2021年3月24日水曜日

「ゆびきりげんまん」

 

「ゆびきりげんまん」

 

「ゆびきりげんまん。嘘ついたら針千本のます。」って、小さい頃、約束をするとき、こう言って約束をしたもんですよね。私も、親とそうやって約束をしたり、今度は親になって、子供と約束したりしました。

でも、そうやって「ゆびきり」して約束をしても、なかなか守れない事もあります。私も、ずいぶんと約束を破って来ました。でも、未だに針千本のんだことありませんから、私は二重に嘘をついてしまっちゃってるんですね。

でも、そんな中には仕事や、どうしようもない事情のために約束が守れないといった、致し方のないことがあります。もちろん、本来は約束、守るべきものです。ですから、約束には、真実な態度で臨まなければならないのは、言うまでもないことですよね。 

聖書。一言で「聖書」っていいますが、この聖書は、新約聖書と旧約聖書の二つの部分からなっています。

私は、クリスチャンになる前は、旧約は古い翻訳で新約は新しい翻訳だって思っていましたが、そうじゃないんですね。実は「新約」「旧約」の「約」は、神様と人との間に結ばれた約束って言う意味で「旧約」「新約」って言うんです。

ですから、「旧約聖書は」神様と人との間に結ばれた古い約束、新約聖書は新しい約束に関する内容が書かれていると言うわけです。

旧約聖書には、神様が人間に、「父と母を敬え」とか「偽りの証言をしてはならない」、つまりは「嘘をつくな」とか「殺すな、盗むな」から始まって、実に多くの決まり事を守るならば、神の民として祝福を与えようと約束されています。

 例えば、「安息日は仕事をしてはならない。」なんて決まりがあります。でも、安息日だって仕事をしなくてはならないことだってあります。動物を飼っているお仕事をしている人なんかは、人間の都合で仕事が休めないことだってありますよね。

 そう考えると、「神様って、なんて無理難題な約束を私たちにさせるんだろうか」って思います。でも、そうじゃないんです。そのような、無理難題と思われるような厳しい約束も、それが守れないのは、やむ得ないと思われる理由だとしても、私たち人間の都合によって守れないわけですよね。結局、神様は旧約聖書を通して、人間は神様に対して、「いつでも、どんなときでも真実な態度でいられるわけではないのです。

 それじゃ、神様はどうなのか。神様は約束に対して真実なお方なのかというと、旧約聖書のエレミヤ書313節にはこう書いてあります。「わたしは限りない愛を持ってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」

 神様が、人に対して、「あなたを神の民として祝福を与えよう」と約束して下さったのは、私たちを愛しているからです。つまり、神様の祝福の約束とは、結局のところ、「あなたを愛しますよ」という約束なのです。

 この、「あなたを愛しますよ」という約束に、神様は真実なお方なのです。だから、私たち人間が、自分都合で神様の約束が守れないそんな存在だからこそ、イエス・キリスト様を、十字架に付けて死なせたのです。

 人間が、どんなに神様に不真実の限りを尽すような存在であっても、私たちが、イエス・キリスト様は、神に対しても、人に対しても真実なお方です。その真実さを持って私たちを持って愛してくださるんです。なぜならば、イエス・キリスト様は全き人であり、かつ全き神だからです。

 そのお方が、人として神との契約を結んできださり、かつ私たちとも契約をも結んでくださったのです。それが、イエス・キリスト様がもたらした新しい神様と人との間の約束の内容なのです。ですから、どうぞあなたも、このイエス・キリスト様の新しい約束を結んで欲しいんです。