2019年4月25日木曜日

安全神話の崩壊


                安全神話の崩壊

地震・雷・火事・親父。これは昔から語り継がれた恐いものの代名詞です。確かに、これらのものは、今でも恐いものに違いはないのですが、しかし、最のは親父はあまり恐いものではなくなってしまったようです。先日などは、友人が、女房ほど恐いものはないと愚痴をこぼしていましたから、現代では、さしずめ地震・雷・火事・女房といったところでしょうか。
 私の場合は、さらにこれに飛行機が加わります。この飛行機が恐いというのは、あの鉄の塊が飛ぶというのが信じられないということもありますが、やっぱり落っこちるのではないかという恐怖心が働くのだろうと思います。

 以前、私は小さな田舎町の教会の牧師をしていました。そのとき、所要で年に何回か東京に出向くことがあったのですが、どこから聞いてきたのか、家内が、2ヶ月前に予約すれば、飛行機の方が断然安くて早いというのです。そんなわけで、東京にいく予定が決まるや否や、そうそうにその安い飛行機のチケットを購入してきたのです。
 当然のことながら、私は「イヤダ!」とごねたのですが、「飛行機事故にあって死んでしまう確立よりもは、交通事故で死ぬ確立よりもはるかに少ないのよ。」と説得されて、結局シブシブながら飛行場に出かけていきました。
 飛行場について搭乗手続きをしながら、「そういえば新幹線やタクシーに乗る時に登場手続きなんかしないよなー」と、はたと気づきました。そして、「これは事故にあったときに身元を確認するために違いない。」という結論に達したのです。そうすると家内の説得で収まっていた不安が一気に頭をもたげてきました。

 考えてみると、船に乗る時の乗船手続きをする。あれはきっと広い海原で、海難事故に遭い行方不明になった時、だれが乗っていたかの身元を確認するためなのではないだろうか?などと思いをめぐらせながら、ふと目を上げると、そこに保険の自動手続き機がおいてあるではありませんか。「駅やバスターミナルには保険の自動販売機などは置いていない。やっぱり飛行機は恐いんだ。」と情けない思いになりながら、それでもやっぱり保険の手続きを、かの自動手続き機ですませて、ともかくも恐怖の1時間強の空の旅を終えたのでした。

 飛行機ー事故ー自分も事故に遭うー恐い。などとへたくそな連想ゲームのようにつなぎ合わせて恐れおびえているなど、日頃から安全に細心の注意を払っている飛行機会社や、整備にあたり運行している方々には、はなはだ失礼で申し訳ない話ですし、確かに飛行機事故など早々起こるものでないのでしょう。なのに、不思議と自分が事故に遭うかもしれないと恐がっているのは、まったくもって私の理不尽だといえます。
 振り返ってみますと、子供の頃の私は、どんな乗り物に乗っていても、決して自分だけは事故に遭うことなどないだろうと漠然と思っていました。例えどんな事故の話を聞いていても、自分が事故に遭うかもしれないなどとは考えもしませんでしたし、たとえ他の人が事故や災害にあっても、自分だけにはそんなことは絶対におこらないだろうと信じ込んでさえいました。なのに、いつの頃からか、私の心の中の安全神話は、すっかりと崩壊してしまっていたのです。

 マズローという学者によると、人間の欲望の基本的な欲求は安全への欲求だそうです。人間は、まず自分の命を保つために生理的欲求(食べたり、飲んだりすること)を持ち、それが満たされると、こんどは、その身の安全が確保されることを求めるのだそうです。そういった意味では、私の幼い日々には、この安全への欲求が完全に満たされていたように思います。それは、私の親が食べ物を与えてくれ、いつも守っていてくれるという安心に守られた満たしだったといえるでしょう。
 ところが、大人になって自立し、自分で自分の身を守らなければならなくなるにつれて、この私の心の中の安全神話はだんだんと蝕まれていき、ついには、こと飛行機に至っては完全に崩壊してしまったのです。

 思えば、子供の頃の私は、すべて誰かに依存しなければ生きて活けませんでした。言い換えれば、誰かに助けられ、頼って生きてたわけで、それが子供という事かもしれませんし、確かにそれが子供であるということの一つなのです。このように、依存しながら生きているからこそ、結局は自分自身後からでは自分自身を守りきれない、不慮の事故や災害に対して、それこそ神のご加護があるかのように安全を確信し、そして安心しきっていたのかもしれません。
 なのに、大人になってじりつして自分の力でいろんなことができるようになり、同時に自分の力を信じ、自分の力に頼って生きはじめると、そのとたんに私の安全神話が崩壊していってしまうとは、何とも皮肉なはなしとしか言いようがありません。

