2021年4月29日木曜日

キリスト教や仏教を超えたところにある神の啓示

          キリスト教や仏教を超えたところにある神の啓示

 聖書に「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙516)という言葉があります。有名な言葉ですので皆さんもご存じだと思いますが、まさに、この新型コロナの感染拡大という災禍の中に、私たちの心に刻まなければならない言葉です。

 この「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい」という言葉を紹介している臨済宗のお寺のホームページがあります。円覚寺というお寺の2020年の55日の今日の言葉という記事です。そのなかで、この聖書の言葉が紹介されているのです。それは聖心会のシスターの鈴木秀子さんの言葉を引用しつつ書かれた次のような言葉です。

 

 「『新約聖書』の「テサロニケ人への第一の手紙」に次の言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」喜びというと、何か特別の出来事のように思ってしまいますが、そうではありません。おいしく食事ができることや健康に活動できること、家族がいてくれること、さらに言えば命が与えられていること、そのこと自体が喜びなのです。日々の小さな出来事にも喜びを発見し、またそのことに感謝して生きる。喜びや祈り、感謝を習慣化していくと、心が静まり、突然の事態にも動じなくなっていきます。いつか、この危機が過ぎ去った時に、自分が深められ成長できていることに気づくでしょう」。

 こういうあたたかく、親切なお言葉というのは、我々禅僧にはとてもまねができません。本当に心に染み入る言葉です。大きな力をいただくことができます。鈴木先生とは懇意にさせていただいていますが、思えばいつお目にかかっても、笑顔で喜びをたたえていらっしゃいます。そして祈りの人という雰囲気を常にお持ちであります。更に絶えず感謝の言葉を口になされています。鈴木先生にはすっかり習慣化され身についていらっしゃるのでした。いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、私もこれを習慣にするよう努力しようと思います。

 

 この引用された鈴木秀子さんの文章も優れた文章であり聖書理解ですが、そのような文章に触れて、「これはキリスト教の言葉だから」などと言われることなく「素直にそれを評価し、自分もいつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、私もこれを習慣にするよう努力しようと思います」とお寺のホームページに書き込まれた僧侶の方にも心を打たれ、素直に尊敬の念を覚えました。そこには、この僧侶の方の中に、イエス・キリスト様の内にある謙遜や寛容という物に通じる精神が見られます。

 かつてのキリスト教は、自分たちだけ真理を持っている最高の宗教だと言って、イスラム文化圏やアジア文化圏を見下ろすような視線が合ったことを、私は歴史を学ぶ一人の牧師として認めざるを得ません。そしてそのことが、サミュエル・ハンチントンが言う文明の衝突を生み出し、植民地支配をとどめることができず、また戦争の悲劇に結びついて行ったことを否定できないのです。

 しかし、創世記には神様は人間をお造りになったとあります。そしてその時に、人間を神の像(かたち)にお造りになったと言われるのです。そしてその神の像は、宗教を超え、民族を超えすべての人に与えられている。ですから、牧師であろうと僧侶の方であろうと、この神の像から湧き上がる思いに素直になるとき、謙遜さや寛容さといったイエス・キリスト様の内にある御性質に通じるものを持ち、御霊の実である愛、喜び、柔和、寛容、親切、誠実、善意、平安、自制を身に着けていくことができるのだろうと思います。

 神学の中の啓示論と言われる分野においては、自然神学という考え方があります。それは、神様が神の造られたすべてのものを通して、神様というお方を私たちは知ることができるという考え方です。それは聖書が語るところであり、人間の生き方や心ありようを通しても神様は私たちに神というお方を示しておられるのです。実際、今回のこの僧侶の方の言葉を通して、私は大切なことを教えられたように思います。

 考えてみますと日本人の霊性について深く考えた仏教学者の鈴木大拙は仏教学者というだけでなく中世のキリスト教の霊性の巨人といわれるエックハルトの研究をしながら日本人の霊性についての考察をまとめ、その鈴木大拙の影響を受けた世界的な哲学者西田幾多郎は、鈴木大拙からの影響にさらにそこにキリスト教のエッセンスを加えながら「西田哲学」を構築し、その「西田哲学」の影響化で、八木誠一や小田垣雅也、小野寺功といった「無」の神学者といわれる神学の営みがなされてきました。

