23年9月第四主日聖餐礼拝「解放の物語」2023.9.24
旧約書:イザヤ書61章1節から4節
福音書:ヨハネによる福音書9章21節から34節
使徒書:ローマ人への手紙6章1節、2節
今日の礼拝説教の聖書の箇所はヨハネによる福音書9章21節から34節までです。この箇所の冒頭の21節は、「そこで、ユダヤ人たちは、目の見えなかった人をもう一度呼び出して言った。『神に栄光を帰するがよう。私たちは、あの者が罪人であることは、私たちにはわかっている』。」という言葉です。
「そこで」と言う以上、この21節から34節の話に、先立つ話があるわけで、それに先立つ話があります。それは、イエス・キリスト様が何の労働もしてはならないとされている安息日に、生まれつき目の見えなかった人を癒され、そのことを聞いたパリサイ派のユダヤ人たちが、何とかイエス・キリスト様を罪びととして断罪しようとしたということです。
そのためにイエス・キリスト様に目を見えるようにしていただいた人や、その両親を読んで、イエス・キリスト様を罪びとであるという証言を得ようとした。しかし、その企ては、うまくいきませんでした。それで、目の見えなかった人をもう一度呼び出して「神に栄光を帰するがよう。私たちは、あの者が罪人であることは、私たちにはわかっている」神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ」というのです。
この「神に栄光を帰するがよい。私たちは、あの者が罪人であることは、私たちにはわかっている」という言葉は口語訳聖書の訳ですが、教会共同訳では、「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ」となっています。これは、「神に栄光を帰するがよい」という部分のギリシャ語が、「神に栄光を与える」とも訳せますし「神に意見を述べよ」と訳することもできるからです。おそらくは、そこの「神にあなたの正しい意見を述べて、神に栄光を現しなさい」といったニュアンスがあるのでしょう。その前半部分を強調したものが、口語訳であり、後半部分を強調したものが、教会共同訳聖書だろうと思いますが、文脈的には、「神に意見を述べよ」というニュアンスの方が良い思われます。でうので、以後は、「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ」という訳で話を進めて生かさせていただきます。
そこで、「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ」という言葉ですが、聖書の言葉は文字で書かれています。ですから、この言葉が、どのような語調で話されたのかは、聖書を読むだけではわかりません。それは、想像するしかない。しかし、この物語の流れを考えると、かなり強い語調で、つまり、脅迫的に、自分たちの主張に同意を求めるような口調だったのではないかと思われます。それほどまでに、このユダヤの人々はイエス・キリスト様を罪人として、公の証言のもとで断罪し、排除したかったのです。それはおそらく、旧約聖書の申命記19章15節から21節に
どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。
と書かれているからだと思います。
ユダヤ人たちは、悪意をもって証人を立て、悪い証言をすることはできるかもしれません。しかし、それは偽りの証言です。今日のこの聖書箇所のヨハネによる福音書において、イエス・キリスト様絵を非難している人々は、イエス・キリスト様が、安息日に人を癒したと非難しているのです。ですから、偽りの証人を建てるわけにはいかない。彼ら自身が律法を冒すことになるからです。
けれども、もし、イエス・キリスト様から生まれつき見えなかった目を見えるようにしてもらったその本人が、「それでも、イエス・キリスト様は罪びとだと思う」という証言をするならば、それは大きな証言となると思われます。だから、なんとか「罪人だ」と言わせたい。「確かにあのナザレのイエスは私の目を癒してくれた。それはありがたいことだが、しかし律法に記された安息日規定を破った罪びとである」と言わせたいそんな雰囲気が、この聖書の文言から伝わってくるのです。
ところが、そのようなユダヤ人の意に反して、この生れつき目が見えなかったのをイエ・キリスト様に癒された人は、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」と答えるのです。
その言葉を聞いたユダヤ人は、なおも「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」と問い詰めます。みなさん、問いを投げかける、あるいは質問をするというとき、答えがわからなくて質問する場合と、予め、自分が用意する答えがあって、その自分が用意する答えを引き出させるために質問をする場合があります。そして、おそらくこの場面では、彼らの期待する答えがあった。
みなさん、マタイによる福音書12章22節から24節には、イエス・キリスト様が目も見えず、口もきけない人をお癒しになった出来事が記されていますが、そこでは、パリサイ派のユダヤ人が、そのイエス・キリスト様の癒しの業を、ベルゼブルという悪霊の頭によって癒したのだと非難した出来事が記されています。