 私たちは、結局どんなに努力し、精進し頑張っても、抗えない現実に向き合うことがあります。たとえば死などもそうです。私たちは死という現実には決して抗えないのです。どんなに努力しても、結局自分自身の命さえ救うことが出来ないという事実を私たちは引受けなければならない時が来ます。
 自動車事故ならシートベルトを着用するなどの注意を払えば、助かることもあるでしょう。海難事故だって、板切れにしがみついて必死に泳げば何とかなるかもしれない。救命具やボートだってあるでしょう。けれども、こと飛行機事故には、そういった人間の努力や注意が入り込む余地は、極めて少ないといわざる得ません。それゆえに飛行機事故には独特の恐さがあるのかもしれません。

 人間は、自分の努力の及ぶ範囲では、自分の力で自分自身の身の安全を勝ち得、そして安心を獲得することもできるでしょう。でも、結局のところ、私たちの安全への欲求は、自分自身が頼れない存在であることを知って、自分自身を超えた存在、人間を超えた存在に頼り依存することでしか、本当の意味では満たされないものではないだろうかと思わされます。だからこそ、すべてを誰かに頼っていた子供の頃の私には、いつもゆるぎない安全神話があったのではないだろうかと思うのです。

 聖書は、私たちに、神に信頼し神に自分自身をゆだねなさいと教えます。それは、漠然とした不安に生きる私たちに対して、自分自身を超えた神というお方に頼り、私たちの心の中にある安全への欲求を満たし、そして安心を得なさいという、神からの私たちへの、招きの言葉のように思えるのです。

2019年4月17日水曜日

ネームレス


                 「ネームレス」

もう何年も前になりますが、妻が私に口をこぼした事がありました。男は、女性の愚痴、特に連れ合いの愚痴を、なかなかうまく聞けない生き物だと言われますが、さすがにそのときには、真剣に耳を傾けざるえませんでした。
妻が愚痴りながら言うには、「子供の保育園に行けば『誰々ちゃんのお母さん』と呼ばれ、家に帰ってご近所では、『だれそれの奥さん』といわれる。まだだれそれと名前がつけば良いほうで、ただの『奥さん』と呼ばれる方が圧倒的に多い。一体私は誰なんだろう」というのです。

 考えてみれば、私も妻の事を、「おい」とか「ねえ」とかで呼んでいて、良くても「お母さん」と言う程度。一度は「私はあなたの母親ではない。」とこっぴどく怒られて小さくなったことがありました。確かに妻は子供たちにとってはお母さんですが、私にとっては妻であっても母親ではありません。しかしそのときは、なんで妻がそんな事で怒り出したのかわかりませんでした。でも、「私は誰なんだろう」と言う愚痴を聞いて、その意味がわかったような気がするのです。

 たかが名前と思われるかもしれませんが、名前の背後には、その人自身の人格や存在があります。ですから人は名前を呼ばれる事によって、その人自身の存在する意味とか価値を認められている事を、感じ取っているのかもしれません。いわば、名前を呼ばれる事によって、自分が受け入れられているということを確認しているというわけです。
それを「誰々ちゃんのお母さん」とか「だれそれさんの奥さん」では、自分は子供やご主人の付属物でしかないように感じて、さみしくなったのでしょう。それで思わず愚痴閉まった。でもそんな気持ちもよくわかります

男性だって、自分の名前を呼ばれる事なく、会社名で呼ばれる事が少なくありません。それによって、自分が所属している会社の帰属意識が高まる反面、会社の一部分でしかない事を否応なしに思い知らされる事でもあります。
しかし、誰でも、自分の名前を呼んで欲しいのです。何かの付属物や、一部分のように見られるのでなく、かけがえのない自分として、自分の存在と人格を認めて、受け入れて欲しいのです。

旧約聖書のイザヤ書の411節に、神が「恐れるな、私はあなたをあなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」と言っている箇所ヶあります。神は、ひとりひとりの存在に目を留め、一人一人のことを大切に思い、受け入れようと思っておられる。だからこそ、あなたの名を呼び、あなたは私のものだとそう言われるんですね。
そして、あなたを聖い神のみもとに受け入れるために、私達の汚れた罪の行いや、醜い罪の心をきれいに洗い清める為に、イエス・キリスト様を十字架にかけて死なせられたのです。
ですから、先ほどのイザヤ書411節の言葉は、さらに4節で、「神の目に高価で尊い」と言う言葉に繋がっていきます。神は、あなたと言う存在の価値を認め、大切に考えてくださっているのです。

ちなみに、私はあれ以来、妻を名前で呼ぶようになりました。