 私も、学びの中で、少しだけですがこの「無」の神学について学ばさせていただきました。そうすると、この無の神学の中に、私たちの教団の聖化といった神学思想に通じるものがあると思わされるのです。そう言った意味では、私たちは仏教の言葉からも学ぶことは多いのです。そこには、仏教とかキリスト教と言った垣根を超えて、神様は私たちにご自分を示し、神に喜ばれる人間の在り方を示しておられる神様のお姿がある。そのことを心に覚え、刻んでおきたいたいと思います。

2021年4月3日土曜日

‘21年4月第一主日復活祭礼拝礼拝説教「希望の物語」

 

214月第一主日復活祭礼拝礼拝説教「希望の物語」           2021.4.4

旧約書:ホセア書1314(p.1258)

福音書:マタイによる福音書2745節から56節(pp.48-49

使徒書:コリント人への第一手紙1550節から54節(p.276)

 今日は、私たちの主イエス・キリスト様が死から蘇られたことを記念する復活祭です。私たちは、先週の棕櫚の主日の礼拝で、マタイによる福音書2745節から50節を通して、イエス・キリスト様が十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望的な思いの中で死なれたのは、私たちが絶望的な思いに陥ってしまった時に、同じように十字架の死という絶望的な思いを経験したイエス・キリスト様によって癒され・慰められるためであったと言うことを学びました。

 そして今日の復活祭の礼拝は、そのマタイによる福音書2745節から50節に続く51節から56節、特に51節から53節を中心に、聖書の言葉に向き合いたいと思います。

 このマタイによる福音書2751節から56節の記述は、意外に取り扱いが難しい箇所です。というのも、このマタイによる福音書の2745節から51節は、同じ内容を取り上げているマルコによる福音書33節から41節とほとんど同じ記述になっています。

 また、ルカによる福音書2344節から49節にも、十字架の上でイエス・キリスト様が叫ばれた言葉は違っていますが、そのほかの内容はほとんど同じ記述が出ています。 

ところが、マタイによる福音書は、その受難の物語の中の51節から53節に、イエス・キリスト様の受難の際に、墓に葬られていた多くの聖徒たちの死体が生き返り、イエス・キリスト様の復活のあとにエルサレムに入り、多くの人に現れたという、実にセンセーショナルな出来事を挿入するのです。

 もちろん、このセンセーショナルな出来事は、マタイによる福音書だけに記されている出来事であり、他の三つの福音書には、この物語が記されていません。

 それに対して、たとえばマタイによる福音書の918節から26節にある会堂司ヤイロの娘が生き返った物語は、マルコによる福音書にもルカによる福音書にも記されています。このヤイロの娘が生き返ったという出来事は、「その噂がその地方全体に広まった」といずれの福音書も伝えています。それほど死んだ人間が生き返るという事件は、人々の心に刻まれる非常に大きな出来事なのです。

 だとすれば、この多くの死んだ聖徒たちが生き返り、墓を出てエルサレムにやってきて、多くの人に現れたという出来事は、ヤイロの娘が生き返った出来事よりも、もっと衝撃的な事件として、当然、人々に語り伝えられていたでしょう。なのに、マタイ以外のどの福音書も、この事件を取り上げていないのです。これは、実に不思議なことです。

また、マタイによる福音書は、イエス様が十字架で死なれたときに多くの聖徒の死体が生き返り、イエス様の復活の後に、墓から出てエルサレムに入ったと伝えています。

みなさん、イエス・キリスト様の十字架の死は、金曜日の午後に起こった出来事です。そして、復活なさったのは日曜日の朝。だとすれば、この生き返った多くの聖徒は、金曜日の午後に生き返り、日曜日の朝まで墓に留まり、それから墓から出てきたと言うことになります。これも極めて不自然です。

