2022年9月20日火曜日

三つよりの綱

               「三つよりの綱」

 私は、牧師という仕事柄、結婚式を執り行うことが多くありました。その際、夫婦となられたお二人に、このような聖書の言葉がありますとお伝えし、その聖書の言葉を結婚の記念としてお贈りします。それは、旧約聖書の伝道の書4章9節から12節までの言葉です。

 ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れるときには、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、一人を攻め撃ったなら、ふたりでそれに当るであろう。三つよりの綱はたやすく切れない。」

 この言葉は、私たち夫婦が結婚する際に、神様から与えられた言葉であり、私たち夫婦にとっては特別な言葉です。その言葉を、これから人生の新しい歩み御向かって歩みだすお二人の幸せを願ってお贈りするのです。

ところが、この言葉が記されている旧約聖書の伝道の書(コーヘレトの言葉)は、人生がいかに空しいものかと言うことを教えている箇所です。華々しい、幸多き人生ではない、人生の空しさを語る書が、伝道の書(コーヘレトの言葉)なのです。ですから、その伝道の書には、「空の空」という言葉が繰り返し書かれています。

 確かに、私たちの人生には「空の空」と思われるような空しさを感じることがあります。いえ、そのような苦しさを感じる場面は、綿立たちの人生においては、決して少なくはないのです。むしろ、多くあるといってもいいのかもしれません。ですから、人生の様々な困難や問題にぶつかったときに、心から喜べず、ただ空しさだけを感じる局面は必ずやってくるといってもいい。また、どんなに成功していても、心にぽっかりと空いた穴から冷たい風が吹き込むことだってあるのです。そのように、人の世の営みには、必ず虚しさがあるからこそ、聖書は、「ふたりはひとりにまさる」というのです。

 それは、問題や困難にぶつかっても、ふたりでそれに当るならば、乗り越えていけるからです。仮に心に冷たい風が吹いても、二人が暖め合えば、冷たい風にも打ち勝てるのです。しかし、長い人生の中では、ふたりで助け合っても乗り越えられないような大きな問題にぶつかることもあるでしょう。ふたりで暖め合っても暖めきれないほどの冷たい風に吹かれることだってあるかもしれません。その時は、どうか聖書の神に頼り、助けを求めて下さい。

 先ほどの伝道の書(コーヘレトの言葉)は、二人は一人に優ると言いつつ、最後は三つ撚りの綱はたやすく切れないと言います。ここには、二つの糸にもう一つの糸が加わり綱となっています。そして、その三つ目の糸が神というお方なのです。人間は支え合って生きる者です。ですから、夫婦が、家族が、また友人や仲間が、試練の中にある私たちを助け支えてくれます。しかし、その助けや支えも限界を迎えることがある。その時に、神が三つよりの綱となって下さいます。三つよりの綱となって私たちの心を守り支え、祝福して下さるのです。そしてこの三よりの綱はたやすくは切れないのです。

 けれども、なぜ、神は私たちの人生が試練の時に、私たちに寄り添い三つよりの綱になってくださるのでしょうか。それは、神が私たちを深く愛しているからです。愛するがゆえに、私たちの心を守り、支えてくださるのです。例えば、私たちが仕事で問題を抱え悩むとき、そのパートナーの職種が違えば、その抱え込んだ問題を解決する手助けにはなりません。しかし、そのパートナーの存在が、具体的な職種を超え、慰めとなり、力となり、支えとなる。そこにはパートナーの深い愛情と思いやりがあるからです。

同じように、神もまた私たちに深い愛情を抱き、思いやりの心をもって、私たちに寄り添ってくくださるのです。

2022年9月16日金曜日

大切なあなたへ

         「大切なあなたへ」

孫が生まれて、娘が孫を連れてしばらくの期間を過ごすために帰ってきました。生まれて一週間足らずの赤ん坊は実に小さく、その指などはまるで人形の指のようです。しかし、どんなに小さくても、その部分部分は完全です。まぎれもない一人の存在として、それこそ小さな寝息を立てながら、母親の腕の中で眠っているのです。                 

 私は、その孫の姿を見ながら、何とも不思議な気持ちになりました。もちろん、その気持ちは私の三人の子供が生まれたときにも感じたものだったのですが、子供たちが成長し、私自身も日々起こってくる様々なことで忙しくしている中で忘れてしまった不思議な気持ちです。

 本当に壊れてしまいそうな小さな赤ん坊です。けれども、そこには紛れもない人間が存在している。けれども、その紛れもない人間は、自分では何もできず、ただ周りの人間に頼り、身をゆだね、身を横たえているだけなのです。人間として何かができるというわけではないのですが、そんなことはどうでもよい。ただ、その赤ん坊がそこにいるだけで、心が温かくなり、気が付いたら微笑んでいるのです。

 昔読んだ本に中に、キリスト教の信仰において大切なことは、doingではなくbeingであるという内容が書いてありました。私はその言葉に深い感動を覚えました。Doing、すなわち何かを行うこと、何かを成すことではなく、Being、つまり存在すること、あなたが「いる」ということが大切なのだというのです。

 まさに、そこに「あなた」が存在している。そこに「あなた」が存在してくれている。「あなた」が「いる」ということは、どんなに大切なことであり、素晴らしいことであり、喜ばしい嬉しいことなのでしょうか。

 旧約聖書の出エジプト記3章14節に次のような言葉があります。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

旧約聖書のほとんどの言葉がヘブライ語で書かれていますが、この「有る」という言葉は、ヘブライ語では「ハーヤー」という言葉です。英語に訳すとBeです。ですからこの「「わたしは、有って有る者」という言葉の意味は、私たちを存在させるのは神である。私たちをかけがえのないBeingとしてくださっているのは神というお方なのです。

2022年6月26日日曜日

「渇きに潤いをもたらす水」

 2020年6月第四主日礼拝説教
「渇きに潤いをもたらす水」 

旧約書:詩篇1篇1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書4章1節から15節
使徒書:ヨハネによる黙示録21章1節から8節

 

 今日の礼拝説教の中心となる箇所はヨハネによる福音書の4章1節から15節ですが、この個所は、4章1節から31節までのあるイエス・キリスト様とサマリアの女性の物語の前半部分になります。
 そののイエス・キリスト様とサマリアの女性の物語の中心は、今日の前半部分というよりも、むしろ後半部分にあり、その主題は礼拝ということであろうと思われます。そういった意味では、このヨハネによる福音書4章1節から15節は、この物語の中心ではないと言えます。

しかし聖書の面白いところは、その中心ではないところ、主題でない部分にも学ぶべき物語があると言うことです。ですから、この4章1節から15節のイエス・キリスト様とサマリアの女性との間のやり取りの中にも、一つの物語がある。では、その物語りは何かというと、渇きとそれを潤す水の物語です。この渇きは、肉体の渇き、いうなれば生理的な渇きだけでなく、人生の渇き、魂の渇きでもあります。では、その渇きを潤す水は何か。それをこのヨハネによる福音書4章1節から15節の物語は、私たちに教えるのです。

 物語は、サマリアの地から始まります。イエス・キリスト様の一行はバプテスマのヨハネより多くの弟子を作り、洗礼を授けていました。そのことは、このイエス・キリスト様とサマリアの女も物語の前に記されていることです。
 そして、そのことパリサイ派の人々の耳に入ったことを知ったイエス・キリスト様は、ユダヤ地方を去りガリラヤに向かいます。このユダヤ地方というのは、エルサレムの南西に広がる地方で、死海があるあたりです。それに対して、ガリラヤは、エルサレムを北にあるガリラヤ湖を有する地方です。そのユダヤ地方からガリラヤに移動するには、直線距離にするとざっと150kmぐらいです。。
 当時のイスラエルの国は南北に190kmぐらいであったと言いますから、このときイエス・キリスト様は、イスラエルの国をほぼ縦断するような距離を、ユダヤ地方からサマリア地方を通り、ガリラヤへ向かって歩いていたことになります。。

 みなさんもご存じのように、イエス・キリスト様の時代には、ユダヤ人とサマリア人は決して仲が良いとは言えない関係でした。言わば、渇き切った関係です。ですから、本来ならサマリアを通らずにガリラヤの向かいたいところですが、そのような道を行きますと、サマリア地方通って行く道の倍近くかかったようです。しかし、イエス・キリスト様はサマリアを通る最短ルートを選ばれた。きっと急いでおられたのでしょう、

 このようにイエス・キリスト様がそのように急がれたのは、パリサイ派の人々が、イエス・キリスト様がユダヤ地方で洗礼を授けていると言うことを知ったからであろうと思われます。と申しますのも、ヨハネによる福音書の3章25節には、バプテスマのヨハネの弟子とユダヤ人の間で清めのことで論争があったと記されているからです。バプテスマのヨハネは、罪を洗い清めるための洗礼を授けていました。そのバプテスマのヨハネの弟子とユダヤ人の間に清めの論争があったというのですから、おそらくその論争は、洗礼を巡っての議論であったと思われます。
 つまり、そのような論争と対立とに巻き込まれないように、イエス・キリスト様は、足早にユダヤの地を去って、サマリアの地を通り、イエス・キリスト様と弟子たちの故郷であるガリラヤ後に向かったと思われるのです。そして、その道のりの途中であるサマリアの地で出来事が起こった。それは、イエス・キリスト様の弟子たちが食べ物を買うために町に出かけて行き、イエス・キリスト様がひとりで町はずれにおられたときのことです。そこに一人の女性が水を汲みに来た。水を汲みに来たというのですから、おそらくイエス・キリスト様は井戸の傍らで弟子たちを待っておられたのでしょう。

 その女性に、イエス・キリスト様は声をかけた。

   イエス・キリスト様:「もしもし、そこのご婦人。すみませんが、私に水を飲ませてくだいませんか」

声をかけられた女性は、イエス・キリスト様を見て怪訝に思います。イエス・キリスト様の風体をみると明らかにサマリア人とは犬猿の中にあるユダヤ人と思われる。そこで、サマリアの女性は

  サマリアの女性:おやおや。ユダヤ人のあなたがサマリア人の私に
          水をもませてくれだなんて、
          私たちサマリヤ人とあなた方ユダヤ人が仲が悪いのは
          ご存じでしょう。そのサマリヤ人の私に
          いったいどうしてそんなことを頼むのですか。

と答える。するとイエス・キリスト様は

  イエス・キリスト様:なるほど、あなたが不思議に思うのももっともだ。
            確かに私たちユダヤ人とサマリア人とは、
            仲が悪く互いに交流もない。
            だが、もしあなたが、神様が与えてくださる恵みが
            何であるかを知っていたら、
            そしてあなたに『水をください』と言ったこの私が
            誰であるかを知っていたら、
            あなたの方から、この私に生ける水をくださいと願い求め、
            それをもらうことができたでしょう。

そう言われてサマリアの女性

  サマリアの女性:生ける水をくださるですって。失礼ですがお見受けしましたところ、
          あなたは水を汲むものを持っていらっしゃらない。
          しかし、この井戸は深いのです。
          どうやって、その生ける水とやらを手に入れるのですが。
          それにねえ、自慢じゃないのですが、
          この井戸は私たちの先祖のヤコブが与えてくれた井戸ですよ。
          ヤコブと言えば、もう遠い昔の人。そんな昔から、この井戸は
          枯れることなく、
          私たちののどを潤してくれているありがたい井戸なんですよ。
          あなたは生ける水をくださるですっておっしゃいますが、
          あなたはヤコブよりお偉い方なんですか。

どうも、このサマリアの女性の言葉には、少々険がある。しかし、イエス・キリスト様はそんな険のある態度など一行に気に解せず

  イエス・キリスト様:そうです。確かにこの井戸は、
            私たちの先祖ヤコブが与えてくれた井戸です。
            でも、いくら井戸が由緒ある井戸でも、
            この井戸から汲んで飲む人は、必ずまた渇く。
            だからなんどでも水を汲みに来るのでしょう。
            でもね、私が与える水を飲むものは、決して渇かないのです。
            だって、私が与える生ける水は、その人の内で泉となり、
            永遠の命に至る水が湧き上がるのですから。

そう言われて、サマリアの女性は、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここに汲みにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」と言ったと、聖書にはそのように記されています。

 しかし聖書の文字を読むだけでは、このサマリアの女性が、真摯な態度で「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」とイエス・キリスト様に願い求めたのか、「そんなものあるなら、実際に私に見せて、与えてみなさいよ」と皮肉たっぷりに懐疑的な態度で言ったのかはわかりません。そこは想像するしかないのです。

