2024年4月3日水曜日

悲しみの極み

  私は、子供が被害者になってしまった事件や事故のニュースを見聞きするのがとても苦手です。大嫌いと言ってもいい。私もまた子供がいるからです。だから被害にあったお子さんに、自分の子供達の顔が重なり合い、そして親御さんの心に、自分の心が重なり合って、なんとも心が痛み苦しくなってしまいまってやるせなくなってしまうのです。そして、無償に悲しくなる。

 聖書の中にも、いくつか、子供を亡くした親の姿が描かれています。そして、その中の一つに事例を読んでおります時にと、私ははっとさせられ、そして考えさせられたのです。と申しますのも、現実にニュースを通して子供が被害者となった事件などに触れたときには、被害に遭われたお子さん達のこと、その心を思い、また親御さんの心に自分の心を重ね合わせて、心が痛み、悲しみ、その反動のようにして、犯人や、その出来事自身に激しい憤りと、怒りを感じているのに、同じように子供を亡くした親のことが書かれている関署の記事を読んでいるときには、けっしてその悲しみや心の痛みに心を重ね合わせていない自分がそこにいたからです。

 確かに、聖書の中の出来事は2000年も前の遠いイスラエルの出来事ですから、身近な事として感じられないということもあるのかもしれません。。しかし、親の親としての心に時代や地域は関係ありません。子供を失った親の気持ちの痛みは、同じ親ならば心を重ね合わせる事ができるはずです。なのに、聖書を読むときに、私は、そこに描かれている親の心に自分の心が重なり合っていなかったです。今回だけではなく、今までもずっと、傍観者のように、そしてあたかも客観的な観察者のようにして、その記事を読んでいる。

 一体どうしてなのでしょうか。どうして、心が重なり合わなかったのでしょうか。それは、ある意味、変な話ではあるのですが、それが聖書の中の話であったからのように思うのです。聖書の中の話であるがゆえに、私の目と心は子どもを亡くした親に注がれるのではなく、イエス・キリスト様に注がれ、イエス・キリスト様がなされる御業と語られる言葉の向けられ、私の関心はその意味するところが何であるかということに注がれている。それは、ある面、キリスト教の信仰者としては仕方のない事かもしれませんし、当然のことなのかもしれません。しかし、その当然のことの中に、私たちが見落としやすく、また陥りやすい誤りがあるのです。

 それは、私たちの主であるイエス・キリスト様は、悲しみの極みの中にある人のただ中に立たれ、その人に目を向けられ手おられるということです。イエス・キリスト様の目は、それを傍観し、それが私にとってどのような意味を持ち、私の生をどのように導くかという関心を持って見ている私たちに注がれているのではない。むしろ、聖書の中にいる悲しみ・苦しんでいる心そのものに向けられているのです。それに対して、私たちは、ともすれば私とイエス・キリスト様との関係という事に目が向けられ、イエス・キリスト様が心を向けられている悲しみと苦しみの中にある人々を脇に追いやってしまう。時には、全く視野に入れないでいるということもありうるのです。いわば、交わりの中から排除してしまうという誤りを、知らず知らずのうちに犯してしまうのです。

  神の御子だるイエス・キリスト様は、確かに悲しんでいる心に目を注ぎ、悲しんでいるものの傍らに立たれておられる。同じように、イエス・キリスト様の親である神は、そのイエス・キリスト様に目を注ぎ、イエス・キリスト様を通してイエス・キリスト様が目を注いでおられる。神さまと言う存在は、いつも悲しみ、苦しむ人たちに目を注がれているのです。

 その悲しみや苦しみといったものは、しばしば深い苦悩と孤独の悲しみの極みにわたしたちを陥らせます。そして、そのような悲しみの極みの中にある人たちの傍らには、神さまがそっと寄り添っておられるのです。そして神の御子であるイエス・キリスト様も、深い悲しみの極みにある人により添ってくださるのです。

 

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