ましや慰めの言葉をかけてくれても、立ち上がれないと思うような時があります。そのような状態は、まさに絶望と思われるような状態です。そのような絶望の状態の中にある者にも神は、言葉をかけて立ち上がらせてくださいます。神の言葉には力があるのです。
 旧約聖書にエリヤという人物の話が書かれています。エリヤは神様のために働き、大きな成果をもたらしました。ところが、そのためにエリヤはイザベラという女王から命を狙われることになるのです。そのことに失望したエリヤは「もう自分の命を取って欲しい」と神に祈るほどに失望し、立ち上がれなくなってしまいます。そんなエリヤに神はささやくようなか細い小さな声で「お前はここで何をしているのか」と語りかけるのです。その声がエリヤを奮い立たせます。そして、エリヤは再び立ち上がるのです。
 私には、「お前はここでない荷をしているのか」という言葉で、なぜ奮い立ったのかはわかりません。何でもない言葉だからです。しかし、考えてみると、私の妻が私にかけた「やめたら」という言葉も、なんでもない一言です。なんでもない一言でも、相手を思う心が込められた一言には不思議な力があるのです。
 神が私たちに語りかける神の言葉には力があります。もはや人間の言葉の力では立ち上がれないような絶望の中にいる人であっても、神の言葉は、その人を立ち上がらせるほどの力があるのです。その神の言葉は、今日も「あなた」に語りかけています。ただその声はか細く小さいのです。だから、聴こうとして耳を傾けなければなりません。しかし、確実にその言葉は、「あなた」に臨んでいるのです。
 その人を立ち上がらせる神の言葉について、私の友人の岩本遠億牧師が「自分の力で立ち上がれない者を」という三分半程度の短いショートメッセージの中で語っています。下記のアドレスをクリックし、新しいページにある▶マークをさらにクリックしていただくとそのショートメッセージをお聞きいただけます。


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この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。


2023年10月19日木曜日

神のしもべはこれによって生きる


 私が牧師になった時に、私が牧師としての仕事をするにあたっての基本的な指針を決めました。それは、次の二つです。
 一つは、どんな仕事の依頼であっても、特別な事情がない限り、牧師としての私に依頼されたその仕事は断らずに引き受けるということ、二つ目は、自分が働き痛いと思うところ、したいと思う仕事ではなく、自分が必要とされているところ、自分が必要とされている仕事をするということです。だから、自分がそこに留まりたい、この働きを続けたいと思っても、自分が必要とされないとわかったら、そこにしがみつかず、潔くそこから退こうと思っていました。そして、その基本的指針は今でも変わりません。
 自分を必要としてくれている人がいるということは、本当にうれしいことです。なぜなら、その人にとって、私はいなくてはならない存在だということであり、私の存在意義を認めてくれているからです。
 そのように、「あなた」がいなくてはならない存在だとして、「あなた」を求めておられる方がおられます。神様です。神様は「あなた」をかけがえのない大切な存在だと言ってくださっている。
 その神様の「あなた」に対する求めを、私の友人岩本遠億牧師は「神のしもべはこれによって生きる」という3分程度の短いメッセージで語ります。下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで▶をクリックし、岩本牧師が聖書から語るショートメッセージをお聞きください。

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2023年10月18日水曜日

信頼(心の成長のために)

 人間が人間である。極めて当たり前のように思いますが、しかし実は人間とは何かという問題は、決して簡単には言えない問題です。いったい人間を人間とする者は何なのか。例えば、肉体という即物的な面からみれば生物学的に人間というのはDNAによって分類可能なのかもしれません。
しかし人間は、肉体という側面だけでなく、心や意識といった側面も持っています。そして、物事を価値づけたり、意味づけたりします。人間のこのような一面を一般的には、心あるいは精神、哲学的な表現をもって言えば理性、宗教的な言い方をすれば霊ということができます。
 聖書は、人間の肉体は、地の塵から造られたと言います。同時に、神は鼻から神の息を吹き込み、生きた存在として造られたと言います。つまり、人間は神に似たものとして造られたというのです。そのことを聖書は、神の像(かたち)に造られたというのです。
 肉体が成長するように、心も成長します。そして成長して完全なものとなっていく。その様子を観察した古代ギリシャの哲学やアリストテレスは、そのような有様を植物の種子が変容しつつ育っていく姿に譬えながら捉えています。そういった意味では、人間は、人間の肉体の中に神の像という種子が植えられているということができます。
 肉体の成長には、肉体を養い育てれる、肥料や水が必要です。同様に、人間の霊を養い育てるためにも肥料や水が必要とするのです。
 聖書には、「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る神の言葉によっていきるのだ」という言葉があります。まさに、人間は神の口から出る言葉によって成長し、人間となるのです。
 そのことについて、私友人の岩本遠億牧師が「信頼」というタイトルの3分ちょっとの短いメッセージを語っています。そのメッセージが下記のアドレスで聴くことができます。
下記のアドレスをクリックくださり、新しく開かれたページで▶マークをくりっくしてくだい。岩本牧師のショート・メッセージを聞くことができます。(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています)


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2an1q4?fbclid=IwAR2gAMUrGhra1eO9ePTEi2pOsq27yMXAdcL9AZWS5kZDmnYF665wa21rv6Q

2023年10月16日月曜日

自分の使い方

 
 倫理学の学びをしていますと、どうしても現代の倫理学上の問題として、自己決定権の問題を考える必要があります。自己決定権の根底には、「わたし」のことが「わたし」のことは「わたし」が決める自由があるという思いが前提にあります。その意味では、自己決定権は自明のことのように思われます。
 ところが、その自己決定権自死や尊厳死といった問題におよぶと、とたんに議論は簡単ではなくなります。「わたし」の「体」や「わたし」の「命」は「わたし」のものなのだから、それをどうしようと「わたし」の自由ではないかということだけでは済まなくなるのです。ここにおいて「わたし」という存在は、単なる個人としての「わたし」ではなく、社会との関係性の中にある存在であることが浮き彫りにされるのです。つまり、「わたし」という存在は、社会との関わりの中にあって、初めて「わたし」という存在を認識することができるのです。
 「人のためになることをしたい」「人のためにある仕事がしたい」と思う気持ちは、人間が社会との関わりの中で「わたし」が「わたし」になるということの一つの現れであるということができるのかもしれません。
 聖書の中に「人がその友のために命を捨てる。それより大きな愛はない」(新約聖書ヨハネによる福音書15章13節)というイエス・キリストの言葉がありますが、「人のためになることをしたい「人のためにある仕事がしたい」と思っていても、人のために命を投げ出すまでのことをできる人は、そうそういないものです。ましてや知らない人や敵のために命を投げ出すなんてことは考えられません。
 しかし、その考えられないことを現実の歴史に中で実行した人がいるのです。それが「人がその友のために命を捨てる。それより大きな愛はない」と言われたイエス・キリストご自身なのです。イエス・キリストが「人がその友のために命を捨てる」といわれているのです。ですからこのお方は、知らない人や敵までも「友よ」と言って呼びかけてくださっているのです。
 当然、イエス・キリストは「あなた」に対しても友よと呼びかけているのです。その「あなた」のために命を投げ出されたイエス・キリストのついて、私の友人岩本遠億牧師が、「自分の使い方」という短いメッセージを伝えています。そのメッセージは下記のアドレスで聴くことができますので、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで▶をクリックして下さい。



https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ak5p0?fbclid=IwAR049gScwbrpS6qbZQxCzMKCh8YpSURXVTkknL3bUFVRNRCmNcVgX2UL1nE&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAA8soKSkottLXLy7IL8lMq0zMS87IL9ItT03SSywo0MvJzMvWT9XPzPYyNyqtqAxzSbJPS0rOyUyx9Sx3DDIwsUwPTi5PKioINitMigqscK7y9XbOsIgsCA4NiggLyc7O8zFOCnULC%2FILcs71Sw5LjzAK9THMcwUAdn%2Fg6nUAAAA%3D

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。


2023年10月15日日曜日

近づきたいと思うだけで

 

