昨日、注文していた『学歴詐称』という本が届く。キリスト教関係の本でもなく、また学術書でもないので、一・二時間で読み終えられ、その内容も把握できたが、実に嫌な感情を思い出した。
本の内容は、ある大学教授が、某団体Aがディグリーミル(正式な学位の認定ではない偽学位を販売している自称大学)の疑いあるという報告がなされていると言う記述をご自身のホームぺージで引用したところ、その問題があるとされた某団体Aからクレームがつけられ、暗に訴えるという言わば脅しのような行為を受けたと言うことで、そのことの顛末を記したものであった。
実は、私がこの本を注文したのは、その大学学教授と某団体Aのごたごたの顛末を知りたかったわけではなく、各国で異なる学位認証制度と国家間相互でそれぞれ他の国の学位をどのように受容しているかと言った情報を期待して買ったのだが、届いてみるとその内容は期待したものとは異なっていた。それだけでも、わずかではあるが余分な出費となってしまった上に、嫌な思い出を思い出した分、ずいぶんと損をしてしまった気分になった。
その思い出と言うのは、今はあまり見かけなくなったが、昔ネット上で、個人や団体が無料で借りられる掲示板(個人運用のSNSみたいなもので、FBが近いかな)なるものがあり、私もその掲示板を個人的なホームページで借りて運用し利用していた。そこには、運営に関して参加規定をもうけて、それを掲示し、それに沿って書き込んでもらうようにお願いしていたのだが、その規定の中に企業等団体の投稿はお断りする旨を定め、それはちゃんと明記していた。
ところが、某団体Bが、知ってか知らずかわからないが、その利用規定を無視する形で投稿してきた。しかも、その団体はしかるべき某団体Cが、問題があるとの情報を発信していた団体であった。当然、規定に企業および団体の投稿は出来ないと言う利用規定をもうけ、それを提示していたのでその規則に基づいて削除したのだが、その際、削除理由と共に、某団体Bは問題があるということが言われている団体であるという旨も合わせて削除の報告をした。すると数日して、その問題があると言われている旨を消せ、削除しなければ訴えるとのメールが某団体Bから入ってきた。
その時、私はその要請に応じるつもりは全くなかった。だが、家人や教会の方が、ややこしいことになり、牧師としての働きや伝道活動に支障をきたしてはいけないし、これから先も変な人間がほかに書き込んできてもいけないので、その部分を削除するだけでなく、掲示板自体を辞めてくれと言われ、しぶしぶ伝道の窓口になればと考えていた掲示板自体を削除することになった。
伝道の窓口に開いた掲示板であり、それなりにいろんな人との交流ができていたものであったので、残念だったか家人や教会員の言葉に従った。後にも記すが、ネットの掲示板とは言え、私にとっては、無料とは言え自分が申し込んで借り、利用規定を定めて始めたものである。そしてその使用規規定に基づき、それによって管理・運営していたものである。そこに人の家に勝手に土足で上がり込んで来るかのようにして投稿してきたのである。しかも、問題があると言われていると書き込まれると、いきなり訴えると訴訟をちらつかせながらその書き込みを消せと言う。そんな連中である。そんな連中だから家人、とりわけ子供に危害がおよぶかもしれないという恐れが一瞬頭をよぎり、それを危惧した。そういうこともあって、掲示板を辞めることになったのだ。そのことを思い出した。
そのやり取りの中で、某団体Bには、「あなたがたは、明記してある利用規定を無視して書き込んだではないか」と指摘したが、その件については、掲示板を開いていることは、それは公に開かれていることだから書き込みをするのは問題がない(つまり管理者が設けた利用規定など関係ないと言うことだろう)と、彼らの論理で謝罪の言葉もなく、削除しなければ法的対処をするの一点張りだった。
私にしてみれば、今日のFBのような利用者を限定する設定もない時代なので、だからこそ利用規定を設け、それを明記し、その枠の中で運営していた言わば内輪のサークルに、その利用規定を無視し、勝手に土足で上がり込んできて、掲示板を設けていることは、公に開いているのだから誰でも、何でも書き込んでもいいのだという自分の論理を振り廻す。いわば「玄関が開いていたのだから入ってきて何が悪いか」と言っているようなものだ。そんな論理をもって、勝手に書き込んできたことには何の謝罪もしない団体である。家人に危害が及ぶのではと思ったのは、こんな理屈を振り回すからである。その態度を見て、到底そんな某団体Bを信頼出来ようはずはなく、なるほど、某団体Cの報告は信頼性があるなと思った次第である。
ちなみに、その某団体Bが問題があると言われているという私の記述の元となった某所某団体Cに対し、某団体Bが訴えたという話は聞いていない。つまり、個人には、いきなり訴えるといってくるが、その私の情報源となった大きな組織体であり、私の知る限り公に某団体Bは問題があると公に述べている某団体Cに対しては、未だに訴えを起こしてはいないようであるし、そもそも訴えるぞとすら言っていない可能性もある。どうやら、バックボーンのない個人には訴えるといって脅すが、バックボーンのある組織体には訴えると言ったことは言わないようだ。
もうずいぶん昔のことがだ、今回買い求めた本を読み、それに似たような内容が書かれており、当時のことを思い出し、実に嫌な気持ちがよみがえってきた。
2018年12月26日水曜日
2018年12月19日水曜日
ペテロの裏切り
「ペテロの裏切り」
私には、何人かの、いわゆる恩師というべき人がいるんですよ。それらに方には、いや、本当にお世話になり可愛がってもらった。だから、その方々には「いわゆる足を向けて眠れない」ですよ。もちろん、私が、それらの先生方を裏切ったりしたら、その先生方は本当に悲しまれるでしょうし、一生赦してもらえなくても仕方がないような気がします。
ところが、キリストはご自分の可愛がっておられた12人の弟子、その中でも、一番弟子といわれるようなペテロという人から、ものの見事に裏切られてしまうのです。
もうすぐ、ご自分が、エルサレムという町で、人々を救いのため命を投げ出すというその直前に、キリストはこのペテロに対して、「あなたは鶏がなく前に、わたしを三度知らないと言うだろう。」とそうおっしゃれました。
もちろん、ペテロは、このときにキリストを裏切るつもりなんかさらさないですから、「そんなことはありません。死ぬまであなたについて行きます」とそう大見得を切ります。ところが、その夜、キリストがとらえられ、すぐさま裁判がはじまりました。そのとき、このペテロは、こっそりとキリストのあとについて、裁判が行われているところまでいったんです。さすがに大見得を切っただけのことはありますね。
でもそこでね、見つかっちゃたんですよ。そして、「あなたは、今裁判にかけられているキリストの弟子でしょ」ってそう問いつめられたのです。
それは、大変なことですよ。自分がキリストの弟子だってわかったら、自分も捕まって裁判にかけられ殺されてしまうかもしれない。そんなわけで、ペテロは「いやいや、私はあんな人なんか知らない」って言ってしまった。
そんなことが三度続いたとき、朝を告げる鶏が威勢良く「コケコッコー」と、鳴いたのです。このときペテロは、キリストが「ペテロ、おまえは鶏が鳴く前に、三度私を知らないというよ」といわれた言葉を思い出した。
ふっと見ると、鶏の声を聞いたキリストが、振り返ってじっとペテロを見つめているではありませんか、ペテロはたまらなくなって、外に飛び出して、激しく鳴いたって聖書には書いてあります。
私は、このときのペテロの涙は、自分を可愛がり愛してくれたキリストに、「私は死ぬまであなたについて行きます。」と大見得を切ったのに、自分可愛さに、そのキリストを裏切って仕舞ったという後悔の涙じゃなかったかなってそう思います。
でも、反面、心のどこかで、自分の命までも危ない場面です。いくら大見得を切ったとはいえ「嘘も方便」じゃないって気がしないわけでもありません。
ですから、激しく鳴くほど、ペテロの心を突き上げきたものは、単に後悔の思いだけではないように思うんです。
というのはね。キリストは、ペテロに、「三度私を知らない」といわれるまえに、ペテロに対して「ペテロ、あなたはこれから、とても大きな試練に会い、うちひしがれるような出来事にあうけれども、私は、あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直ったら、他の仲間たちを励ましてやりなさい。」ってそういわれていたんです。
まさに、ペテロがキリストを裏切るような大失態を犯す前に、キリストは、そのようなペテロの弱さ、いえ人間の弱さを知って、私はお前を赦しているよとそうおっしゃっておられんですね。
振り返ってペテロを見つめられたキリストの瞳の中に、「ほら、ペテロ、お前は私知らないといっただろ。でも、私はお前のために祈り、そして赦しているよ。」という愛のまなざしをペテロは感じ取ったんじゃないのかと、そう思うんです。だからこみ上げて激しく鳴いた。
この、キリストの愛のまなざしは、実はあなたにも注がれているのです。
2018年12月18日火曜日
ラグビーの話でラグビーの話ではない、事故の話で事故の話でない。聖書解釈の話でない聖書解釈の話
ラグビーの話でラグビーの話ではない、事故の話で事故の話でない。聖書解釈の話でない聖書解釈の話
ラグビーにはコラプシングと言う反則があります。それは、故意にスクラムやモール(スクラムとモールの説明をすると長くなるので省略)を崩すと取られる反則で、相手にペナルティ・キックが与えられる重い反則です。この反則を繰り返すと、繰り返した選手は一時退場になったり、スクラムトライといって相手に得点が与えられたりします。なぜ、コラプシングには、このような罰則が科せられるのか。それは、スクラムやモールが崩れてしまうと、重大な怪我につながる危険性があるからです。
先日、明治大学と早稲田大学のラグビーの試合がありましたが、このコラプシングの反則が、その勝敗を分けたと言われます。明治大学ののプロップ(ポジションの名前)の選手が、このスクラムを汲んでいる中でコラプシングを犯したと判断されたのです。レフリー(審判のこと)がコラプシングと判断する際、いくつかの目安となる行為があります。その中の一つにスクラム中に膝をつくというものがありします。試合の映像をみますと、たしかに、明治大学の選手が、ほんの一瞬ではあるが両ひざをついている。審判は、それを見逃さず読む見ていたのです。しかし、スクラムが崩れたわけで在りませんでした。
これはスクラムで圧倒的に劣勢だった早稲田大学のプロップの選手が、体を低く当て、しかも自分の体が崩れないようにしながら、明治大学のプロップの選手にスクラムを崩させようとしているかなり技術的に高度プレーです。それで、明治大学の選手が一瞬膝をついてしまったのですが、彼は、スクラムを崩さず維持しようとして、すぐに持ち直し、結果としてスクラムが落ちる(崩れる)ことなく、スクラムを押し始めたのですが、それでも膝をついたと言うことでコラプシングの反則を取られることになりました。これで、動揺した明治大学の選手たちはここから崩れ始めました。その意味では、早稲田大学のプロップに選手の作戦勝ちであり、技術勝ちだと言えます。。
私は、出身が明治大学でもあり、明治大学の熱狂的なファンの一人です。ですが、レフリーのジャッジが出た以上、この試合においては、それはそれで受け止めなければなりません。レフリーのジャッジはラグビーにおいては絶対だからです。しかし、今後のことを考えると、一考すべきジャッジであったことは間違いがありません。というのもともとコラプシングは、スクラムが崩れると危険なので、故意にスクラムを崩さないようにするために、重い罰則を科してまで、ルール上、やってはならない反則として定めてあるからです。
今回のケースは、スクラムが弱い早稲田大学の選手が、その弱さをカバーするために、故意の相手にスクラムを崩させるようなスクラムの組み方をし、実際、明治大学の選手はスクラムを一瞬膝をつきコラプシングを取られたのですが、しかし彼は、壊さないように頑張って持ち直し、実際、スクラムは崩れなかったのです。この場合、コラプシングと言うルールの精神からすれば、コラプシングを取るべき事案であなかったと言えます。もし、仮にコラプシングの反則を適用するとするならば、適用する相手は、早稲田の選手に適用するほうが、ルールの精神には則ていたでしょう。しかし、レフリーは膝をついたという目安の方を優先したのです。
先日、明治大学と早稲田大学のラグビーの試合がありましたが、このコラプシングの反則が、その勝敗を分けたと言われます。明治大学ののプロップ(ポジションの名前)の選手が、このスクラムを汲んでいる中でコラプシングを犯したと判断されたのです。レフリー(審判のこと)がコラプシングと判断する際、いくつかの目安となる行為があります。その中の一つにスクラム中に膝をつくというものがありします。試合の映像をみますと、たしかに、明治大学の選手が、ほんの一瞬ではあるが両ひざをついている。審判は、それを見逃さず読む見ていたのです。しかし、スクラムが崩れたわけで在りませんでした。
これはスクラムで圧倒的に劣勢だった早稲田大学のプロップの選手が、体を低く当て、しかも自分の体が崩れないようにしながら、明治大学のプロップの選手にスクラムを崩させようとしているかなり技術的に高度プレーです。それで、明治大学の選手が一瞬膝をついてしまったのですが、彼は、スクラムを崩さず維持しようとして、すぐに持ち直し、結果としてスクラムが落ちる(崩れる)ことなく、スクラムを押し始めたのですが、それでも膝をついたと言うことでコラプシングの反則を取られることになりました。これで、動揺した明治大学の選手たちはここから崩れ始めました。その意味では、早稲田大学のプロップに選手の作戦勝ちであり、技術勝ちだと言えます。。
私は、出身が明治大学でもあり、明治大学の熱狂的なファンの一人です。ですが、レフリーのジャッジが出た以上、この試合においては、それはそれで受け止めなければなりません。レフリーのジャッジはラグビーにおいては絶対だからです。しかし、今後のことを考えると、一考すべきジャッジであったことは間違いがありません。というのもともとコラプシングは、スクラムが崩れると危険なので、故意にスクラムを崩さないようにするために、重い罰則を科してまで、ルール上、やってはならない反則として定めてあるからです。
今回のケースは、スクラムが弱い早稲田大学の選手が、その弱さをカバーするために、故意の相手にスクラムを崩させるようなスクラムの組み方をし、実際、明治大学の選手はスクラムを一瞬膝をつきコラプシングを取られたのですが、しかし彼は、壊さないように頑張って持ち直し、実際、スクラムは崩れなかったのです。この場合、コラプシングと言うルールの精神からすれば、コラプシングを取るべき事案であなかったと言えます。もし、仮にコラプシングの反則を適用するとするならば、適用する相手は、早稲田の選手に適用するほうが、ルールの精神には則ていたでしょう。しかし、レフリーは膝をついたという目安の方を優先したのです。
同様のことが、ここ数日大きな話題となっていた先日の東名高速でおこった棄権運転致死罪を巡っての裁判でも争われました。この事件は、二人のドライバーの間で、ちょっとした言葉のやり取りのトラブルあり、その結果、一方がもう一方に対して高速道路であおり運転をし、最後には高速道路の追い越し車線で相手の車を停車させ、それがもとで追突事故が起こり、相手方に死者が出たという事件でした。この事案に値して、検察側は危険運転致死罪という重い求刑を求めました。