 ただ私は、その後に続く、4章16節以降のやり取りを見ますと、まだこの時点では、このサマリアの女性は、イエス・キリスト様の言われた「生ける水」という言葉の真意を理解していなかったと思いますし、また、イエス・キリスト様がどのようなお方であるかについて、理解していなったろうと思うのです。ですから、おそらく皮肉たっぷりに懐疑的な態度で言ったのだろうと思います。
 実際、ここに至るまでのイエス・キリスト様とこのサマリアの女性のやり取りは、かなりチグハグでかみ合わない会話になっています。その原因が、このサマリアの女性が、イエス・キリスト様が言われた生ける水が、のどの渇きを潤す水、つまり物質的な水のことだと思い込んでいるからです。

 しかし、それもやむを得ないことかもしれません。そもそも、このイエス・キリスト様とサマリアの女の会話は、イエス・キリスト様が、このサマリアの女性に「水を飲ませて下さい」と言われたことに端を発しています。聖書は、その出来事は昼の12時頃であったと言いますから、イエス・キリスト様は本当に喉が渇いていたのだろうと思います。だから、このサマリアの女性に飲み水を求めた。
 話が、そのような所から始まっていますから、当然、このサマリアの女性はのみ水の話だと思ってもしかたがありません。おまけに、生ける水という言葉は、同時のユダヤ・サマリヤの人々にとっては、どこかに溜まった水ではなく、泉からこんこんと湧き上がる水、あるいは流れる川の水を指す言葉でした。そして溜まって流れのない水は死んだ水と呼ばれていた。溜まって流れのない水は、腐っていき飲むことができないからです。

 そのような中で、イエス・キリスト様の言葉を誤解しても仕方のないことなのです。しかし、それでもなぜ、サマリアの女性に「水を飲ませて下さい」と言われたイエス。キリスト様が、突然、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と言ったのか。

 もちろん、それは水を飲ませてくださいと言ったイエス・キリスト様に、サマリアの女が「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリアの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言ったからです。そしてそこには、ユダヤ人とサマリア人の間にある深い溝がある。
 その溝がどうして売れたのかを話し出しますと長くなりますので、今日は割愛しますが、ともかく、長い歴史の中で、ユダヤ人とサマリア人の間には確執が生み出だされ、それが不和を生み出し、偏見を生み出し、そして断絶を生み出している。

 その偏見と断絶が、イエス・キリスト様を拒絶させている。しかし、イエス・キリスト様は、彼女に近づいている。歩み寄っているのです。だから、このサマリアの女性に声をかけ話しかけている。当時のイスラエルの民の中にあって、ラビと呼ばれる宗教的指導者が女性に話しかけると言うことはなかったそうです。話しかけているところを見られると、どんなに名声のある人でも、その名声は地に落ちてしまったのだそうです。しかも相手は、ユダヤの民とは不仲なサマリアの女性なのです。
 そこには、いざこざや争、そして敵対心をも乗り越えて、和解の出来事を取り除く和解の出来事、ユダヤ人であろうとサマリア人であろうと、敵対する者であっても、分け隔てなく救いの出来事をもたらそうとするイエス・キリスト様の姿を見ることができます。
 
断絶してしまった関係、それは、まさに死んでしまった関係です。関係における死、聖書によれば、それは断絶なのです。神と人との関係の断絶、人と人との関係の断絶、その死んでしまった関係を生きた関係に回復させる業、それがイエス・キリスト様の救いの業なのです。 
 その生きた関係への回復は、神と人との関係においては、私たちに永遠の命という神の命を与え私たちを神の子とします。そして、人と人との関係においては、互いにむつまじく愛し合い支え合う関係を生み出すことなのです。それが、死んだ関係ではなく生きた関係です。

 イエス・キリスト様は、そのような神を信じる者の生きた関係、生きた生き方へ、偏見と敵愾心によって壁が作られた死んでしまったような水の中に留まっているサマリアの女性を導こうとしておられる。だから、滾々と湧き上がる泉から、滔々と流れ出る生きた水を与えると言うのです。

 みなさん、先ほどお読みした旧約聖書詩篇1篇の2節3節は、協会共同訳聖書の訳では

主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。

 となっています。そこには神と結び合わされ、神の教え、神の言葉御耳を傾ける人は、滾々と湧き上がる泉の生ける水、豊かに滔々と流れる生ける水をその根から吸い上げ、その葉もかれることのない命の中で、豊かな実を結ぶものとなって生きる者となると述べられている。
 荒野という水のない荒涼とし、渇き切った風景を背負ったユダヤの人々やサマリアの人々にとって、尽きることのない泉や川の流れは、まさに命を与え豊かな実りをもたらすものの象徴です。そのような、豊かないのちのある関係を、渇き切った神と人との関係に、また人と人と関係にもたらそうと、イエス・キリスト様はこのサマリアの女性を招き、また私たちを導いておられるのです。

 そういった意味からいえば、生ける命の水に与ること、それがイエス・キリスト様がもたらす救いだと言えます。まただからこそ、先ほどお読みしました黙示録21章の6節7節では

   事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。
   初めであり終りである。
   かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
   勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。
   わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる

というのです。

 みなさん、死は悲しみをもたらし、痛みをもたらします。神と人との関係が、人と人との関係が死んだ水の中に留まり続ける限り、そこには涙という実を結んでいく。しかし、いのちの泉から湧き上がる生ける水を飲むときに、神は「人々の目から涙なみだを全まったくぬぐいとって下くだる。もはや、死しもなく、悲かなしみも、叫さけびも、痛いたみもない。先さきのものが、すでに過すぎ去さったからです」という事態を私たちにもたらしてくださるのです。

 その生ける水をくみ上げ、それを飲む者、それはイエス・キリスト様を信じる者です。その人には神と人と、人と人との関係に和解という喜びという豊かな実りが訪れるのです。イエス・キリスト様は、その神と人との和解、人と人との和解という喜びの実りにサマリアの女性を、そして私たちを導いておられる。ぎずぎすした関係に潤いをもたらす、新しい関係に私たちを導いておられるのです。そのことを心に思い描きつつ、しばらく心を静めて、神を思いう静まりの時を持ちましょう。

2022年6月17日金曜日

ウルトラマン、三日会わずんば刮目してこれを見よ!

    「ウルトラマン、三日会わずんば刮目してこれを見よ」      

 今、ちょっとした話題の映画「シンウルトラマン」を見てきました。私のような年代の人間にとっては、ウルトラマンは原体験に組み込まれています。それこそウルトラマンと共に育ってきたと言ってもいいのかもしれません。
 そんなわけで、ウルトラマンがあたらしく「シンウルトラマン」となって映画化されたと聞いては、ノスタルジーも手伝っていてもたってもいられなくなり、先日、映画館に足を運び見てきました。映画会社の思うつぼです。

 それでも映画館に入り、ワクワクしながら「シンウルトラマン」の上映を待っていました。やがて上映が始まります。私のワクワクは頂点に・・・・。ところが、映画が進んでいくにつれて、私のワクワクはモヤモヤに変わっていきました。そして「違う!これは私の知っているウルトラマンではない」という思いが心に広がっていくのです。

 考えてみれば、映画のタイトルが「シンウルトラマン」なのですがら、私の思い描くウルトラマンと違っていても当たり前なのですが、しかし、ウルトラマンはウルトラマンです。スクリーンに映っているウルトラマンの姿は、ちょっと細身になった感じもしますが、まぎれもないウルトラマンの姿です。スペシューム光線だって発します。

 けれども、物語が持つ雰囲気も、物語の展開の仕方も、私が子どものころに夢中になってみていたウルトラマンとは違うのです。見た目は同じなのですが、その中身はすっかり変わってしまっている。それが、見ている私に、モヤモヤとした気持ちを与え、結局がっかりした気持ちを引きずって映画館から帰ってくることになったのです。

 この私のモヤモヤ観とガッカリした気持ちは、見た目と本質とが食い違っていることに由来しています。言葉を換えれば、本来ある姿と、目の前にある姿の間に違いが生じてしまっていると言うことです。

 私たちは、しばしば現実の自分と自分が理想とする自分の姿の間に違いがあり、その差の大きさにガッカリすることがあります。また、時には周囲が私に期待する姿と、その期待に応えられていない自分の姿に苦しむことだってあるでしょう。そんなときに、私たちはありのまま間の自分を受け入れることがなかなかできなくなってくるのです。

 そして、自分自身が自分自身の、今のありのままを受け入れらなくなってしまってくるといったことが起こってきます。

 しかし、神は私たちの今を、ありのまま受け入れてくださいます。ありのままのあなたでいいといって、神は、私たちを受け止めてくださうのです。もちろん、だからと言って神は、私たちに期待をしていないということではありません。神は、私たちに期待をしてくださっています。私たちが人間として成長し、私たちが豊かな人間性をもった愛に溢れたものとなっていくことを期待してみています。

 確かに神は、そのように私たちに期待をもちつつも、しかし、今の私を、ありのまま受け止めてくれているのです。今の、あなたは、その今のあなたのありのままでよい。明日は、明日のありのままのあなたでというのです。

 今日の私は、明日の私とは同じではありません。私たちは気が付きませんが、たとえば見た目でも、今日の私よりも、明日の私のほうが神は少し伸び、爪だって少し伸びている。私はもう初老の域ですから、背は縮むことはあっても、伸びることはありません。しかし若い人なら、毎日毎日背も伸びているでしょう。 私たちは、必ず、一日、一日、成長しています。変化があるのです。 

 それは、私たちの心や精神といったものも同じです。私たちの心や精神も、昨日の私と今日の私は違っている。そして私たちの心も精神も確かに、日々わずかづつであっても成長していくのです。

 神は、そのわずかな成長を、「今日のあなたは、今日のあなたのありのままでいい」といって受け止め、忍耐強く見守り、支えてくださっているのです。なぜなら、私たち人間が人間であるその本質は、私たちが神によって神に似た者になるように作られた者だからですだから、心配することはないのです。

 聖書の中のコリントの信徒への手紙1の3章6節に「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」という言葉があります。神は私たちに愛を注いでくださり、成長するのを忍耐強くじっと見守ってくださっているのです。

 そして、私たちの心がその神の注がれる愛を受け止めるならば、私たちも必ず変わります。ウルトラマンだってシンウルトラマンに変わったのです。私たちが、私たちを愛する神の愛の中を生きるならば、私たちは必ず愛に満ちた神の姿に似た者へと成長していきます。なぜならば、私たちの本質には、神に乗せられた神のかたちが刻まれているからです。

 そう思うと、「シンウルトラマン」を見た後のモヤモヤ観も、少し薄れた感じがします。「ウルトラマン、三日会わずんば刮目してこれを見よ」ということなのかもしれません。

2022年6月5日日曜日

2022年聖霊降臨日(ペンテコステ)記念礼拝「主なる神が我らの弁護人」

 

22年聖霊降臨日(ペンテコステ)記念礼拝

        「主なる神が我らの弁護人」

                         202265

旧約書:申命記7章6節から8節
福音書:ヨハネによる福音書1518節から27
使徒書:使徒行伝21節から6

 今日はペンテコステ、すなわち聖霊降臨日です。イエス・キリスト様は、十字架に架けられ、三日目に復活し、よみがえられました。そのよみがえられたイエス・キリスト様は、40日間弟子たちに現れ、弟子たちに神の国のことについて教えられ、天に昇られたのです
 そのよう様子は、使徒行伝1章に書かれています。このイエス・キリスト様が天に昇られたという出来事があった後、イエス・キリスト様の弟子たちが集まって祈っていました。その時、突然、激しい風が吹いてくるような音がして、炎のような舌が分かれて現れ、弟子たちの上に留まるという出来事があったのです。
 すると弟子たちは、聖霊に満たされ。聖霊が語らせるままに、他国の言葉で話だし、イエス・キリスト様の事を、エルサレムに来ていたあらゆる国の人に伝えはじめ、そこから世界中に教会が建てあげられるようになった。そのことが、使徒行伝21節から6節に記されています。そしてそのことを記念する日がペンテコステなのです。