 キリスト教は敷居が高いと思われる方も少なからずおられるのではないでしょうか。その原因の一つに、キリスト教という宗教が日本ではあまり知られていないということを挙げることができるかもしれません。よくわからないから近づきがたいということは確かにあります。
 そのようなよくわからなさが誤解を生むことがあります。たとえば、私は牧師ですので、キリスト教を伝える宣教活動をしていますが、その中で時折、「わたしは、教会に行くような立派な人間ではありません」など言われることがあります。どうやらキリスト教を信じるためには、何かきちんとした、清い生活をしていなければならないというイメージをもっておられる方がおられるようです。
 しかし、キリスト教は、何かしっかりとした、きちんとした生活をしている人、まじめな人が信じるものではありません。確かに、教会に来ておられる方の多くは、まじめでしっかりした方が多いように思います。
 しかし、そのような方々も、初めからまじめて、しっかりとした立派な方であったかというと必ずしもそうとは言えません。神様を信じて生きて行く中で、自然とその用に代わっていったのです。だから、みんながみんな、初めからまじめで立派だったというわけではないのです。
 神様は人間を選り好みしません。神様はすべての人を愛し、すべての人を受け入れ、導こうとするお方であり、すべての人を捜し求めているのです。もちろん、神様は「あなた」を愛し、「あなた」を捜し求めているのです。だから、私たちが、神様に近づいて行くならば、神様はあなたを喜んで迎え入れてくださるのです。
 そのことを、岩本遠億牧師は「近づきたいと思うだけで」という二分ちょっとの短いメッセージで的確に話しています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックしてくださり、新しく開かれた頁で▶のマークを再度クリックすれば聴くことができます。なお、この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいてここに転載しています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2aj2b3?fbclid=IwAR3wU_uzcRr78wfWPl1sGhohxCh5Ob7tEaxin3g0MJr_r9-9zgaLGaHyQ5k

2023年10月14日土曜日

道は隠されていても、閉ざされてはいない。


私が高校生の頃、勉強が全くできませんでした。高校の成績はいつも惨憺たるものでした。しかし、どういうわけか世界史の授業だけは良かったのです。実際、世界史は、世界の歴史を学ぶということは本当に楽しいと感じていました。
 それで、大学は文学部の西洋史学科を受けたのですが、残念ながら不合格でした。結局、歴史とは全く関係ない経営学部に入学するのですが、そこしか合格しなかったからです。そのようなわけで、私は学びたい学問を学ぶ道が閉ざされました。そのように、私の人生では、私が願い求めた道が閉ざされるということが何度もありました。そもそも、牧師になるなど人生の計画の中には全くなかったことなのです。
 確かに、私の人生は私の計画通りには進みませんでした。ほとんど願った道は閉ざされたのです。しかしその中で、かつて諦めたものが、のちに違った形で実を結んだものもありました。
 私が、大学で西洋史を専攻したいと願っていたと書きましたが、牧師になって7年目になった時に、私の神学校の恩師から、宗教改革についての勉強をするようと言われました。和t氏の神学校の卒業論文の中で、宗教改革期にあったルターという人物とエラスムスという人物の自由意志論争について書いたものが目に留まり、それで神学校で宗教改革について私美教えさせようと考えられたからです。それで私は、正規のではありませんでしたが、ある大学の授業に参加するようになり、更には、実際に正規の院生として別の大学院で学ぶことができました。大学院に入学したのは50歳を過ぎていましたから、30年の時を経て、大学受験の時に願っていたことが実現したのです。そう、道は閉ざされてはいないのです。
 神様が、私たちの人生に関わられるとき、神様は必ずしも私たちの願いや計画と違う人生を歩ませることがあります。それは、神様もまた私たちの人生に御計画を持っておられるからです。ときには、神様の御計画は、いばらの道に感じられるときもあります。けれども、神様の御計画は、私たちの人生に災いをもたらすものではありません。神様は絶えず、永遠という時間軸の中で私たちの将来を見据えながら、私たちを導いておられるのです。
 その神様について、私の友人の岩本遠億牧師が下記のアドレスで「道は隠れていても、閉ざされてはいない」という4分強の短いメッセージで語っています。下記のアドレスをクリックくださり、新しく開かれた頁で▶マークをクリックしてくだされば、そのメッセージを聞くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ai1gs?fbclid=IwAR3QQyiiZ2G0tpFTk8_PXRZOlJveVA3GPOy4iyJWQPTe5ELNKJAeAJAy9UY

(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています)

イスラエルとハマスとの衝突に対して、教会の皆さんにあてた手紙

 イスラエルとハマスの衝突に対して、教会の皆さんにあてた手紙(一部改訂)

これは、私が毎週教会の皆さん宛にお送りしている牧会レターに、今週、書き記した文章です。ブログ用に一部改訂したものをここに記載します。以下、その文章です。

教会の皆さんへ

 私は、毎月、教会に隣接する二つの保育園に行き、子供たちにお話します。お話を聞く子どもたちの目はキラキラ輝いており、話をする側も、とても嬉しい気持ちにさせてくれます。子供たちが、元気に、そして生き生きとしていることはとても嬉しいことです。もうじき運動会があります。きっと子供たちの元気な声が響き渡るでしょう。また、クリスマスが近づいてくると、子供たちのクリスマスの歌も聞こえてくると思います。それは、とても喜ばしいことです。

 しかし、そのような子どもたちの顔から笑顔を奪い去っていくような事態もあります。ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が始まったのは、2022年の2月でした。私はその時、憤りと怒りを感じました。1年半以上たっても、未だその戦争に終わりが訪れる兆しすら見えません。そのような中、今度は、パレスティナのガザ地区に拠点を置き、ガザ地区を実効支配するハマスがスラエルを攻撃し、こちらも戦争状態になりました。

 今は、様々なメディアが、その戦争の状況を報道してくれますので、私たちは生々しい戦争の実態を、画面を通して知ることができます。そこには、戦争にまきこまれて 負傷した一般市民や、更に命を落とした家族を嘆き悲しむ人の姿があります。その中には、小さな子供の姿もあります。
 そのような、人々の嘆きや苦しみを見ると、私たちの心に怒りと憤りが湧き上がります。ハマスがイスラエルの市民に対してそのような非道な行為をしているのを見ると、私たちの心には、ハマスに対する激しい憤りと怒りが起こってきます。逆に、イスラエルのミサイルがパレスティナのガザ地区に打ち込まれ、そこにいる人々の苦しみを与えているのを見ると、今度はイスラエルに対する怒りや憤りが生まれてくるのです。

 結局、戦争をしているどちらにも憤りを感じるのは、戦争をしているどちらが正しいとか正しくないということを超えて、暴力をもって問題を解決しようとし、人の命や生活をないがしろにする人間の姿に、私たち心の痛みを感じ、それが怒りや憤りになってあらわれるのだろうと思います。

 この怒りや憤りは、私たちの心の中に刻まれた神のが感じる怒りや憤りです。神様は、人間をお造りになった時、神ご自身に人間が似たものとなるようにと神のを人間にお与えになりました。ですから、私たちの心は、神の心と共感し、神の嘆きや悲しみや痛みと共振し、神の怒りや嘆きや悲しみを共に感じることができるのです。
 戦争の悲惨な現状を見るとき、私たちの心は、戦争で苦しみ逃げ惑う人々の姿、子供の姿を見て、戦争に対する激しい怒りや憤りを感じるのは、神が、その戦争の悲惨な現状を見て、そこで苦しむ人々に、深い憐みを感じておられるからです。その神の怒りや憤りに、私たちの心のあり神のが共振しているのです。そして、その神の怒りと憤りは、人々に苦しみや悲しみを与える罪に対して向けられているです。罪が人間の心を支配し、欲望に働きかけ、人に苦しみや悲しみを与えてでも、自分の願いや望みをかなえさせようとする。その人間の心を支配する罪がもたらす、人間の悲惨な現状に対して怒り、憤っておられるのです。それは、神は平和の神だからです。愛と憐みの神だからなのです。

 私たちの心は、神の心に共振し、神と共の、心を痛め、怒り、憤ることのできる心です。同時に、そしてだからこそ、単に怒りや憤りだけでのなく、その根底にある、愛と憐みにも共振しなければなりません。怒りや憤りは、罪に対して向けられるべきものであり、愛と憐れみは、人に向けられるものなのです。

 みなさん、平和のために祈りましょう。平和は神様の御心です。この世界が憎しみと残虐に支配されるのではなく、平和に満たされ、愛と恵みに満たされることを神様は願い、この世界に教会を打ち立てられたのです。ですから、私たちは平和のために祈りたいと思うのです。その平和を祈る、聖フランチェスコの祈りを記したいと思います。

聖フランチェスコの祈り

神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。

(詩の訳は女子パウロ会のホームページにあったものです)