この求刑に対して、被告・弁護側が争点にしようとしたのが、棄権運転致死傷罪の条文にある運転と言う言葉です。棄権運転致死傷罪は、運転中に危険な運転をしてる事に対する罪なのだから、車が停車している状態は運転ではない。この事故は、車が停止しているときに起こった自己だから危険運転ではないので無罪だというのが弁護側の主張です。これは、まさに棄権運転致死罪の条文の背後にある、法の精神や法哲学とは何かが問われる問題です。つまり、危険運転致死障在の条文をどのような精神で読み、理解し解釈するかが問われた裁判であると言えるでしょう。この裁判では、棄権運転致死罪が適用されたました。その意味では条文の文言そのものよりも、その法が定められた法の精神や、法哲学の方が重んじられたと言えます。
この求刑に対して、被告・弁護側が争点にしようとしたのが、棄権運転致死傷罪の条文にある運転と言う言葉です。棄権運転致死傷罪は、運転中に危険な運転をしてる事に対する罪なのだから、車が停車している状態は運転ではない。この事故は、車が停止しているときに起こった自己だから危険運転ではないので無罪だというのが弁護側の主張です。これは、まさに棄権運転致死罪の条文の背後にある、法の精神や法哲学とは何かが問われる問題です。つまり、危険運転致死障在の条文をどのような精神で読み、理解し解釈するかが問われた裁判であると言えるでしょう。この裁判では、棄権運転致死罪が適用されたました。その意味では条文の文言そのものよりも、その法が定められた法の精神や、法哲学の方が重んじられたと言えます。
じつは、この二つは、聖書を読むと言うことにも通じる事例です。聖書を読み、解釈する。そこには、聖書がいかなる精神で書かれているかが深く関わっているのです。それを無視して、字ずらの問題だけを追求するとすれば、あの明治大学と早稲田大学のコラプシングの判定や東名の危険運転致死罪の求刑に対して無罪を主張するのと同じになってしまうのではないでしょか。。
聖書の読みと解釈についてはいろいろと意見や主張があります。聖書に書かれている処女降誕や死者の蘇り、はたまた海が二つに分かれてそこ渡るとか、太陽が少し後戻りをするといった様々な奇跡を巡っての議論や、聖書をどう解釈するかを巡っては、いろいろと議論があるのです。また、聖書の歴史的記述の正確性や科学的な誤りと思われる事柄についても、いろいろな主張があります。しかし、忘れてはならないのは、問題としなければならないのは、聖書の字ずらの問題ではなく、聖書の精神そのものなのです。聖書はどういった目的で書かれたのか、何を伝えたいのか。それが、一番大事なことなのです。
私は、聖書に書かれている奇跡を決して信じていないわけではありません。むしろ信じていると言っても良いでしょう。しかし、聖書がいかなる精神の下で書かれているのかを忘れて、奇跡があったのかなかったのかなどを論じるとするならば、それは愚の骨頂です。
聖書は、神が神の言葉として、神の精神と心を伝えるために書かれた神の言葉です。これは長らく、そして今も受け継がれているキリスト教会の主張であります。もっとも、聖書が神の言葉であるということを証明することも科学的に実証することもできません。だから、聖書が神の言葉であると言うのは、信仰です。信じている信仰の内容です。そして、その神の言葉である聖書を書き記したのは人間であり、その意味では聖書は人間の言葉でもあるのです。つまり、人間の言葉で書かれた聖書は神の言葉であるというのが、聖書の精神だと言えます。そして、この「人間の言葉」と言う主語を「神の言葉」いう相反する述語に「である」という繋辞をもちいて繋ぎ一つに結び合わせるのが聖霊なのです。
先ほど申しましたように、これは、科学的に証明できるものではあいません。だから科学ではなく、信仰なのです。そして、その信仰の下にあって、神の言葉がどのような精神で書かれているかが問題となる。その精神とは、神が、この世界を愛し、この世界を神の恵みに満ちた世界へと導こうとしているということであり、この現実の世界で、悩み苦しんでいる人に救いをもたらそうとしていると言うところにあるのです。この精神を抜きに聖書を読むとき、聖書は全く分からないものとなるし、意味のない単なる古代の文献の一つでしかなくなってしまいます。
しかし、それは聖書を聖書として書き記し、編纂した人々の精神をくみとった読み方ではありません。聖書は、あくまでも神の言葉として読まれ、解釈されるべきものなのです。
しかし、それは聖書を聖書として書き記し、編纂した人々の精神をくみとった読み方ではありません。聖書は、あくまでも神の言葉として読まれ、解釈されるべきものなのです。
2018年12月4日火曜日
あなたは私と共にパラダイスにいる(1)
「あなたは私と共にパラダイスにいる」
今週は、イエス・キリスト様が十字架の上で語られた言葉について、お届けしています。その言葉のひとつに、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、私と共に、パラダイスにいます。」という言葉があります。
パラダイスって聞くと、なんだか南の楽園ってイメージがあるじゃないですか。確かに、パラダイスって言葉には、常夏の島で、なんだかの~んびりと過ごしている、そんな響きとイメージがありますよね
このパラダイスって言葉は、塀にかもまれた庭園のことなんです。わざわざ塀に囲まれるているわけですから、それは特別な庭であり、憩いの場ですから、南の楽園とイメージ的には重なりますよね。
この特別な庭園であるパラダイスを、キリストは天国と言うことの譬えで使ったんですね。ですからキリストが、きょう「あなたは私と共にパラダイスにいます。」ってことは、きょう、あなたは私と一緒に天国にいますよ。」ってことなんです。
ところが、キリストが、この「あなたも私と一緒に天国にいますよ。」と言った相手は、なんとキリストと共に十字架にはりつけられていた犯罪人、それも強盗だったんです。
十字架にはりつけになっているということは、死刑になっているということですから、キリストは、強盗を働いて死刑に処せられている人に向かって、あなたはきょう天国にいるよって、そう言うんです。
十字架にはりつけになるわけですから、手足を太いくぎで十字架に打ち付けられる。当然痛いですし、そりゃもう苦しい。おまけに、死刑ですから、近づいてくる死の恐怖で、苦しみのたうちまわっている。
そんな中で、強盗はイエス・キリストに「神のひとり子であるキリスト様、あなたが天国に生き、天国に王になられたら、私のことを思い出してください、そして憐れみを掛けてください。っと」そう願い求めたんですね。
その願いに、答えて、「きょうあなたは、十字架について死ぬだろうけど、安心しなさい、あなたは私と一緒に、間違いなく天国にいけるよ」って、キリストはそうおっしゃったんです。
これは、今、死の苦しみの中にある人に対して、気休めとして語られた言葉なんかじゃない。だって、キリストもまた、この強盗と同じ用に、十字架にはりつけられ、苦しみのきわみのなかにあるんですもの。本来なら人のことなど、かまって入られないようなじょうこうにあるんです。
でも、キリストは、体が傷つけられる苦しみを味わい、近づいている苦しみを、あの強盗と同じように味あわれた。ですから、彼の痛みや苦しみや苦悩をしっているんですね。だからこそ、その痛みや苦しみ、苦悩の中から、救いを求める彼の声を聞き、憐れみの手を差し伸べられたんです。
そして、あなたの苦しみを私が一緒に味わったように、今度はあなたが私と一緒に、憩いの楽園の喜びを味合うのだよ。ッてそういわれるんです。
痛みや苦しみそして苦悩、それは何も十字架にはりつけになるってことだけじゃないですよね。普段生きていく中でも、様々な痛みや苦しみに合う、そして体に受ける傷の苦痛だけでなく、心がきづつけられて激しい痛みを感じることがあるんじゃないでしょうか。
そのような中から、私たちが、イエス・キリストに救いを求めるならば、あの強盗と同じように、キリストは私たちに「あなたも、私と一緒に、天国という楽園の喜びを味わうことが出来るよ」とそうおっしゃってくださるんですね。
キリストは、天国の王様ですから、王様が「私と一緒に天国に連れて行ってあげる」と言う以上、強盗であろうと誰であろうと、天国に行くことが出来ます。もちろん、あなたもです。
本当なら、パラダイスである天国は、誰も入ることの出来ない特別な場所です。でも、自分の犯した罪や、心の汚れ、醜い心などを悔い、キリストに罪の許しの憐れみを求める者は、みんな天国に行くことが出来るんですね。
2018年11月21日水曜日
狭い門より入れ!
「狭い門より入れ!」
マタイによる福音書7章13節
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
「狭い門」と聞いて、ジイドの小説を思い出した人は、ちょっとした文学通。入学願書と受験票を思い出した人は、受験生かその受験生をかかえた家族の方ではないかとお察しします。もっとも、最近は入学試験だけではなく、就職も厳しい時代のようで、入る時だけでなく、出るときにもこの「狭い門」を意識しなければならないのが、当世の学生さんたちのようで、学生稼業は昔ほど気楽ではなくなったようですが、ともかく、毎年多くの学生さんがこの「狭い門」を目指します。
入学試験で「狭い門」という場合、当然それは試験に合格するのが難しい場合に用いられる言葉です。従って、この狭い門を通過するためには、一生懸命頑張り努力して、様々な知識や学力を身につけなければなりません。百の英単語を覚えている人間より1万の英単語を覚えている者の方が、より合格に近いことは間違いがないことなのです。
つまり、受験における「狭い門」は、その門の存在を誰もが知っているほど有名で、多くの人がその門を目指して殺到してくるのに対して、その人々をふるい落とすために「狭い門」となり、やってくる人が通りにくいようになっているものを指しているのです。ですから、人々がその門を通過するためには、何とか自分が努力し頑張って習得した優秀さを見せなければなりません。
ところが、もともと「狭い門」という言葉の発祥である聖書の言う「狭い門」は、いわゆる受験戦争で言われる「狭い門」とはチョッとばかり趣が違っています。聖書が言うところの「狭い門」とは、もともとは「天国の門」のことを指しており、この「天国の門」のもつ狭さは、受験戦争の狭さとは全く正反対の性質をもつ狭さなのです。
聖書は、「人はどうやって天国の門をくぐりぬけるか」という問題に対して、「それはどんな努力や頑張りによってもくぐり抜けられるものではない。」と答えます。そして、「自分は罪人であり、神の前に誇れるようなものは何も持たないものであり、神の恵みと憐れみなしでは、神の前では生きていけないものなのであり、天国になど行けようはずもない人間なのだ。」と身をかがめて謙虚になって生きていく人間こそ、実は天国の門をくぐることができるのだというのです。
逆を言うと、自分の優秀さやすばらしさを人に見せ,神の誇示しようとしていては、とうてい天国に入ることなど出来ないということになります。まさに天国の狭い門は、胸を張って堂々と通っていこうとするにはあまりにも狭すぎるのです。
入学試験に代表されるようなこの世の狭い門を数多く通り抜けてきた人々が、いろんな問題を引き起こしたりするのを見聞きすることが、昨今冨に増えたような気がする。もちろん、みんながみんなそうと言う訳ではないし、一生懸命頑張ってこの世の狭い門をくぐりぬけることも決して悪いことではないと思います。それはそれですばらしい事に違いがないのです。
しかし、それがいかに通るに狭く難しいこの世の門であり、その難関を通り抜けたからといって肩で風を切りながら歩いていく生き方ではなく、むしろこの世の狭い門を通ろうと通り抜けまいと、ただ神の前に身を小さくし、かがめながら生きていくようなものこそ、天国の入り口にある狭い門を入っていくものなのですと、聖書は私たちに教えているのです。
2018年9月18日火曜日
昨年の宗教改革記念日の説教
個人的にfacebookをしている。facebookには、一年前にどんなことを書き込んだのかを知らせてくれる機能があるようで、時々、一年前に書き込んだ内容がrepeatされてくる。
そんなわけで、最近も一年前に自分が投降した書き込みがおくられてくるのだが、去年の今頃は、宗教改革500周年という時期でもあったので、宗教改革の足跡をたどる旅を企画して20名弱の人を連れて(もちろん妻も)、ルターの足取りをたどる旅でドイツに行っていた。
ドイツは本当に良かった。食べ物はまずかったが、それを割り引いてもおつりがくるぐらい良かった。ルターの足跡をたどりながらいろいろと思い巡らすたびは、本当に有意義だった(このあたりの内容は雑誌『舟の右側』にかいてある)。また行きたいなー。ほんとまた行きたい。
先日教会のある方が、その年の宗教改革記念日の説教をもう一度聞きたいと言ってくださったので、いかにその時の説教原稿を載せることにする。
17年宗教改革記念主日聖餐式礼拝「神の義の発見」 2017.11.4
旧約書;詩篇71篇1-3節
福音書;マタイによる福音書6章
使徒書;ローマ人への手紙1章
愛する兄弟姉妹のみなさん。今日の礼拝は宗教改革記念礼拝です。今から500年前の1517年10月31日付けで、ドイツの戒律厳守派アウグスティヌス会隠修士黒修道院の修道士であり、当時まだ新設の大学であったウィッテンベルグ大学の旧約聖書の教授であったマルティン・ルターが「贖宥の効力に関する討論」という95ヶ条の提題を発表したことから、当時のキリスト教社会を揺るがす「宗教改革」という歴史的大事件が起こりました。
この歴史的大事件をきっかけにして、当時の西方ヨーロッパ世界全体に浸透していたカトリック教会教会と別れてプロテスタントとよばれる諸グループが起こってきたのです。そのようなわけで、いわゆるプロテスタントの教会の中で、多くの教団や教派で10月の最後の主日礼拝もしくは11月の第一主日を、宗教改革を記念する宗教改革記念礼拝を行ってきました。
もちろん、プロテスタントの教会だからと言って、もろ手を挙げて「宗教改革万歳」といって良いというと、必ずしもそうではありません。宗教改革にはさまざまな問題点もありますし、考え直さなければならない点も数多くある。また、その根幹を揺るがすような神学的理解における問題も挙げられています。
しかし、それでもなお、宗教改革には評価すべき点も多くあり、また大切にしなければならない点も多くあるのです。その中のひとつに、ルターにより「福音的義の発見」というものが挙げられます。
この「福音的義の発見」というのは、人が神の救いに与り、神の国に招き入れられるのは、人間が行った功徳、つまり善き業に対する神の報酬ではなく、神を信じ、神に寄り縋るものに対して、神が人の行いに寄らす、神の恵みによって与えてくださるというものです。つまり、人間の義なる行い、正しい行いといった人間の義が人間を義とするのではなく、神の恵みによって神の義が私たちに与えられることで、私たちが義と認められるのだということです。
このようなことは、こんにちのプロテスタントの教会では当たり前のように受け入れられている考えかたですが、ルターの時代は必ずしもそうではありませんでした。とりわけルターを取り囲んでいた環境では、人間は自分が死後、神の国に入るためには、、一生懸命努力して善い業を行い、自分が犯した罪の償いを神に対してしなければならないと考えられていました。そうやって神に対する罪の償いを一生懸命努力していたならば、その努力を見て神の憐れみが発動し、神にふさわしくない者も、神の国に入れてくださるのだと考えられていたのです。