 私たちは、このペンテコステを聖霊降臨日と呼びますが、先日、あるキリスト教の雑誌に、このペンテコステの出来事を巡って、二つの立場からの神学的理解についての議論が記されていました。
 それは、このペンテコステの出来事は聖霊のバプテスマだという主張と、これは聖霊のバプテスマではなく、聖霊の満たしの出来事だという異なる主張による議論でした。このように一つの出来事でも、教派や育ってきた伝統でその解釈が違ってくるということはよくあることです。だからキリスト教に様々な多様性がある。多様性があってよいのです。
 しかし、そのような多様性の中にも一致はある。このペンテコステの出来事に対する神学的な理解には違い、すなわち多様性があっても、それでもなお、私たちひとり一人に聖霊なる神が与えられているという事実において、私たちは一致することができるのです。

 聖霊なる神が私たち共にいてくださる。この聖霊なる神は、私たちの弁護者です(ヨハネによる福音書1526節)。口語訳聖書や新改訳2017では助け主と訳していますが、もともとの原語である弁護者という意味を持つギリャ語はπαράκλητος(パラクレートス)という言葉であり、ホーリネス教団の公用聖書である協会共同訳は、弁護人と訳しています。

 私たちは、聖書がこの聖霊なる神を弁護人と呼んでおられると言われると、即座に聖霊なる神は、罪びとであり私たちを、父なる神の前に弁護してくださるお方であると、そう思っいがちです。実は、私もそう思っていました。しかし、聖霊なる神は弁護人であると書かれている文脈を見ていくと、どうも、そうではないことがわかってきます。

この弁護するものとは、聖霊なる神が、私たちが罪びとであることを、父なる神に弁護してくださると言うのではなく、むしろキリストを信じる者を、「この世」が迫害する中で、「この世」というキリスト教に敵対し、クリスチャンを迫害する者たちに対して、彼らが証する彼らの信仰を、聖霊なる神が弁護してくださるというニュアンスなのです。
 だからこそ、先ほどお読みした使徒行伝1章にある、炎のような舌が分かれて現れ、弟子たちの上に留まるという出来事があった後に、弟子たちが、聖霊に満たされ、他国の言葉で話だし、イエス・キリスト様の事を伝えはじめた。その時に、聖霊なる神が、彼らの弁護者となり、彼らの言っていることは正しいのだと弁護して下さった。そこからイエス・キリスト様の福音が世界中に広がり、そして信徒の群れである教会が建てあげられ始め、今日に至るというキリスト教会の歴史があるのです。

 しかし、だからといって、この弁護人である聖霊なる神は、イエス・キリスト様の事を、言葉をもって延べ伝える人たち、たとえば伝道者と呼ばれるような人たちだけに与えられているわけではありません。クリスチャンが、「この世」の中にあって、クリスチャンとして、信仰をもって生きるとき、聖霊なる神は、私たちと共に生き、私たちを支えてくださるお方です。

 イエス・キリスト様を証するということは、言葉で証するだけでなく、クリスチャンがクリスチャンとして生活するだけも、それはイエス・キリスト様を証することになります。私たちがこうして毎週神を礼拝しながら生きること、それだけも、私たちは神を証し、イエス・キリスト様を証しているのです。
 あるいは食事の際に、祈りをもって神に感謝すること、そういった一つ一つのことが神を証し、イエス・キリスト様を証するのです。そういった、日々の生活の一つ一つの積み重ねが、神を証し、イエス・キリスト様を証する生活となっていく。みなさん、クリスチャンがクリスチャンとして生きて行くということそれだけで、私たちはイエス・キリスト様というお方を伝えるものとなっている。神に役立つ者となっているのです。

 しかしみなさん、クリスチャンがクリスチャンとして「この世」の中で生きて行くということは、決して簡単なことではありません。様々な軋轢が生まれることもありますし、心の中で葛藤を覚えることもあるでしょう。

 たとえば、毎週神を礼拝するために教会に集まるということだって、決して簡単なことではありません。それができないことだってある。また、食事の際に感謝の祈りを捧げてから食べ始めるといっても、レストランのような人目のあるとことでお祈りすることが、何か人と違ったことをするようで恥ずかしく感じてなかなかできない人もいる。
 かつて私がそうでした。若いころの私はクリスチャンの仲間と一緒に食事に行くようなとき、食事をすることそれ自体は楽しいのですが、みんなで食事をするのですから、誰かが代表者になって声を出して祈る。そうすると、周りが変わった連中がいるという目で見るのではないかと思えて、祈るのが嫌だった。ましてや、その祈りをしなければならないときなどは、本当に嫌だった。そもそも、クリスチャンの中であっても、人前で祈るのが好きではなかったのです。
 要は、人の見る目、人が自分をどう見るのか、ひいては人が自分をどう評価するかが気になったのです。私の友人が、日本には世間様という神様がいると言いました。そして、確かに世間様はいる。世間様、つまり人の目というものの圧力に、私たちは押しつぶされそうなりながら生きているというたことがある。そしてかつての私もそうだったのです。だから私は、そのような自分を、信仰者として、クリスチャンとして心の中で「だめな奴だ」と思っていました。

だからこそ、そうですみなさん、だからこそ私たちには弁護人が必要なのです。助け主が必要なのです。それは、できない私を、叱咤激励し、できないことをできるようにしてくれる助け主でもなく、できないものを、父なる神に対して、この人は、罪びとです、この人はだめなクリスチャンですが、どうぞ許してやってくださいといって弁護する弁護人でもありません。 

確かに私たちは、あの炎のような舌がひとり一人の頭に上に留まったペンテコステの出来事の直後から、イエス・キリスト様のことを語り伝えて行った使徒たちや最も原初の教会の人々の勇ましい姿をみると、そこに私たちを励まし、力づける聖霊なる神の姿を見るような思いがします。
 しかし、神様は、またイエス・キリスト様はそのような勇猛果敢な弟子だけを求めているのではありません。むしろ、人間の目には弱さを持った人や欠けがあると思われる人も神の民として求めておられるのです。
 そして、大丈夫だよ、安心しろと慰め、支えながら神を信じ、イエス・キリスト様を信じるクリスチャンとしての信仰生活を生かしてくださる。いえ、そういった人こそ、神は神の教会に必要な人だと言って求めておられるのです。

考えてみますと、イエス・キリスト様がお生まれになるまでの旧約聖書において、神の歴史を担ったイスラエルの民は、決して大きな、力のある人々ではありませんでした。むしろ、数の少ない少数者であり、力のない民であったからこそ、神はイスラエルの民を神の選びの民として選び出し、神の救いの物語を担う民となさったのです。
 しかも、彼らは決して信仰深い人たちであったかといえば、必ずしもそうではない。むしろ彼らの歴史には、信仰者としてはとても褒められないような歩みが数多くみられるのです。そして、社会的にはいつも弱者で虐げられてきた民なのです。にもかかわらず、それでも神は、イスラエルの民を選び、見守り、励まし、支えておられる。そして、イスラエルの民を神の民として育み育てておられるのです。そこには、神の慈しみと憐みがあふれている。 

みなさん、私たちは決して強い者ではありません。弱さを多く抱えたものです。欠けもいっぱいある。また、神を信じて生きているからといって、必ずしも「この世」に評価されるような成功をおさめることもないかもしれません。
 ですから、それこそ私たちを見て、周りの人からは、あれでも神を信じている者なかと言われることもあるでしょう。また、神を信じてもなにも良いことなどないではないかといわれることがあるかもしれません。
 しかしそれでもなお、聖霊なる神は、そのような「この世」という社会に向かい、「この人たちは、まぎれもなく神を信じ、神に愛され、神に養い育てられ、はぐくまれている人だ。神の目に高価で尊い人なのだ」と、声高らかに弁護してくださっている。

 みなさん、「この世」という世界のまなざしは目に見える成果や結果に目を注いでいます。そして、華々しい働きや結果を納める人を称賛し、褒め称えます。しかし、神のまなざしは、「この世」にあって、目立った働きをし、結果を残すことがなくても、ただ愚直に神を信じ、神の言葉に耳を傾けて生きて行く人に注がれて、そのような人を称賛するのです。そして、キリストの体なる教会に必要な人だと言って、教会に呼び集めてくださっている。

もちろん、神を信じ、華々しい活躍をし、結果を残すような人にも、神は目を注いでくださっています。しかし神は、その活躍のゆえに、その成果のゆえに目を注いでいられるのではない。教会における働きは、その賜物の多様性による結果でしかなく、その結果に優劣などなく、結果によって神の評価が変わるというようなものではありません。
 神は、ただ私たちが「この世」にあって小さき者だからこそ、そのまなざしを注ぐのです。華々しい活躍をする人だからではない。人の目から見た強い信仰を生きる人だからでもない。むしろ、「この世」にあって、「この世」から、小さきものとされているにもかかわらず、神を信じ、神の言葉に耳を傾けて生きて行く者であるからこそ、神は私たちを顧み、私たちに目を注がれるのです。そして聖霊なる神を私たちに与えてくださる。

だから、教会には不必要な人だの誰一人としていない。また、教会には聖霊なる神が共にいてくださらないというような人は誰一人もいないのです。大切なことは、私たちが、そのことを愚直に信じられるかどうかということです。
 そして、そのことを愚直に信じるということは、けっして自分は「ダメだ」と自己卑下しないということです。自分はダメなクリスチャンだとか、自分は信仰の弱いものだと思わないことです。そのような思いは、神と「この世」に向かって、「この人は、神に愛され、神の祝福に与る人だ」と弁護してくださる弁護人である聖霊なる神の言葉を否定することなのです。

 たとえ、誰かが、そして「この世」が、どんなに私たちを卑下し、認めず、ダメな奴だと言おうとも、聖霊なる神は、声を大にして、「この人は、神に愛され、神の祝福を受け継ぐ,高価で尊い人なのだ」と弁護してくださっているのです。そのことを覚え、神に感謝して生きて行くものでありたいですね。静まりの時を持ちましょう。

2022年5月29日日曜日

礼拝説教「謙遜な心の物語」

 礼拝説教「謙遜な心の物語」                       2022.5.29

旧約書:詩篇8
福音書:ヨハネによる福音書322節から36
使徒書:使徒行伝の2017節から20

 今日の礼拝の説教の箇所はヨハネによる福音書322節から30節です。この個所は、22節から30節です。この個所に記されている物語は、イエス・キリスト様とその弟子たちがユダヤの地で洗礼を授けていた時のことを伝えています。

 バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエス・キリスト様とその弟子たちが洗礼をしているのを知って、自分たちの師匠のところにやって来て、そのことを報告します。

 「先生、あなたが洗礼を授けた、あのナザレのイエスが、先生に断りもなくヨルダン川の向こう側で、勝手に自分たちで洗礼を施しています。しもですよ、しかも。こともあろうか、あっちの方に送の人が行ってしまっているんです。これって、おかしく思いませんか。ねえ先生、そう思いませんか。」

 バプテスマのヨハネの弟子たちは、悔しかったんでしょうね。こと洗礼に関しては、自分たちの先生の方が本家本元なのです。それが、気が付いたら、そのバプテスマのヨハネから洗礼を受けたナザレのイエスという男が、自分たちで勝手に洗礼を施すようになり、しかも自分たちよりも多くの人たちを集めている。

 だから本家本元の弟子としては、悔しくて仕方がないと思ってもやむを得ないことなのかもしれません。折しも、そのような時に、そのバプテスマの弟子たちとユダヤ人の間に、清めのことで論争があった。

 この論争で主題となったのは清めのことです。この清めというのは、私たち日本ホーリネス教団が言う聖めというものとは、言葉は同じですが、内容は少し違います、

 私たちの教団が言う聖めというのは、いわゆる聖化というもので、私たちの内に聖なる神の聖なる御性質あずかり、それよって神に似た者となっていくということで、ギリシャ語ではハギアスモス(άγιασμος)という言葉で表される聖めです。それに対して、今日の聖書の箇所の清めは、ギリシャ語ではカサリスモスκαθαρισμοςという言葉で、罪に汚れたその人間の罪や汚れを洗い流しきれいにするという意味での清めということです。

 その罪と汚れを洗いきよめるカサリスモスκαθαρισμος)としての「清め」に関して、ユダヤ人とバプテスマのヨハネの弟子たちの間に論争があったというのです。

 ユダヤ人:おい、お前さんバプテスマのヨハネ弟子だってな。知ってるか。あのナザレのイエスって男が、最近、お前さんたちみたいに清めの洗礼を施しているらしいがが、あちらさんは、たいそう人が集まっているみたいだぜ」