2023年10月13日金曜日

神はあなたの栄光を目覚めさせる

 
私たちの人生には輝かしい時もあれば、沈んでしまっていると思われるときもあります。
今、私は輝いていると自覚できるときもあれば、あの時が一番輝いていたなと懐かしく思えるときもあります。
 しかし、物事がうまくいかず、「自分はダメだ」と思い心が沈んでしまっている中で、輝いていた時を思い返すと、今の自分が惨めに思えることがあるかもしれません。そんな時、輝いている自分と沈み落ち込んでいる自分とは全く別人のように思うかもしれません。
 しかし、神にとってあなたは、自分が輝いたと思える過去も、沈んでしまっていると思える今も、変わらずに尊い存在です。神にとってあなた自身が輝いているから「あなた」が素晴らしいのではなく、「あなた」が物事をうまくやれないからダメだということはないのです。
 「自分は輝いている」あるいは「自分はダメだ」と思うとき、それはあなた自身が求めているあなたの栄光です。いえ、たとえ人がそういっていたとしても、それによって一喜一憂しているとするならば、人があなたに与える評価をもとに、あなた自身があなた自身を評価しているにすぎないのです。だから、人の評価によってあなたの価値が変わるのです。
  しかし、あなたには決して変わらない「あなた自身」。何かができる、できないということで「あなた自身」は変わることはありません。何かできるとか、何かできないといったことは、「あなた自身」ではなく、「あなた自身」の付属物に過ぎないのです。その付属物で「あなた自身」は評価されるべきではありません。
 神は、決して変わらない「あなた自身」を評価し、「あなた自身」を素晴らしいと言ってくださっているのです。どうかそのことをしっかりと心に覚えておいてください。そして、「自分はダメだ」と思うときがあったならば、そのことを思い出してください。「神は『私自身』を素晴らしいと言ってくださっている。『私自身』は決してダメな存在ではない。神は私に輝かしい価値ある存在だと言ってくださっている」と、神が「あなた」に与えてくださる栄光に目を止めて欲しいのです。
 神の与えてくださる栄光、そのことについて岩本遠億牧師が語る「神はあなたの栄光を目覚めさせる」という2分ちょっとの短いメッセージに耳を傾けてお聴きください。そのショート・メッセージは下記のアドレスをクリックし、新しき現れるページの▶マークをクリックすれば聴くことができます。(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています)

https://podcasters.sにpotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2afvr5?fbclid=IwAR3VdiHh02QpyT_eoY6LZi4gSt69k9EGx9z977sL5XCNKUpUbGPu6h0cm0o

2023年10月12日木曜日

神の慰めは理屈を超える

 

私たちの人生には、他の何ものでもない慰めが必要な時期というものはあるものです。しかし、慰めの言葉ほど難しいものはありません。心に届く慰めの言葉は、頭で考えるものではないからです。むしろ、頭で考え練られて発せられた慰めの言葉は、相手の心を傷つけることすらあるのです。
 私が42歳の時に甲状腺にガンが発見された時、多くの人が私と私を励まそうとしてくださり、慰めの言葉をかけてくださいました。そのなかには、励まそう、慰めようとする意図であることはわかるのですが、かえってそのかけられた言葉によって辛くなるというものもありました。もちろん、何とか慰め励まそうという気持ちはわかるのですが、その気持ちが心に届かないのです。
 心に届く慰めや励ましの言葉というのは、錬られ洗練した言葉ではありません。私たちの心に直接切れ込んでくる相手の気持ちが、語られた言葉に立ち現れているならば、その言葉はどんなに拙い言葉でも慰めとなり、励ましとなるのです。いえ、なまじ言葉などなくても、本当にその人のあことを思い、その人の心に真実に共感する人の存在が、励ましとなり、慰めとなるのです。
 私の尊敬する宗教哲学者のアブラハム・ヘシェルという人は、聖書の神は共感する神だと言います。私たちが苦しみ、悩み、悲しんでいるような状況にあるとき、神は、そのようなわたしたちに共感し、激しく怒られるのだというのです。しかし、なぜ神は怒られるのか?
 神は、決して悩み、苦しみ、悲しんでいる者に向かって怒っているのではありません。そうではなく、私たちをそのような苦しみや、悩み、そして悲しまなければならない状況に陥れたものに対して怒られるのです。それは、私たちを深く憐れみ、愛しておられるからです。だから、その愛するものを苦しめている者に対して激しく怒るのです。怒らざるを得ないのです。だから、神は全存在をかけて怒るのです。
 私たちに悲しみや苦しみをもたらし、私たちを苦悩の中に陥れるものは「罪」と呼ばれるものです。この罪が私たち人間を支配し、人間の世界に悩みや苦しみ、そして悲しみをもたらす事態を産み出す。その「罪」に対して神激しく怒り、十字架の上で命を投げ出すまで怒り、命を落としてでも、この私たちを支配する「罪」の力に打ち勝たれるのです。そこには理屈はありません。ただ私たちを憐み、愛するがゆえに、命を投げ出して迄、私たちを苦しめる「罪」の支配のもとにある私たちを救い、慰め、励まし、再び立ち上がることができるようにしようとする神の愛と憐みがあるのです。
 怒りにまで至る神の深い愛。憐みの心、それが私たちの心に切れ込んでくるとき、その神の存在が私たちを慰めるのです。神の愛と憐みは理屈ではありません。神の御子イエス・キリスト様の十字架の死も、理屈で語れるものではありません。それは、私たちに理屈では語りきれない、神の愛と憐みが現れ出た神の行為なのです。
 私たちを励まし慰める神の愛、そのことについて、私の友人岩本遠億牧師が語った2分半の短い聖書からのメッセージがあります。是非お聞きくださればと思います。その岩本牧師のショートメッセージは下記のアドレスで聴くことができます。アドレスをクリックし、新しく開かれた頁で▶のマークをクリックしてください。
 

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2af4le?fbclid=IwAR3kS6AUFbu49MKZ_G6s40-ERclpih7l9cPBbadaF2E4nrnz3owuhJ-W3m8

(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています)

2023年10月11日水曜日

意識できない時も

 
宗教というものは、私たちが具体的に信じる対象を心に感じ、そして信じる内容を頭で理解することから始まります。
このような人間の作業を、私たちは意識と呼びます。ですから、神様を信じるということは、私たちの意識が成し行うことなのです。
当然、神様を信じて生きる、信仰生活を生きるということは意識的に為される私た人間の側の人から神に向かう行為なのです。
 人から神に向かう行為には、人間の意識の働きが必要です。しかし、神から人への働きは人間の意識の外でも神の行為としてなされます。私たちが意識しようと意識しまいと、神は私たちと共におられ、私たちに働きかけておられるのです。
 その神の働きかけは、愛と恵みに満ちています。それは、私たち人間が人間として、正しくより善いものとして生きて行くことができるようになるために、私たちを教え導くものです。また、私たちが人生の中で苦しみ、悩み、心痛めるときにも、私たちに寄り添ってくれています。私たちが、ほんのちょっとだけ、神の心を向け、神を探すならば、私たちは必ずそれを見つけ出すことができます。
 なぜなら、神は私たちが神を意識する前に、私たちを探し求めておられるからです。そして、あなたも、神を探し求めるならば、必ず神と出会うことができます。
 その私たちが意識しない時にも、私たちと共にいてくださる神について、私の友人の岩本遠億牧師が3分ちょっとの短いメッセージをしています。下記のアドレスをクリックしてください。そしてそこで開かれるページの▶マークをクリックしてください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2adkna?fbclid=IwAR0qwj6CKr6ygG7VDAEc6d74QdjPSa_tgHIg9OIyX0z5GDILuPVrKBWn6nk

(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています)

門と羊飼いは矛盾しない

 

2310月第三主日礼拝説教「門と羊飼いは矛盾しない」              2023.10.15

旧約書:エレミヤ書23章1節から8節
福音書:ヨハネによる福音書10章1節から19節

使徒書:ペテロ第一の手紙2章21節から25節

 

 今朝の礼拝説教の箇所はヨハネによる福音書10章1節から18節までにある、イエス・キリスト様が語られた「『良い羊飼い』の譬え」の箇所です。
 そこで、このイエス・キリスト様の譬え話を聞いていた人たちは、いったい誰なのかについては、19節を見ればわかります。そこには、この譬え話をめぐって「ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」とあります。

 「また」と言うのですから、これ以前にも対立があった。それは、この箇所の直前の9章で、生まれつき目の見えない人を、イエス・キリスト様が安息日にお癒しになった出来事をめぐって起こった論争です。9章16節にはこうあります。

   そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。

つまり、この10章1節から18節にあるたとえ話を聞き、論争を始めたのは、あの生まれつき目の見えない人の癒しをめぐって論争したパリサイ派の人々であろうと思われます。ですから、「このよき羊飼い」の譬え話は9章から続く一連の物語でありと言えます。
 その冒頭の言葉は、非常に挑戦的な言葉です。そこにおいてイエス・キリスト様は、「よくよく言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」と言われる。

羊飼いは、囲いの中に入れている羊の群れを連れて、イスラエルの荒野にわずかに生えている牧草地に連れて行き、そこで牧草を食べさせ、羊を養い育てます。そのために、羊の群れが入れられている囲いの門のところにやって来て、門番に門を開けて入れてもらい、羊を導き出すのです。とうぜん、門番も、この羊飼いは、確かにこの羊を飼うために雇われた羊飼いであると認めている。
  しかし、門を通らないで入ってくる者がいると言うのです。当然、それは羊飼いではない。盗人であり、強盗だというのです。それは、羊を奪うものではあっても、羊を導き、養い育てるものではありません。ですから、門番が門を通してくれるはずもない。だから、門以外のところから囲いを乗り越えて入ってくるのです。


 このとき、イエス・キリスト様が、「盗人であり、強盗である」と言った人々は、まさにイエス・キリスト様の目の前にいるパリサイ派の人々を念頭に置いていたであろうことは想像に難くありません。だから、この1節2節の言葉は挑戦的なのです。
 ともうしますのも、パリサイ派と言う人々は、自分達こそが旧約聖書にある教えを熟知しており、その教えに従って敬虔な生き方をしており、イスラエルの民を信仰的に導くものであると自負していたからです。そのパリサイ派の人々に向かって、たとえ話を通してですが、あなた方はイスラエルの民を導く指導者ではないというのですから、これは挑戦的な言葉以外の何ものでもありません。
 そして、イスラエルの民、すなわち神の民を導く者は、あなた方ではない。わたしなのだ。わたしこそがよき羊飼いなのだと高らかに宣言するのです。もっとも、イエス・キリスト様の宣言の言葉には、若干のブレが見られます。と申しますのも、イエス・キリスト様は、節で「私は門であるといい、節では「私は世K羊飼いだと言っているからです。

 それに対して、1節から5節においては、羊飼いは門から入るといっていますので、イエス・キリスト様が門であれば、門を通ってはいる羊飼いはイエス・キリスト様ではないと言うことになります。そのようなわけで節から節で言われている羊飼いというのは、弟子たちの事ではないかと言われる注解者の方もおられるぐらいです。
 しかし、1節から5節と7節から18節の譬え話は、密接に関係していますので、節から節でイエス・キリスト様が「私は門である」と言いながらも、同時に「私は良き羊飼いである」と言われるのであれば、羊飼いというのは、一貫してイエス・キリスト様のことを指していると考える方が良いと思われます。
 だとすれば、イエス・キリスト様は門であり、その門を通って入る羊飼いであるということはどう受け止めればよいのでしょうか。私も正直、頭を抱え得てしまいました。しかし、そこでちょっとイエス・キリスト様がこの世界に来られた目的に立ち返って考えてみたのです。 

イエス・キリスト様がこの世界に来られた目的は何か。みなさん、このヨハネによる福音書の冒頭において、この福音書の著者であるヨハネは、イエス・キリスト様がこの世界に来られたのは、闇に覆われたこの世界に光をもたらすためであると述べています。それを別の言葉で言うならば、この世界に神の王国を建て上げ、それを広めていくためであると言うことができます
 神の王国とは、神様の恵みと愛によって支配されている世界です。その神の王国をこの世界にもたらすことが目的であるということは、この世界にはまだ神の恵みと愛が支配する神の王国は打ち建てられていないと言うことです。だから、まだ、この世界は暗闇なのです。そして、その神の王国の民はいないのです。

しかし、この神の王国は、もともとはイエス・キリスト様がお生まれになる以前は、イスラエルの民によって建て上げられるべきものでした。そのために、イスラエルの民は神の選びの民として選ばれたのです。しかし、彼らもま た、この世という闇の中に飲み込まれてしまった。
 そこに、神ご自身が、その神の一人子であるイエス・キリスト様を人としてこの世界に送り出し、神の王国をお立てになられた。それがキリストの教会となってこの世界に広がっているのです。その神の王国である教会に加えられていくときに、私たちは洗礼を受ける。それは洗礼が、私たちとイエス・キリストを一つに結び合わせる神の業であり、また私たちがイエスキリスト様と一つに結ばれている証しなのです。
 その意味で、イエス・キリスト様はこの世界に神の恵みと愛が支配する神の王国をお建てになり、それが教会と言う形で、今、全世界に広がっている。その教会の門としておられるのがイエス・キリスト様と言うお方なのです。ですから、イエス・キリスト様というお方を通らなければ、教会という神の民の交わりの中に入っていくことはできませんし、教会との関わりを持っておられる方々は、意識するかしないかに関わらず、このイエス・キリスト様というお方を通って、その交わりに加えられているのです。

しかし同時に、私たちは教会という交わりの中だけで生きているのではありません。現実の生活の多くの場は、「この世」という教会の外の世界にある。そこでは、神の愛や恵みがおよばない厳しい現実があります。私たちは、そのような世界に、この神の愛と恵みが支配する神の王国であり教会から派遣され出て行かなければならないのです。
 なぜならば、「この世」という世界には、まだイエス・キリスト様を知らない人々が多くおり、教会という神の愛と恵みを知らない世界と関わりのない人々が多くいるからです。そしてそれらの人々の中には、多くの「この世」という世界で、傷つき、悲しみ、苦しむと画いる。その人たちに、綿日立は「よく羊飼い」の存在を証しするものなのです。
 だからこそ、礼拝の最後に祝祷をするのです。祝祷はこの世界に派遣されていくみなさんに、神の祝福があることを願い求める祈りであると同時に、神が祝福を与えてくださるということを宣言する言葉でもあります。 

 この世界に派遣されていく私たちに、神様が祝福を宣言してくださる。それは、イエス・キリスト様が、私たちが派遣されていく先でも共にいてくださり、私たちを支え導いてくださっている。その意味ではイエス・キリスト様が私たちの羊飼いとなって、「この世」という世界で生きる私たちと共生きてくださる。そして時には命を投げ出すようにして守ってくださる。だから祝祷は、神の祝福の宣言であり、祝祷の中に、「善き羊飼い」であるイエス・キリスト様のお姿が現れているのです。ですから、私たちは、この「善き羊飼い」であるイエス・キリスト様の声を聞き生きて行くことが大切なのです。そして、この世界の中で疲れ、傷つき、悲しみながら、もう一度、イエス・キリスト様という門を通って、教会というこの世界における神の王国に帰ってき、礼拝という場で神の慰めと癒しをいただいて、またこの世界へ派遣されて行く。そう考えますと、イエス・キリスト様がもんであり、かつ「善き羊飼い」であるということは、全く矛盾したことではないと言えるのではないか。私にはそう思えるのです。

 

 先ほど、私は旧約聖書のエレミヤ書23章のお言葉をお読みしましたが、エレミヤは、イスラエルの国がバビロン帝国に滅ぼされ、イスラエルの民がバビロンに取れていかれるという、まさに国が亡びる危機的な時期に預言者として活躍した人物です。
 エレミヤは神からの信託を受け、その当時のイスラエルの民の指導者たちに、「あなた方は牧場まきばの羊を滅ぼし散らす悪しき羊飼いであって災いだ」と鋭く非難します。そのうえで「散らされたイスラエルの民を、再び集め、王となって公正と正義を行う王を立て、彼らを養い育てる新しい「善い羊飼い」をこの世界に送るというのです。

 このエレミヤの言葉は、イスラエルの民が、ローマ帝国に支配され苦しみの中に置かれている時代に現れたイエス・キリスト様のお姿と重なり合うものです。イエス・キリスト様は、当時のイスラエルの民の心を養う霊の指導者であると自負しているパリサイ派の人々に向かい、あなた方は、神の民の心を養い育てる羊飼いとしてふさわしくない。私こそが、羊である神の民のために命を投げ出し、これを養い育てる「善き羊飼いだ」と断言なさるのです。
 その意味で、あのエレミヤ書23章の言葉が、ここで繰り返されている。エレミヤが語った神の救いの物語が、このヨハネによる福音書の10章でイエス・キリスト様において語り直されているのです。
 だからこそ、ペテロ第一の手紙の著者は、その手紙の2章25節で、ポントやカッパドキヤ、アジアやビテニヤという今日のトルコの属する小アジア半島にすむクリスチャンたちに「あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」というのです。