ですから、ルターは善き業と言われるようなことは一生懸命頑張って行っていました。けれども、どれほど頑張っても、神に赦されている、神の国に受け入れられているという確信が持てなかったのです。むしろ、自分の様々な罪が思い出されて、その償っても償い切れない現実に押しつぶされそうになっていたのです。
ルターを評する人たちは、ルターの人間の罪深さに対する深い洞察をあげます。確かにその通りかもしれません。ルターほど人間は罪深い存在だと言うことを捕らえていた人はいないと言ってもよいでしょう。ルターが理解した罪深さは、人間が神に受け入れられたいと思って善い業をしたとしても、善い業をして受け入れたいと持っているその思いこそが、善い業をしている自分を正しいこと、義なることをしていると思っている自己義認の罪であり、それこそが人間の罪深さの表れなのだというのです。
このように言われてしまいますと、身も蓋もありません。神の前に正しいものでありたい、良いことを行いたいと言う思いまでもが罪となるならば、もはや人間は救いようがないのです。だからこそルターは、人間はどのようにしたら自分が救われていると言うことを知り、確信できるのかもしれません。ということがルターの問題意識となり、その問題意識の中で自分の救いの確信を探求していったのです。
そのような中でルターは、人間は人間の行いによって救われるのではない。ただ神の恵みと憐みによって救われるのだと言う結論に至ります。つまり、人間はどんなに頑張っても自分自身を自分自身で救うことなどできないのだから、恵みと憐みを与えてくださる神を信頼し、寄り縋り、自分自身を神にゆだねるしかないのです。
ルターはそれを医者と病人の関係に譬えて言います。つまり、病気の人が自分の病気を治そうと患者自身が頑張るのではなく、医者が必ず治してあげると言っているのだから、直すと言っている医者の自分自身を委ねなさいと言うようなものだというのです。つまり、自分で何とかしようとしていると、いろいろと心を煩わし気分も重くこことも暗くなるが、医者が「治す」と言っている言葉を信じて希望を持っていたならば心も明るくなって生きていけるだろう。それと同じだと言うわけです。
もちろん、人間、なかなかこのような境地に行けないわけで、ルターもこのように言えるまでには相当悩み苦しんだだろうと思います。このような悩みの苦しみの中で、光を見出す一つのきっかけとなったのが、先ほど司式の方に読んでいただいた詩篇71篇の1節から3節までです。その箇所をもう一度お読みします。
1.主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでください。2.あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。3.わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。
ルターは、この2節の「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」という言葉がひっかかった。あなたの義、この場合「あなた」というのは神のことですから、あなたの義とは神の義ということです。つまり、「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということは「神の義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということになります。この「神の義が私を救う」ということにルターは疑問を持ったのです。「それはいったいどういうことだろう」。
というのも、ルターの時代には、「神の義」というものは、人間が正しい行いをしているかどうかを図る尺度だと考えられていたからです。人間がどんなに正しいことを積み重ねてきていても神の前で、神の義という神の正しさと比べて測ってみたら人間の正しさなど取るに足らないものだ。だから神の義という基準にふさわしくなるように頑張らなければならないと教えられていたのです。つまり、ルターの時代、「神の義」は人間の行いを量り裁く基準だったのです。
その「神の義」が「人間を救うとはいったいどうゆうことなのか」ルターはいろいろと考えあぐねた末に至った結果が、「神の義は、私たちを裁くためあるのではなく、私たちに与えられるものだ。神は、どんなに頑張っても神の前に義となることができない私たちに対して、私たちが神に寄り縋るならば、ご自分の中にある義を神の恵みと憐みの心によってその神の義を与えてくださり、本当ならとうてい義人とはいえない私たちに神の義を与え神の子としてくださり、義人とみなしてくださるのだ」というものだったのです。
その時ルターは、先ほどお読みいただいたローマ人への手紙6章17節の「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」という言葉が、そのことを言っているのだと受け止めた。
神が、イエス・キリスト様をこの世に贈り、私たちの罪のために十字架につけて死なせてくださった。それが福音であり、その福音の中に、罪びとの私たちを義人とする神の義がある。だから、それを信頼して生きる者は、神の前に義人として生きることができるのだ」というのです。この箇所に対するルターの理解と福音理解は、今日、聖書の研究が進んでいる中で、神学的には問題を多く含んでいますが、しかし、神は恵み深い方であり、神は神に憐れみを求めるものを憐み慈しんでくださるお方であると言うところに思いがいたっていることにおいて十分に評価してよいと思います。
実際、イエス・キリスト様ご自身が、マタイによる福音書6章31節で「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」とおっしゃった後、33節で「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言っておられるのです。
この言葉をイエス・キリスト様が語られたのは、食べることや着ることと言った毎日の生活を心配し、思い煩っている人たちに対して、神に寄りすがり、神により頼んで生きるならば、神は憐み深いお方であるから、何も思い煩うことはない」ということを教え諭すためでした。だから、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言われたその言葉に続いて、だから、「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われるのです。
みなさん。確かに私たちの周りには、様々な心配事や悩み事があり、心を煩わさせます。その中には、心配し「どうしようか」と思い煩ってもどうしようもないことが多くあります。だからといって心配するなと言っても、それは無理な話かもしれません。しかし、少なくとも、神を信頼し、神により頼んで生きるならば、神は私たちを憐んで下さるお方なのです。それは、ルターが心を悩ませ苦しんだ「私たちの罪」の問題でも同じです。
私たちが犯した罪や過ちは、どんなほかの善い行いをもってしても償えるものではありません。しかし、その罪を含んで、悩み思い煩う私たちの存在そのものを神は救いとってくださるお方なのです。
イエス・キリスト様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て添えて与えられる」と言っておられます。「まず、神の国と神の義をもとめなさい」というのですから、最初に求めるのは「神の国と神の義」です。その「神の国」とは、神の憐れみと恵みが支配する世界です。どんなことがあっても、神は私たちを顧み、憐れみ、恵みをもって私たちを導いてくださる。それが神の国です。
それは、神を信じ、神を信頼する心を持つものに与えられる神の恵みです。そしてそのように神を信頼し神に寄りすがって来るものに、思い煩いから解放し、苦しみや悩みの中にあっても、希望と平安とを与えてくれる、それが神の義です、
これが与えられると、私たちが自分の力や頑張りでどうしようもない現実の中にあっても、希望を持ち、慰めと平安を得て生きていくことができるのです。ルターは、その神の義を、自分の罪からの救いという問題の中で見出したのです。
みなさん。私たちはさまざまなことで、心を痛め、心を悩ませ、心配し、不安を感じます。それは、ルターのように必ずしも自分の罪の問題ということ同じでなく、違っているかもしれません。ですから、神の義というものを単純に「罪の赦し」ということに特化して言うことはできないだろうと思います。神の義は、私たちの罪の問題も含め、私たち人間が、思い煩い苦しんでいる現状の中で、神により頼むものに希望と平安と慰めを与えてくれるものだからです。
そしてその神の義は、ただ神を信じ、神に寄るものに与えられる神の恵みの業なのです。あの500年前の宗教改革は、そのことが私たちの前に明らかにされていくための一つの神の業であったと言えます。だからこそみなさん、今、私たちは神を信じ、神を信頼し、神に寄り縋って生きることの大切さに目をとどめたいと思うのです。それは、私たちが生きる今という時代は、ルターの時代以上に悩みと苦しみが多い時代だからです。しかも、その悩みはとても深く、複雑だからです。そしてそのような時代だからこそ、より一層、神を信じ、神に信頼することで在られる希望と平安と慰めが必要なのではないでしょうか。
お祈りいたします。
2018年8月29日水曜日
支配の構造 ーガッツポーズを巡ってー
夏の高校野球も終わり、その余韻も少しづつ冷めて行っている。
最近は、高校野球も、プロ野球もみなくなったが、高校野球を巡る気になる記事がずっと心に引っかかっている。
それは、甲子園で創志学園学園のピッチャーが、投球の際にガッツポーズをするのを審判から咎められ、それによって投球のリズムを壊してしまったのではないかという記事である。その記事によると、過度のガッツポーズは相手に対する礼を失するので、暗黙の了解としてあるということらしい。
相手に対して礼を失する行為を禁じるというのは、私が経験した剣道にもある。それは審判規定にも謳われており、一本を取った際にガッツポーズをすれば、過度であろうとなかろうとその一本が取り消されるということもある。そのようなことは実例としてある。
高校野球と違うのは、暗黙の了解ではなく、審判規定、いわゆるルールブックに明記されているという点と、過度であるかないかに関わらず、礼を失する行為が行われれば、一本は取り消されるというのだ。
高校野球を見ている限り、ガッツポーズ自体が相手に礼を失する行為に当たるかどうかはについては熟慮が必要だ。そして声をあげて雄たけびを上げる行為も相手に礼を失する行為と言えるかどうか疑わしい。なぜなら、打者がホームランを打った、あるいはタイムリーヒットを打った跡などに、しばしばガッツポーズをするのを目にするからだ。打者には許されて投手には許されないとするならば公平性を欠く。
けれども、打者を咎める審判を見たことがない。いや一度だけあった。水分と昔、ホームランを打って大喜びしてベースを回っている選手が咎められホームランを取り消された打者がいた。しかし、それ以後はずっと見ていない。
また、サヨナラゲームでホームに帰ってきた選手が雄たけびを上げ、ベンチから選手が飛び出してきて大喜びしているシーンは、甲子園でしばしばみられるし、優勝したときなどは、みんな抱き合って喜んでいる。あれは負けたチームに対して礼を失していないのだろうか。
私はガッツポーズの善し悪しを問題にしてるのではない。問題は暗黙の了解とか、あいまいな部分をもったまま、すなわち自由裁量の部分を持たせたままで絶対的権威を持つ審判に与えていることなのだ。このようなあいまいな裁量権をもったままで、権威を持つ存在がその権威をもってその裁量権を振るう時、そこには一種の支配の構造が生まれる。そのことが問題なのだ。
あいまいなもの、暗黙の了解というものは、権威を持つものが誤った時、その権威を是正をすることができない。だから、その権威を持つものに問題を感じても、それを糾弾し是正するすべはないのだ。そしてそこに起こるのは、抗うことの出来ない権威や権力を持った者の支配の構造である。
今回の創志学園の投手のガッツポーズの問題も、「暗黙の了解」と「過度な」いうあいまいさの中で解決されるのだろう。そこには、高校野球を支配する者の支配の構造がある。
最近は、高校野球も、プロ野球もみなくなったが、高校野球を巡る気になる記事がずっと心に引っかかっている。
それは、甲子園で創志学園学園のピッチャーが、投球の際にガッツポーズをするのを審判から咎められ、それによって投球のリズムを壊してしまったのではないかという記事である。その記事によると、過度のガッツポーズは相手に対する礼を失するので、暗黙の了解としてあるということらしい。
相手に対して礼を失する行為を禁じるというのは、私が経験した剣道にもある。それは審判規定にも謳われており、一本を取った際にガッツポーズをすれば、過度であろうとなかろうとその一本が取り消されるということもある。そのようなことは実例としてある。
高校野球と違うのは、暗黙の了解ではなく、審判規定、いわゆるルールブックに明記されているという点と、過度であるかないかに関わらず、礼を失する行為が行われれば、一本は取り消されるというのだ。
高校野球を見ている限り、ガッツポーズ自体が相手に礼を失する行為に当たるかどうかはについては熟慮が必要だ。そして声をあげて雄たけびを上げる行為も相手に礼を失する行為と言えるかどうか疑わしい。なぜなら、打者がホームランを打った、あるいはタイムリーヒットを打った跡などに、しばしばガッツポーズをするのを目にするからだ。打者には許されて投手には許されないとするならば公平性を欠く。
けれども、打者を咎める審判を見たことがない。いや一度だけあった。水分と昔、ホームランを打って大喜びしてベースを回っている選手が咎められホームランを取り消された打者がいた。しかし、それ以後はずっと見ていない。
また、サヨナラゲームでホームに帰ってきた選手が雄たけびを上げ、ベンチから選手が飛び出してきて大喜びしているシーンは、甲子園でしばしばみられるし、優勝したときなどは、みんな抱き合って喜んでいる。あれは負けたチームに対して礼を失していないのだろうか。
私はガッツポーズの善し悪しを問題にしてるのではない。問題は暗黙の了解とか、あいまいな部分をもったまま、すなわち自由裁量の部分を持たせたままで絶対的権威を持つ審判に与えていることなのだ。このようなあいまいな裁量権をもったままで、権威を持つ存在がその権威をもってその裁量権を振るう時、そこには一種の支配の構造が生まれる。そのことが問題なのだ。
あいまいなもの、暗黙の了解というものは、権威を持つものが誤った時、その権威を是正をすることができない。だから、その権威を持つものに問題を感じても、それを糾弾し是正するすべはないのだ。そしてそこに起こるのは、抗うことの出来ない権威や権力を持った者の支配の構造である。
今回の創志学園の投手のガッツポーズの問題も、「暗黙の了解」と「過度な」いうあいまいさの中で解決されるのだろう。そこには、高校野球を支配する者の支配の構造がある。
2018年8月6日月曜日
73回目の広島原爆記念日
今日は、73回目の広島原爆記念日。
73年前の今日、広島に原子爆弾が投下され、多くの人の命が奪われた。
戦争においては、多くの人の命が奪われ、悲しい出来事が繰り返し行われている。
そのような悲惨な出来事に巻き込まれて奪われる命に優劣はなく、いずれの死も傷ましい出来事である。
しかし、それでもなお原爆投下と言う出来事は、決して忘れてはならない出来事としてこうして毎年繰り返しこの日を記念し、その悲劇を語り継がれている。それは、73年の今日、広島で起こった出来事がいかに悲惨で、非人道的であったかということであろう。そして、この日は、戦争と言うもっとも愚かで悲惨な結果をうみだした出来事の頂点にある人間の愚かな行為の象徴でもあるのだ。
