2018年9月18日火曜日

昨年の宗教改革記念日の説教


 個人的にfacebookをしている。facebookには、一年前にどんなことを書き込んだのかを知らせてくれる機能があるようで、時々、一年前に書き込んだ内容がrepeatされてくる。
そんなわけで、最近も一年前に自分が投降した書き込みがおくられてくるのだが、去年の今頃は、宗教改革500周年という時期でもあったので、宗教改革の足跡をたどる旅を企画して20名弱の人を連れて(もちろん妻も)、ルターの足取りをたどる旅でドイツに行っていた。
 ドイツは本当に良かった。食べ物はまずかったが、それを割り引いてもおつりがくるぐらい良かった。ルターの足跡をたどりながらいろいろと思い巡らすたびは、本当に有意義だった(このあたりの内容は雑誌『舟の右側』にかいてある)。また行きたいなー。ほんとまた行きたい。
 先日教会のある方が、その年の宗教改革記念日の説教をもう一度聞きたいと言ってくださったので、いかにその時の説教原稿を載せることにする。


17年宗教改革記念主日聖餐式礼拝「神の義の発見」            2017.11.4
旧約書;詩篇7113
福音書;マタイによる福音書6
使徒書;ローマ人への手紙1

 愛する兄弟姉妹のみなさん。今日の礼拝は宗教改革記念礼拝です。今から500年前の15171031日付けで、ドイツの戒律厳守派アウグスティヌス会隠修士黒修道院の修道士であり、当時まだ新設の大学であったウィッテンベルグ大学の旧約聖書の教授であったマルティン・ルターが「贖宥の効力に関する討論」という95ヶ条の提題を発表したことから、当時のキリスト教社会を揺るがす「宗教改革」という歴史的大事件が起こりました。

 この歴史的大事件をきっかけにして、当時の西方ヨーロッパ世界全体に浸透していたカトリック教会教会と別れてプロテスタントとよばれる諸グループが起こってきたのです。そのようなわけで、いわゆるプロテスタントの教会の中で、多くの教団や教派で10月の最後の主日礼拝もしくは11月の第一主日を、宗教改革を記念する宗教改革記念礼拝を行ってきました。

 もちろん、プロテスタントの教会だからと言って、もろ手を挙げて「宗教改革万歳」といって良いというと、必ずしもそうではありません。宗教改革にはさまざまな問題点もありますし、考え直さなければならない点も数多くある。また、その根幹を揺るがすような神学的理解における問題も挙げられています。

 しかし、それでもなお、宗教改革には評価すべき点も多くあり、また大切にしなければならない点も多くあるのです。その中のひとつに、ルターにより「福音的義の発見」というものが挙げられます。

 この「福音的義の発見」というのは、人が神の救いに与り、神の国に招き入れられるのは、人間が行った功徳、つまり善き業に対する神の報酬ではなく、神を信じ、神に寄り縋るものに対して、神が人の行いに寄らす、神の恵みによって与えてくださるというものです。つまり、人間の義なる行い、正しい行いといった人間の義が人間を義とするのではなく、神の恵みによって神の義が私たちに与えられることで、私たちが義と認められるのだということです。

 このようなことは、こんにちのプロテスタントの教会では当たり前のように受け入れられている考えかたですが、ルターの時代は必ずしもそうではありませんでした。とりわけルターを取り囲んでいた環境では、人間は自分が死後、神の国に入るためには、、一生懸命努力して善い業を行い、自分が犯した罪の償いを神に対してしなければならないと考えられていました。そうやって神に対する罪の償いを一生懸命努力していたならば、その努力を見て神の憐れみが発動し、神にふさわしくない者も、神の国に入れてくださるのだと考えられていたのです。

 ですから、ルターは善き業と言われるようなことは一生懸命頑張って行っていました。けれども、どれほど頑張っても、神に赦されている、神の国に受け入れられているという確信が持てなかったのです。むしろ、自分の様々な罪が思い出されて、その償っても償い切れない現実に押しつぶされそうになっていたのです。

 ルターを評する人たちは、ルターの人間の罪深さに対する深い洞察をあげます。確かにその通りかもしれません。ルターほど人間は罪深い存在だと言うことを捕らえていた人はいないと言ってもよいでしょう。ルターが理解した罪深さは、人間が神に受け入れられたいと思って善い業をしたとしても、善い業をして受け入れたいと持っているその思いこそが、善い業をしている自分を正しいこと、義なることをしていると思っている自己義認の罪であり、それこそが人間の罪深さの表れなのだというのです。

 このように言われてしまいますと、身も蓋もありません。神の前に正しいものでありたい、良いことを行いたいと言う思いまでもが罪となるならば、もはや人間は救いようがないのです。だからこそルターは、人間はどのようにしたら自分が救われていると言うことを知り、確信できるのかもしれません。ということがルターの問題意識となり、その問題意識の中で自分の救いの確信を探求していったのです。

そのような中でルターは、人間は人間の行いによって救われるのではない。ただ神の恵みと憐みによって救われるのだと言う結論に至ります。つまり、人間はどんなに頑張っても自分自身を自分自身で救うことなどできないのだから、恵みと憐みを与えてくださる神を信頼し、寄り縋り、自分自身を神にゆだねるしかないのです。

 ルターはそれを医者と病人の関係に譬えて言います。つまり、病気の人が自分の病気を治そうと患者自身が頑張るのではなく、医者が必ず治してあげると言っているのだから、直すと言っている医者の自分自身を委ねなさいと言うようなものだというのです。つまり、自分で何とかしようとしていると、いろいろと心を煩わし気分も重くこことも暗くなるが、医者が「治す」と言っている言葉を信じて希望を持っていたならば心も明るくなって生きていけるだろう。それと同じだと言うわけです。