 もちろん、この「魂の牧者であり監督であるかた」とはイエス・キリスト様のことです。イエス・キリスト様は、十字架に架かって命を投げ出され死なれることで、この罪と死が支配する世界の中で生きている私たちを掬い出し、その十字架の上に釘付けされた傷によって、私たちを癒してくださったのです。
 そしてそのお方が私たちを養い育て導いてくださっている。2章21節において「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」と言われているのは、まさに、私たちの牧者として、自らの生き方を通して、神の民がいかに生きていけば良いのかをイエス・キリスト様は教えてくださるのだ」というのです。

 みなさん。そのイエス・キリスト様は、今日も私たちの「善き羊飼い」となって私たちを導き、養い育ててくださっています。そして、この世界に現れ出た神の国である教会で、みなさんを癒し、慰め、支えてくださっています。そのことを、しっかりと心に刻みながら、イエス・キリスト様が私たちの牧者であるということを、心を静め思い廻らせたいと思います。しばらく静まりの時を持ちます。

2023年10月10日火曜日

反省する力

 

 ずいぶん昔のCMの中に「サルでも反省できる」と言った文言があったのではないかと記憶しています。もっとも、「サルでも」という言葉は、初めから、人間の方がサルよりも優っているという優越感が感じられ、少々サルに対して失礼な感じもしますが・・・・。でも、この言葉は、「反省することは大切ですよ」、「しっかりと反省していますか」という反省を促す意図が根底にあるとするならば、反省することが多くある私にしてみれば、「しっかりと反省しなければいけないな」思わされる耳の痛い忠告の言葉であったな思っています。
 反省するということは、同じ過ちを繰り返さないという将来に向かう方向性と、犯してしまった過ちに対処し、その過ちを修正するという過去に向かう方向性があります。そして、その前提として、反省する前に、自分は間違っていた、誤っていたということを認めるということが必要になります。
 自分の間違いや誤り(過ち)をみとめるということは、意外と難しいものです。仮に間違っていた、誤っていた(過っていら)ということは認められたとしても、その時に「でも、●×▽■ということがあったから」などという言い訳がましいことを行ってしまうとするならば、それは心の底から反省していることにはなりません。むしろそれは、反省していると言いつつ、自分の間違いや、誤り(過ち)の責任を、他の何かに、あるいはほかの誰かに責任転嫁していることになります。そして、それを私たちはしばしばしてしまいます。
 それほど、自分の間違いや誤り(過ち)に向き合い反省するということは大変な事なのです。反省するということは、自分自身と向き合うことであり、自分の心と向き合い、責任を負うということなのです。
 この自分自身の間違いや誤り(過ち)が、単に物や事柄に対するものであるだけなら、あるいは、その間違いや誤りがもたらす影響が自分だけに関わるものであるとするならば、まだいいのですが、自分の間違いや誤り(過ち)の結果が、誰かを傷つけたり、悲しませたり、誰かに損害を与えたとするならば、その事実に向き合うということは、自分自身の心も痛みますし、その負うべき責任の大きさに押しつぶされそうになってしますます。
 しかし、それでもなお、神様は人間に反省する心を与えてくださいました。自分自身の心に向き合い、その過去の間違いや誤り(過ち)から立ち上がり、将来に向かって歩んでいく者としてくださっているのです。それが、人間という存在なのです。その反省する力、反省力を神様は、そして神の独り子であるイエス・キリスト様は私たちに与えてくれるのです。
 そのような人間について、私の友人の岩本遠億牧師が「罪に立ち向かう勇気」と短いメッセージで次のように述べています。そのショート・メッセージを下記のアドレスで聴くことができますので、下記のアドレスをクリックし、出てくる画面の▶をクリックしてください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2abipt?fbclid=IwAR1ry-SmOsh57Z8qtTCgnhIboDeBEw8PSDpD_McUvCkUzaTnchqczEluDlY

(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています)

2023年10月9日月曜日

「私」ではなく「私たち」

 
教会と訳されている言葉のもととなっている言葉は、ギリシャ語のエクレ―シアという言葉です。
 このエクレ―シアとは、召し出された会衆、召し出された人々という意味です。ですから、教会とは、人々の集まりです。つまり、キリスト教の信仰は、私一人が信じるということに留まるものではなく、神様を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰がもたらす喜びを、自分一人の中にとどめておくのではなく、それを共に分け合い、多くの人に伝えていく者なのです。当然、それは教会の中だけにとどめておくものでもありません。だから、教会はキリスト教をこの世界の中に伝えるという伝道をするのです。

 どうじにそれは、信仰の喜びを伝えるというだけではありません。一人一人の苦しみや悲しみ、そして心の痛みと言ったものを共に感じ、その苦しみや悲しみ、そして心の痛みの中にいる人のために祈るものでもあるのです。
 なぜならば、神様ご自身が、悩むの中にある人、悲しみの中にある人、心に痛みを感じている人の心に共感し、共に苦しみ、共に悲しみ、共に痛む共感する神だからです。

エクレ―シアである教会は、神を信じる人の群れでありますから、自分たちを私たちと言います。人と人との集まりだからです。しかし、この私たちは、単に人と人とが集まっているから言うのではありません。神が人といてくださることによる私たちでもあるのです。
 人は独りではない。神様が共にいてくださるから、だから教会は「私たち」なのです。そして教会は、その本質が「私たち」であるからこそ、神様は、教会に人々を呼び集め、そこで喜びも悲しみも分かち合う「私たち」という共感しあう群れをお作りになられるのです。
 この「私たち」ということを中心に、私の友人岩本遠億牧師が、教会に伝わる主の祈りを通して「私」ではなく「私たち」という短いメッセージを伝えています。そのショート・メッセージは以下のアドレスから聞くことができます。そのアドレスをクリックして▶のマークをクリックしてください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2aam15?fbclid=IwAR3O0Qfv_7RrN5dgHsIP7iX60nrx30fDB4Xb77Js_ovzjs_NsrTWMu44eSw

(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています)


2023年10月7日土曜日

妥協せずに進もう

  私は牧師であり、神学の一学徒です。いえ、牧師だからこそ神学の一学徒だと言えます。なぜならば、牧師は神学者でもなければならないからです。
 神学とは、神について考えることです。ただ漠然と考えるだけではありません。教会に集う信徒に方々に語る以上、私はこう思うとか、私はこう考えるといった主観的な語りであっては困ります。だから学問的に考えるということが求められるのです。ですから、神学は学問の一分野に属するのです。
 もちろん、信仰というものは、学問ではなく、信じる心です、信じるということは、そこに一種の信念体系を伴います。そして、その信念は個人的なそして主観的経験に裏付けられていることが多くあります。そういった意味で、人は自分の信念を代えることは難しいことです。ですから、ひとり一人の信念がぶつかり合うこともしばしば起こります。ましてや、その信念が神学という学問的な裏付けを伴って受け入れられていると、互いに譲れなく激しくぶつかり合うことも多いのです。
 しかし、それでもなお、キリスト教は互いに愛し合うことを求めます。そして絶えず和解をし、互いに支え合うことを求めます。それは、この世界の全て物のが一つの神の内に在るからです。この世界のすべてのものは、神の懐に抱かれているのです。ですから、仮に意見の違いや考え方の違いがあっても、違いがあることを認めつつも、相手を尊重し、尊ぶ姿勢が大切なのです。
 私たちが、どんなに意見を違え、考え方を分かったとしても、私たちは愛なる神の懐に抱かれている存在です。その私たちが、意見の違いや考え方の違いで相手を受け入れられなくなるのは、自分の意見や考え方に相手を従わせようとするときです。それは自分の考え方で相手を支配しようとしていることなのです。そして、そのようなことを神は望んでおられません。なぜならば、神がイエス・キリスト様を通して「この世」という世界にもたらした「福音」は、この世界に住むすべての人を縛り付けているあらゆる支配と隷属の構造から解放することだからです。
 私たち人間は、神様にお従いするということ以外に、誰にも隷属するものではありません。ただ、愛なる神に従い、愛に基づいて生きる以外に求められているものはないのです。
聖書は愛について、次のように言います。

たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びません。(新約聖書コリント人への手紙第一13章2節から8節)

 私たちがこの愛に生きるならば、どんなに意見の違いや考え方の違いがあっても、私たちは自分自身の信念に妥協せずに進み生きて行きながらも、相手を尊重し、尊び、共に生きて行くことができるのです。
 そのことについて、私の友人の岩本遠億牧師が、自分自身の体験を通して語ります。4分弱の短い説教です。是非お聞きください。岩本牧師のお話しは下記のアドレスから聞くことができます。アドレスをクリックし、▶をクリックしてください。(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。)