 バプテスマのヨハネの弟子:そうみたいですね。でも、あのナザレのイエスも、うちの先生から洗礼を受けたんですよ。ですからあのナザレのイエスよりも、うちの先生の方が偉いにきまってます。

 ユダヤ人;確かに順番から言えば、そうだろうが、しかし、あれだけナザレのイエスの方に人が集まっているんだ。だとしたら、ナザレのイエスは、お前の先生を超えてしまったんじゃないか。だからナザレのイエスの施す洗礼の方が霊験あらたかで、ナザレのイエスの方で洗礼を受けた方が、神様の前にしっかりと罪が洗い流されるじゃないのかい。バプテスマのヨハネの洗礼は、ナザレのイエスほど、効果が見られない。だからみんななされのイエスの方にいってしまうんじゃないかね

バプテスマのヨハネの弟子。なんてこと言うんですが。洗礼運動はもともとといえば、うちの先生が始めたことです。うちが本家本元なんだ。うちの先生の洗礼に罪を洗い清める力がナザレのイエスにおよばないなんて、そんなことはありっこない。

ユダヤ人:そんなこといったって、数はあっちの方が多いんだ。民衆ってものは正直なもんだよ。

きっと、こんな会話がされていたのではないかと思います。だからこそ、バプテスマのヨハネの弟子たちは、「先生、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼(バプテスマ)を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」とバプテスマのヨハネにご注進するのです。そしてその言葉の背後には、「先生、この際ですから、先生からあのナザレのイエスに、ガツンと一言いってやってください」という思いがある、

私はなんだかそんな思いで、この場面が目の前に浮かんでくるのです。そしてその弟子たちの言葉を聞いたバプテスマのヨハネは

 「お前たちよく聞きなさい。神の業というのは、神の権威を神から与えられた者がするものだ。私はそのような権威を神から与えられているわけでない。だから私は、神が羅油注がれた王でもなければ祭司でない。また預言者でもない。私はメシアではないのだ。

ただ私は、自分自身の姿を見、人々の姿を見て、私たちがどんなに神様から離れて生きている罪深い汚れた者であるかということだけはわかる。そうだろう、私たちがこの世でしていることを見ていたら、おまえたちだってそう思わざるを得ないだろう。だから、その私たちの罪や汚れを洗い流してくださいと願いながら、人々に洗礼を授けているのだ。


 だが、私が、洗礼を授けたあのナザレのイエスというお方は違う。あの方は、この世の罪を取り除くお方だ。あの人のなさっていることを見てごらん。あの方は神がつかわされたお方だ。神の権威で洗礼を授けている。
 だから、私が人間の思いや願いから洗礼を授けているのとはわけが違う。神の権威で洗礼をさずけているのだ。私の洗礼は、罪を洗い流すために水で洗いの清めκαθαρισμος)るためのものが、あの方は、私たちを聖なる神の聖なるご性質に与らせ、私たちを聖なる神の命を与えるために聖霊によって洗礼を授けているのだ。 

 私は花嫁が花婿を待つように、あのナザレのイエスというお方が来るのを待ち望んでいたのだ。その方が来られ、神の業を行っていることを、どうして喜ばないでいられようか。
 お前たちは、あのお方のもとに人々が多く集まっているのを見て、悔しがり、心配しているのだろう。だが、それでいいのだ。大切なのは、人々があのお方のもとに集まり、神の命をいただき、神の命を生きる真の神の民になることだろう。だから、私は滅び、あの方が栄えるということが大切なことなのだ」。

 まさに、バプテスマのヨハネの

27:人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。28:『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。29:花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。30:あの方は必ず栄え、私は衰える。

という言葉には、そのようのバプテスマのヨハネの思いが込められているように、私には思えるのです。そう思えて仕方がないのです。そしてそこに、バプテスマのヨハネの謙虚な姿を見るような思いがします。

 バプテスマのヨハネという人は、本当に面白い人で、聖書のある個所を読むととても変人だというイメージがあがり、ある個所ではとても激しい気性の人であるイメージがあったり、また別の箇所では、頑固で生真面目な一本気の男のイメージがあったりと、様々な印象を与えてくれる人です。そしてここでは、謙虚な人だなというイメージがわいてくる。

 バプテスマのヨハネは、イエス・キリスト様が世に出てくる以前は、ユダヤの民の中で洗礼運動をおこし、それなりに知られた人物であり、バプテスマのヨハネのところに多くの人がやって来て、洗礼を受けていました。ですから、それなりに隆盛を極めたと思われます。それがイエス・キリスト様に取って代わられそうになっているのですから、バプテスマの弟子たちの悔しい気持ちはわからないわけではありません。

 しかし、バプテスマのヨハネ自身は「あの方は必ず栄え、私は衰える」といって、その事実を受け止めているのです。それは、彼自身がちゃんと自分自身の役割を知り、自分が何者であるかを知っているからです。

 ふつうは、自分が有名になり、成功をおさめ、周りから賞賛の言葉を浴びせられるようになりますと、なんだか自分が偉くなったような気持になるものです。もちろんそうでない方もいらっしゃるだろうと思いますが、しかし、多くの場合、高慢になり、傲慢な振る舞いをするようになってくる傾向の方が多いのです。

 しかし、バプテスマのヨハネは、ちゃんと自分は『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』という自覚を持ち、それを忘れないでいるのです。私が主役ではなく、主役はイエス・キリスト様で、私は露払いに過ぎない者にすぎないのだということがちゃんとわかっている。

 自分自身を知るということは、私たちが謙遜になることのためには、とても大切なことです。それは、人と比べて自分を見ることによっては本当の自分自身の姿を見ることはできません。比べる相手によって、自分はだめなものだとか、自分はなかなか大したもんだとか、自己評価は変わってきます。

 しかし、神の前に自分を言う存在を置き、イエス・キリスト様というお方を仰ぎ見ながら生きるとき、どんなに成功をおさめ、名声を得、財産を築いた者であっても、謙虚になり、謙遜なものにならざるを得ないのではないかと思います。しかし、それでもなお、神は私たちを愛してくださっています。いやむしろ、そのような謙虚な人を神は喜んでくださっている。だからこそ神は、バプテスマのヨハネを、イエス・キリスト様を証する者としてお選びになったのです。

 先ほどお読みしました旧約聖書の詩篇8篇では、まさに神の創造した自然の中に立つとき、大空をも創造された神の前では、いかにちっぽけな存在であるかという、自己に対する築きがあります。その気づきは、同時に神がいかにその小さな者に、神がその大自然を治めるという大きな働きを与えてくださっているかに気づくのです。

それは、謙遜なものだからこそ気付く気づきです。それは、神の独り子であるイエス・キリスト様の前に立ったバプテスマのヨハネの『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』という気付きでもあるのです。そして、その気づきがあるからこそ、「あの方は必ず栄え、私は衰える」ということを、心から喜ぶことができる

そして、そのような思いは、パウロが使徒行伝の2017節から20節で、ミレトスにエペソの強化の長老と立を呼び寄せた際に、長老たちに語った「「アジア州に足を踏み入れた最初の日以来、いつも私があなたがたとどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。19:すなわち、謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」という言葉の中にも読み取れるものです。 

みなさん、私たちは、神の前に、また神の独り子なるイエス・キリスト様の前には、どんなに優れた能力のある人でも、力のある人でも、ただの小さな人間にすぎません。しかし、そのことを知って、心から神に仕えていく者を、神は尊び、喜んでくださり、用いてくださるのです。 

それは、神が、私たちを愛してくださっているからなのです。その神の愛を覚え、しばらくの間静まりの時を持ちます。静まりましょう。

2022年5月18日水曜日

おお、神対応!!

               「おお、神対応!!」

 最近、若い人の会話のなかで「神」という言葉をよく聞きます。どうやら、とてもすごい能力を持つ人や、とても素晴らしいことをしたときに、「~って神だよね」とか「神対応」というような言い方をするようです。
 このような言葉の使い方は、ある意味スラング(俗語)であって、本来の神と言葉が指し示す意味とは違っています。しかし、全く間違っていると言って否定することもないかなと思います。いやむしろ、なかなかセンスある使い方ではないかとさえ思います。
なぜならば、私たち人間は、神に似た者となるために、神の像(かたち)を持つ者として造られているからです。

 聖書は旧約聖書と新約聖書の二つから成り立っています。旧約聖書はキリスト教会で神の独り子と信じられているイエス・キリスト様が誕生する以前のユダヤ人の歴史を通して表された神の物語が記されています。それに対して新約聖書はイエス・キリスト様の誕生以後の教会の歴史を通して表された神の物語が書かれているのです。
 その旧約聖書の一番最初の項目、つまり聖書の一番最初の項目は、創世記と呼ばれるものです。その創世記の1章には、神様が人間をお造りになったという物語が書かれています。そこには、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」と書かれています。つまり、人間は神に似た者になるようにと造られているというのです。

 もちろん、私たち一人一人が神の像(像)であるといわれても、とても私たち一人一人が神を表す者となっているかというと、必ずしもそうだとは言えません。むしろ、私自身を振り返ってみると神の名を汚すようなことを行ってしまっている現実がそこにあります。そのような現実をみると、私たちは罪びとだといわれても仕方がないような気持になってきます。それでも、聖書はあなた方には神の像(かたち)が与えられている言うのです。

 古代ギリシャの哲学者の一人であるアリストテレスという人は、存在する物の全てのものの中には可能態と呼ばれるものがあると言います。可能態というのは種のようなものです。種は小さな粒にすぎませんが、その種を土に植え、水をやり育てていくと、小さな種が大きな木に育っていきます。小さな種の中に大きな木に育て行く基となるものがあるのだというのです。

 このアリストテレスの言葉を借りるならば、今、とても神に似た者とは言えないような私たちであっても、神に似た者となる可能態をもっている。それは神の像(かたち)だ。その神の像(かたち)が、土に植えられ、栄養を与えられ、水を与えられるならば、神に似た姿の大きな大樹のごとき存在へと育っていくということなのでしょう。


 キリスト教会には、神のかたちをあらわした木像や銅像や絵画というものはありません。たしかに、カトリック教会や正教会といった教会に行くと、イエス・キリスト様の像(ぞう)やマリヤ様の像(ぞう)があります。しかし、それらは、人となられた神の独り子の像ぞう)であって、父なる神の姿かたちを表す(像)ではありません。イエス・キリスト様の像(ぞう)は、あくまでも人間の姿となって現れたお姿であって、神そのものの姿は、人間の姿の背後に隠されています。
 このようにキリスト教会で、神の姿かたちを像(ぞう)や絵画用いて表さないのは、旧約聖書の中に記された十戒という十の戒めの中に、「あなたは自分のために(神の)あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない」と書かれているからです。

あるとき、アブラハム。ヘッシェルという人が、ヘッシェルは聖書を学ぶための学校の教授でしたが、そこで聖書を学ぶ学生に、「なぜ神は、神の彫像を造ってはならない」と言われたのかと尋ねました。
 学生は「目に見えない神は、目に見えるもので表すことができないからです」と答えます。この答えは、一般的な理解として受け入れらていた答えでした。ところがヘッシェルは「それは違う」というのです。そして、「神の像は、既に私たちの中に刻まれ、私たち自身が、つまり、あなたが神の像としてあるのだ。だから、人の手で偶像として神の像を造る必要などないのだ」と答えたというのです。

 神様は私たち人間が神に似た者になるようにと神の像(かたち)を私たちにお与えになってくださっています。この神の像(かたち)という種がちゃんと大きな木に育っていくためには、土に埋められ、水や栄養を与えられる必要があります。そのために、教会という土があり、聖書という栄養があり、礼拝という水があるのです。

 「~って神だよね」とか「神対応」と言われるときの「神」は、普通の人にはできないとおもえるほどにすごいという形容詞的な意味です。しかし、その「神」に私たちはなれるのです。その「神」になる種が私たちの内にあるからです。あとは、その種がちゃんと育っていくように、その種を良い土壌にまき、水と栄養を与えてやればよいのです。






2022年4月25日月曜日

22年イースター(復活際)礼拝説教「私たちは、今、立ち上がる」

22年イースター(復活際)礼拝説教「私たちは、今、立ち上がる」   2022417

旧約書:イザヤ書4028節から31節」

福音書:ヨハネによる福音書213節から22

使徒書:ペテロ第一の手紙5章9節から10

 