だとすると、このマタイによる福音書2752節、53節の出来事は、歴史的事実というよりも、むしろマタイによる福音書の著者が何かを伝えるために、意図的に、象徴的あるいは比喩的な表現で、この52節、53節の物語を書いたのではないかと考えられます。

 みなさん、聖書は誤りのない神の言葉です。これは、私たち福音派の立場であり信仰です。私もそのことを微塵も疑ってはいません。しかし、同時に聖書は、聖書記者という人間を介し、手紙や詩や歴史物語といった様々な文学的手法を用いて書かれています。

 ですから、ある事柄が象徴的に描かれたり、比喩的に描かれたりするということは、少なからずあるのです。そしてその意味では、このマタイによる福音書の2752節、53節の出来事も、ある事柄の象徴的、比喩的表現であると考えられます。

 だとすれば、マタイによる福音書の著者は、いや、聖書そのものが、この出来事を通して、何をその読者に伝え、なにを物語りたかったのか。

 みなさん、それは希望の物語です。私たちを、罪と死によって縛り付けているこの世から解放し、神の恵みの支配のもとで生きる者として下さったという救いを語り、希望を伝える物語なのです。その物語は「また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」という非常に短い小さな物語なのです。

 しかし、その短い小さな物語は、キリスト教2千年の歴史をつらぬく長い救いの物語であり、多くの人に希望を与える大きな物語でもある。そしてその長く大きな希望の物語の中には、神を信じる私たち一人一人の様々な物語がある。

そこには自分の中にある苦々しい思いや自らが犯した罪のゆえに、良心の呵責に押しつぶされそうになった人が、神の赦しの言葉を得て、その良心の呵責から救われるという物語もあるでしょう。また、人間関係のもつれや、ゆえなく人から心を傷つけられるという深い痛みに苦しむ人が、神の言葉や教会によって癒されると言った物語、あるいは人間の死や病の現実の前で悲しむ人が慰めを受けるといった様々な救いの物語があるのです。

 そして、今日、この会堂に集っているみなさん、ネットでこの礼拝に参加しておられるみなさん、送られてきた説教原稿で家庭礼拝を守っておられるみなさんのお一人お一人にも、良心の呵責に押しつぶされそうになったり、心が傷つけられた痛みを経験したり、あるいは病や死という現実の中で悲嘆なさった経験があるのではないかと思うのです。

 それは、ある意味、先週お話ししたように、イエス・キリスト様が、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれ死んで行かれたような、深い絶望に陥った経験なのかもしれません。

 しかし、そのような絶望の中にあったとしても、私たちは必ず立ちあがれる。再び希望を持って生きることができるのです。なぜならば、イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちを縛り付け、私たちを苦しめる死と罪の法則から私たちを解放するからです。

 私は牧師という職にありますので、お恥ずかしい程度のものではありますが、神学の学びをしてきました。また、教会の皆さんのご理解もあって、継続的に神学の学びを続けさせてもいただいています。その学びを通して、このイエス・キリスト様の生きておられた時代のユダヤ人たちがもっていた終末思想というものに触れる機会がありました。

 その一つが、この当時のユダヤの終末思想においては、罪というものが、私たちの内にあるものとしてではなく、いやもちろんそれもあるのでしょうが、それ以上に私たちの外側にある宇宙的な力として私たちを支配していると考えられていたと言うことです。

 そのような考え方は、イエス・キリスト様や12使徒たちに、またパウロの内にもあったと言えるでしょう。むしろ、そのような考え方で「世の終わり」、終末というものを捉えていたと考えるのが妥当でしょう。

 その宇宙的な力である罪が、私たちを神から引き離し、私たちを罪の支配のもとに置くのです。そしてその罪の支配のもとで私たちは苦しみ、人を傷つけたり、傷つけられたり、様々な悪を犯してしまう。また、その私たちの外側にある宇宙的な罪が、人間世界の様々な痛みや苦悩を生み出し、最終的には私たちに死をもたらすのです。