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a8lrk?fbclid=IwAR0aBHvsqs4zlMdd9B2jL_cPGPXPEkxA8FUSGRHcQxdzOvInvJCb-qebEr4

2023年10月6日金曜日

神はすでに選んでいてくださった。


キリスト教の神学の中に予定説と呼ばれるものがあります。
この予定論を平たく言うと、人間は、罪びとであって、自分の罪に対して下される神の裁きから救われる自分自身を救うことが出来ない。ただ神の憐みによってのみ救われるのだ。そしてその「神の救い」に与る人は、神によってあらかじめ選ばれ予定されておられるのだというものです。
 神があらかじめ「神の救い」に与る人をあらかじめ予定されているとすれば、予定されていない人は「神の救い」に与ることができないということになってしまいます。しかも、誰が予定され、予定されていないかは、神によって選ばれているとするならば、もはや私たちにはどうしようもないことです。
 ですから、この予定論をもって、「神は差別的だ」、「キリスト教は差別的だ」という人たちがいます。確かに、神が一方的に誰が選ばれ、誰が選ばれないかを決めているのであるならば、そのような批判があっても叱るべきですし、そのような批判に、キリスト教会は返す言葉はないだろうと思います。
 しかし、すべての教会が予定論という神学的立場を取っているわけではありません。東方教会と呼ばれる正教会(ロシア正教会など)や西方教会と呼ばれるカトリック教会は予定説を否定しています。予定説という立場を取っているのは、プロテスタント教会の中の一部の教派で、私たちの教会や、私たちが属する教団も予定説という立場を取っていません。
 しかし、聖書には確かに「選び」ということが書かれています。では、聖書に書かれているこの「神の選び」ということをどう考えればよいのでしょうか。
 私たちの教会、また教団(日本ホーリネス教団)は、ウェスレアン・アルミニアンと呼ばれる立場に立っています。これは、オランダのヤコブ・アルミニウスとイギリスのジョン・ウェスレーという二人の人の神学的立場を継承しているということです。そして、「神の選び」ということについては、アルミニウスの立場を取っています。
 それは、神の選びというのは、神は誰彼という個人を選んでいるのではなく、人をお救いになる使命と職務に、神の御子であるイエス・キリスト様をというお方を選び、このお方に人をお救いになる使命と職務を与えたのだという神学的な立場です。そして、その使命と職務を、イエス・キリスト様は十字架に張り付けられることで全うされたのだというのです。ですから、すべての人はイエス・キリスト様にあって救われるのです。
 聖書の言う選びとは、使命と職務に対する選びです。そして人を救うという使命と職務に対しては、神は人にその使命と職務を負わせられるのではなく、ご自身の独り子、神の御子であるイエス・キリスト様をお選びになられたのです。
 だからこそ、「神の救い」は、すべての人に開かれている「神の恵み」なのです。そして、すべての人は、この「神の恵み」に与ることができるのです。言葉を代えて言えば、すべての人はイエス・キリストにあってすでに救いに与ることができる者として選ばれているのです
 神の与える使命や職務というのは、何も人を救うために十字架について死ぬというものだけに限られるものではありません。牧師という職もあれば、人にキリスト教を伝えるという使命など、様々な役割があります。しのような使命や職務に、私たち個人が神から選ばれ、その職務をゆだねられています。パウロという人もその一人でした。
 そのパウロを通して「選び」ということについて、私の友人である岩本遠億牧師が3分程度のショート・メッセージを語っています。そのショートメッセージは下記のアドレスから聞くことができます。アドレスをクリックし、▶をクリックしてください。(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。)

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a6pps?fbclid=IwAR14NeVyqvxlAwvxq8bIUzOLPDpDhPyzFfXmq9WtdAbfHi35LvxZoxi_X-M 

2023年10月5日木曜日

愛する主体として

 「愛」は名詞ですが、実体として存在する物ではありません。ですから「愛」という名詞だけでは語ることができません。「愛する」とか「愛される」といった動詞として語ってこと、初めて「愛」というものが意味ものとして語られるのです。
 動詞としての「愛」を語る時、私たちが求めるのは「愛される」ということです。私たちが誰かを「愛する」とき、必然的に「愛される」ことを願っています。つまり、「愛」ということは「愛する」ということと「愛される」ということ一対となったの概念なのです。
 しかし、私たちはしばしば、「愛する」ということを忘れて「愛される」ということばかりを求めてしまします。けれども、「愛される」ということは、自分ではどうしようもないことです。相手が、わたしを愛してくれてこそ「愛される」という事態が起こるからです。つまり、「愛される」とは、受け身のことなのです。
 わたしが「愛されたい」と願っても、「愛する」主体は、私にはないのです。「愛」ということにおいて、私が主体となる事ができるのは、私が「愛する」時だけなのです。
 私たちは「愛」のない人であるよりも「愛」に溢れた人になりたいと思います。だとすれえば、私たちが誰かを「愛する」時に、「愛される」ものとして、私たちが「愛する」ことを受け入れてくれる人が必要です。そして、「愛する」ということが受け入れられて初めて私たちは「愛される」者となるのです。先ほども申しましたように「愛」は「愛する」ことと「愛され」ことが一対になって、はじめて成立するものだからです。
 とわ言え、私たちが誰かを「愛する」とき、必ずしも、その「愛する」ということが受け入れられるわけではありません。「愛する」ことが拒絶されるのです。どんなに私たちが主体的に「愛する」者になろうとしても、私たちが主体的に「愛する」愛を受け入れて「愛される」ものとなり、私たちを「愛される」者としてくれない限り、そこに「愛」はないのです。ですから「愛される」という応答がない限り、私たちは「愛」において主体となる事が出来ないのです。だから、私たちは、誰かを愛するとき、「愛する」者に対して、私たちから「愛される」者となることを求めるのです。そしてそれは、相手に自分を「愛する」ことを押し付け求めることなのです。
 しかし、ただひとり、私たちが「愛する」とき、その「愛する」ことを決して拒絶することなく受け入れ、私たちに「愛される」ものとなってくれ、それによって私たちを「愛される」者にしてくれる存在があります。それは神というお方です。
 私たちが主体的に神を「愛する」時、神は必ず、それに応答し、私たちを「愛される」者としてくださるのです。
 私たちを「愛する」者とする神について岩本遠億牧師語る3分程度の短いメッセージがあります。下記のアドレスをクリックし、▶のボタンをクリックすることで、そのメッセージを聞くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a5s39?fbclid=IwAR0kTT8AsrC229DBorTknEcCW-F3wzj1SsayImkl3ZPjDmoW_CZW2BLu7yM

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。

2023年10月4日水曜日

神様は背負ってくださっている。

 小さい子供のころ、親に背負われた経験を持つ人は少なくないのではないのでしょうか。
親に背負われているような年齢のとき、私たちは大人になって感じるような、不安や悩みというものはほとんどありませんでした。
 子供が子どもでいるとき、私たちは、私たちのほとんどすべてのことを親に頼り、親の助けを受けて生きていたのです。だから、私たちが感じ、担わなければ、すべてのことは、親が背負ってくれていたのです。
 しかし、私たちが大人になるにつれて、自分の担わなければならないことを自分で担うようになります。親に頼ることを止めて、自分で物事をするようになるのです。そしてそれと共に、だんだんと私たちは不安を感じるようになり、悩みも多くなっていくのです。
 聖書は、私たちが神を信じ、イエス・キリスト様を信じるなら、私たちは神の子となると言います。子どもになるのです。子どもになるというのは、あの小さかったころ、親に背負われて歩いたようになるということなのです。私たちが担い、感じなければならない不安や、恐れ、悩みといったものを、全部丸ごと含めて、神に背負われて歩く。そして、すべてのことを神に頼り、神に助けられながら生きる。
 神の子とされたのですから、自分が子どもであることを忘れず、子供らしく神を信じ、神を信頼し、神に背負われて生きる、そんな生き方に神は私たちを招いておられるのです。
そのことを、私の友人岩本遠億牧師は、3分半のショートメッセージで語っています。そのメッセージをしたのアドレスをクリックし、更に開かれたぺーじで▶すると聞くことができます。是非お聞きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a4aod?fbclid=IwAR1-uPe4qr9heSEr7II-GMPvcQ2L1BHdDLo9ENsZaYf7rWzNc4jAj4aFfLg&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB0Q6CIAAAwC9CZmNztrWm05RFzuqB6g0QAnNCQFl9fXc6RhfWEAZno1FfNgttPVgkT5hzyWTmB5SwvVDaoP2nrPhWcTGZYYOX4pSCVy%2FR0%2BdanmufYQyaQ%2F8WxxVJy3aoiM3rLtzYVWWe%2FjqBxmJEbKfI%2FQ8EmFP5dQAAAA%3D%3D

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

2023年10月3日火曜日

いま!

