2022年9月20日火曜日

三つよりの綱

               「三つよりの綱」

 私は、牧師という仕事柄、結婚式を執り行うことが多くありました。その際、夫婦となられたお二人に、このような聖書の言葉がありますとお伝えし、その聖書の言葉を結婚の記念としてお贈りします。それは、旧約聖書の伝道の書4章9節から12節までの言葉です。

 ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れるときには、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、一人を攻め撃ったなら、ふたりでそれに当るであろう。三つよりの綱はたやすく切れない。」

 この言葉は、私たち夫婦が結婚する際に、神様から与えられた言葉であり、私たち夫婦にとっては特別な言葉です。その言葉を、これから人生の新しい歩み御向かって歩みだすお二人の幸せを願ってお贈りするのです。

ところが、この言葉が記されている旧約聖書の伝道の書(コーヘレトの言葉)は、人生がいかに空しいものかと言うことを教えている箇所です。華々しい、幸多き人生ではない、人生の空しさを語る書が、伝道の書(コーヘレトの言葉)なのです。ですから、その伝道の書には、「空の空」という言葉が繰り返し書かれています。

 確かに、私たちの人生には「空の空」と思われるような空しさを感じることがあります。いえ、そのような苦しさを感じる場面は、綿立たちの人生においては、決して少なくはないのです。むしろ、多くあるといってもいいのかもしれません。ですから、人生の様々な困難や問題にぶつかったときに、心から喜べず、ただ空しさだけを感じる局面は必ずやってくるといってもいい。また、どんなに成功していても、心にぽっかりと空いた穴から冷たい風が吹き込むことだってあるのです。そのように、人の世の営みには、必ず虚しさがあるからこそ、聖書は、「ふたりはひとりにまさる」というのです。

 それは、問題や困難にぶつかっても、ふたりでそれに当るならば、乗り越えていけるからです。仮に心に冷たい風が吹いても、二人が暖め合えば、冷たい風にも打ち勝てるのです。しかし、長い人生の中では、ふたりで助け合っても乗り越えられないような大きな問題にぶつかることもあるでしょう。ふたりで暖め合っても暖めきれないほどの冷たい風に吹かれることだってあるかもしれません。その時は、どうか聖書の神に頼り、助けを求めて下さい。

 先ほどの伝道の書(コーヘレトの言葉)は、二人は一人に優ると言いつつ、最後は三つ撚りの綱はたやすく切れないと言います。ここには、二つの糸にもう一つの糸が加わり綱となっています。そして、その三つ目の糸が神というお方なのです。人間は支え合って生きる者です。ですから、夫婦が、家族が、また友人や仲間が、試練の中にある私たちを助け支えてくれます。しかし、その助けや支えも限界を迎えることがある。その時に、神が三つよりの綱となって下さいます。三つよりの綱となって私たちの心を守り支え、祝福して下さるのです。そしてこの三よりの綱はたやすくは切れないのです。

 けれども、なぜ、神は私たちの人生が試練の時に、私たちに寄り添い三つよりの綱になってくださるのでしょうか。それは、神が私たちを深く愛しているからです。愛するがゆえに、私たちの心を守り、支えてくださるのです。例えば、私たちが仕事で問題を抱え悩むとき、そのパートナーの職種が違えば、その抱え込んだ問題を解決する手助けにはなりません。しかし、そのパートナーの存在が、具体的な職種を超え、慰めとなり、力となり、支えとなる。そこにはパートナーの深い愛情と思いやりがあるからです。

同じように、神もまた私たちに深い愛情を抱き、思いやりの心をもって、私たちに寄り添ってくくださるのです。

2022年9月16日金曜日

大切なあなたへ

         「大切なあなたへ」

孫が生まれて、娘が孫を連れてしばらくの期間を過ごすために帰ってきました。生まれて一週間足らずの赤ん坊は実に小さく、その指などはまるで人形の指のようです。しかし、どんなに小さくても、その部分部分は完全です。まぎれもない一人の存在として、それこそ小さな寝息を立てながら、母親の腕の中で眠っているのです。                 

 私は、その孫の姿を見ながら、何とも不思議な気持ちになりました。もちろん、その気持ちは私の三人の子供が生まれたときにも感じたものだったのですが、子供たちが成長し、私自身も日々起こってくる様々なことで忙しくしている中で忘れてしまった不思議な気持ちです。

 本当に壊れてしまいそうな小さな赤ん坊です。けれども、そこには紛れもない人間が存在している。けれども、その紛れもない人間は、自分では何もできず、ただ周りの人間に頼り、身をゆだね、身を横たえているだけなのです。人間として何かができるというわけではないのですが、そんなことはどうでもよい。ただ、その赤ん坊がそこにいるだけで、心が温かくなり、気が付いたら微笑んでいるのです。

 昔読んだ本に中に、キリスト教の信仰において大切なことは、doingではなくbeingであるという内容が書いてありました。私はその言葉に深い感動を覚えました。Doing、すなわち何かを行うこと、何かを成すことではなく、Being、つまり存在すること、あなたが「いる」ということが大切なのだというのです。

 まさに、そこに「あなた」が存在している。そこに「あなた」が存在してくれている。「あなた」が「いる」ということは、どんなに大切なことであり、素晴らしいことであり、喜ばしい嬉しいことなのでしょうか。

 旧約聖書の出エジプト記3章14節に次のような言葉があります。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

旧約聖書のほとんどの言葉がヘブライ語で書かれていますが、この「有る」という言葉は、ヘブライ語では「ハーヤー」という言葉です。英語に訳すとBeです。ですからこの「「わたしは、有って有る者」という言葉の意味は、私たちを存在させるのは神である。私たちをかけがえのないBeingとしてくださっているのは神というお方なのです。