 イエス・キリスト様がもたらす救いは、その罪と死の支配から私たちを解放し、神の恵みが支配する神の王国へ、私たちを招き入れてくださいます。そこは、赦しと、慰めと癒し、そして励ましに満ちている世界です。そして、私たちを命へと導く。

この神の王国が私たちを導く命を、ヨハネによる福音書は「永遠の命」と呼びます。それは、あのヤイロの娘が生き返ったという意味での命ではありません。ヤイロの娘は、確かにイエス・キリスト様によって一度は蘇りましたが、永遠に生きているというわけではない。彼女は歴史の中のどこかで、もう一度死を経験している。

 しかし、神の国がもたらす「永遠の命」は、永遠なる神の命です。みなさん、私たちの肉体は、必ず死を経験します。先ほどお読みしました新約聖書コリント人への第一手紙の1550節から57節には、「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」とあります。

 このコリント人への第一の手紙1550節から57節には、死は眠りに譬えられています。そして、神を信じ、イエス・キリスト様を信じたものは、その死の眠りから、朽ちる肉体ではない朽ちない体となって甦ると語られています。

 ここには、死に勝利する希望が語られ、「永遠の命」への希望が語られている。だからこそ、コリント人への第一の手紙1555節は、「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と、罪と死に勝利されたイエス・キリスト様を高らかに誉め讃えるのです。

 みなさん、このコリント人への第一の手紙1555節のイエス・キリスト様の死に対する勝利を讃える言葉は、先ほどお読みした旧約聖書ホセア書1314節の「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」の引用だと言われます。

 ところが、このホセア書1314節は、9節にある「イスラエルよ、わたしはあなたを滅ぼす。だれがあなたを助けることができよう」という言葉から始まる、厳しい裁きの宣告の中に置かれている言葉なのです。

ですから1314節の前半の「わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか」という言葉は、「神はイスラエルの民を贖い、お救いになられるだろうか、いやお救いにならない」という意味であり、それゆえに、あの「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」という言葉もまた、救いの言葉ではなく、イスラエルの民を裁く神の裁きの言葉なのです。

しかし、この厳しい裁きの言葉も、神の憐れみが隠されているからです。この憐れみを隠していた覆いが取除かれ、神の憐れみが現れ出るとき、「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」という言葉は、裁きの言葉から恵みの言葉へと変えられる。それが、コリント人への第一の手紙の1555節で起こっている 

 みなさん、今日の説教の中心であるマタイによる福音書2752節、53節の出来事は、私たちがこの世の生を生きる中で、私たちを支配する罪の力がもたらす苦しみや、悲しみや、痛み、苦悩に対して、神が私たちを支え、慰め、癒しを与えてくださる救いの物語であり、また、死や病という現実に向き合う者にとっては、復活と永遠の命という希望を語る希望の物語です。それは、まさに私たちに対して神が語りかける神の救いの物語であり、この救いの物語こそが神を信じ生きる私たちクリスチャンの希望の物語となるのです。

 今しばらく、心を静め、沈黙の内に、この神の希望の物語、救いの物語に思いを馳せたいと思います。静まりの時を持ちます。

21年3月第4週受難節第6週(受難週)礼拝説教「キリストの叫び」

 

213月第4週受難節第6週(受難週)礼拝説教「キリストの叫び」    2021.3.28

旧約書:詩篇第221節から18

福音書:マタイによる福音書2745節から50

使徒書:へブル人への手紙414節から16

 

 今日は、棕櫚の主日と呼ばれるイエス・キリスト様が子ロバに乗ってエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そして、この日から受難週に入り、26日の金曜日のイエス・キリスト様の十字架の死を覚える受苦日を迎えます。

 その受苦日に向かう週の最初の日に、私たちは、このマタイによる福音書2745節から50節の御言葉を中心にして、神の言葉である聖書の言葉にあるイエス・キリスト様の、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に向き合い、イエス・キリスト様の十字架の死の意味について考えたいと思います。

 この箇所において、マタイによる福音書の著者は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエス・キリスト様の言葉を、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というヘブル語で記しています。 