 私たちは、「今、ここで」生きています。

しかし、とき私たちは、「過去」の中で生きています。「過去」の悲しみに縛られて「今、ここで」においても過去の悲しみの中で生きていることがありのです。「過去」それは「かつて、あの場所で」です。たしかに、「かつて、あの場所で」の出来事と、そこでの感情は私たちの記憶に深く刻まれ、それが思い起こされ「今、ここで」の私たちを苦しめているのかもしれません。しかし、「かつて、あの場所で」は記憶の中の出来事で、「今、ここで」の出来事ではないのです。
 また、私たちは、「かつて、あの場所で」の栄光の記憶に捕らわれて、「今、ここで」の現実を受け止めれないことがあります。現実を受け止められないからこそ、「今、ここで」の現実の状況に向き合うことができないのです。
 記憶にきざまれた「過去」をなかなか忘れることはできません。それがつらい過去であるならなおさらです。また、現実の「今、ここで」の状況がつらく苦しいものであったならば、「栄光」の過去に縋りつ きたい気持ちにすがりたい気持ちを捨て去ることは難しいと思います。
 しかし、それでもなお、私は「あなた」に「今、ここで」を、ありのままで生きて欲しいと思います。「今、ここで」をありのままで生きる。それにはエネルギーが必要です。そして、そのエネルギーを、私たちと、今ここでを共に生きてくださる神様、そして神の御子イエス・キリスト様が、「あなた」の心に注ぎ込んでくださろうとしてくださっているのです。「あなた」が「今、ここでを」を生きることができるように、神様は、イエス・キリスト様は、あなたに愛をという力を注ぎこんでくださっています。。その神の愛、イエス・キリスト様の愛を、ぜひあなたにも受け取っていただきたいと思います。
 その、「今、ここで」を生きる大切さを、私の友人の岩本遠億牧師が3分程度の短いメッセージの中で語ります。岩本牧師のメッセージは下記のアドレスで聴くことができます。
下記のアドレスをクリックし▶マークをクリックしてください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a277k?fbclid=IwAR0JDL37BqtmngxEHhvuNzqCHvI_lyZXKIR0edrcPjtF20c3GjaAj3scmXo


この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています



2023年10月2日月曜日

23年10月第一主日礼拝説教「人間を探し求める神」

 23年10月第一主日礼拝説教「人間を探し求める神」

旧約書:創世記3章1節から10節
福音書:ヨハネによる福音書9章34節から41節
使徒書:ローマ人への手紙7章14節から25節


 今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所のヨハネによる福音書9章34節から41節はです。この箇所は、9章1節から始まる物語の総括ともうしますか、まとめに当たる部分です。その9章1節から始まる物語というのは、イエス・キリスト様が安息日に生まれつき目の見えなかった人を安息日にお癒しになったという出来事から始まる物語です。そしてこの癒しの物語は、ユダヤ人が、イエス・キリスト様の排除しようとする物語へと発展していきます。

しかし、そのイエス・キリスト様を排除しようとするユダヤ人たちの思惑は、なかなか思うように進まず、結局、彼ら試みは失敗に終わるのですが、この一連の物語は、このヨハネによる福音書の冒頭の第一章9節から12節の言葉の具体的な事例だと言えます。すなわちそこには、

9:すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10:彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11:彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12:しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

とあるのです。つまり、この生まれつき目の見えなかった人の目が見えるようにされたことによって紡がれる一連の物語は、すべてを照らす光として「この世」に来られたイエス・キリスト様を、ユダヤの民が受け入れなかった物語であり、また、イエス・キリスト様を信じて、神の子となった人の物語でもあるのです。
 ところが、その神の子とされた人、つまりは生まれつき目の見えなかった人は、最終的に、ユダヤ人たちによって外に追い出されるのです。イエス・キリスト様を「預言者だと思う」「神のもとから来られた方だと思う」と証言し、証しする人が、外に追い出される。

 みなさん、私はこの「外に追い出した」という言葉が、妙に気になるのです。外とは、即物的に言うならば、それはユダヤ人たちが尋問をしていた場所、おそらくそれはユダヤ人の会堂だっただろうと思います。
 しかし同時に、それはパリサイ派やサドカイ派の人々をリーダーとする当時のユダヤ人の社会、コミュニティーでもあろうと思うのです。つまり、パリサイ派の人々は、この生れ突き目の見えなかった人をユダヤ人社会からに追い出したのです。実際、ヨハネによる福音書の9章22節には、「イエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていた」と言っている。しかし、その外に追い出された人をイエス・キリスト様は探し出すのです。

 みなさん。私がよくご紹介するアブラハム・ヘシェルというユダヤ人哲学者は、『人間を探し求める神』という本を著しました。その本でヘシェルは、「アダムとエヴァが、神食べてはならないと命じた「善悪を知る木」の実を食べ、神がに背を向けため、神の前に身を隠し、また神の支配する世界である楽園に住むことができなくなり、楽園の外に出て行かざるを得なくなったのです。それはまさに、神と人との関係が断れてしまったことであり、それゆえに、人間は神を失い、神もまた人間を失ってしまった。その失われた人間を神は探し求めておられるのだ」と言うのです。
 私にこのヘシェルを紹介し、このヘシェルの『人間を探し求める神』を読むように勧めてくださったのは、私の恩師で東京聖書学院院長だった小林和夫先生です。小林先生は、このヘシェルの『人間を探し求める神』をうけて、そのように「神は失われた人間を地の果てまで探し求め、探しに探してついに人間の姿にまでなられた。それがイエス・キリスト様だ」と言われのですが、実に印象深い言葉でした。

 そして、まさにそのように、イエス・キリスト様は、この外に追い出された人を捜し求め、その人を見つけ出し、声をかけ、「あなたは人の子を信じるか」と語りかけるのです。そこには、失われた人間を探し求め、見つけ出し「汝、誰々よ」と名前を呼んでくださる神のお姿がそこにある。真の神の御子であるイエス・キリスト様のお姿がある。

 みなさん、このイエス・キリスト様の「あなたは人の子を信じるか?」という言葉は、「神は、あなたを探し求めてきたことを信じるか?」という言葉であり、「私こそがあなたを探し求めてきた神であることを信じるか?」という問いかけの言葉なのです。

 そして今日(こんにち)も、神は私たちに、そしてあなたに「あなたは人の子を信じるか?」。「神が、あなたを探し求めてきたことを信じるか?」、そして「私こそがあなたを探し求めてきたその神である信じるか?」と語りかけておられるのです。そのイエス・キリスト様の語りかけに、この生まれつき目の見えなかった人は「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した」とあります。9章38節です。

 この拝するという言葉は、一般的には東洋人が膝まづくいて。額を地面につけ深い敬意と畏敬の念を表す姿をあらわすπροσκυνέω(プロスキュネオー)という言葉です。この言葉を、ユダヤ人は、大祭司や神に向かって示す行為に用い、新約聖書においてはキリストに対する態度に用います。ですのでこのπροσκυνέω(プロスキュネオー)は礼拝を意味すると言われたりします。それで新改訳2017では、この9章38節を、「イエスを礼拝した」と訳している。

 いずれにせよ、このこの生まれつき目の見えなかった人は、イエス・キリスト様を信じ、受け入れ、神を礼拝する神の民となったのです。その人にイエス・キリスト様は、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」と言われる。この「見えるようになるため」というのは、何も物理的に見えるようになるということではありません。むしろ、私たちを愛し、私たちを探し求め、私たちを神の子とする神の愛を、イエス・キリスト様というお方の中に見ることができるようになるということだと言えるでしょう。そのためには、自分は神から離れてしまっている者であるということを知り、神が私たちを探し求めてくださったように、私たちもまた神を求めることが大切なのです。

 この生まれつき目の見えない人を、外に追い出したユダヤ人たちは、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」といって、この人を外に追い出しています。それは、彼らが自分は見えている、自分は知っていると思っているからです。だから、イエス・キリスト様が「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」という言葉を聞いて、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」と聞くのです。

 それは、決して純粋で素直な気持ちで聴いているのではない、むしろ、「なに言ってやがるんだ。俺たちは盲目なわけないじゃないか」という反発心から聞いている。だからこそ、イエス・キリスト様は「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言って、手厳しく彼らを戒めるのです。

