2024年元旦礼拝説教「神の逆対応」 2024年1月1日
旧約書:ヨブ記1章6節から12節
福音書;マタイによる福音書5章1節から10節
使徒書:コリント人への第二の手紙12章1節から10節
新しい年を迎え2024年の歩みが始まりました。今年は、先ほどお読みしました。新約聖書コリント人への第二の手紙12章1節から10節の言葉の中にある9節の「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言う言葉を、今年の指針の言葉として掲げたいと思います。
この言葉は、この9節の言葉は、パウロが自分の肉体に何か弱さを感じていた時に、神様がパウロに語り掛けてくださった言葉だと言っています。パウロが感じていた肉体の弱さというものが何であったのかは定かではありません。目のが悪くなっていたのではないかとか、伝道旅行中にかかかったマラリアの後遺症により発作ではないかといろいろと言われますが、実際のところはよくわかりません。
しかし、パウロはその肉体的な弱さのために「三度、神に願った」というのですから、それはパウロにとって悩みの種の一つであったことはまず間違いないと思われます。そしてそれは、パウロが多くの啓示を受けたため、思い上がらないようにサタンがパウロを打ったためだというのです。
この表現は、私にとってはとても奇異な感じがします。パウロが神様からの多くの啓示を受けたため、パウロ自信が思い上がって高慢にならないように、神様がパウロに肉体のとげ、すなわち弱さを与えたというのでしたら、しっくりくるのですが、サタンの使いが、パウロが高慢にならないようにパウロを打ったというのは、どうもしっくりこないのです。むしろ思い上がって高慢になった方が、サタンにとっては望ましいように思えるのです。
そこで、注解書をいろいろと調べてみましたがなかなか納得できるような説明をしているものはありませんでした。そこで、新約聖書のもともとの原語であるギリシャをあたりました。そうすると、7節は、他の可能性があることがわかりました。
その科の生のある別訳と言うのは、「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」とありますところが、「私はあまりに多くの啓示を受けたので、私が大喜びしないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」と訳することができる可能性や、「私はあまりに多くの啓示を受けたので、私が賛美しないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」がある可能性です。
そうすると、ここの部分がわかるような気がする。というのも、「私が大喜びしないよう」と言う訳や、「私が賛美しないように」と言う訳は、神様がパウロに多くのことをあらわし、お示しになった。それはとても喜ばしいことであるので、喜び神様を賛美し、神様が啓示してくださったことを人々に伝え、証するということがないように、私に肉体に、神様に敵対するサタンが、パウロの肉体に棘を与えたというニュアンスが読み取れるからです。
そこには、先ほどお読みした旧約聖書のヨブ記の1章で、神様に語ったサタンの言葉に通じるものがあります。それは、神様が「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」と言う言葉に対して、
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」
と言う言葉です。神様が恵みを多く与えたならば、人は神を神を賛美し、ほめたたえることは当たり前だ。だか、災いが襲ってきたら、人は神を敬うどころが呪うだろう。人間とはそんなものだとサタンは言うのです。
そうかもしれません。確かに人間にはそのような弱さがある。だからサタンはヨブを打ち、災いと苦難を与え苦しめるのです。しかしヨブは、災いが自分に襲ってきたときに、「なぜなのだ」と神の党ことはあり、「神様に何か間違いがあるのではないか」という苦悩はありましたが、神様を恨んだり、呪ったりはしませんでした。
同じように、神様から多くの恵みを与えられているパウロの肉体に、棘と言われる何らかの病気かあるいは不自由さを与えたのです。それによって、パウロが神様をほめた耐え、賛美し、神様を証ししないようにするためであった。そう考えると、このコリント人への第二の手紙12章7節の言葉がすっきりとわかるような気がします。
じっさい、パウロはこのサタンが与えた肉体の棘のゆえに、神様に三度願ったと聖書は記しています。そこには、ヨブが「神様、なぜですか。神様が何か間違っていませんか」と問いかけたような思いが読み取れます。
しかし、そのようなパウロに神様は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われるのです。確かにパウロには弱さがある。苦しみ悩む部分もある。だからこそ、「私に頼りなさい。私が弱さを持つあなたを、その弱さの中にあるあなたと共に歩み、あなたを慰め、支えるから」と神様は言われるのです。
パウロが、弱さを克服して自分自身の力で生きていくならば、それこそ高慢なものになっていく。だからこそ神様は、サタンがパウロが神様を喜び、賛美しないようにと与えた肉体の棘を逆に、パウロが高慢にならないように用いて、パウロが神様を頼り、神様に支えながら生きていくようにと、教え導かれるのです。
なぜならば、私たちが生きていく中で、自分自身の力ではどうしようもない壁にぶつかることがあるからです。その時に、自分自身の力に頼って生きていくならば、私たちは挫折をするだけで、それを乗り越えることができないのです。
けれども、神様により頼み生きる生き方をするものは、そのような自分自身ではどうしようもない出来事にぶつかったときにも、神様に助けの道を見いだすことができる、神様の支えをいただいて生きていくことができるのです。
いやむしろ、そのような弱さの中にある時こそ、12章10節の「それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」と言うことを経験することができるのです。
みなさん、弱い時にこそ神様の恵みを感じ、神様の力と支えを知る、喜び神を賛美できるということがは、サタンが「あなたが恵みを与え、祝福を与えるから神を信じ、神を誉めた讃えるのです」と神様に主張した主張とは全く逆のものです。
そして、そのような逆説をイエス・キリスト様が、マタイによる福音書5章にある有名な山上の垂訓で語られるのです。
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでい る人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。(10節)義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
これは全くの逆説です。まさに「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言うことであり、「私は、弱いときにこそ強いからです」と言うことが、このイエス・キリスト様の山上の垂訓の言葉の中に現れ出ています。
みなさん、今、日本のキリスト教は逆風の中にあります。本当に宣教も苦しく、教会も大変な中にある。でもね、私たちには神様の支えがある。私たちと共に歩んでくださる神様がおられるのです。
そのことを、しっかりと心に覚えつつ、今年一年もみなさんと共に歩んでいきたいと思います。しばらく静まりの時を持ちましょう。私たちが弱さの中にあっても、共に歩み、支え、力づけてくださる神様が、教会と共に、またあなたの今年一年の歩みにいてくださるのです。そのことを、心静めて思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。