 もちろん、人間、なかなかこのような境地に行けないわけで、ルターもこのように言えるまでには相当悩み苦しんだだろうと思います。このような悩みの苦しみの中で、光を見出す一つのきっかけとなったのが、先ほど司式の方に読んでいただいた詩篇71篇の1節から3節までです。その箇所をもう一度お読みします。

1.主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでください。2.あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。3.わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。

 ルターは、この2節の「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」という言葉がひっかかった。あなたの義、この場合「あなた」というのは神のことですから、あなたの義とは神の義ということです。つまり、「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということは「神の義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということになります。この「神の義が私を救う」ということにルターは疑問を持ったのです。「それはいったいどういうことだろう」。

というのも、ルターの時代には、「神の義」というものは、人間が正しい行いをしているかどうかを図る尺度だと考えられていたからです。人間がどんなに正しいことを積み重ねてきていても神の前で、神の義という神の正しさと比べて測ってみたら人間の正しさなど取るに足らないものだ。だから神の義という基準にふさわしくなるように頑張らなければならないと教えられていたのです。つまり、ルターの時代、「神の義」は人間の行いを量り裁く基準だったのです。

 その「神の義」が「人間を救うとはいったいどうゆうことなのか」ルターはいろいろと考えあぐねた末に至った結果が、「神の義は、私たちを裁くためあるのではなく、私たちに与えられるものだ。神は、どんなに頑張っても神の前に義となることができない私たちに対して、私たちが神に寄り縋るならば、ご自分の中にある義を神の恵みと憐みの心によってその神の義を与えてくださり、本当ならとうてい義人とはいえない私たちに神の義を与え神の子としてくださり、義人とみなしてくださるのだ」というものだったのです。

 その時ルターは、先ほどお読みいただいたローマ人への手紙617節の「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」という言葉が、そのことを言っているのだと受け止めた。

 神が、イエス・キリスト様をこの世に贈り、私たちの罪のために十字架につけて死なせてくださった。それが福音であり、その福音の中に、罪びとの私たちを義人とする神の義がある。だから、それを信頼して生きる者は、神の前に義人として生きることができるのだ」というのです。この箇所に対するルターの理解と福音理解は、今日、聖書の研究が進んでいる中で、神学的には問題を多く含んでいますが、しかし、神は恵み深い方であり、神は神に憐れみを求めるものを憐み慈しんでくださるお方であると言うところに思いがいたっていることにおいて十分に評価してよいと思います。

 実際、イエス・キリスト様ご自身が、マタイによる福音書631節で「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」とおっしゃった後、33節で「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言っておられるのです。

 この言葉をイエス・キリスト様が語られたのは、食べることや着ることと言った毎日の生活を心配し、思い煩っている人たちに対して、神に寄りすがり、神により頼んで生きるならば、神は憐み深いお方であるから、何も思い煩うことはない」ということを教え諭すためでした。だから、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言われたその言葉に続いて、だから、「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われるのです。

 みなさん。確かに私たちの周りには、様々な心配事や悩み事があり、心を煩わさせます。その中には、心配し「どうしようか」と思い煩ってもどうしようもないことが多くあります。だからといって心配するなと言っても、それは無理な話かもしれません。しかし、少なくとも、神を信頼し、神により頼んで生きるならば、神は私たちを憐んで下さるお方なのです。それは、ルターが心を悩ませ苦しんだ「私たちの罪」の問題でも同じです。

 私たちが犯した罪や過ちは、どんなほかの善い行いをもってしても償えるものではありません。しかし、その罪を含んで、悩み思い煩う私たちの存在そのものを神は救いとってくださるお方なのです。

 イエス・キリスト様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て添えて与えられる」と言っておられます。「まず、神の国と神の義をもとめなさい」というのですから、最初に求めるのは「神の国と神の義」です。その「神の国」とは、神の憐れみと恵みが支配する世界です。どんなことがあっても、神は私たちを顧み、憐れみ、恵みをもって私たちを導いてくださる。それが神の国です。

 それは、神を信じ、神を信頼する心を持つものに与えられる神の恵みです。そしてそのように神を信頼し神に寄りすがって来るものに、思い煩いから解放し、苦しみや悩みの中にあっても、希望と平安とを与えてくれる、それが神の義です、

 これが与えられると、私たちが自分の力や頑張りでどうしようもない現実の中にあっても、希望を持ち、慰めと平安を得て生きていくことができるのです。ルターは、その神の義を、自分の罪からの救いという問題の中で見出したのです。

 みなさん。私たちはさまざまなことで、心を痛め、心を悩ませ、心配し、不安を感じます。それは、ルターのように必ずしも自分の罪の問題ということ同じでなく、違っているかもしれません。ですから、神の義というものを単純に「罪の赦し」ということに特化して言うことはできないだろうと思います。神の義は、私たちの罪の問題も含め、私たち人間が、思い煩い苦しんでいる現状の中で、神により頼むものに希望と平安と慰めを与えてくれるものだからです。

 そしてその神の義は、ただ神を信じ、神に寄るものに与えられる神の恵みの業なのです。あの500年前の宗教改革は、そのことが私たちの前に明らかにされていくための一つの神の業であったと言えます。だからこそみなさん、今、私たちは神を信じ、神を信頼し、神に寄り縋って生きることの大切さに目をとどめたいと思うのです。それは、私たちが生きる今という時代は、ルターの時代以上に悩みと苦しみが多い時代だからです。しかも、その悩みはとても深く、複雑だからです。そしてそのような時代だからこそ、より一層、神を信じ、神に信頼することで在られる希望と平安と慰めが必要なのではないでしょうか。

お祈りいたします。