ギリシャ語で書かれたマタイによる福音書において、この箇所では、あえてヘブル語に置き換えて、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と書き記したのは、マタイによる福音書は、ユダヤ人たちを読者として想定して書かれていると考えられるからです。

それはおそらく、イエス・キリスト様が十字架にかけられた際に、その十字架のそばにいた人々が、イエス・キリスト様の言葉を聞いて「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と言った理由を明らかにするためであったと思われます。つまり、「エリ、エリ(אֵ לִ י אֵ לִ י)」という言葉を、エリヤ(אֵ לִ יָּהוというふうに聞き違えたというわけです。

 これは、ギリシャ語の「セー モウ、セー モウ(Θεέ μου  θεέ μου,としたのでは、なぜ人々がイエス・キリスト様の言葉を聞いて「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と思った理由がわからない。しかし、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉ならば、「エリ、エリ」という言葉を、エリヤというふうに聞き違えたと説明がつくのです。

みなさん、エリヤというのは旧約聖書に出てくる預言者で、紀元前9世紀前半に活躍した人物です。そのエリヤについて、私たちが手にしている旧約聖書の最後の書であるマラキ書45節には、「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」。という記述があります 

そして、イエス・キリスト様の時代のイスラエルの人々は、この主の大いなる恐るべき日である終わりの時代には、預言者エリヤが再び現れ、イスラエルの民を救うメシヤ、すなわち油注がれた王の到来のための備えをすると考え、エリヤとメシヤの到来を待っていました。そこにはイスラエルという神の王国の再建への期待があります。

 そして人々の間には、ナザレから出て来たイエスという人物こそが、そのメシヤであるという期待がありました。イエス・キリスト様が子ロバに乗ってエルサレムに入城なされる際に、人々が「ダビデの子にホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ、いと高きところに、ホサナ」と叫び、歓喜の声を持って迎え入れた様子(マタイ218)には、このナザレのイエスこそが、メシヤであるという期待が感じ取られます。

 だからこそ、イエス・キリスト様の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉を聞き違えた人々の中に「待て、エリヤが彼を助け来るかどうかを見ていよう」などという声が聞こえてくるのです。

 しかし、マタイによる福音書の著者が、イエス・キリスト様の語られた言葉を、わざわざヘブル語で書き記した理由は、それだけではないと思われます。

みなさん、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉の意味は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、その言葉は、詩篇2211節の言葉に重なり合います。

 そしてこのマタイによる福音書を書き記した著者は、イエス・キリスト様の叫ぶ言葉を通して、読者であるユダヤ人が、詩篇221節の言葉を思い起こすことを期待している。

 その詩篇22篇は、深い絶望の中から語られる詩篇です。まさに祈ってもその祈りが神に聞かれない、嘆きの声を上げても神がその嘆きの声を聞いて下さらない。そのような絶望的な思いの中から語られる詩篇です。

 つまり、この「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉で始まる詩篇22篇は、祈りが答えられない、神が苦しむ私の声を聞いてくれないという絶望の淵にある人の嘆きの言葉なのです。その嘆きを、イエス・キリスト様もまた共に経験しているのです。

 みなさん、実は、この詩篇22篇はイエス・キリスト様の受難の物語と重なり合う部分が多い詩篇です。たとえば78節の

すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り 動かして言う、「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。

 という言葉は、今日の説教の中心となっているマタイによる福音書2745節から50節までの直前の38節から45節で、十字架に磔られたイエス・キリスト様に対して、人々が頭を振りながらののしって言った言葉と行動とに重なり合います。

また同じく詩篇22篇の18節にある「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」という言葉は、マタイによる福音書2735節で、「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け」たという出来事と重なり合います。

 このように、イエス・キリスト様の受難の出来事は、詩篇22篇の詩人の苦しみと重なり合わされ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という神に見捨てられ見離された絶望の言葉となって、イエス・キリスト様の口から語られるのです。

 みなさん、この時、イエス・キリスト様は神の御子であるのにもかかわらず、「わが父、わが父」と呼びかけてはいません。神の御子であられるのにもかかわらず、「わが神、わが神」と言われるのです。 