しかし、ここで一般論的なことを言おうと言うのではない。一人のキリスト者としてこの問題について切り込んでみたいのだ。というのも、この時期にアメリカでは原爆投下の是非を問うアンケートがなされるが、半数近い人が、是とし肯定する考えを持っているからだ。いったいこれはどういうことなのか。
私はキリスト教の信者であり、キリスト教の牧師である。福音派と呼ばれるアメリカでの大多数のキリスト者が属するグループに身を置いている。だからこそ、この結果に驚きと悲しみを禁じ得ない。
原爆を投下していい理由などどこにもない。それをあるというのは、いじめにおいて、いじめた側がいじめられた人間にも問題があると言っているに等しい。それでもなお、あの広島における原爆投下が正しいと主張するすれば、それはアメリカ人であるということの誇りを守ろうとする自己義認であり、自己正当化ではないのか。自己義認と自己正当化は、宗教改革の際にルターが人間の罪の根源として指摘したものである。だとすれば、原爆投下を正当化するキリスト者が、その罪に陥っているということにはならないのあろうか。
もちろん、原爆が投下されたという歴史的出来事をもって、アメリカ人が悪いとっているのではないしアメリカという国家が悪いと言っているのではない。その責任をとれとアメリカ人や、アメリカと言う国に要求するのでもない。むしろ大切なのは、原爆投下という悲惨な攻撃を行おうと意思決定したプロセスとその動機を明らかにし、その問題点を明らかにして、同様の悲劇を繰り返さないことである。
原爆という歴史的出来事は、単に投下されたと言うことだけが歴史的事実ではない。それを投下すると言う決断がなされ実行される過程の中で、誰が、何のために、その決断をしたのかと言うことまでも含んで歴史的出来事なのである。それを歴史学的な方法論に基づきながらつまびらかに明らかにしていくことで、原爆投下という出来事が、初めて正しく評価され、責任が明らかになるのであって、民族感情やナショナリズムよって評価され、正当化されるべきではない。ましてや、その評価や正当化が自己義認や自己正当化から出ているとしたら、キリスト者としては、あってはななないことではないのか。しかし、悲しいことだが、アメリカの福音派の中から、そのような声がほとんど聞こえて来ない。
罪を悔い、それを改め、神の前に真摯に生きて行こうとするのがキリスト者の生である。それは日本のキリスト者にもアメリカのキリスト者にも言えることである。そのように罪を悔い、それを改め、神の前に真摯に生きて行こうとするためには、原爆と言う出来事の真実を明らかされなければならない。それがあって、はじめて神の前に真摯に生きられるのではないだろうか。
戦争は様々な悲劇を生み出した。そこにおいて、私たちは人間の持つ愚かさを露見させた。だからこ、その悲劇を民族環境やナショナリズムによって捉えるのではなく、神の前に立つ一人のキリスト者として捉え見る必要がある。
73年前の今日、広島に原子爆弾が投下され、多くの人の命が奪われた。
戦争においては、多くの人の命が奪われ、悲しい出来事が繰り返し行われている。
そのような悲惨な出来事に巻き込まれて奪われる命に優劣はなく、いずれの死も傷ましい出来事である。
しかし、それでもなお原爆投下と言う出来事は、決して忘れてはならない出来事としてこうして毎年繰り返しこの日を記念し、その悲劇を語り継がれている。それは、73年の今日、広島で起こった出来事がいかに悲惨で、非人道的であったかということであろう。そして、この日は、戦争と言うもっとも愚かで悲惨な結果をうみだした出来事の頂点にある人間の愚かな行為の象徴でもあるのだ。
しかし、ここで一般論的なことを言おうと言うのではない。一人のキリスト者としてこの問題について切り込んでみたいのだ。というのも、この時期にアメリカでは原爆投下の是非を問うアンケートがなされるが、半数近い人が、是とし肯定する考えを持っているからだ。いったいこれはどういうことなのか。
私はキリスト教の信者であり、キリスト教の牧師である。福音派と呼ばれるアメリカでの大多数のキリスト者が属するグループに身を置いている。だからこそ、この結果に驚きと悲しみを禁じ得ない。
原爆を投下していい理由などどこにもない。それをあるというのは、いじめにおいて、いじめた側がいじめられた人間にも問題があると言っているに等しい。それでもなお、あの広島における原爆投下が正しいと主張するすれば、それはアメリカ人であるということの誇りを守ろうとする自己義認であり、自己正当化ではないのか。自己義認と自己正当化は、宗教改革の際にルターが人間の罪の根源として指摘したものである。だとすれば、原爆投下を正当化するキリスト者が、その罪に陥っているということにはならないのあろうか。
もちろん、原爆が投下されたという歴史的出来事をもって、アメリカ人が悪いとっているのではないしアメリカという国家が悪いと言っているのではない。その責任をとれとアメリカ人や、アメリカと言う国に要求するのでもない。むしろ大切なのは、原爆投下という悲惨な攻撃を行おうと意思決定したプロセスとその動機を明らかにし、その問題点を明らかにして、同様の悲劇を繰り返さないことである。
原爆という歴史的出来事は、単に投下されたと言うことだけが歴史的事実ではない。それを投下すると言う決断がなされ実行される過程の中で、誰が、何のために、その決断をしたのかと言うことまでも含んで歴史的出来事なのである。それを歴史学的な方法論に基づきながらつまびらかに明らかにしていくことで、原爆投下という出来事が、初めて正しく評価され、責任が明らかになるのであって、民族感情やナショナリズムよって評価され、正当化されるべきではない。ましてや、その評価や正当化が自己義認や自己正当化から出ているとしたら、キリスト者としては、あってはななないことではないのか。しかし、悲しいことだが、アメリカの福音派の中から、そのような声がほとんど聞こえて来ない。
罪を悔い、それを改め、神の前に真摯に生きて行こうとするのがキリスト者の生である。それは日本のキリスト者にもアメリカのキリスト者にも言えることである。そのように罪を悔い、それを改め、神の前に真摯に生きて行こうとするためには、原爆と言う出来事の真実を明らかされなければならない。それがあって、はじめて神の前に真摯に生きられるのではないだろうか。
戦争は様々な悲劇を生み出した。そこにおいて、私たちは人間の持つ愚かさを露見させた。だからこ、その悲劇を民族環境やナショナリズムによって捉えるのではなく、神の前に立つ一人のキリスト者として捉え見る必要がある。
2018年7月22日日曜日
'18年7月第4主日礼拝説教「十字架の意味」
2018.7.22
使徒書:へブル人への手紙10章8節~18節(新約聖書p.353)
旧約書:レビ記16章6~10節(旧約聖書p.158-159)
福音書:ルカによる福音書23章44節~49節(新約聖書p.132)使徒書:へブル人への手紙10章8節~18節(新約聖書p.353)
さて、今日の説教の中心となる聖書個所はルカによる福音書23章44節から49節です。この箇所は、十字架に架けられたイエス・キリスト様の最後、断末魔の瞬間を描いている場所です。
イエス・キリスト様が十字架に磔られたのは、昼の12時ごろでした。するとあたりはだんだんと暗くなってきた。太陽が光を失ったからです。そしてあたりは真っ暗になりました。このような太陽が光を失うと言う現象は、日食に見られる現象です。ですから、このとき日食が起こったのではないかと思われる方もおられるかもしれません。
しかし、イエス・キリスト様が十字架に磔られたのは過ぎ越しの祭りの時です。特に過ぎ越しの食事をした直後ですので、ユダヤの暦で言えばニサンの月の15日で満月の日です。日食は新月の時に起こるもので満月の時には起こりませんから、イエス・キリスト様の十字架の場面で太陽が光を失いあたりが真っ暗になったと言う現象は、日食と言う自然現象によるもの考えられません。とすれば、この太陽が光を失いあたりが真っ暗になる現象がここで起こったのには、何らかの神学的・信仰的意味があります。では、いったいどのような意味が考えられるでしょうか。
みなさん、マラキ書の4章1節、2節(新共同訳では3章18節、20節)には、次のような言葉があります。
1:万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。 2:しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。
このマラキ書4章1節、2節はキリストに対する預言として受け止められてきた箇所ですが、そこではイエス・キリスト様を「義の太陽」と言うふうに形容しています。このことは、ローマ帝国が冬至の祭りにおいて、一年で最も日が短くなる冬至を境にしてそこからだんだんと日が長くなっていく様子を太陽の死から復活として捉え、不滅の太陽を神として崇める祝いをしていたことに対抗して、教会は真の神であり「義の太陽」であるイエス・キリストの誕生を、この冬至の祭りに祝ったと言う出来事がクリスマスが12月25日となった謂れであると言われています。
そのように、教会はイエス・キリスト様を「義の太陽」だと考えていたのです。だとすれば、その太陽が光を失うということは、まさにイエス・キリスト様の死を象徴的に示している現象であったと言えます。まさに義の太陽であるイエス・キリスト様が死なれ、光を失う。そのとき、地上は真っ暗闇になってしまう。罪と死が我々を覆う暗闇の世界となってしまうのです。ところが、聖書はその時にもう一つの不思議な現象が起こったということを書き記しています。45節に記されている聖所の幕が真ん中から裂けたと言う出来事です。真っ暗な闇の世界、その闇の世界の中で神殿の聖所の幕が真ん中から裂けた。この時に裂けた幕は、聖所と至聖所と隔てるための幕であっただろうと思われます。
みなさん、至聖所と言う場所は神殿の中で、いえ神の民イスラエルの国においてもっとも神聖な場所です。そこには契約の箱が置かれ、神の臨在なされるのです。もっとも、この契約の箱はバビロン捕囚後、失われてしまっていますので、イエス・キリスト様の時代は至聖所には何もなかったと思われます。しかし、それでも、至聖所は神が臨在なさる聖なる場所なのです。ですから、この隔ての幕で至聖所は外界と遮断され、特別に聖別された場所となりました。そして、そこには、年に一回、贖罪の日に大祭司ただ一人しか入ることができないのです。その至聖所と聖所を隔てる幕が真っ二つに裂けたのです。
この隔ての幕が二つに裂けた。それは、神と人との間にあった隔てが取り除か、神と人との間が繋がれ結ばれたと言うことでもあります。イエス・キリスト様の死によって再び罪と死が我々を暗闇で覆いつくしてしまうと思われるその時に、その暗闇を引き裂くように神と人との間の隔てが取り除かれ、神と人とが結ばれる。それこそがイエス・キリスト様の十字架の意味であると言っても良いだろうと思います。それは、神殿の幕が真っ二つの裂かれたその時、イエス・キリスト様が声高く「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫んで死なれたと言う出来事と深く結びつきます。
十字架に架けられて、今まさに死なんとするその時に、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫ぶイエス・キリスト様のその言葉。それは、パウロがピリピ人への手紙3章8節で「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」と言った、まさに神に従い抜いたお方の言葉です。
そしてこの徹底して神に従い抜いて生きるその生き方が、罪と死とが支配する闇のような世界を切り裂き、神と人との間に新しい契約をもたらしたのです。そう、イエス・キリスト様は、罪と死の支配に対して完全な勝利したお方であり、そのお方の十字架の死は、私たち人間を罪と死の支配から解放するものだったのです。だからこそ、この様子を見た百卒長は「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言うのです。
この百卒長の言葉は、マルコによる福音書(15:39)にもマタイによる福音書(27:54)にも類似する表現が見られる言葉です。たとえば、マルコによる福音書には何の注釈もなくただ百卒長がイエス・キリスト様の十字架の出来事を見て、「まことにこの人は神の子であった」と言っています。それに対して、マタイによる福音書では、神殿の幕屋が二つに裂けたとき、地震があり、岩が裂け、墓が開き眠っていた聖徒たちの多くが生き返ったと言うことを記し、その上でこれらのことをみた百卒長が非常に恐れて「まことのこの人は神の子であった」と言う。
そして、ルカによる福音書では、イエス・キリスト様の十字架の死の際に、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言うイエス・キリスト様の言葉を聞き、太陽が光を失い全知が暗くなり、神殿の幕が裂け、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫ぶイエス・キリスト様のその言葉を聞いた百卒長が、神を崇め(新改訳2017:神をほめたたえ)ながら「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言っているのです。
ここには微妙な違いがあります。すなわち、マルコは何も注釈をつけずに百卒長の言葉を記しているのに対し、マタイはその言葉が百卒長の恐れから出たものであると注釈をつけて言い、ルカは「神を崇め、ほめたたえる思いから」言ったのだと言う違いがある。
一般に、福音書は最初にマルコの福音書が書かれたであろうと言われています。そして、それはおそらく間違っていないでしょう。そして、マタイによる福音書もルカによる福音書もマルコによる福音書を参考にして書かれていると考えられます。つまり、マタイでは、百卒長が恐れから「まことにこの人は神の子であった」と言う言葉も、ルカの神を崇め(ほめたたえ)ながら「ほんとうに、この人は正しい人であった」の間にある「恐れ」と「神を崇め、ほめたたえる」という思いとの間にある微妙な違いは、百卒長の言葉をどう受け止めたのかというマタイとルカの解釈の違いだと思われます。
ひょっとしたら、マタイは地震や岩が裂けると言った事情の背後に、神の子を十字架に磔にする人の罪に対する神の裁きを下す神の怒りを感じたのかもしれません。あるいは、神の子の死に対する神の深い慟哭を感じたのかもしれない。だからこそマタイは、百卒長の言葉はは「非常な恐れの中で語られたと思ったのではないでしょうか。
それに対してルカは、イエス・キリスト様の「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言う言葉や、イエス・キリスト様と共に十字架に架けられている囚人のひとりに架けた「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言う言葉、そして「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」という一連の言葉の背後 に、高潔で愛に満ちたイエス・キリスト様の姿を見ている。それこそ、死の間際であっても、決して人を呪ったり、恨んだりしないイエス・キリスト様の姿に、徹底して罪に打ち勝つ姿を見ていたのかもしれません。だから、真っ暗闇の中で、聖所と至聖所を隔てる神殿の幕が裂けたと言う出来事に、イエス・キリストの罪と死に対する勝利を感じたのでしょう。それゆえに百卒長の「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言う言葉は、神を崇め、ほめたたえる言葉として受け止められている。