 今日は、イースター(復活祭)です。このイースターの朝に、私はみなさんと共に神を礼拝することを心から喜び、神に感謝したいと思います。

 この2022年のいーすた記念礼拝に当たり、今お読みしました旧約聖書イザヤ書4031節で言われています「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」という言葉を中心にイースター記念礼拝の説教をお取次ぎしたいと思います。

みなさん、このイザヤ書と言うのは、イスラエルの国がバビロン帝国に滅ぼされ、イスラエルの民が奴隷としてバビロン帝国に捕らえ連れていかれるといういわゆるバビロン捕囚と呼ばれる出来事を中心に描かれています。 

具体的には、1章から39章までがイスラエルの国がバビロン帝国によって滅ぼされ、イスラエルの民がバビロンに捕囚されるという言葉が告げられ、40章以降66章までが、そのバビロン捕囚から解放され、イスラエルの民は故郷に帰り、イスラエルの国が回復されるという神の言葉が記されてます。

国が滅び、外国に奴隷として連れていかれるということは、大変な出来事です。そこには嘆きや、痛みや、悲しみ、苦しみがある。当然、その痛みや悲しみや苦しみをイスラエルの民はその身に負ったのです。 

しかし神は、そのイスラエルの民を決して見捨てず、見放すようなことはなさらない。彼らを、その苦しみや悲しみ、そして痛みと嘆きの中から救い出されるのです。そして、再び立ち上がらせる。 

もちろん国が亡びるということは、そこにそこに荒廃が起こり、神殿は壊され、もはや人の目には回復され復興される望みもないような状況が起こります。それはまさに、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」と言った状況なのです。しかし、そのような状態の中にあっても、神はこう言われるのです。

 

28あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。29:弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。

 

と。そして、このように「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」神だからこそ、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」ということができるのです。

 このイザヤ書に記された神の言葉をまさに奴隷としてバビロンに連れていかれたいイスラエルの人々がこの言葉を聞いたならば、どんなに慰めを得、心が癒されたであろうかと思わされます。そして、この現実の歴史もイザヤ書の言葉通りに、イスラエルの人々はバビロン捕囚と言う苦難の経験の後、バビロニア帝国から解放され、国にかえり、粉々に壊されていた神殿を立て直し、神の都であるエルサレムを再建するのです。そこには、神の癒しと回復の物語がある。

 

 まさに神は、私たちが、いかに弱り疲れ果て、倒れてしまっても、その倒れてしまったところから、神を待ち望み、神を見上げるならば、力を与え、新たなものとし、そこから立ち上がらせてくださる癒しの神であり、回復の神なのです。

 

 その神の回復と癒しの物語は、さらにイエス・キリスト様の十字架の死と復活の物語となって歴史の中に刻まれて行きます。

 先ほどお読みしましたヨハネによる福音書213節から22節は、イエス・キリスト様のご生涯の中でなされた業の中で宮清めと呼ばれる出来事です。実は、この宮清めの出来事は、歴史学的には問題を含んだ箇所で、聖書の中にある四つの福音書の内、マタイやマルコ、そしてルカによる福音書では、イエス・キリスト様のご生涯の最後の一週間のうちに起こった出来事として記されています。

  ところが、ヨハネによる福音書では、イエス・キリスト様がキリストとしての公生涯を歩み始めたれた最初の一週間の出来事として記されている。つまり、聖書に記されたイエス・キリスト様のご生涯の歴史に違いが生じているのです。 

これは、聖書が誤っているとか、聖書が真実を伝えていない、聖書には誤りがあるということではありません。むしろ神は、誤りなく神の御心を私たちに伝えるために、聖書を記した人にある程度の自由を与え、その聖書を記した人の持つ神学的な視点を用いて、神の御心を私たちに伝えているのです。ですから、例えばマタイによる福音書を記したマタイならマタイの視点と神学でイエス・キリスト様のご生涯を捉え、それによってイエス・キリスト様のご生涯の意味と目的を伝えようとする。当然、そこにはマタイが語り聞かせたいと考えている人々、つまり、マタイが想定しているマタイによる福音書の読者層がある。

同じように、ヨハネによる福音書を記したヨハネも、彼が記した福音書を読むであろうと想定した読者層がいる。そして、伝えたい内容がある。それにそってイエス・キリスト様のご生涯の物語りを語っていくのです。ですから、マタイやマルコ、そしてルカによる福音書とヨハネによる福音書の記述に違いがあるから、聖書が間違っているとか、その違いを何とか調整しようとして様々な解釈を加える必要などないのです。ヨハネによる福音書はヨハネによる福音書の視点でイエス・キリスト様のご生涯を語っている。それをそのまま受け取ればよいのです

 

 では、ヨハネによる福音書が想定している読者層はだれかというと、その当時のギリシャ・ローマ文化の中にいる人々、つまり、ギリシャ人やローマ人といった人々や、それらの国に離散して暮らしているヘレスタイと呼ばれるユダヤ人であったろうと思われます。なぜそんなことがわかるのか。それは、ヨハネによる福音書の一章にあるギリシャ語の言葉遣いの中に顕著に現れている。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言い回しは、極めてギリシャ・ローマ的な言葉遣いなのです。

 そのうえで、ヨハネによる福音書においては、この宮清めの出来事をどう捉え、何を伝えたかったのか。それは死と再生の物語です。

 宮清めと言う出来事は、神殿で神に捧げるための動物を売っていた商売人や、その動物を売り買いするために用いられていた特別な通貨を手に入れるため両替をしていた両替商などを、イエス・キリスト様がご覧になり、怒りを覚え「私の父の家を商売の家とするな」といって、その商売人や両替商を神殿から追い出したという出来事です。

 この神殿で、神に捧げるための動物を売り買いしていたということは、実は客観的にまた合理的に考えるならば、決して悪いことではない。むしろ良いことであったと言える行為です。 

みなさん、神殿はエルサレムにある。その神殿で神に動物を捧げるとして、それを遠い地方にいる人がわざわざ連れてくるのは大変です。おまけに神に捧げる動物には、傷のない完全なものでなければならないと言ったルールもありましたので、それに適した動物を神殿で買った方が、遠くから来る人にとっては便利でありがたい。おそらく、そのような理由で神殿の庭で、神殿に捧げる動物の売り買いが始まったのだろうと思います。そのように、遠くから神殿に来る人達への配慮と思いやりから始まった動物の売り買いが、配慮思いやりと言う目的よりも、むしろ商売が目的になってきた。

 さらには、その動物の売り買いをするために、神殿で使う特別な通貨を使わなければならないとすることで両替商が両替をする。そこにも利潤が生じてくる。そしておそらく、そこで得られた利益から、当時の祭司たちに還元されるといったこともあったのでしょう。

 そのような中で、イエス・キリスト様は「私の父の家を商売の家とするな」と言って宮清めをなさった。いうなれば、宮清めと言う出来事は、金儲けのために汚れてしまったイスラエルの民の宗教と信仰心の浄化し、純粋な信仰へと立て直しを図った行為であるといえます。

もちろん、神殿での商売で利潤を得ていたであろう人々は、そのようなイエス・キリスト様の行為に腹を立てる。そして「祭司でもないおまえに、このようなことをする権威や権限があるのだ。あるのならそのしるしを見せろ」と詰め寄る。その時、イエス・キリスト様は「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とそういわれるのです。そして、このヨハネによる福音書を記したヨハネは、それは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事であり、イエス・キリスト様と言うお方は、「この世」と言う闇の中に置かれて、「この世」によって神の前に死んだようになっている私たちを再生し、新しい命にお息吹を与えてくださるお方なのだと理解した。

 つまり、あの宮清めの出来事は、まさにイスラエルの民にとっては、彼らの神を信じる信仰の死と再生の物語だということなのです。そしてその死と再生の物語は、単にイスラエルの民の問題だけではなく、イエス・キリスト様が十字架にかかって死なれ、よみがえることで物語によって、すべての人の死と再生の物語となるのです。

みなさん、私たち人間は、すべからく神の創造の業により、神に似た者となるために神の像を与えられた存在です。だから、すべての人は尊い尊厳性を持った存在です。しかし、その私たちは「この世」と言う世界の中置かれている。その「この世」が与える価値観やものの見方によって、神の像を与えられ、神に似た者となるようにされている私たち人間の現実は、決して本来あるべき姿からは遠く離れてしまっている。

そのような中で、神によって尽きられた私たち人間が、いやあなたが、神の創造の業にある本来あるべき人間の姿に立ち帰るための死と再生の物語なのだということをヨハネは、ヨハネによる福音書を読むであろう人々に伝えたかったのです。そして、その死と再生の物語は、繰り返し教会の歴史の中で起こっている。いや、教会と、その教会に繋がる私たち一人一人は、この死と再生の物語の中を生きているのです。

 先ほどお読みしましたペテロ第一の手紙5章6節から11節は、迫害が迫っている小アジア半島(現在のトルコ)にある教会の人々に書かれた手紙の一節です。そこでは、それこそ、悪魔が教会とそれにつながるクリスチャンを激しき迫害し打ち壊そうとしていると言われています。それはまさに1世紀の教会の姿です。

 そのような中にあって、苦難と苦しみ、痛みと悲しみの中に置かれるであろう人々に、ペテロ第一の手紙の著者は、迫害が迫っているけれど、神を信じる信仰をもってしっかり生きなさい。教会は、そして教会に繋がるあなた方は試練の中で苦しみ、痛み、悲しむことがあるだろうでも、神様はあなたたちを癒し、強め、力づけてくださり、そこから再び立ち上がらせてくださる。仮に教会が打ち壊されてしまったと思うようなことがあっても、私たちが弱りはて、倒れてしまうようなことがあっても大丈夫だ。

 あなた方はイエス・キリスト様の死と再生の物語に与り、イエス・キリスト様の死と再生の物語を生きるものなのだ。だから大丈夫だと、このペテロ第一の手紙は励ましているのです。そしてみなさん、私たちは、また私たちの教会は、この死と再生の物語を生きている。

 だから私たちは、そして私たちの教会は、たとえ困難や試練の中に倒れそうになっても、また倒れてしまっても、必ず再び立ち上がっていくことができるのです。

そのことを、今日、このイースターの朝に、心にしっかりと刻みたいと思います。

2022年4月16日土曜日

2022年4月16受難週の土曜日の黙想のために

 

         2022416受難週の土曜日の黙想のために

 十字架に架けられたイエス・キリスト様が、この世界に残されたものは教会です。教会は日曜の朝毎に、礼拝をおこないます。その礼拝の朝を迎える前、最も原初の教会は、ユダヤ教の会堂で、聖書の言葉を聞き、礼拝をした後の夜に、みんなで食事を共にしました。
 共に食事をする。それは単なる共にする食事ではなく、イエス・キリスト様と共にした食事を記念するものでした。それが、聖餐を中心にしたキリスト教会の礼拝になっていきました。私たちは、礼拝ごとにキリストの祝宴に招かれているのです。そのことを覚えつつ、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に耳を傾けつつ、神を思いましょう。

共に食事をしよう

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。

  いつも心の扉をたたいていてくださることを感謝します。あなたは私を捨てず、諦めず、あなたを追い出してしまったような私ですが、再び私の人生に入ろうと扉をたたいていてくださいます。

この受難週がチャンスです。忙しいかもしれません。ほかにやることがたくさんあるかもしれません。しかし、まずはあなたを心に迎えて、あなたと食事をするかのように、みことばに耳を傾け、あなたと食事をする温かみを体験する事ができますように、お願いします。

2022年4月15日金曜日

2022年4月15日受難週の金曜日の黙想のために

        2022年4月15日受難週の金曜日の黙想のために

 今日は受苦日です。主イエス・キリスト様が十字架に架けられて死なれた日です。イエス・キリスト様は、まったく罪とは無関係で純粋で無垢なお方でした。しかし、私たちは、決してイエスキリスト様のように罪もかがれもないということはできないものです。しかし、神は、そのような私たちであっても、神の子としてくださると言うのです。その神の恵みを、、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれつつ思い廻らしましょう。

              白い衣を着て主と共に歩む

「しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである」(黙示録3:4)。

イエスさま、私はここに出てくる「少数」の者の中に入っているのでしょうか?いや、その自信はまったくありません。しかし、それを目指すことができますように魂の渇きを与え、聖霊の助けを求めることができますように。

