「狭い門より入れ!」
マタイによる福音書7章13節
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
「狭い門」と聞いて、ジイドの小説を思い出した人は、ちょっとした文学通。入学願書と受験票を思い出した人は、受験生かその受験生をかかえた家族の方ではないかとお察しします。もっとも、最近は入学試験だけではなく、就職も厳しい時代のようで、入る時だけでなく、出るときにもこの「狭い門」を意識しなければならないのが、当世の学生さんたちのようで、学生稼業は昔ほど気楽ではなくなったようですが、ともかく、毎年多くの学生さんがこの「狭い門」を目指します。
入学試験で「狭い門」という場合、当然それは試験に合格するのが難しい場合に用いられる言葉です。従って、この狭い門を通過するためには、一生懸命頑張り努力して、様々な知識や学力を身につけなければなりません。百の英単語を覚えている人間より1万の英単語を覚えている者の方が、より合格に近いことは間違いがないことなのです。
つまり、受験における「狭い門」は、その門の存在を誰もが知っているほど有名で、多くの人がその門を目指して殺到してくるのに対して、その人々をふるい落とすために「狭い門」となり、やってくる人が通りにくいようになっているものを指しているのです。ですから、人々がその門を通過するためには、何とか自分が努力し頑張って習得した優秀さを見せなければなりません。
ところが、もともと「狭い門」という言葉の発祥である聖書の言う「狭い門」は、いわゆる受験戦争で言われる「狭い門」とはチョッとばかり趣が違っています。聖書が言うところの「狭い門」とは、もともとは「天国の門」のことを指しており、この「天国の門」のもつ狭さは、受験戦争の狭さとは全く正反対の性質をもつ狭さなのです。
聖書は、「人はどうやって天国の門をくぐりぬけるか」という問題に対して、「それはどんな努力や頑張りによってもくぐり抜けられるものではない。」と答えます。そして、「自分は罪人であり、神の前に誇れるようなものは何も持たないものであり、神の恵みと憐れみなしでは、神の前では生きていけないものなのであり、天国になど行けようはずもない人間なのだ。」と身をかがめて謙虚になって生きていく人間こそ、実は天国の門をくぐることができるのだというのです。
逆を言うと、自分の優秀さやすばらしさを人に見せ,神の誇示しようとしていては、とうてい天国に入ることなど出来ないということになります。まさに天国の狭い門は、胸を張って堂々と通っていこうとするにはあまりにも狭すぎるのです。
入学試験に代表されるようなこの世の狭い門を数多く通り抜けてきた人々が、いろんな問題を引き起こしたりするのを見聞きすることが、昨今冨に増えたような気がする。もちろん、みんながみんなそうと言う訳ではないし、一生懸命頑張ってこの世の狭い門をくぐりぬけることも決して悪いことではないと思います。それはそれですばらしい事に違いがないのです。
しかし、それがいかに通るに狭く難しいこの世の門であり、その難関を通り抜けたからといって肩で風を切りながら歩いていく生き方ではなく、むしろこの世の狭い門を通ろうと通り抜けまいと、ただ神の前に身を小さくし、かがめながら生きていくようなものこそ、天国の入り口にある狭い門を入っていくものなのですと、聖書は私たちに教えているのです。