みなさん、このイエス・キリスト様の十字架の死が、罪と死の勝利であったということは、古代教会からキリスト教にあった十字架理解です。そのように、イエス・キリスト様の十字架は罪と死の支配、そしてその背後にある悪魔に対する完全な勝利である。だからこそ、イエス・キリスト様の十字架は誉むべき、誇らしい事柄であり、たたえるべきものなのです。
しかし、それは同時に私たちの胸を叩く事柄でもある。48節です。そこにはこうあります。「この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った」。
この胸を叩くと言う行為は、二つの状況を思い浮かべさせます。一つは、悲しみのあまり胸を叩くと言うことです。ですから新改訳2017版などは、悲しみのあまり胸を叩きながら帰って行ったと訳している。そしてもう一つは自分の罪を悔やむ姿が胸を打つと言う行為に著されている場合です(ref実用聖書注解;熊谷徹)。たとえば、ペテロによる福音書という聖書にはならなかった外典福音書と呼ばれるものがあります。そのペテロによる福音書の7章25節には、この時のことを次のように記しています。
その時、ユダヤ人たちと長老や祭司たちは、自分たちがどんなに悪いことをしたかを悟って嘆き始め、「われらの罪にわざわいあれ、エルサレムのさばきと終わりは近い」と言い出した(ref新聖書注解p421)。
また、ルカによる福音書18章13節には、神殿で、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と祈る取税人の姿が記されていますが、そこには胸を打つと言う行為が,深く罪を悔いる思いから出る行為として記されています。
では、ここではどのようにこの「胸を打ちながら帰って行った」と言う行為をどちらの意味で理解すればいいのでしょうか。みなさんはどう思われますか。私はおそらく、罪を悔いながらと理解すべきではないかと思います。というのも、この胸を打ちながら帰っていった人々は、イエス・キリスト様を十字架に付けると叫んだ群衆だからです。
仮にこれが、イエス・キリスト様についてきていた人々ならば悲しみで胸を叩くと言うことは理解できます。しかし、そのような人々は49節に「すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた」とありますので、この胸を打ちながら帰っていった人々にこの人たちは含まれていません。だとすれば、この胸を打ちながら帰っていった人々は、イエス・キリスト様を「十字架に付けろ」と叫んだ群衆だと考えるのが妥当であるように思われるのです。
イエス・キリスト様を「十字架に付けろと叫んだ群衆」の多くは、律法学者や祭司長と言った人たちに扇動されてイエス・キリスト様を十字架に付けるように要求した人々です。彼らは、おそらくあの百卒長と同じようにイエス・キリスト様の十字架の死のありさまを見て、「この方は、正しい方であり、神の子である」と理解したのでしょう。その「正しい人」、また「神の子」に対して、自分たちを「十字架に付けろ」とピラトに迫り、その結果その「正しい人であり神の子」が十字架で苦しみ死んでしまった。このことが、罪の痛みとなり、そのことを激しく悔やんで胸打ちながら帰っていたとこの箇所を読み解く方が妥当であるように思われるのです。
そして、この福音書の著者であるルカも、そのように罪を悔やみ胸を打つ人の姿を描きつつ、自分の罪に気づき、その罪を悔いることの大切さを示そうとしているように私には思えて仕方がないのです。というのも、先ほど申しましたように、イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちを縛り付け支配して神に背かせる罪と死の支配に対する勝利であり、私たちをその罪と死の支配から贖い出し、解放するものだからです。
先ほど私たちは旧約聖書レビ記16章6節から19節の言葉に耳を傾けました。本当は、16章全体をおよみしたかったのですが、長くなりますのでその中の一部分だけを司式の兄弟に読んでいただきました。このレビ記16章は、神がイスラエルの民に定めた「贖罪の日」と訳されるヨム・キップールについて書かれている部分です。この「贖罪の日」というのは、神が年に一度、イスラエルの民が犯した罪を贖い、罪や汚れからきよめてくださる日です。
この日、それこそ大祭司がただ一人で、犠牲とされ山羊と雄牛の血をもって至聖所に入り祭壇にその血を捧げ、イスラエルの民の罪を贖いました。また二頭の山羊のうち一匹をくじで選び、その山羊の頭の上にイスラエルの民の罪を告白し、この山羊をアザゼルのための山羊として荒野に放ち、二度と帰ってこないようにしたのです。
アザゼルというのは、山羊を意味するアズ(עַז)と立ち去ると言う意味のアーザル(אָזַל)と言う言葉の複合語であるとか、アザゼルと言う荒野に住む悪霊とだとも言われたりしますが、いずれにせよアザゼルの民は,]要は、イスラエルの民の罪をイスラルの民から追放して民を聖めるということを象徴的に示したものです。
そして新約聖書のへブル人への手紙は、その贖罪の日の犠牲はイエス・キリスト様の十字架の雛型だと言うのです。雛型とは、平たく言えば模型です。実際の実物がありそれをまねて作ったのが模型です。私も小さい頃はよき模型を作りましたが、その多くは車や飛行機や戦艦でした。たとえば、飛行機ならばゼロ戦の模型を作ったりしました。このゼロ戦の模型は、実際のゼロ戦の実物を模して作ったものです。
それと同じように、罪の贖いのための実体としてイエス・キリスト様の十字架がある。そして、贖罪の日で犠牲になる動物はその雛型、模型のようなものです。だから、完全な実物はイエス・キリスト様の十字架です。ですから実際のイエス・キリスト様の十字架の死は罪を贖うものとして完全なものです。完全なものだからこそ、ただ一度、イエス・キリスト様のからだがささげられることで、毎年、動物を犠牲としてささげることで罪を贖い、きよめていた雛型としての業を廃止し、イエス・キリスト様につながるものは完全にきよい者とされるのだとへブル書は言うのです。
それは、そのただ一度のイエス・キリスト様の死が、完全に神に従順に従うものであり、それによって新しい契約が神と人の間に結ばれ、人が罪と死の支配から贖われたからです。
みなさん、「罪を贖い」と言うことは、「罪を償う」と言うことではありません。日本語の辞書で見れば、償いも贖いも同じような意味で受け取られていますが、聖書が言う「贖い」は必ずしも「償い」と同義語ではありません。「償う」ということは、自分自身の過ちのゆえに相手に損害を与えたので、その損害を補填するために行う行為です。それにたいして贖うとは自分自身の過ちのゆえに自分が持っていた権利や立場を失うことです。その自分自身の失われた権利が回復されることが「贖い」ということなのです。
ですから、イエス・キリスト様が十字架の死で私たちを贖ってくださったということは、神によって創造された私たちを神の民として回復し、神の聖なる民、神の子としての権利を回復してくださったということなのです。だから、ただ一度だけでいい。そしてだからこそ、私たちは自分の罪を悔い、神に目を向け、神に立ち帰りることが大切なのです。そして、罪と死が支配する世界ではなく、罪と死が支配する闇の世界を打ち破って打ち建てられた神の恵みが支配する神の国、その神の国が今の私たちの住む「この世」と言う世界のおいて現れ出ているキリストのからだなる教会、その教会の神の民の交わりの中に留まり続けることが大切なのです。
ですから、イエス・キリスト様が十字架の死で私たちを贖ってくださったということは、神によって創造された私たちを神の民として回復し、神の聖なる民、神の子としての権利を回復してくださったということなのです。だから、ただ一度だけでいい。そしてだからこそ、私たちは自分の罪を悔い、神に目を向け、神に立ち帰りることが大切なのです。そして、罪と死が支配する世界ではなく、罪と死が支配する闇の世界を打ち破って打ち建てられた神の恵みが支配する神の国、その神の国が今の私たちの住む「この世」と言う世界のおいて現れ出ているキリストのからだなる教会、その教会の神の民の交わりの中に留まり続けることが大切なのです。
たしかに、イエス・キリスト様を「十字架につけろ」た叫んだ群衆は、過ちを犯しました。しかし、彼らのためにもイエス・キリスト様の贖いの業は開かれているのです。イエス・キリスト様の救いの業は完全な救いだからです。「贖罪の日」は、私たちにそのことを教えている。だからこそ、私たちも神に目を向け、イエス・キリスト様を私たちの主であり王として信じ、このお方と繋がりながら生きて行くことが何よりも大切で重要なことなのです。
お祈りしましょう
2018年7月20日金曜日
‘18年7月第3主日礼拝説教「苦しみの中で寄りすがる信仰」
‘18年7月第3主日礼拝説教「苦しみの中で寄りすがる」 2018.7.15
旧約書;創世記15章1-6節
福音書;ルカによる福音書23章38-43節
使徒書;ローマ人への手紙8章18-25節
さて、2012年の1月28日から始まったルカによる福音書の連続説教も、6年かかっていよいよ十字架と復活というクライマックスの記事にかかってまいりました。今日は、その中で、イエス・キリスト様と共に十字架に付けられた二人の犯罪人の記事です。聖書個所はルカによる福音書23章39節から43節です。
イエス・キリスト様が十字架に磔られた時、二人の犯罪人も一緒に十字架刑にあっていました。ルカによる福音書23章33節を見ますと、この二人の犯罪人はイエス・キリスト様を挟むようにして右側と左側に磔られたことがわかります。このとき、この二人の犯罪人がイエスキリスト様を挟んで向き合うように右側と左側に磔られたのか、あるいはイエス・キリスト様と横並びになって横一線に磔られたのかは分かりません。しかし、いずれにせよ、イエス・キリスト様を中止にして3本の十字架がゴルゴダの丘に立てられたのです。
このときイエス・キリスト様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪がどのようなことをしでかしたについては、ルカは明らかにしていませんが、マタイによる福音書の27章38節や44節、マルコによる福音書15章27節では、この二人は強盗となっています。もっとも、この強盗と訳されている言葉は、強盗と訳す以外にも、略奪者や強奪者とも訳せますし、革命家というふうに訳すことも可能な言葉であって、実際にどう訳すかは定かではありません。
しかし、十字架刑というのは、一般にローマ帝国に反逆する政治犯に対して課せられる刑罰です。実際、一緒に受持化に磔られているイエス・キリスト様の頭の上には「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。それは、ユダヤ人の王としてローマに反逆をした人間であるとして十字架に架けられているのです。そして、イエス・キリスト様と共に十字架に架けられている犯罪人の一人が、40節で「お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言っていますことを考えると、彼らは、今日でいうローマ帝国に反逆するの政治犯ですが、いわゆるテロリストとして暴動をおこし、その暴動の際に略奪をするような者たちだったのかもしれません。
もっとも、この「お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言う言葉も、「お前も(イエス・キリスト様と)同じ刑罰を受けているのではないか」ということなのか、「お前も私も同じ刑罰を受けているのではないか」ということなのか、ここのところも定かではありませんので、
しかし、このルカによる福音書は、その冒頭にローマの高官であるテオピロ宛てに書かれたものであると記されています。つまり、ローマ人たちがこの手紙の主たる読者として考えられているのです。そのルカによる福音書が、あえてただ犯罪者としてだけ書き記しるしているのは、読者であるローマ人たちに、ローマに反逆した政治犯が十字架に架けられていると言う印象を強く与えたかったのかもしれません。いずれにせよ、二人の犯罪者がイエス・キリスト様と共に、十字架に架けられたのです。
そのとき、この二人の犯罪者のひとりが、イエス・キリスト様に「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と声をかけます。この言葉は、一見しますと、同じルカによる福音書23章35節でイエス・キリスト様を陥れ十字架に架けたユダヤ人の指導者たちが言った「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」という言葉や、ローマの兵士たちが言った「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」という嘲笑の言葉と同じように見えます。
しかし、先ほど申し上げましたように、このイエス・キリスト様と一緒に十字架に磔られた二人の犯罪人は、単なる強盗というのではなく、ローマに反逆し、ユダヤの民をローマから解放しようとした政治犯の可能性が十分に考えられる人たちです。その人が「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉は、あのユダヤ人指導者たちやローマの兵士たちの嘲笑の言葉とは本質に違います。
それは、今、自分の命が失われ、自分が目指してイスラエルの国をローマ帝国の支配から解放しようとする夢が潰えようとする絶望の最中(さなか)から、絞り出す「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉だからです。
みなさん、ここまで私は、キリストという言葉の意味は「油注がれた王」という意味であると申し上げてきました。ですから、ここで「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」といってイエス・キリスト様をののしる犯罪人の言葉は、「お前は神から油注がれた王であるのならば、自分とおれたちの命を救い、共にローマと戦い、ローマ帝国を打ち破ってユダヤの民をローマ帝国から解放すればよいではないか。なぜそれをしないのか。」というそんな絶望的な響きを持つ叫びのように私には聞こえてくるのです。
そして、その叫びは、イエス・キリスト様の力を借りてではありますが、しかし自分自身の崇高な目的を自分自身で成し遂げる夢をあきらめきれない人の叫びのように私は思えるのです。だから「自分とおれたちを救え」と言う。そして、それをなされないユダヤの王に絶望しののしっている。自分自身にはあきらめきれず、イエス・キリスト様には絶望している、そんな人の姿がそこにあるように私にはそのように思えるのですが、みなさんはどう思われるでしょうか…。
このとき、この「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」とののしる犯罪人と一緒に十字架に付けられていたもう一人の犯罪人が口を開きます。それは「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉を諫め、たしなめます。そして次五のように言うのです。
おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない
この二人の犯罪者はイエス・キリスト様と同じようにローマ抵抗に対する反逆者として十字架刑を受けている。でも、この二人はイエス・キリスト様とは決定的に違うのです。彼は「お互いは自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言います。つまり、自分たちのしてきたことをちゃんとわかっている。その上で、「しかし、このかた(つまりイエス・キリスト様)は何も悪いことをしたのではない」と言っているのです。それは、自分たちがしてきたことがたとえローマに反逆して行ったことであっても、それは悪いことであったと言うことをちゃんと理解していると言うことなのです。
確かに、彼らの目指してきたものはユダヤの民をローマ帝国の支配から解放すると言う崇高な目的だったかもしれません。しかし、その目的を自分たちが達成するために悪いことをしてきた。目的が達成されれば、その手段において悪を行ってもよいわけではありません。目的が正しく崇高なものであればあるほど、それを達成する手段も正しく崇高な者でなければなりません。結果オーライではないのです。
この犯罪人は、イエス・キリスト様と同じように十字架刑に処され、十字架の上にあげられ、そしてイエス・キリスト様を目の前に見ながらそのことに気づいたのかもしれません。そして、おそらくは自分たちの行い振り返りつつ発せられた言葉が42節の「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉です。
この「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉は、最近出されました新改訳2017聖書では「あなたが御国に入られるとき私を思い出してください」となっています。これは現存する写本の間にある違いによるものですが、いずれにせよ、イエス・キリスト様によって神の国が完全に完成する時を指し示していると考えてもよいでしょう。その時に、「私を思い出してください」と言うのです。
この「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉には、この地上での命に対するある種のあきらめがあります。それは、40節の「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言う言葉にもにじみ出ているものです。そういった意味では、この犯罪者も絶望の中にいるのです。しかし、この犯罪者はもう一人の犯罪者のようにイエス・キリスト様をののしることはしていません。
むしろ、絶望の中でイエス・キリスト様の中に希望を見ています。それがと言うあきらめと絶望の言葉の背後に隠れている。というのも、この男は、神の国がイエス・キリスト様によって打ち建てられると期待しているのです。
たしかに、この二人の犯罪者はローマ帝国に反逆し、ユダヤの人々をローマ帝国から解放し、イスラエルの国を再興しようとしていた。そのために、おそらく暴動を起こしたりテロ行為のようなこともしていたのでしょう。だからローマ帝国によって捉えられ十字架に架けられてしまった。でも、十字架の上で死のうとしている自分は、もはや自分の目でイスラエルの国がローマ帝国から解放されイスラエルの国が再興すると言うことを見ることも、それに参加することもできない。
しかし、神の御国はイエス・キリスト様によって実現するのです。この犯罪者には、その神の御国がどのような形でもたらされかは分からなかったでしょう。しかし、自分がそれを見ることも、またもたらすこともできないけれども、神がお遣わしになった油注がれた王ならばそれができる。そのような期待と希望が、あの絶望とあきらめの言葉の背後にある。
それは、今、死なんとする自分自身に目を向けるならば、そこにはあきらめや絶望しかありません。だから、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う。そうですみなさん、この犯罪者は「私を思い出してください」と言うのです。決して、「私も一緒に神の御国に入れてください」とは言っていない。ただ「思い出してください」とだけ言う。
死にゆく自分に対してはあきらめつつも、キリストに対して目を向けるならば、そこには希望があり、そして期待するのです。だから、イエス・キリスト様が御国に入る時には、手段は誤まり、間違った悪い方法ではあったかもしれないけれども、イスラエルの民が解放され救われることを願っていたものがいたことを思い出してほしい。そんな思いが、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉の背後にあるように、私には思えるのです。そして、それはもう一人の自分自身に対してはあきらめきれず、イエス・キリスト様に対しては絶望しているもう一人の犯罪人とは真逆な人の姿がある。
その人に、イエス・キリスト様は「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われるのです。
パラダイスというのは、よく言われますが、囲いのある庭と言うペルシャ語ですが、ペルシャの王が、その国の民に特別な名誉を与えるときに、その名善い与る者を王の庭であるパラダイスに招き、王と共にその庭を散歩する名誉を与えたと言われます。イエス・キリスト様が、あえてペルシャ語のパラダイスと言う言葉を用いたのは、そのようなことをイメージしていたのかもしれません。
いずれにせよ、イエス・キリスト様は、自分自身に対しては、あきらめと絶望を感じている者に、希望の言葉を語るのです。しかも、「きょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われる。この犯罪人にとって、今日と言うその日は、十字架に付けられ、死にゆくときです。しかし、その時に、その人はイエス・キリスト様と共にパラダイスにいる。それは肉体の死と言う試練を超えた希望を語る言葉です。
みなさん、週報の報告欄にも書きましたが、先週の水曜日に三田泉教会と箕面泉教会の牧師をなさっておられたOK牧師が急逝なさいました。近畿教区のキャンプ場の整備をなさっているときに誤って転落し、頭蓋骨骨折と硬膜血種のために亡くなられたのです。
本当にまじめに牧会をし、伝道をし、三つの教会を開拓なされ、主に使えられた牧師でした。私も献身前にはお世話になりましたし、聖書学院に在学中はいろいろと支えていただきました。このように真摯に主に使えてこられた方が、事故と言う出来事で召されると言う出来事に出会いますと、「主よどうしてですか」と問いたくなる。この教会の前身の三鷹教会のKY牧師が交通事故で召されたときも、そう思いました。
そのようなときは、本当にこの世界には、試練や苦難ばかりがあるような気持がして、どこに希望や望みがあるのかと思わされるような感じです。それは、このような突然の不慮の事故による親しい人の死だけに限らす、例えば、阪神淡路大震災や東日本大震災、そして今回の西日本を襲った豪雨のような出来事、このような出来事の最中(さなか)に置かれるとき、とても希望を持つような気持にはなれませんし、何を期待していいのかも分からない。
しかし、その現実の苦しみの中にも聖書は希望を語るのです。それが、先ほど司式者にお読みいただきました。ローマ人への手紙8章18節から25節です。そこにはこうあります。
18:現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19:被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20:被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21:つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22:被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23:被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24:わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25:わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
ここでは、この世界全体が苦しみと苦悩の中にあると言っています。被造物全体が虚無に服し、被造物すべてが今日まで、共に受け貴、共に産みの苦しみを味わっているということはそういうことです。しかし、その苦しみの中に希望がある。しかし、その希望は、心の呻き(うめき)の中で待ち望む希望であり、目に見えないものを待ち望む希望です。もはや自分自身ではどうしたらいいのかわからないような状況、自分自身に何かができるとは到底思えない希望や期待が持てないような状況の中にあって、神にあって、イエス・キリストにあって希望を持つそれが、神に寄り縋る信仰によってもたらされる希望なのです。
OK牧師が亡くなられたと言う報を聞いたとき、KY牧師が自己で亡くなられたとき、私の心には、深い悲しみとやるせなさと、脱力感に満ちていました。それでも、その中に、やがて神の国が完成し、神の創造の業が関せする時には再び会えるという希望だけはありました。そしてその希望が今日まで支えてきたのです。
みなさん、人間の力ではどうしようもないこと、解決がつかないことは数多くある。そして自分の力ではどうしようもない現実の前に立つとき、私たちは自分自身に対して絶望するのです。けれどもみなさん、神には解決がある。イエス・キリスト様には希望があると聖書は言うのです。
先ほどお読みしました旧約書の創世記15章1節から6節までに書かれているアブラハムの物語などは、まさにそのような希望の中に生きた人の物語であると言えるでしょう。このアブラハムの物語は、創世記12章7節において、神がアブラムに子孫を与えると言う約束を与えたことから始まります。そしてその約束をアブラムは信じたのです。
ところが、神が子孫を与えてくださると約束し下さったのにもかかわらず、アブラム共にサライの夫婦には子供が生まれず、希望を失ってしまうように状況になった。もはや人間的な視点から見れば、絶対に子供など与えられないと誰しもが思うほど、アブラムもサライも高齢になった。そのように、自分自身ではもうどうしようもないと言う、自分自身に絶望したときに、神は「アブラムにサライによって跡取りを得る」と言う約束を成就してくださったのです。それはひとえに、創世記15章6節でアブラムが神の約束を信じたというその信仰の故なのです。
みなさん、私たちは、今日の聖書個所のルカよる福音書27章38節から43節に出てくる二人の犯罪には、自分自の死に直面しつつも自分自身にあきらめきれずキリストに絶望する人と、同じように自分自身の死に直面して自分自身に絶望しあきらめ、キリストに希望を持つ人とを見ました。
そして、自分に絶望しあきらめながらも、イエス・キリスト様の中に希望を見出し、イエス・キリスト様に期待する者に、神はイエス・キリスト様と共にある恵みを約束し自分自身に絶望したものに希望を与えて下さった出来事を見てきました。それは、かつてはアブラムが経験した希望であり、苦難と苦しみの中にある被造物全体に与えられる希望であり、そして皆さんにも与えられる希望です。
みなさん。ここに集っているお一人お一人が、生きて行き中で何らかの苦悩や苦しみや、苦難、試練と言うことを経験してきたことでしょうし、これからもそのようなことはあるでしょう。自分自身の力ではどうしようもない現実を突き付けられることもある。しかし、それでもなお、聖書は、神の下には希望がある、イエス・キリスト様の下には希望があると言っている。それが神の約束です。
2018年4月23日月曜日
一つの体としての教会
12章12-31節
2009/1/3 説教者 濱和弘
さて、新しい年の最初の礼拝ですが、今朝の聖書の箇所はコリント人への第1の手紙12章12節から31節までです。このコリント人への第1の手紙12章12節から31節はその前にある4節から11節と結びついて教会ということについて語られているところです。教会とは一体どういうところなのか。パウロはそのことについてここで語っているのですが、それではパウロがなんといっているかというと、パウロは教会とは一つの体のような物なのだというのです。つまり、体は手や足、あるいは目や鼻といった様々な器官によって構成されていますが、そのように、教会に集う様々な人が持つ賜物によって結びあわされた存在が教会というところなのだというのです。昨年の最後の礼拝で、コリント人への第1の手紙12章4節から11節において、教会には様々な霊の賜物があり、それらが一人一人に別々に分け与えられているということを申し上げました。そういった意味では、教会は豊かな多様性に満ちているのです。
宗教改革期のカルヴァンという人の働きを見ますと、本当にスーパーマンのような働きをしています。それこそ、聖書注解をしたり、組織神学をまとめ、説教をし、教会の法規的な物をまとめたり、教育をしたりと様々な賜物に満ちあふれています。しかし、そのようなスーパーマン的な人物は希な存在であって、普通の人は、それほど多くの賜物を持っているわけではありません。同じ宗教改革者のルターなどは、教会法の制定にはブーゲンハーゲンという人に任せ、組織神学的なことはメランヒトンという人に任せていました。そう言った人の方が、そのような賜物に優れていたからです。つまり、宗教改革にもとづくプロテスタント教会を建てあげていくためには、一人の働きではよりよいものが出来上がっていかないので、多くの人が神から与えられている賜物をそれぞれ出し合って支え合いながら、教会を建てあげていったのです。つまり、宗教改革という一つの目的の中に向って、一人一人の賜物が用いられてその目的が達成されていったのです。もちろん、その背後にはその目的に向って導いておられる神様がおられます。その神様のお心に従って、一人一人が導かれていく中でプロテスタントという一つの宗教運動が巻き起こり、その中でプロテスタントの諸教会が出来上がっていったのです。
そういった意味では、プロテスタントの教会は、教会に集う一人一人が持っている様々賜物が用いられてはじめて教会が建てあげられていくのです。そのことを、パウロはこの箇所で教会を一つの体にたとえながら説明しているのです。すなわちこういうのです。14節からです。「実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。」
個人個人に与えられた、神の恵みのよって与えられた能力や才能である賜物はそれこそ様々な多様性をもっています。それら一つ一つの賜物に目を向けるならば、個人という存在に目が向いていきます。しかし、それは教会という体にとっては体の一部分ではあっても、体全体ではありません。一つの体にはもっと沢山の部分があるのです。ですから、自分がその一部分でないからといって、教会に必要とされていないわけではありません。もっと他の部分で、必要とされているのです。たとえば、15節では、「もし足が、わたしは手ではないから体に属さないといってもそれで体に属さないわけではない。」といわれています。たしかに、手と足とは全く違ったものであり、足と手の働きは全く違ったものです。しかし、たとえその働きは違っていても体の一部分であることは変わりありません。いえむしろ、足も手も体の一部分であるからこそ用いられるのであって、体から離れて存在するならば、その存在は何の意味も持たないものになってしまうのです。