十字架の贖いの血潮によって洗われ、復活のいのちを大切にし、あなたと共に歩むこと。白い衣をいただいているのです。ですから、白い衣を洋服掛けの奥にしまってしまわないで、いつでもそれを着る自分でありますように。祈るとき、悩むとき、だれかを助けるとき、しんどいとき、白い衣によって私を守ってください。

2022年4月14日木曜日

2022年4月14日受難週 木曜日の黙想のために

 

         2022414日受難週 木曜日の黙想のために

 受難週の木曜日です。私たちはいろいろな心配や思い煩いに囲まれています。やらなければならないことについての心配や、物事がうまくいかない心配、人間関係の中にある様々な思い煩い。そういったものが、私たちの心に、重荷に感じられるようなときがあります。そのような様々な心配や思い煩いとなっていることを思いながら、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれつつ、私たちにとって本当に大切なことは何かについて思い廻らしましょう。

             ほかの重荷を負わせない

「わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい」(黙示2:24-26)。

イエスさま、私は山ほどたくさんの重荷が日々のしかかってきていると考えていました。しかし、あなたがほんとうに重荷として担ってほしいと願っておられるのは、あなたとくびきを一つにして、あなたから学ぶことなんですね。ほかの重荷はすべてあなたのもとで下ろすことができるのでしょう。

ああ、私の人生の状況はなんとあなたの願いからほど遠いことでしょう。どうか、気がつかせてください。あなたから学ぶことこそが、私たち背負わなければならないことだと。しかも、その重荷は軽いと、おっしゃってくださいました。あなたの恵み、神の愛、聖霊の交わりをいつも大切にすることができますように力を与えてください。

2022年4月13日水曜日

2022年4月13日受難週 水曜日の黙想のために

          2022年4月13日受難週 水曜日の黙想のために

 

 受難週の水曜日、今日もイムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれながら、神の前に謙遜なものでであることの大切さを思いましょう。なぜならば、私たちは、自分の信仰さえも、自分の誇りとしてしまう高慢さや傲慢さを持っているからです。
 傲慢な思いから出る誇りと、謙虚からでる誇りとは、全く違ったものです。そして、検挙から出る誇りは、自分自身を振り返り、その至らなさを向き合うことから始まります。

              けれども責めるべきこと

「わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。けれども、あなたには責めるべきことがある。」(黙示2:19)

イエスさま、あなたが私の愛も信仰も奉仕も忍耐も知っておられることを感謝いたします。だれも私のような者の信仰の労苦を理解してくれなくても、あなたが知っていてくださるのなら、私は満足です。なぜなら、あなたの報いは人の報いの百倍あるからです。すべてを支配しておられるあなたが私の小さな行いを知っていてくださること、これほど大きな励ましはありません。

しかし、もし責めるべきことがあるとしたら、それはなんでしょうか。いや、それはあまりにも多くてあなたは、伝えようにも伝えきれないとおっしゃるのでしょう。

でしたらせめて一つ教えてください。その一つを正す力と勇気を授けてください。素直になれますように、謙虚に責めるべきことを受け止め、正すことができますように助けてください。

2022年4月12日火曜日

2022年4月12日受難週 火曜日の黙想のために

 

        2022年4月12日受難週 火曜日の黙想のために

 

受難週の火曜日、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の受難週の黙想の言葉です。私たちの日々の歩みは、いつもうまくいくわけではありません。時には人から悪く言われたり、いわれもない非難の言葉を浴びせられ、心が沈んでしまうこともあるでしょう。その様な日々を思いながら聖書の言葉を、藤本牧師の黙想の言葉に導かれながら、思い廻らししましょう、

 

12(火)隠されたマナを与える

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。」(黙示録2:17)

 

イエスさま、あなたは私たちに勝利を与えると約束してくださいました。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(Ⅰコリント15:57)

勝利者のように歩ませてください。誹謗中傷を受け止める度量、忙しい毎日で自分を失わない余裕、様々なものが不足する中でも十分に満たされている心。勝利者として歩ませてください。そのために、あなたは毎日隠されたマナ(パン)を与えると約束してくださいました。御言葉を日々の糧としてかみしめることができますように。せっかく与えてくださっているこのようなマナを無駄にしませんように、知恵を与えてください。

2022年4月11日月曜日

2022年4月11日受難週 月曜日の黙想のために

          2022年4月11日受難週 月曜日の黙想のために

教会には、クリスマスを迎えるアドベントを年の最初の月として、そこから一年を数える教会歴というものがあります。クリスマスやイースターと言った教会の行事は、この教会歴に沿って行われます。
 その教会歴において、今週の日曜日は棕櫚の日曜日と呼ばれる日であり、この棕櫚の日曜日をさかいとして、教会は受難週というものにはいります。この受難週の金曜日が受苦日といって、キリストが十字架にかかられて死なれたことを覚え、時を過ごす教会にとって特別な日です。その受苦日までの一週間を受難週と呼び、一日一日、主イエス・キリスト様が十字架に向かって歩まれた日々を黙想しつつ思い廻らすのです。
 その黙想のための手引きとなる言葉を、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師が書いてくださっていますが、今日の言葉は次の通りです。ぜひ、あなたが心を静めて、神を思う廻らすためにお用いください。

11(月)死に至るまで忠実

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える」(黙示録 2:10)

イエスさま、あなたがスミルナの教会へ書き送った言葉を見るたびに、かつてスミルナの教会の牧師であったポリュカルポスを思い起こします。彼は言いました。「私は 84 年間キリストに仕えました。ただの一度も、キリストが私を悪く取り扱われたことはありません」。彼が火あぶりの刑で殉教する直前の言葉でした。

私もいつかは、大変な苦しみに遭うに違いありません。大きな試練に立ち向かうに違いありません。それが病であるのか、大切なテストであるのか、日常的なできごともあるでしょう。

しかし、そのようなときにもあなたに忠実であることができますように力を授けてください。その場面が福音とはまったく関係ない場合であったとしても、あなたが私をいつも支えていてくださることに気がつかせてください。そして、これまでの人生で、あなたはいつも誠実を尽くして私を助けてくださったことを思い起こすことができますように。あなたに忠実であることができますように。

2022年4月10日日曜日

棕櫚の主日礼拝説教「約束の成就」(’22年4月13日受難週主日)

‘22年4月第二主日(棕櫚の主日)礼拝説教「約束の成就」       2022.4.13

旧約書:創世記15章1節から19節

福音書:マタイによる福音書5章17節から20節

使徒書:へブル人への手紙12章1節から3節


 今日の主日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日となります。棕櫚の日曜日とは、イエス・キリスト様がエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そのエルサレムに入城される際の様子は、新約聖書ヨハネによる福音書12章12節から15節に描かれています。


その様子とは、イスラエルの民が棕櫚の葉を道に敷き詰めて、「ホサナ(「救い給え」と言う意味)」と歓喜の声をあげて、子ロバにのったイエス・キリスト様をエルサレム市街に迎え入れたとあります。棕櫚の日曜日と言う名前は、そのことに由来しています。


 その棕櫚に日曜日の礼拝の説教の中心となります聖書箇所はマタイによる福音書5章17節から20節です。この個所は、マタイの夜福音書の5章から7章にわたる山上の垂訓と呼ばれる、新約聖書の中では大変有名な個所の一部分です。


山上の垂訓とは、イエス・キリスト様が、小高い丘の上から神を信じる者はいかに生きるべきかということを、群衆に向かい語り、お教えになった出来事です。その中でイエス・キリスト様は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」といわれるのです。


律法というのは、神がイスラエルの民に対していかに生きて行くかということをお教えになったもので、つまり、神の民の倫理です。しかし、この神の民の倫理は、神の目からみた人間がいかに生きるかということが語られたものであり、神の救いの業とは無関係ではありません。


と言うのも、神の民として神のみ前に生きるということと、神の救いの業とは表裏一体ものだからです。それは、神の救いの業というものは、神の救いの業の内に置かれた者は、神の民として神のみ前に神の民らしく生きて行くことによって完成されていくものであるということを意味しています。そしてそれが、人との契約ということに内実なのです。


 このように、私たちの信仰と行いというものは、神の救いの業において決して切り離すことができません。ところが、私たちプロテスタントの教会はしばしば信仰と行いというものを切り離してきました。


たとえば、私たちは「人は行いによって救われるのではない。ただ神を信じる信仰によってのみ救われるのだ」と言う言葉を、しばしば聞いてきました。そして、その言葉は間違っていない。救いは、私たちの行いに対する神からの報酬、あるいはご褒美として与えられるものではないからです。


 しかし、救いに行いが必要ではないというわけでありません。もし私たちが信仰に行いが必要でないというならば、それは間違っている。だとすれば、この救いに必要な行いとはいったい何なのでしょうか。


 それは、神に従う、あるいは神の言葉に従うということです。先ほどお読みいたしました旧約聖書の創世記15章1節から19節は、神がアブラハムにカナンの地と彼に子どもを与え、その子孫に、神がアブラハムに与えたカナンの地を与えることを契約なさった出来事が記されている箇所です。


 実は、神はこの創世記15章の先立つ12章において、アブラハムが75歳の時に、神から当時住んでいたハランの地を出て、カナンの地に移り住みなさいと言われます。そして、アブラハムを通して地の全ての人々が祝福されるという神の御計画を聞かされます。


 その言葉を聞いたアブラハムは、神の言葉に従ってハランの地を旅立ち、カナンの地に移り住むのです。そのアブラハムに対して神は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われるのです。


 確かに、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われましたが、アブラハムがハランの地を旅立ったのは75歳の時です。そして、その時点でアブラハムには子供がいなかった。だから、「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われても、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐ子孫はいないのです。


 そこでアブラハムは、エリエゼルと言う人を養子に迎え、その人にアブラハムの財産を受け継がせようとするのです。しかし、神はアブラハムに「あなたにあなたの実の子が生まれる」とそういわれるのです。そして、その子から多くの子孫が生まれ、その子孫が、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐのだというのです。


 アブラハムは、その神の言葉を信じた。その時、神は「これを彼の義と認められた」とある。先ほどの創世記15章6節です。


 実は、この個所は非常に微妙な個所でして、日本語訳の聖書をみますと、どの日本語訳聖書も、神の言葉を信じたアブラハムが神によって義と認められたと受け止められるように訳していますが、しかし、もともとのヘブル語聖書を見ますと、アブラハムが神を義なるお方だと認めたと訳すことも可能なのです。


 そして、ユダヤ人たちの聖書解釈の中には、アブラハムは神の言葉を信じ、神が語られた言葉に対して真実なお方であり、神は神が語られたことを必ずなされるお方だとみとめたと受け止めている解釈もあるのです。


 しかし、いずれにせよ、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言う言葉を語られ、それを実現なさるお方である。そのことを確かなものとするために、神はアブラハムと契約を結ばれるのです。


そして、その契約を結ぶ儀式として8節から17節のある動物を真ん中に二つに裂き、その間を通るということが行われる。この動物を二つに裂き、その間を通るということは、この契約を破るならば、その契約を破ったものは切り裂かれて殺されても仕方がないということを意味していると言われます。つまり契約を交わす者には、自らの命を賭するほどの責任と義務を負うからです。


 言うまでもないことですが、契約においては、契約を結ぶものそれぞれが相手に対して義務と責任を負います。それを双務契約と言います。しかし、そのようなお互いに責任と義務を負いあう双務契約とは異なり、一方のみが義務と責任を負う片務契約(片務)というものがある。


 この創世記15章の場面においては、神のみがこの裂かれた動物の間を通ったことだけがしるされていますので、ここにおいて神とアブラハムとの間に結ばれた契約は片務契約のようなものだったのかもしれません。


 しかし、もともと片務契約と言うのは一方のみが責任と義務を負うものでありますが、しかし、このよう片務契約というものは、もともと主人や王が、その僕や国民の忠誠さや忠実さを見て、その態度に対して恩恵を与えるようなものなのです。


 つまり、アブラハムの神に対する忠実さや忠誠さを見て、神がアブラハムに対して恵みを与えるという契約を結ばれたと考えられるのです。その際、 神が負う責任は明らかです。それはと言う神の約束を果たすことです。「アブラハムの子孫が多く生み広がり、その子孫にこの地を与えます」と言う約束を果たす義務と責任を神が終われるのです。


 もちろん、その契約の前提となるアブラハムの神に対する忠実さは、アブラハムが神の言葉に従って故郷ハランの地から家族を連れて旅立ち、神が示した約束の地であるカナンの地に移り住んだことの中に見ることができる。そこには、神の語られた言葉に従って生きるアブラハムの姿を見ることができるのです。