 この目が見えると言っている人は、この生まれつき目の見えなかった人を外に追い出した人たちです。すなわち「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」と言っている人です。この人たちは「私たちはお前のような罪びとではなく、聖書、すなわち当時の旧約聖書について熟知しており、お前のような無学なものではない」と誇っている人です。イエス・キリスト様は、そのような人々を「あなた方は『見える』と言っているのすぎず、本当は何も見えていないのだ」というのです。

 みなさん、私は西方教会の伝統、すなわちプロテスタントやカトリック教会に深く根差している「人間は生まれつき原罪をもって生まれた罪びとだ」という原罪論には疑問を持っています。しかし、だからと言って人間が罪や過ちを犯さないということはできません。確かにわたしたち人間は罪や過ちを犯しつつ生きているのです。
 そして、私たち人間が、聖書のことがわかりきるのかというと、2000年にわたって、聖書が研究され続け、今もそこに様々な理解や解釈が生まれ続けている現実がある以上、おそらく私たちは聖書を熟知しきることはできないと思います。

ですから、イエス・キリスト様に真理があるということはわかっても、その真理が何かについてはおぼろげにわかっているだけで、その深みまではわかっていないのです。神学を学び、聖書を学べば学ぶほど、そのことが実感され、神の前に、聖書の前に、そして人も前に『私は見えないのです』と謙虚にその現実を受け入れざるを得ないのです。ですから私は、ただ牧師として、ほんの少しおぼろげに見えたことをみなさんにお伝えしているの過ぎない。でも、私はそのことを恥じてはいません。ただイエス・キリスト様は、そのような謙虚に『自分は見えていない』と自覚して、ただ神により頼んで生きる人を捜し求めておられる。そのことに望みを置いて、学びえた限りを語っているのです。

みなさん、最も原初の教会における貢献者に一人であるパウロは、コリント人への第二の手紙12章9節で「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と言っています。

 この弱さというのは7節で「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」といっていますので、肉体的な事でしょう。しかしその「弱さ」は、肉体の弱さだけではありません。先ほどお読みしたローマ人7章14節以降にある、肉体の内にある罪に抗えない心の弱さをも含んでの「弱さ」なのです。その「弱さ」を知り、それを自覚するときに、私は自分の弱さを誇ろうと言うことができる。なぜならば、その自覚する弱さのゆえに、イエス・キリスト様が私たちを探し求め、そして探しだしてくださり、神の愛と恵みと救いに与らせてくださるからです。

 みなさん、私たちは自分の弱さを自覚し、それを認めるものでありたいと思います。決っして「見える」と言い張る傲慢なものとならないようにしましょう。私たちが、私たちの弱さを自覚する時、私たちは、私たちを探し求めている神様を、またイエス・キリ使徒様を見いだすことができます。神様は、またイエス・キリスト様は、私たちがどんなに弱さの中にあり、無知の中にあろうとも、私たちを探し出し、私たちの名を呼んで憐み、恵み、その弱さの中から掬いあげてくださるお方だからです。

 その憐みの神、恵みの神、そして私たちの存在を掬い取ってくださるイエス・キリスト様のことを、静かに思い廻らしましょう。静まりの時を持ちます。


どんなことでもできる

 教会は「キリスト教はご利益宗教ではありません」と言います。しかし、この言葉は正確ではありません。なぜなら、キリスト教の信仰は、神の恵みがもたらされることを語るからです。神の恵みほど、私たちを力づけ、慰め、喜びを与えるありがたいご利益はないのです。

しかし、それでもなお教会派「キリスト教はご利益宗教ではありませんん」と語り続けます。それは、キリスト教は、私たちが願い求める「物」や「状態」目的とし、それを手に入れるための手段ではないという意味において「ご利益宗教ではない」からです。ですから、キリスト教を信じれば、願うものが何でも手に入るということではありませんし、キリスト教を信じれば何でもできるということではありません。

 ただ、それが神のみこころにかなうことであるならば、それはどんなことであっても、私たちが祈り求める者は、神から私たちに与えらます。神のみこころにかなうものであるならば、どんな状況の中にあっても、私たちは「どんなことでもできる」のです。

 神のみこころ、それは私たちの心の中に、平安と喜びとがあふれることです。しかもその平安と喜びとが、神以外の何ものにより頼むことなくもたらされる平安と喜びなのです。

 多くの富や財産によってもたらされる経済的な喜びや安心は、平安ではありません。それは経済的な危機を迎えると、容易に崩れ去り私たちを不安と恐れに陥れ、悲しみの中に落としいれます。人間関係が安定している状況がもたらす平安や喜びは、相手の人間に依存している喜びや平安です。しかし、人間の心は変わりやすいのです。つまり、私たちは、富や財産、あるいは誰かに私たちの喜びや平安というものが依存している限り、私たちは、富や財産、あるいは人間関係は、私たちを拘束し、私たちはそれらに絡み取られ縛られているのです。

 しかし、神のもたらす恵みは、私たちを縛り付けている者から私たちを自由にし、神以外の何ものにも依存しない、心の平安を与え、心に喜びをもたらし、心の中に希望を満たすのです。

 そのことについて、私の友人岩本遠億牧師が短く語っています。岩本牧師のメッセージは4分弱の短いものですので、是非お聴きください。そのメッセージは下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a0s5n?fbclid=IwAR2YUWe09P3uJpdOyqI9-Ep_mwvGStXmkvPxhY9CCHCU7pxUAfuS7oRBpuk


この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。

2023年10月1日日曜日

存在の意味を問う

 私たちは、自分自身の存在をどのようにして理解し、受け止めているでしょうか。

 この「わたし」という存在の気付きはとても大切です。それは、「わたし自身」への気付きです。
 しかし、この「わたし自身」への気付きということは、思いのほか難しいのです。
 「わたし」は「わたし」であるという意識を自己認識と言います。しかし、往々にして、私たちは「わたし自身」によって「わたし」を認識するのではなく、何か私以外のもので、自分という存在を規定し認識しているのです。
たとえば、「わたし」は「スポーツが好き」とか「音楽が好き」という場合、趣味や嗜好によって「わたし」という存在を理解します。しかし、趣味や嗜好は、絶対的なものではありません。それは、ときに変化することもあるのです。だとすれば、そのように変化する趣味や嗜好によって「わたし」という存在を理解しているとするならば、趣味や嗜好が変われば私という存在は変わるのでしょうか。
 また、「わたし」という存在を、国籍や人種で理解するようなことがありかもしれません。しかし、仮に「日本人」という国籍で自分を理解していたとして、国籍が「アメリカ」に変わったら、「わたし自身」は変わるのでしょうか。そうではないですよね。たとえ国籍が変わろうと趣味が変わろうと「わたし」は「わたし」です。
 そのように、私たちは、「わたし」という存在を、私たちが身に着けている何かの属性によって理解し認識します。けれども、それは「わたし」が持っている属性の認識であって「わたし自身」の属性ではないのです。この属性の認識で最も厄介なものが、「わたし」がもっている能力による認識です。この能力による認識が厄介なのは、能力には「できる」「できない」ということの程度の差異によって評価が伴うからです。この能力という属性で「わたし」という存在を理解しうけとめていると、その能力に対する評価によって「わたし」という存在の意義が問われた時に「わたし」という存在は、容易に存在する意味を失うのです。しかし、それは能力の持つ意義であって、いわば「わたし」のできること(doing)の意義あって、「わたし自身」の存在「(being)意義ではありません。だとすれば、「わたし」が持っているすべての属性をそぎ落とした裸の「わたし自身」の存在の意義はどこにあるのでしょうか。
 私たちが存在する意義、それは私たちが生きて存在するそれ自体の中にあります。存在の意義は、存在することそれ自体の中にあるのです。
なぜならば、「あなた」が生きて、そこに存在しているということ自体を、神様は喜んでおられるからです。だからこそ、「あなた」が「あなた自身」の存在の意義を見いだせるのは、「あなたが」生きて、そこに存在していることを喜んでおられる神を発見することから始まるのです。ですから「あなた」が、「あなた」の存在を喜んでおられる神と出会いうならば、その時、あなたの存在は神の前で意味ある者となります。
 その存在の意味を、私の友人の岩本遠億牧師は、3分程度の短いメッセージの中で語ります。そのメッセージを下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a0akg?fbclid=IwAR3PL6Na60OXzzwqswPp3_TZ-R3ObJn927R3-tbOpaNImML_cYYb7TgxIl0

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。