 それは、神のひとり子であり、それゆえに神であり、苦しむ必要のないお方が、私たちと同じように苦しみを負い、痛みを感じ、嘆き、絶望を経験なさったと言うことにほかなりません。神であられるお方が、私たちと同じ苦しみや痛み、嘆きや絶望を負われた。

 みなさん、私たちの生きている「この世」という世界は、まるで神などいないと思われる神が隠されている世界です。そこには、苦しみや、痛みや、嘆きが渦巻いている。そのような世界の中で私たちは生きているのです。

 実際、私たちは、「神も仏もあるものか」と思えるような苦しみや痛み、嘆きを経験します。そのような絶望的な経験などないという人もいるだろうと思いますが、それはそれで幸せなことなのかもしれません。しかし、そう言った人は必ずしも多くはありません。

 病や、貧困や、欠乏、そして死といった出来事が失望を生み出し、私たちを嘆き悲しませます。そしてときには私たちを絶望の淵に突き落とすことがある。その苦しみや痛みや嘆きを、神の御子イエス・キリスト様も私たちと同じように負われたのです。

 そのことを新約聖書へブル人への手紙の著者は、へブル人への手紙41516節で、次のように語ります。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 

 この「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」という言葉は、新改訳聖書2017では、「私たちの弱さに同情できない方ではない」となっています。この同情、あるいは思いやるという言葉の元々のギリシャ語が持つニュアンスは、他者の感じたものと同じような感覚を持って、その他者からの影響を受けるという感じのニュアンスを持っています。

ですから、大祭司であるイエス・キリスト様は、私たちの痛みや苦しみ、あるいは悲しみ、逆に喜びといったものに共感し、そして影響を受け、深く心が動かされ、それ故に、痛みや苦しみ、悲しみの中にある私たちに関わらずにはいられないお方だというのです。

 みなさん、相手の心に共感するためには、自分の中に同じような心がなければなりません。私たちが「この世」という神がいないかのような世界の中で経験する、苦しみや悲しみ、痛みや嘆きといった絶望的な思いに共感するためには、同じように、「この世」という神がいないような世界で、同じように絶望的な思いを経験し、その苦しみ、悲しみ、痛みや嘆きを知らなければならない。

 詩編22篇の言葉に重ね合わされた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか)というイエス・キリスト様の叫びは、まさにあの詩篇22篇の詩人と同じように、「この世」にあって苦しむ私たちと同じ絶望的な思いを経験してくださったことの証に他なりません。

 そして、そのような絶望的な思いをイエス・キリスト様が経験なされたのは、私たちが絶望の淵に陥ってしまった時に、そのイエス・キリスト様によって癒され・慰められるためです。マタイによる福音書の記者は、あえてイエス・キリスト様の言葉をヘブル語で書き記すことで、そのことを、読者に、そして私たちに伝えたかった。

 みなさん、神の御子であり、神の言葉であるイエス・キリスト様は、聖書の言葉を通して、またイエス・キリスト様の体なる教会を通して、私たちに慰めを与え、支えを与え、励ましを与えてくださいます。

 だからこそ、教会では毎週の礼拝で聖書の言葉が読まれ、聖餐を通して交わりが持たれるのです。それは、神の言葉である聖書と教会を築き上げている私たちの交わりを通して、主イエス・キリスト様のもたらす慰めや支えや励ましを得るためなのです。

 同時にそれは、私たちがキリストの体なる教会に呼び集められ、私たちを通して、多くの人が慰められ、支えられ、励まされ、その心が癒されるためなのです。そのために、私たちはこの「キリストの体なる教会」に呼び集められている。

 今日の礼拝は、そのイエス・キリスト様の十字架の苦難を思い、心に刻んでいく受難週を迎える主日の礼拝です。だからこそ、今、心を静め、主イエス・キリスト様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか)と叫ばれ、死んで行かれた出来事に思いを馳せたいと思います。静まりの時を持ちます。