 このアブラハムが主なる神の言葉に従うという忠誠、忠実さに対して、その忠実さを見た神が、何の対価を求めず恵みを与えるという契約がアブラハムの子孫までにも及ぶというのが、アブラハムと神との間の契約が持つ構造です。


 そして、その契約が歴史の中で展開し、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がアブラハムのように神の言葉に従ていくもととなっていくようにと、律法を用いながら神が導いておられるというのが、旧約聖書が物語る物語なのです。


 そしてその旧約聖書の物語が、イエス・キリスト様の受難の物語の中で語り継がれていくのです。それは、十字架の死に至るまでに神のご意思と御計画に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご生涯が、まさに神の律法を成就するものだからです。


 この神の律法は、マタイによる福音書22章35節から40節で、イエス・キリスト様がパリサイ派の人々に、「律法で最も大切な教えはなんですか?」と尋ねられた際にお答えになった「神を愛し、隣人を愛する」ということに集約されます。


 そして、この「隣人を愛する」ということは、敵をも愛するということを含むのです。つまり、隣人とは、仲のいい友達や、親戚家族と言った者だけではなく、敵をも愛するものである。それは、結局のところ、民族や人種を超えて全ての人が、隣人となのです。


 この、「神を愛し、隣人を愛する」という律法の生きた方を死に至るまで従順に生きられ、神の律法を成就なさったお方がイエス・キリスト様なのです。そのイエス・キリスト様の従順さのゆえに、すべての人が新しい契約のもとに置かれたのです。


それは、アブラハムの神の言葉に従う忠実さによって、約束された「地のすべての物が祝福される」という神の約束が、イエス・キリスト様によって成就されるという神の約束の成就でもあります。


 だからこそ、すべての人がイエス・キリスト様の生き方に倣い、「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方を、目指して生きる者とされたのです。


 みなさん、私たちは先ほど「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と語りかけるヘブル人への手紙12章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。みなさん、へブル人への手紙というのは、もちろんその内容がユダヤ的・ヘブライ的なので「へブル人への手紙」というタイトルがついているのですが、突き詰めて言うならば、神の民イスラエルとされた者に向かって書かれた手紙ということです。


 それは、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい契約のもとに生きる者すべてが、イエス・キリスト様を目指し、イエス・キリスト様に倣い「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方に招かれているということなのです。そして、その生き方を目指し生きるところに神の救いの業が実を結んでいく。神の民が神の民として、神の恵みと祝福が支配する神の王国で生きて行くものとなるのです。


 先ほど申しましたように、今日は棕櫚の日曜日です。イエス・キリスト様が神の都であるエルサレムに王として入城した日を記念する日です。このとき、イエス・キリスト様は軍馬ではなく、仔ロバに乗って、平和の王としてエルサレムに入られた。


 そこには「神を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を完成し成就するイエス・キリスト様のお姿が現れています。そして、その生き方に倣うことを、神は私たちに求めておられる。そのことを覚え、今、静まりの時をもち、心にしっかりと刻みたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め、私たちを祝福するという神の約束を思いましょう。静まりの時を持ちます。

       2022.4.13

旧約書:創世記15章1節から19節、福音書:マタイによる福音書5章17節から20節、使徒書:へブル人への手紙12章1節から3節


 今日の主日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日となります。棕櫚の日曜日とは、イエス・キリスト様がエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そのエルサレムに入城される際の様子は、新約聖書ヨハネによる福音書12章12節から15節に描かれています。

その様子とは、イスラエルの民が棕櫚の葉を道に敷き詰めて、「ホサナ(「救い給え」と言う意味)」と歓喜の声をあげて、子ロバにのったイエス・キリスト様をエルサレム市街に迎え入れたとあります。棕櫚の日曜日と言う名前は、そのことに由来しています。その棕櫚に日曜日の礼拝の説教の中心となります聖書箇所はマタイによる福音書5章17節から20節です。この個所は、マタイの夜福音書の5章から7章にわたる山上の垂訓と呼ばれる、新約聖書の中では大変有名な個所の一部分です。

山上の垂訓とは、イエス・キリスト様が、小高い丘の上から神を信じる者はいかに生きるべきかということを、群衆に向かい語り、お教えになった出来事です。その中でイエス・キリスト様は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」といわれるのです。

 律法というのは、神がイスラエルの民に対していかに生きて行くかということをお教えになったもので、つまり、神の民の倫理です。しかし、この神の民の倫理は、神の目からみた人間がいかに生きるかということが語られたものであり、神の救いの業とは無関係ではありません。

と言うのも、神の民として神のみ前に生きるということと、神の救いの業とは表裏一体ものだからです。それは、神の救いの業というものは、神の救いの業の内に置かれた者は、神の民として神のみ前に神の民らしく生きて行くことによって完成されていくものであるということを意味しています。そしてそれが、人との契約ということに内実なのです。このように、私たちの信仰と行いというものは、神の救いの業において決して切り離すことができません。ところが、私たちプロテスタントの教会はしばしば信仰と行いというものを切り離してきました。

たとえば、私たちは「人は行いによって救われるのではない。ただ神を信じる信仰によってのみ救われるのだ」と言う言葉を、しばしば聞いてきました。そして、その言葉は間違っていない。救いは、私たちの行いに対する神からの報酬、あるいはご褒美として与えられるものではないからです。

 しかし、救いに行いが必要ではないというわけでありません。もし私たちが信仰に行いが必要でないというならば、それは間違っている。だとすれば、この救いに必要な行いとはいったい何なのでしょうか。それは、神に従う、あるいは神の言葉に従うということです。先ほどお読みいたしました旧約聖書の創世記15章1節から19節は、神がアブラハムにカナンの地と彼に子どもを与え、その子孫に、神がアブラハムに与えたカナンの地を与えることを契約なさった出来事が記されている箇所です。

 実は、神はこの創世記15章の先立つ12章において、アブラハムが75歳の時に、神から当時住んでいたハランの地を出て、カナンの地に移り住みなさいと言われます。そして、アブラハムを通して地の全ての人々が祝福されるという神の御計画を聞かされます。その言葉を聞いたアブラハムは、神の言葉に従ってハランの地を旅立ち、カナンの地に移り住むのです。そのアブラハムに対して神は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われるのです。

 確かに、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われましたが、アブラハムがハランの地を旅立ったのは75歳の時です。そして、その時点でアブラハムには子供がいなかった。だから、「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われても、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐ子孫はいないのです。

 そこでアブラハムは、エリエゼルと言う人を養子に迎え、その人にアブラハムの財産を受け継がせようとするのです。しかし、神はアブラハムに「あなたにあなたの実の子が生まれる」とそういわれるのです。そして、その子から多くの子孫が生まれ、その子孫が、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐのだというのです。アブラハムは、その神の言葉を信じた。その時、神は「これを彼の義と認められた」とある。先ほどの創世記15章6節です。

 実は、この個所は非常に微妙な個所でして、日本語訳の聖書をみますと、どの日本語訳聖書も、神の言葉を信じたアブラハムが神によって義と認められたと受け止められるように訳していますが、しかし、もともとのヘブル語聖書を見ますと、アブラハムが神を義なるお方だと認めたと訳すことも可能なのです。そして、そのような訳に基づいてユダヤ人たちの聖書解釈の中には、アブラハムは神の言葉を信じ、神が語られた言葉に対して真実なお方であり、神は神が語られたことを必ずなされるお方だとみとめたと受け止めている解釈もあるのです。

 しかし、いずれにせよ、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言う言葉を語られ、それを実現なさるお方である。そのことを確かなものとするために、神はアブラハムと契約を結ばれるのです。そして、その契約を結ぶ儀式として8節から17節のある動物を真ん中に二つに裂き、その間を通るということが行われる。この動物を二つに裂き、その間を通るということは、この契約を破るならば、その契約を破ったものは切り裂かれて殺されても仕方がないということを意味していると言われます。つまり契約を交わす者には、自らの命を賭するほどの責任と義務を負うからです。

 言うまでもないことですが、契約においては、契約を結ぶものそれぞれが相手に対して義務と責任を負います。それを双務契約と言います。しかし、そのようなお互いに責任と義務を負いあう双務契約とは異なり、一方のみが義務と責任を負う片務契約(片務)というものがある。この創世記15章の場面においては、神のみがこの裂かれた動物の間を通ったことだけがしるされていますので、ここにおいて神とアブラハムとの間に結ばれた契約は、この片務契約のようなものだったのかもしれません。

 しかし、元来、片務契約と言うのは一方のみが責任と義務を負うものでありますが、しかし、このよう片務契約というものは、その期限が主人や王が、その僕や国民の忠誠さや忠実さを見て、その態度に対して恩恵を与えるようなものなのです。つまり、アブラハムの神に対する忠実さや忠誠さを見て、神がアブラハムに対して恵みを与えるという契約を結ばれたと考えられるのです。その際、 神が負う責任は明らかです。それはと言う神の約束を果たすことです。「アブラハムの子孫が多く生み広がり、その子孫にこの地を与えます」と言う約束を果たす義務と責任を神が終われるのです。

 もちろん、その契約の前提となるアブラハムの神に対する忠実さは、アブラハムが神の言葉に従って故郷ハランの地から家族を連れて旅立ち、神が示した約束の地であるカナンの地に移り住んだことの中に見ることができる。そこには、神の語られた言葉に従って生きるアブラハムの姿を見ることができるのです。

 このアブラハムが主なる神の言葉に従うという忠誠、忠実さに対して、その忠実さを見た神が、何の対価を求めず恵みを与えるという契約がアブラハムの子孫までにも及ぶというのが、アブラハムと神との間の契約が持つ構造です。そして、そのような構造を持つ契約が歴史の中で展開し、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がアブラハムのように神の言葉に従ていくもととなっていくようにと、律法を用いながら神が導いておられるというのが、旧約聖書が物語る物語なのです。そしてその旧約聖書の物語が、イエス・キリスト様の受難の物語の中で語り継がれていくのです。それは、十字架の死に至るまでに神のご意思と御計画に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご生涯が、まさに神の律法を成就するものだからです。

 この神の律法は、マタイによる福音書22章35節から40節で、イエス・キリスト様がパリサイ派の人々に、「律法で最も大切な教えはなんですか?」と尋ねられた際にお答えになった「神を愛し、隣人を愛する」ということに集約されます。そして、この「隣人を愛する」ということは、敵をも愛するということを含むのです。つまり、隣人とは、仲のいい友達や、親戚家族と言った者だけではなく、敵をも愛するものである。それは、結局のところ、民族や人種を超えて全ての人が、隣人となのです。

 この、「神を愛し、隣人を愛する」という律法の生きた方を死に至るまで従順に生きられ、神の律法を成就なさったお方がイエス・キリスト様なのです。そのイエス・キリスト様の従順さのゆえに、すべての人が新しい契約のもとに置かれたのです。それは、アブラハムの神の言葉に従う忠実さによって、約束された「地のすべての物が祝福される」という神の約束が、イエス・キリスト様によって成就されるという神の約束の成就でもあります。だからこそ、すべての人がイエス・キリスト様の生き方に倣い、「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方を、目指して生きる者とされたのです。

 みなさん、私たちは先ほど「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と語りかけるヘブル人への手紙12章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。みなさん、へブル人への手紙というのは、もちろんその内容がユダヤ的・ヘブライ的なので「へブル人への手紙」というタイトルがついているのですが、突き詰めて言うならば、神の民イスラエルとされた者に向かって書かれた手紙ということです。

 それは、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい契約のもとに生きる者すべてが、イエス・キリスト様を目指し、イエス・キリスト様に倣い「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方に招かれているということなのです。そして、その生き方を目指し生きるところに神の救いの業が実を結んでいく。神の民が神の民として、神の恵みと祝福が支配する神の王国で生きて行くものとなるのです。

 先ほど申しましたように、今日は棕櫚の日曜日です。イエス・キリスト様が神の都であるエルサレムに王として入城した日を記念する日です。このとき、イエス・キリスト様は軍馬ではなく、仔ロバに乗って、平和の王としてエルサレムに入られた。そこには「神を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を完成し成就するイエス・キリスト様のお姿が現れています。そして、その生き方に倣うことを、神は私たちに求めておられる。そのことを覚え、今、静まりの時をもち、心にしっかりと刻みたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め、私たちを祝福するという神の約束を思いましょう。静まりの時を持ちます。


