「あなたにあげたい」
もう、夏の風物詩の一つ、夏の甲子園。高校野球の球児たちの熱い戦いが繰り広げられますが、夏はプロ野球も真っ盛りです
このプロ野球で、不世出の名ピッチャーって言えば、昔は沢村忠、スタルヒン、金田や稲生、最近では、江川卓や松坂大輔など、たくさん名前が挙げられますが、その中の一人に、ロッテ・オリオンズの村田兆治もあげられるだろうと思いますが、ご存じですか。
この、村田兆治投手は、マサカリ投法と呼ばれるその独特な投球フォームから、ものすごい剛速球を投げていたんですけれど、ピッチャーの命とも言える肘を故障してしまったんですね。
ピッチャーにとって、肘の故障は選手生命に関わる一大事です。村田投手自身、ご自身が書かれた「剛球直言」って本で、その時期は、「まさに人生のどん底だった。」って言っています。
でも悪いことは、重なるもんでね。その肘の治療をしている最中にお父さんが亡くなってしまったんですね。そのお父さんが、なくなる直前に、お父さんをお見舞いにったら、それまで、意識が混濁状態だったお父さんが、突然、意識をもどし、彼の手を握って「兆治、おまえに、この右腕をやりたい。」ってのどの奥から絞り出すような声で、そう言ったって言うんです。まさに、子を思う、親の思い、親の愛。ここに極めって言葉ですよね。
私も、まだ長女が小さかった頃、寝息を立てている娘の、胸元をぽんぽんとたたいてやっていると、娘の胸のところになにやらしこりができているのに気づいたんです。小さい子供とはいえ、はっきりとわかるしこりでしょ。なんだか心配になって、夜中に娘の枕元で、神様に一生懸命お祈りしました。
その時の祈りは、今でも覚えていますが「神様、この子の命守られるなら、自分の命が失われてもいいですから、この子を守って下さい。」ってそう祈ってました。この子のためなら、命もいらない。そう思えるのは、それが自分の愛する子供だから何ですね。
幸い、娘は何もなく、何事もなく成長し成人しましたが、聖書には次のように書かれている言葉がある。「キリストは私たちのために命を捨ててくださった。私たちはそれによって愛と言うことを知った。」って書かれています。
この言葉は、キリストの弟子のヨハネという人がかいているんですが、このは、ヨハネキリストが、自分の為に命を捨てて下さったということをしって、キリストがどんなに深く、自分を愛してくださっていたかと言うことを思い知ったんでしょうね。
キリストが、ヨハネのために命を捨ててくださったのは、ヨハネが生きることができるようになるためでした。生きるっていっても、ただ病気が治るとか、怪我が治るってことだけでなく、天国で生きる為の、神の命が、与えられるためだったんです。
聖書には、人間の中に罪があるならば、人は天国に行くことができないと言われています。この罪というのは、単に犯罪を犯したと言うことでなく、心の中の汚れや、醜い思い、嫉妬心やねたみなども、その罪の中に数えられています。
そうすると、あのヨハネも私を、そして誰もがみんな罪人だってことになってしまいます。だって、早々心が全く清く綺麗な人なんていないからです。その意味では、人間は誰でもすべからく罪びとだということになります。
でも、その罪人が、神様に罪を赦されて天国に行くことができるようにって、十字架の上で命を投げ出し、罪の赦しを神に願い求めた。その姿を見て、ヨハネは、神様がどんなに深く、自分を愛しているかを知ったって言うんですね。
愛されている自覚、それは、私たちに生きる力と勇気と励ましを与えてくれます。村田投手は「兆治、おまえに、この右腕をやりたい」と言った、お父さんの言葉が耳の奥底にのこって、強い励ましとなったっていっています。同じように、「おまえに、私の命をあげよう」といわれるキリストの言葉は、ヨハネに大きな生きる力と勇気と励ましを与ただろうと思います。
でも、忘れないでください。キリストはあなたのためも十字架にかかられたのです。ですから、キリストは、今でも、聖書を通して、私たちに、あなたに、「私は、おまえが天国で永遠に生きられるよう、私の命をあなたにあげよう。」とそうおっしゃって下さっているのです。