ですから、この場面でも彼らは、悪霊の力を借りて癒されたのだと言いたいのだろうと思いますし、そのような言葉を、この生まれつき目の見えなかった人から引き出したかったのだろうと思うのです。しかし彼は、ユダヤ人たちの期待を裏切ります。そしてあまつさえ、「あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。というのです。
この生れつき目の見えなかった人の言葉に対して、ユダヤ人たちは、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」と応酬します。
この言葉も、おそらくかなり強い口調、それそこ激しい怒りがこもった語感でユダヤ人たちは語ったのだろうと思います。といのも、彼らの言葉には「私たちは、あんなイエス・キリストというどこの馬の骨かわからないような人間よりも、はるかに旧約聖書に書かれた律法に通じているのだ」というニュアンスが含まれているからです。そしてユダヤ人たちは「その私たちが、イエス・キリストの弟子になるなどとんでもない話だ」。まさにユダヤ人たちはそう言っているのです。
ところが、かれらが語気を荒げながら、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っているが、あの人がどこからきた者かは知らぬ」といっても、あの生れつき目の見えなかった人は、そんなことなど意に介せずに、「イエス・キリスト様が、生まれつき目が見なかった自分の目を見えるようにしてくださった。そんなことは、古今東西御いたことがない。だから神のもとから来た人以外にできようはずがない。だから、このお方は神から遣わされたお方だ」というのです。
みなさん、この生まれつき目が見えなかった人は、目が見えないという物理的な意味で闇が支配する世界に生きていたその人生のただ中から、解放され、光があふてれいる世界の中の中で生きる者とされました。同時に、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」この人の罪のせいですか」というような心無い言葉をかけ、彼は罪びとだ神に見捨てられたものだと、交割から締め出す冷たい社会から解放され、神の恵みを感じ生きる暖かな世界の中に生きる者とし、ユダヤの人々の交わりの中で生きる者されたのです。だからこそ、そのような喜びに導いてくださったイエス・キリスト様を、神の御もとから遣わされてきたお方だと素直にそう思うのです。
それに対して、この生れつき目の見えない人を「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」といって、断罪する冷たい世間の目が縛り付けているのが、今、イエス・キリスト様を排除しようとしているユダヤ人たちなのです。そして、ここでも「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」といって、彼を外へ追い出そうとするのです。それは彼をユダヤ人の交わりの中から、再び締め出そうとする行為なのです。
みなさん。私たちは先ほど旧約聖書のイザヤ書61章1節から4節の言葉に耳を傾けましたが、この言葉は、イスラエルの民が、バビロンに奴隷として捕らわれ、苦しい生活の中にあるところから、神様が救い、解放してくださるということを告げる言葉です。
考えてみますと、旧約聖書の救いの物語は、イスラエルの民が奴隷として異国の民に支配されたり、暴君から解放され、神の約束の地で生きて行くという物語として描かれています。その最も大きな出来事が、エジプトの地で奴隷として呻き苦しんでいる中から救い出された出エジプト記の物語であり、このバビロンの支配から解放される二つの物語です。
そして、その支配からの解放の物語が、まさに神から油注がれた王としてこの世界のお生まれくださったイエス・キリスト様によって、生まれつき目の見えない人が、目に見えないという物理的闇から解放する物語として、また、この人を「罪びと」として断罪し疎外する冷たい世間の目から解放する物語として、このヨハネによる福音書でもう一度繰り返し物語られている。
そうなのです。みなさん。イエス・キリスト様は、私たちを苦しみや悲しみに縛り付けている罪の力から解放し、神の恵みと愛が支配する世界の中に招き入れてくださるお方なのです。そして、神の愛と恵みの支配のもとに私たちを置いてくださるのです。だからこそ、使徒パウロは新約聖書ローマ人への手紙8章1節、2節で
従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。、キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
というのです。パウロは、このローマ人への手紙の6章から8章までで、「あなた方は解放された解放」と言います。そして、その解放は、しばしば「律法」からの解放であると言います。しかし、勘違いをしてはいけません。パウロがこのローマ人への手紙で言う律法は、私たちを罪に定める律法であり、それは律法の文字だけを守り行う律法理解であり、律法本来の目的ではありません。
律法の本愛の目的は、私たちを罪と死との法則から解放するためにあるのであり、私たちを神の恵みに生かすためなのです。それは、罪と死の法則の故に、神の前に死んでいる者生かし、暗闇の中にある者に光を与えるものなのです。その神の恵みに、今、私たちは招かれています。そして招き入れられているのです。そのことを覚え、私たちを罪と死がもたらす闇の世界が与える苦しみや悲しみから救い出してくださるイエス・キリスト様のことを思廻らしたいと思います。短く静まりの時を持ちます。