むしろ、手も足も体の一部分として存在するからこそ、その働きを通して存在は意味を持つものとなることができるのです。そのことをパウロは16節から18節で次のようにいっています。「また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。」ここで、パウロがいっていることは目だけでは体の成す働きのすべてを行なうことができないし、耳だけでも体の働きのすべてをなす事ができないということであり、目には目の、耳には耳の働きがあるということです。つまりは、目は見るという目的の時には必要な働きであり、また耳は聞くという働きにその能力を発揮するということです。それは、いうならば体というものの活動には様々な意図や目的があって、それに応じて使われる体の部分や機能は違うのだから、体にはすべての部分が具えられているのだということなのです。
しかし、それは、見るという働きをするときには目が必要なので、見るという働きをするときには他の器官は働かなくても良いということではありません。確かに、見るという働きは、ものを認識するために中心的な働きをしますが、しかし、目の働きだけで充分だとは言えないのです。こんな事がありました。それは、見るということではなく、味を感じるということでしたが、昔、私が風邪を引いて真っ暗にした部屋で寝込んでいたとき、家内がコーラをコップに入れて持ってきてくれました。そのコーラを私は真っ暗な部屋で受け取り飲んだのです。その時家内は、私にコップの中に入っている飲み物が何であるかを告げないで渡したのです。ただ渡されるとき、それが何か黒い飲み物であることは分かりました。しかし、私が確認した情報はそれだけです。そして、暗闇の中でその黒い飲み物を飲んだのです。暗闇の中で何も見えない、いえ、黒い飲み物であったということだけは見て知っていた。情報はただそれだけです。鼻も詰まっていて臭いもかぐことができない。そのような中で、それを飲んだとき、私は、それがコーラであることが分かりませんでした。むしろ、ブラックコーヒーのような味がしたのです。
味を感じるというのは、舌の働きのように思います。しかし、ただ舌の働きだけでは正確に感じ取ることができないのです。視覚や嗅覚の助けがなければ、正確にものの味を判断することはできないのだということをその時に知ったのです。同じようなことは、手と足の関係でも言えます。たとえば、お正月には様々なスポーツの大会がありますが、その一つに箱根駅伝がある。私も、毎年箱根駅伝はテレビで観戦するのですが、走るという行為の中心は足の働きです。ですから、健脚とか足が速いといった具合に、走るという行為はもっぱら足について語ります。しかし、実際には走るという行為のためには腕のフリといったことが非常に重要です。腕を上手に使えなければ、決して速く走ることはできないのです。確かに、走るという行為の中心は足にあります。そして、みんなの注目も足に向けられていく、けれども、あまり注目はされませんが、手も大切な働きをして走るという足の働きを支えているのです。
たとえば、足の働きということを私たちの教会の働きのイメージの中でとらえるならばトラクト配布といったものでとらえられるかもしれません。一軒一軒のお宅を訪ね、トラクトをポストに入れていくということは、まさに足の働きだと言えます。けれども、ただポストにトラクトを放り込んでいけば、伝道ができるかというと、そういうことではないだろうと思います。たしかに、トラクト配布というとトラクトを配って歩く姿が目に浮かぶ。けれども、その配ったトラクトが伝道の実りと繋がっていくためには背後にある祈りが必要なのです。祈りなくしてただ漠然とトラクトを配るだけでは本当の伝道になってはいかない、祈りが伴ってその働きが実を結んでいくのです。足が速く走るためにはしっかりとした腕の振りが必要なように、トラクトを配る足がどれだけたくさんあっても、背後での祈り手が少なければ、その働きは充分なものにはなりません。教会という一つの体を作り上げる私たち一人一人は、たがいの賜物を生かし用いられるためにも、お互いが必要なのです。
ですから、どんな働きにおいても、必要でない人は教会には一人もいないのです。それは、教会が様々な働きをするために、様々な賜物があるのではなく、教会がする一つ一つの働き、そのなかのどの一つをとっても、その一つの働きをするために、すべての人が必要とされているのです。だからこそ、教会に集う者は、誰一人として軽んじられてはならないのです。それこそ、ご年配の方から、幼い子どもたちに至るまで、誰一人として教会の働きの一つ一つに無関係な人などいません。もし、自分は必要でないと感じている人がいるならば、それは自分でそう思いこんでしまっているのです。また、仮に教会がそのように思わせてしまっていたとしたら、私たちはそのことを本当に反省しなければならないと思います。パウロが、「目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり」というのは、そう言うことなのです。もちろん、働きという言葉でとらえていくならば、活発に活動していることはよく働いているように見え、何もしていないことは働いていないように見えてしまいます。しかし、決してそうではありません。パウロは、教会に必要ではない存在など一人もいないということを示しつつこう言うのです。
「からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶあなたがたはキリストのからだであり、ひとりひとりはその肢体である」この「他より見劣りすると思えるところ」という表現あるいは「麗しくない部分」と「麗しい部分」という表現は、先の「目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり」という言葉に背反するように思われる表現です。そのような表現をパウロがあえてしたのは、私たち人間の目線でみるならば、「他より見劣りすると思えるところ」として目に映っているということであり、「麗しくない部分」に見えているということであろうと思います。しかし、それは私たちの目線で見るからであり、神の目線から見れば決してそう言うことではありません。むしろ、神の目から見れば、弱さと思われる様な部分、他より見劣りすると思われるところ、麗しくない部分こそが、教会というキリストの体にとってもっとも必要な部分なのです。
なぜならば、人間の目から見て弱さと映るところ、見劣りすると思われるところに神の恵みがもっとも注がれるからです。そして、その神の恵みが注がれるところこそ、もっとも信仰が必要なところだからです。というのも、人間の目から見て弱いと思われるところ、見劣りすると思われるところは、私たちが最も謙虚になることができるところだからです。そして、そのような謙虚な心になってこそ、初めて神の御業に頼り、神のお心を求めるからです。もし、教会が謙虚で謙遜な心を失ったならば、教会はキリストの体ではなくなります。キリストは神であるのに人になるまでになり謙遜のかぎりを尽くしてくださったお方ではありませんか。だとすれば、そのキリストの体である教会もまた謙遜な存在でなければなりません。その謙遜さを、私たちは弱さの中で学ぶのです。そういった意味では、私たちの弱さは、私たちをキリストの体なる教会たらしめるために必要な大切な宝なのだということができるだろうと思うのです。そして、神が、私たちに様々な賜物を与えてくださっているからこそ、私たちがキリストの体なる教会であり続けるために、私たちには弱さが、見劣りすると思われるような部分が必要なのです。
豊かな賜物、能力、才能、それは良いものであり、私たちに様々な教会の働きに導き、多くの神の業をなさせてくれます。そのような活動的なこと、具体的な業は、そしてそれに伴う結果は、気をつけなければ、私たちの心を高慢なものにしてしまいます。しかし、高慢は、謙遜の限りを尽くして人となったキリストに決してふさわしいものではありません。当然、教会がキリストの体であるならば、それは教会にとってもふさわしいものではないのです。だからこそ、私たちの弱さや見劣りすると思われるものは、私たちをキリストの体なる教会に繋がらせてくださるために大切なものなのです。神は私たちの弱さゆえに、私たちが神の恵みの中で生かされているということを明らかにしてくださっています。そして、そのことゆえに、私たちはキリストのからだなる教会としての調和を保つことができるのです。それは、誰もが互いに弱さを持つ存在として互いにいたわり合い、互いに支え合って生きているからです。ただ、教会が優れた賜物だけで成り立っているとするならば、教会は賜物の競い合いになっていくでしょう。どんなに、賜物に優劣はないといっても、目に見える華やかさや、その働きによって出てくる結果に人は惑わされてしまうからです。
先週申しましたが、賜物と言う言葉の言語はカリスマです。それは神の恵みカリスから出た言葉であって、神の恵みによって与えられているものです。ですから、賜物それ自体、そしてそれが生み出す結果は、決して人がほこるべきものではなく、その結果はすべて神の栄光に帰されるべきものです。けれども、どんなに神に栄光を帰すと言っても、どこかで自分を誇ってしまうような一面を私たちは心の中に持っています。それこそ、私たちが罪人である所以なのです。だからこそ、わたしたちは、本当に心の底から謙遜になることができるように、見劣りするところがあるのです。その私たちの弱いところ、見劣りするところを知ってこそ、互いに尊敬しあい尊び合うことができ、また互いに支え合うことができるようになります。また、そのような弱さを知るからこそ、教会が一つの神の業をなしていくときに、一つのキリストからだとして喜ぶことができるのです。
さきほど、箱根駅伝の話を致しましたが、今年の箱根駅伝の優勝校は東洋大学でした。私は、その優勝インタヴューの際に一人の選手が語った言葉が非常に印象に残りました。今朝の説教の準備がありましたので余計に心に残ったのかもしれませんが、このようなことを言っていたのです。それは、おおよそ、次のような内容でした。「私は、自分個人の走りの内容としては納得いかないものもありますが、チーム全体として優勝という目標を達成できたので素直に喜びたい。」私は選手がどのような走りをしたかは覚えていませんが、おそらく彼自身は自分は充分な働きはできなかった、チームに十分貢献できなかったとそう思っていたのでしょう。また、自分自身の目標も達成できなかったのかもしれません。けれどもチームは優勝という目標を達成したのです。駅伝は、走っているときは一人一人です。しかし、最終的にはチーム全体の目標があります。優勝を目標にしているチームもあるでしょう。最後まで走り抜くことを目標にしているチームもあるかも知れません。その中で、たとえ選手の一人が失敗しても、他の選手がそれを補って目標を達成できたならば、そこは大きな喜びがあるのです。
もちろん、教会と駅伝とは同じものではありません。しかし、教会もまた一つの目的をもち、使命をもって集められている集まりです。それは一つの体として結びあわされたものですから、駅伝のチームよりもっと深く、密接な関係で結ばれたものです。一人一人がバラバラに走るのではなく、一緒に助け合いながら共に歩んでいくものだからです。だからこそ、私たちが本当にキリストの体として一つに結びあわされているとするならば、教会がその目的や使命を達成するために共に悩み、その目的や使命を成し遂げるときに喜びはもっともっと大きいものになります。そのような、深い結び付きによって一つにされている存在が教会というところなのです。そして、その教会が負っている目的と使命は、神を礼拝することであり、交わりをなすことであり、互いの信仰を高め深めあっていくことであり、そして、福音を宣教していくことです。この事のために私たちは呼び集められているのです。
この目的と使命を果たすために、私たちには多くの賜物が神から与えられています。また、同時に私たちには多くの弱さと欠けもあります。そして、その弱さと欠けを互いに補い合い、支え合い、励まし合うために、ここにいる一人一人がいるのです。私たちはそうやって支え合っていくためにここにいるのです。ですから、ここにいる一人のあなたはみんなのために存在し、ここにいるみんなは一人のあなたのためにいるのです。もちろん、そうやって互いに補い合い、支え合い、励まし合ってもまだまだ欠けがあり、弱さがあり、見劣りするところも、麗しくはないところもあるだろうと思います。けれども、その私たちでは補いきれない弱さや、欠けや見劣りするところ、麗しくないところを補ってくださるイエス・キリスト様というお方が教会にはおられるのです。もし、このお方なしに、互いに補い合い、支え合い、励まし合うだけの存在であるならば、そのような交わりや集団は社会には数え切れないほどあります。そのような交わりや集団と教会が決定的に違うのは、私たちでは決して補いきれず支え合いきれないこと、励まし合えないようなときにも、キリストが私たちのその弱さ欠けを担って下さると言うところにあるのです。
ですから、そのことを信じ、私たちは自分に与えられた賜物を用い神と教会に仕え、また自分の弱さを知り、それを認めて謙虚になって互いに支え合い、励まし合いながら、最終的にはキリストの支えと神の恵みに中にあることを覚え、感謝しながら歩むものでありたいと願います。そのような、歩みを教会がしていくならば、私たちの教会は、必ず、教会の持つ目的と使命である神を礼拝し、交わりをなし、互いの信仰を高め深めあい、そして、福音を宣教なしていくということを成し遂げ、互いに喜び合うことができるようになると信じるのです。
お祈りしましょう。
2009/1/3 説教者 濱和弘
さて、新しい年の最初の礼拝ですが、今朝の聖書の箇所はコリント人への第1の手紙12章12節から31節までです。このコリント人への第1の手紙12章12節から31節はその前にある4節から11節と結びついて教会ということについて語られているところです。教会とは一体どういうところなのか。パウロはそのことについてここで語っているのですが、それではパウロがなんといっているかというと、パウロは教会とは一つの体のような物なのだというのです。つまり、体は手や足、あるいは目や鼻といった様々な器官によって構成されていますが、そのように、教会に集う様々な人が持つ賜物によって結びあわされた存在が教会というところなのだというのです。昨年の最後の礼拝で、コリント人への第1の手紙12章4節から11節において、教会には様々な霊の賜物があり、それらが一人一人に別々に分け与えられているということを申し上げました。そういった意味では、教会は豊かな多様性に満ちているのです。
宗教改革期のカルヴァンという人の働きを見ますと、本当にスーパーマンのような働きをしています。それこそ、聖書注解をしたり、組織神学をまとめ、説教をし、教会の法規的な物をまとめたり、教育をしたりと様々な賜物に満ちあふれています。しかし、そのようなスーパーマン的な人物は希な存在であって、普通の人は、それほど多くの賜物を持っているわけではありません。同じ宗教改革者のルターなどは、教会法の制定にはブーゲンハーゲンという人に任せ、組織神学的なことはメランヒトンという人に任せていました。そう言った人の方が、そのような賜物に優れていたからです。つまり、宗教改革にもとづくプロテスタント教会を建てあげていくためには、一人の働きではよりよいものが出来上がっていかないので、多くの人が神から与えられている賜物をそれぞれ出し合って支え合いながら、教会を建てあげていったのです。つまり、宗教改革という一つの目的の中に向って、一人一人の賜物が用いられてその目的が達成されていったのです。もちろん、その背後にはその目的に向って導いておられる神様がおられます。その神様のお心に従って、一人一人が導かれていく中でプロテスタントという一つの宗教運動が巻き起こり、その中でプロテスタントの諸教会が出来上がっていったのです。