2022年4月9日土曜日

日本ホーリネス教団相模原キリスト教会のHP

 今年から兼牧をする日本ホーリネス教団相模原キリスト教会のHPができました。LampMateの上坂兄の多大なる協力をいただいてようやくUpにこぎつけました。

まだ完全に完成と言うわけではないのですが、みなさんにお見せできるところまでは出来上がりましたのでアップします。
 よろしければ一度、(いえ一度と言わず何度でも)覗いてみてくだされば嬉しいです。

https://sagamihara-kirisuto.kyoukai.jp/

2022年4月5日火曜日

出来事となる言葉

 

「出来事となる言葉」

 息子が小学一年生になったころ、何を思ったのか、自分から「剣道がやりたい」と言い出しました剣。それで、私たち夫婦は、息子のために剣道を教えてくれるところを探しました。それで、教会の近くにある剣道クラブで稽古を始めたんです。

 剣道は武道でもあり、その稽古には、やはり厳しい一面があることは間違いがありません。だから、途中で「止めたい」と言い出すんじゃないかって心配になりました。けれども、息子がもし「止めたい」っていってきても、私も妻も「絶対に止めさせないぞ」って思っていました。

 それは、自分で「剣道をやりたい」って言い出したからです。自分で言った言葉には、自分で責任を取らなければなりません。だから、きちんと最後までやり遂げさせるつもりでした。そんなわけで息子は高校を卒業するまで、剣道を続けました。

 大学に入ってからもしばらくは続けていましたが、勉強が忙しくなったのか、大学に入学してしばらくして止めてしまいましたが、その時はもう大人になっていましたから、私たち夫婦も何言い優戦でした。

 

 ところで、聖書は、おもにヘブル語とギリシャ語で言葉でかかれていますが、そのへブル語で、言葉という単語は「ダーバール」といいます。このダーバールは、「言葉」という意味と同時に「出来事」と言う意味もあります。つまり語られた言葉は、必ず出来事になると言うことなんですね。

 

日本にも「言霊」っていう考え方があります。縁起のいい言葉を使えばいいことが起こり、縁起の悪い言葉を使えば、悪いことが起こるというやつですよ。ヘブル語のダーバールの感覚にちょっと似ている感じがしますね。

 でも、この語られた言葉は必ず出来事になるっていう「ダーバール」は、言霊とは似てはいますが、しかしちょっと違うのです。それは、人間の語った言葉が出来事を生み出すというのではなく、神が語った言葉は、必ず出来事になるということなんです。

 人間の語った言葉は、意外と信頼が置けないものです。ですから必ず出来事になるとは限りません。「剣道をやりたい」って言い出して稽古をはじめた息子です。でも、いつやめると言い出すかわかりません。だからこそ、親である私たちは、自分の言ったことに責任を持たせるために「絶対に止めさせないぞ」とそう決心しているわけです。

 けれども、神が語られた言葉は、必ず出来事となる。神の言葉は信頼のおける言葉のです。その神の言葉が、「私はあなたを見捨てず、あなたをはなれない」と言います。神は、は私たちを愛してくださっているからです。だから、神は、この神の言葉を信じるものとと、共にいてくださり、私たちを支え続けてくださるのです。神が私たちを見捨てない。この言葉は、必ず出来事になるのです。

2022年3月17日木曜日

聖書の言葉における言葉の限界性

           聖書の言葉における言葉の限界性

 聖書の言葉は、人間の言葉によって書かれたものである。これは歴史的事実である。同時に聖書は神の言葉である。これは信仰の事実である。これを聖書の人言性と神言性と呼ぶ。このように聖書は人言性と神言性と言う両性を持つ。このことは、聖書は人間に神に関する知識を完全な正しさを伝えるものではないことの明らかな証明となる。なぜならば、神は、神であって人間ではなく、我々人間を含んでこの世界を超越した存在だからである。

 それに対して、我々人間の語る言葉は、世界内を叙述する言葉であって、この世界内の存在と経験についての認識を語ることができるが、この世界を超越したものを語ることができない。この点において、我々はカントに同意することができる。つまり、いくら聖書を用いて、神についての命題化された知識を語ろうとも、その言葉は人間の言葉をもって語られている以上、それは神についての正しい知識を語っているということにならないのである。

 例えばこういうことである。我々が聖書をもとに「神は愛である」と語ったとしよう。そして、その根拠にヨハネの手紙一の五章を挙げたとして、その「愛」は、我々人間の認識内の愛であり、「神は愛である」というが伝えるものは、我々が認識するあ「愛」でしかない。その「愛」をもって、「神は愛である」ということが、神についての命題化された真理であるとするならば、神は我々人間の知性内の存在でしかなくなる。

命題化された真理と言うのは「Aは○○である」という主語と述部によって構成される短文で叙述されるものである。しかし、神は人間の知性を超えた超越的存在であって、本来「いる」という述部だけによって直感される存在である。だから、「神は愛である」と言う言葉も、超越者である神を完全に述べたものではない。つまりそれは、私たちの知性に置いて理解できる範囲内において「神は愛である」と語りうるものであり、そこで述べられている愛は、私たちの認識する愛とは質的に違っている。つまり、聖書が「神は愛である」という言葉で、神を命題的に定義するとするならば、それは決して神の実態を正しく伝えたことにはならない。むしろ、私たちの知性内において認識できる「愛」の概念によって神を歪曲化させることにさえなりかねない。それゆえに、神を命題的真理として語る言葉は、神に対する人間の解釈に過ぎないのである、

ここには、聖書の人言性が持つ言葉の限界性がある。そして著者が、東日本大震災の被災地において、そこにたたずむ被災者を前にして、「私たち人間は罪びとです。神は、その罪びとである私たちを罪とその罪の裁きである死から救うために十字架にかかって死んでくださったのです。それほどまでに神はあなたを愛しているのです」に空しさを感じたのは、この聖書の持つ言葉の人言性のゆえであり、この限界ある言葉をもって、「神は愛である」と命題して神を認識していたからに他ならないからである。された「神は愛である」という命題化された言葉の歪みのためである。それは、「愛」と言う言葉だけではない。直感した神の存在を人間の言葉で表現しようとするとき、いかなる言葉を用いても、神を矮小化し、歪曲化してしまっている。その意味で、人間の言葉は、神の前では限界性を持つ。

 しかし、それでもなお、聖書は「神は愛である」と命題的(あくまでも的である)に語る。実際ヨハネ手紙一の著者は、「神は愛である」と述べているのである。では、いったいなぜ、神はヨハネの手紙一の手紙の著者をして「神は愛である」と語らしめたのであろうか。それは、聖書が人間について語る者だからである。すなわち、神は、自らの行為をして愛というものを定義し、その定義に基づく愛によって、我々をたがいに愛し合う者とするために「神は愛である」と語るのである[i]。つまり、聖書は、我々人間の生き方について語るがゆえに、我々の知性内の言葉を持つ限界性内で、神の意思を語ることができるのである。このとき、神の前に限界性のある人間の言葉が、人間の言葉であると同時に、その人間としての言葉の限界性を超え、神の言葉としての神言性を持つのである。

このようにして、超越者たる神は、単に直感される存在としてだけでなく、言葉によってこの世界内に内在する。そして、神の言葉である聖書は、人間の言葉によって言い表す世界内の存在と経験を用いて、私たちを神の民として、神の前で生きるように導き、神の意思を伝えるのである。

 



[i] 「神は愛である」と述べるヨハネの手紙一の四章七節から二〇節は、七節の「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです」という、愛することへの勧めの言葉から始まる。そして、九節において「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです」と述べて「神は愛である」と提示する。そして、一〇節および一一節でその提示した「愛」の内容を「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」として表す。そして、再び一一節で「愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」と結び、再び愛し合うことへの勧めがなされている。このように、ヨハネ手紙一の著者が「神は愛である」と述べる意図は、徹底して私たちが「愛」と言う言葉で定義された生き方に私たちを導くためである。それは、たとえば創世記一七章一節において、神が「私は全能の神」であると言われる場合においても同じである。神は、人間の言葉が認識できる「全能」という言葉を通して、「私の前に歩み、全き者でありなさい」という神の前に生きる生き方を指し示している。このように、命題的に思われる言葉は、人間が理解し認識できる世界内の言葉として、世界内に生きる人間の生き方を提示するためのものである。

2022年2月15日火曜日

十戒 「父と母とを敬え」

             十戒 「父と母とを敬え」

現在、北京オリンピックが開かれており、多くのアスリートたちが自分たちの積み重ねてきた努力の成果を競い合っています。競技においては、勝者と敗者をあらわしていますが、勝者であろうと敗者であろうと、血のにじむような努力をしてきたからこそ、勝者に対しても敗者に対しても感動し、同じように拍手を送るのではないでしょうか。
 私が多くの事を学んできたエラスムスという人は、信仰における努力ということを大切にしています。それは自らの信仰の歩みを研鑽するという努力です。私たちプロテスタントの教会の多くは、「信仰義認」ということを強調するがゆえに「救いは行いではなく神を信じる信仰による」と言ってきました。そのため、信仰における努力ということが見落とされてきました。

「救いは行いではなく神を信じる信仰による」という言葉は、間違っていません。それは正しいことです。私たちは自分の行いの結果、その行いに対する報酬として救いに与るわけではないからです。しかし、だからといって、神を信じる信仰は行いと無関係ではありません。神を信じるということは、神を見上げて生きるということでもあるからです。つまり、信仰とは神を信じるという決断と、神を見上げて生きるということから成り立つのです。

エラスムスという人が、信仰における努力ということを大切にしたのは、このためです。そして、その精神は十戒の中にも反映されています。いえ、旧約聖書自体、その精神に貫かれて書かれています。

 

 以前にも申し上げましたが、十戒は前半部分が神と人との関係に関わる内容が関わっています。そこには、神を信じるということとはどういうことかということが書かれています。つまり、敬虔とは何かということ教えているのです。そして、後半の部分では、人と人との関係について書かれています。それは、神を信じる者の倫理・道徳に関わる者です。

 倫理というのは、人間の行動を律するものであり、人と人との間にあって神を信じる者はいかに生きて行けばよいのかということを教えるものです。その人と人との関係を語り始めるにあたって、神はまず、「あなたの父と母とを敬え」と言います。

 

 この言葉は、家庭という最も小さな共同体が意識されて語られた言葉に他なりません。同時に、その言葉は今から三千年以上前の、中近東のパレスチナ地方で語られたということを心にとどめておく必要があります。そのうえで、二つの点に目を向けたいということです。
 一つは、「父と母を敬え」と「母」を入れている視点です。というのも、この中近東の文化の中には男性社会が根強くあるからです。三千年以上前の中近東を舞台にした聖書の中で、父を敬えというのではなく、母を敬えと言っている点は、極めて重要に思われます。


 いうまでもありませんが、子供を愛するのは父親だけでなく、母親も子供を愛しています。聖書の中にも子供を思う母親の姿がいくつも描かれています。ですから、その家族関係の中で、「あなたの父と母とを敬え」というとき、それは、父と母を根拠は、父と母が子どもに注ぐ愛情がまずあり、その愛情に「父と母を敬う」という態度をもって答えるということなのです。逆に言うならば、父親と母親に対しては、まず子供の惜しみない愛情を注ぐことを聖書は求めているといってもいいでしょう。そのように、惜しみない愛が注がれ、それに敬いをもって応じる。それが親と子の関係なのだと聖書は教えているのです。

 

 十戒は、旧約聖書にしるされています。その旧約聖書はキリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教が聖なる書物として受け入れています。その中で、キリスト教に際立って見られる特徴は、神を父として受け止めている点です。私たちの教団の藤巻充先生は、宗教学的視点をもってキリスト教を見ることができた稀有な神学者であり、私たち福音派の中では、唯一の存在です。その藤巻先生は、キリスト教の宗教経験は、イエス・キリスト様が神を父として経験し、その神を父として経験した経験を伝えたところにあると言っていますが、とても鋭い指摘です。しかし、十戒は「父と母を敬いましょう」と言います。それは、神が父であり母である存在だからです。つまり、神の中には、私たちを守り、支え、そして教え導く父性と、限りない無限の愛を子に注ぐ母性があふれているのです。
 ですから、十戒において「父と母とを敬いましょう」と勧めるその背景には、私たちに父なる神であり、母なる神でもある神を愛しましょうという」メッセージが、その根底にあるのです。