そういった意味では、プロテスタントの教会は、教会に集う一人一人が持っている様々賜物が用いられてはじめて教会が建てあげられていくのです。そのことを、パウロはこの箇所で教会を一つの体にたとえながら説明しているのです。すなわちこういうのです。14節からです。「実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。」
個人個人に与えられた、神の恵みのよって与えられた能力や才能である賜物はそれこそ様々な多様性をもっています。それら一つ一つの賜物に目を向けるならば、個人という存在に目が向いていきます。しかし、それは教会という体にとっては体の一部分ではあっても、体全体ではありません。一つの体にはもっと沢山の部分があるのです。ですから、自分がその一部分でないからといって、教会に必要とされていないわけではありません。もっと他の部分で、必要とされているのです。たとえば、15節では、「もし足が、わたしは手ではないから体に属さないといってもそれで体に属さないわけではない。」といわれています。たしかに、手と足とは全く違ったものであり、足と手の働きは全く違ったものです。しかし、たとえその働きは違っていても体の一部分であることは変わりありません。いえむしろ、足も手も体の一部分であるからこそ用いられるのであって、体から離れて存在するならば、その存在は何の意味も持たないものになってしまうのです。
むしろ、手も足も体の一部分として存在するからこそ、その働きを通して存在は意味を持つものとなることができるのです。そのことをパウロは16節から18節で次のようにいっています。「また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。」ここで、パウロがいっていることは目だけでは体の成す働きのすべてを行なうことができないし、耳だけでも体の働きのすべてをなす事ができないということであり、目には目の、耳には耳の働きがあるということです。つまりは、目は見るという目的の時には必要な働きであり、また耳は聞くという働きにその能力を発揮するということです。それは、いうならば体というものの活動には様々な意図や目的があって、それに応じて使われる体の部分や機能は違うのだから、体にはすべての部分が具えられているのだということなのです。
しかし、それは、見るという働きをするときには目が必要なので、見るという働きをするときには他の器官は働かなくても良いということではありません。確かに、見るという働きは、ものを認識するために中心的な働きをしますが、しかし、目の働きだけで充分だとは言えないのです。こんな事がありました。それは、見るということではなく、味を感じるということでしたが、昔、私が風邪を引いて真っ暗にした部屋で寝込んでいたとき、家内がコーラをコップに入れて持ってきてくれました。そのコーラを私は真っ暗な部屋で受け取り飲んだのです。その時家内は、私にコップの中に入っている飲み物が何であるかを告げないで渡したのです。ただ渡されるとき、それが何か黒い飲み物であることは分かりました。しかし、私が確認した情報はそれだけです。そして、暗闇の中でその黒い飲み物を飲んだのです。暗闇の中で何も見えない、いえ、黒い飲み物であったということだけは見て知っていた。情報はただそれだけです。鼻も詰まっていて臭いもかぐことができない。そのような中で、それを飲んだとき、私は、それがコーラであることが分かりませんでした。むしろ、ブラックコーヒーのような味がしたのです。
味を感じるというのは、舌の働きのように思います。しかし、ただ舌の働きだけでは正確に感じ取ることができないのです。視覚や嗅覚の助けがなければ、正確にものの味を判断することはできないのだということをその時に知ったのです。同じようなことは、手と足の関係でも言えます。たとえば、お正月には様々なスポーツの大会がありますが、その一つに箱根駅伝がある。私も、毎年箱根駅伝はテレビで観戦するのですが、走るという行為の中心は足の働きです。ですから、健脚とか足が速いといった具合に、走るという行為はもっぱら足について語ります。しかし、実際には走るという行為のためには腕のフリといったことが非常に重要です。腕を上手に使えなければ、決して速く走ることはできないのです。確かに、走るという行為の中心は足にあります。そして、みんなの注目も足に向けられていく、けれども、あまり注目はされませんが、手も大切な働きをして走るという足の働きを支えているのです。
たとえば、足の働きということを私たちの教会の働きのイメージの中でとらえるならばトラクト配布といったものでとらえられるかもしれません。一軒一軒のお宅を訪ね、トラクトをポストに入れていくということは、まさに足の働きだと言えます。けれども、ただポストにトラクトを放り込んでいけば、伝道ができるかというと、そういうことではないだろうと思います。たしかに、トラクト配布というとトラクトを配って歩く姿が目に浮かぶ。けれども、その配ったトラクトが伝道の実りと繋がっていくためには背後にある祈りが必要なのです。祈りなくしてただ漠然とトラクトを配るだけでは本当の伝道になってはいかない、祈りが伴ってその働きが実を結んでいくのです。足が速く走るためにはしっかりとした腕の振りが必要なように、トラクトを配る足がどれだけたくさんあっても、背後での祈り手が少なければ、その働きは充分なものにはなりません。教会という一つの体を作り上げる私たち一人一人は、たがいの賜物を生かし用いられるためにも、お互いが必要なのです。
ですから、どんな働きにおいても、必要でない人は教会には一人もいないのです。それは、教会が様々な働きをするために、様々な賜物があるのではなく、教会がする一つ一つの働き、そのなかのどの一つをとっても、その一つの働きをするために、すべての人が必要とされているのです。だからこそ、教会に集う者は、誰一人として軽んじられてはならないのです。それこそ、ご年配の方から、幼い子どもたちに至るまで、誰一人として教会の働きの一つ一つに無関係な人などいません。もし、自分は必要でないと感じている人がいるならば、それは自分でそう思いこんでしまっているのです。また、仮に教会がそのように思わせてしまっていたとしたら、私たちはそのことを本当に反省しなければならないと思います。パウロが、「目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり」というのは、そう言うことなのです。もちろん、働きという言葉でとらえていくならば、活発に活動していることはよく働いているように見え、何もしていないことは働いていないように見えてしまいます。しかし、決してそうではありません。パウロは、教会に必要ではない存在など一人もいないということを示しつつこう言うのです。
「からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶあなたがたはキリストのからだであり、ひとりひとりはその肢体である」この「他より見劣りすると思えるところ」という表現あるいは「麗しくない部分」と「麗しい部分」という表現は、先の「目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり」という言葉に背反するように思われる表現です。そのような表現をパウロがあえてしたのは、私たち人間の目線でみるならば、「他より見劣りすると思えるところ」として目に映っているということであり、「麗しくない部分」に見えているということであろうと思います。しかし、それは私たちの目線で見るからであり、神の目線から見れば決してそう言うことではありません。むしろ、神の目から見れば、弱さと思われる様な部分、他より見劣りすると思われるところ、麗しくない部分こそが、教会というキリストの体にとってもっとも必要な部分なのです。
なぜならば、人間の目から見て弱さと映るところ、見劣りすると思われるところに神の恵みがもっとも注がれるからです。そして、その神の恵みが注がれるところこそ、もっとも信仰が必要なところだからです。というのも、人間の目から見て弱いと思われるところ、見劣りすると思われるところは、私たちが最も謙虚になることができるところだからです。そして、そのような謙虚な心になってこそ、初めて神の御業に頼り、神のお心を求めるからです。もし、教会が謙虚で謙遜な心を失ったならば、教会はキリストの体ではなくなります。キリストは神であるのに人になるまでになり謙遜のかぎりを尽くしてくださったお方ではありませんか。だとすれば、そのキリストの体である教会もまた謙遜な存在でなければなりません。その謙遜さを、私たちは弱さの中で学ぶのです。そういった意味では、私たちの弱さは、私たちをキリストの体なる教会たらしめるために必要な大切な宝なのだということができるだろうと思うのです。そして、神が、私たちに様々な賜物を与えてくださっているからこそ、私たちがキリストの体なる教会であり続けるために、私たちには弱さが、見劣りすると思われるような部分が必要なのです。
豊かな賜物、能力、才能、それは良いものであり、私たちに様々な教会の働きに導き、多くの神の業をなさせてくれます。そのような活動的なこと、具体的な業は、そしてそれに伴う結果は、気をつけなければ、私たちの心を高慢なものにしてしまいます。しかし、高慢は、謙遜の限りを尽くして人となったキリストに決してふさわしいものではありません。当然、教会がキリストの体であるならば、それは教会にとってもふさわしいものではないのです。だからこそ、私たちの弱さや見劣りすると思われるものは、私たちをキリストの体なる教会に繋がらせてくださるために大切なものなのです。神は私たちの弱さゆえに、私たちが神の恵みの中で生かされているということを明らかにしてくださっています。そして、そのことゆえに、私たちはキリストのからだなる教会としての調和を保つことができるのです。それは、誰もが互いに弱さを持つ存在として互いにいたわり合い、互いに支え合って生きているからです。ただ、教会が優れた賜物だけで成り立っているとするならば、教会は賜物の競い合いになっていくでしょう。どんなに、賜物に優劣はないといっても、目に見える華やかさや、その働きによって出てくる結果に人は惑わされてしまうからです。
先週申しましたが、賜物と言う言葉の言語はカリスマです。それは神の恵みカリスから出た言葉であって、神の恵みによって与えられているものです。ですから、賜物それ自体、そしてそれが生み出す結果は、決して人がほこるべきものではなく、その結果はすべて神の栄光に帰されるべきものです。けれども、どんなに神に栄光を帰すと言っても、どこかで自分を誇ってしまうような一面を私たちは心の中に持っています。それこそ、私たちが罪人である所以なのです。だからこそ、わたしたちは、本当に心の底から謙遜になることができるように、見劣りするところがあるのです。その私たちの弱いところ、見劣りするところを知ってこそ、互いに尊敬しあい尊び合うことができ、また互いに支え合うことができるようになります。また、そのような弱さを知るからこそ、教会が一つの神の業をなしていくときに、一つのキリストからだとして喜ぶことができるのです。
さきほど、箱根駅伝の話を致しましたが、今年の箱根駅伝の優勝校は東洋大学でした。私は、その優勝インタヴューの際に一人の選手が語った言葉が非常に印象に残りました。今朝の説教の準備がありましたので余計に心に残ったのかもしれませんが、このようなことを言っていたのです。それは、おおよそ、次のような内容でした。「私は、自分個人の走りの内容としては納得いかないものもありますが、チーム全体として優勝という目標を達成できたので素直に喜びたい。」私は選手がどのような走りをしたかは覚えていませんが、おそらく彼自身は自分は充分な働きはできなかった、チームに十分貢献できなかったとそう思っていたのでしょう。また、自分自身の目標も達成できなかったのかもしれません。けれどもチームは優勝という目標を達成したのです。駅伝は、走っているときは一人一人です。しかし、最終的にはチーム全体の目標があります。優勝を目標にしているチームもあるでしょう。最後まで走り抜くことを目標にしているチームもあるかも知れません。その中で、たとえ選手の一人が失敗しても、他の選手がそれを補って目標を達成できたならば、そこは大きな喜びがあるのです。
もちろん、教会と駅伝とは同じものではありません。しかし、教会もまた一つの目的をもち、使命をもって集められている集まりです。それは一つの体として結びあわされたものですから、駅伝のチームよりもっと深く、密接な関係で結ばれたものです。一人一人がバラバラに走るのではなく、一緒に助け合いながら共に歩んでいくものだからです。だからこそ、私たちが本当にキリストの体として一つに結びあわされているとするならば、教会がその目的や使命を達成するために共に悩み、その目的や使命を成し遂げるときに喜びはもっともっと大きいものになります。そのような、深い結び付きによって一つにされている存在が教会というところなのです。そして、その教会が負っている目的と使命は、神を礼拝することであり、交わりをなすことであり、互いの信仰を高め深めあっていくことであり、そして、福音を宣教していくことです。この事のために私たちは呼び集められているのです。
この目的と使命を果たすために、私たちには多くの賜物が神から与えられています。また、同時に私たちには多くの弱さと欠けもあります。そして、その弱さと欠けを互いに補い合い、支え合い、励まし合うために、ここにいる一人一人がいるのです。私たちはそうやって支え合っていくためにここにいるのです。ですから、ここにいる一人のあなたはみんなのために存在し、ここにいるみんなは一人のあなたのためにいるのです。もちろん、そうやって互いに補い合い、支え合い、励まし合ってもまだまだ欠けがあり、弱さがあり、見劣りするところも、麗しくはないところもあるだろうと思います。けれども、その私たちでは補いきれない弱さや、欠けや見劣りするところ、麗しくないところを補ってくださるイエス・キリスト様というお方が教会にはおられるのです。もし、このお方なしに、互いに補い合い、支え合い、励まし合うだけの存在であるならば、そのような交わりや集団は社会には数え切れないほどあります。そのような交わりや集団と教会が決定的に違うのは、私たちでは決して補いきれず支え合いきれないこと、励まし合えないようなときにも、キリストが私たちのその弱さ欠けを担って下さると言うところにあるのです。
ですから、そのことを信じ、私たちは自分に与えられた賜物を用い神と教会に仕え、また自分の弱さを知り、それを認めて謙虚になって互いに支え合い、励まし合いながら、最終的にはキリストの支えと神の恵みに中にあることを覚え、感謝しながら歩むものでありたいと願います。そのような、歩みを教会がしていくならば、私たちの教会は、必ず、教会の持つ目的と使命である神を礼拝し、交わりをなし、互いの信仰を高め深めあい、そして、福音を宣教なしていくということを成し遂げ、互いに喜び合うことができるようになると信じるのです。
お祈りしましょう。
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