2018年4月23日月曜日

一つの体としての教会

12章12-31節
2009/1/3 説教者 濱和弘

さて、新しい年の最初の礼拝ですが、今朝の聖書の箇所はコリント人への第1の手紙12章12節から31節までです。このコリント人への第1の手紙12章12節から31節はその前にある4節から11節と結びついて教会ということについて語られているところです。教会とは一体どういうところなのか。パウロはそのことについてここで語っているのですが、それではパウロがなんといっているかというと、パウロは教会とは一つの体のような物なのだというのです。つまり、体は手や足、あるいは目や鼻といった様々な器官によって構成されていますが、そのように、教会に集う様々な人が持つ賜物によって結びあわされた存在が教会というところなのだというのです。昨年の最後の礼拝で、コリント人への第1の手紙12章4節から11節において、教会には様々な霊の賜物があり、それらが一人一人に別々に分け与えられているということを申し上げました。そういった意味では、教会は豊かな多様性に満ちているのです。

宗教改革期のカルヴァンという人の働きを見ますと、本当にスーパーマンのような働きをしています。それこそ、聖書注解をしたり、組織神学をまとめ、説教をし、教会の法規的な物をまとめたり、教育をしたりと様々な賜物に満ちあふれています。しかし、そのようなスーパーマン的な人物は希な存在であって、普通の人は、それほど多くの賜物を持っているわけではありません。同じ宗教改革者のルターなどは、教会法の制定にはブーゲンハーゲンという人に任せ、組織神学的なことはメランヒトンという人に任せていました。そう言った人の方が、そのような賜物に優れていたからです。つまり、宗教改革にもとづくプロテスタント教会を建てあげていくためには、一人の働きではよりよいものが出来上がっていかないので、多くの人が神から与えられている賜物をそれぞれ出し合って支え合いながら、教会を建てあげていったのです。つまり、宗教改革という一つの目的の中に向って、一人一人の賜物が用いられてその目的が達成されていったのです。もちろん、その背後にはその目的に向って導いておられる神様がおられます。その神様のお心に従って、一人一人が導かれていく中でプロテスタントという一つの宗教運動が巻き起こり、その中でプロテスタントの諸教会が出来上がっていったのです。

そういった意味では、プロテスタントの教会は、教会に集う一人一人が持っている様々賜物が用いられてはじめて教会が建てあげられていくのです。そのことを、パウロはこの箇所で教会を一つの体にたとえながら説明しているのです。すなわちこういうのです。14節からです。「実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。」

個人個人に与えられた、神の恵みのよって与えられた能力や才能である賜物はそれこそ様々な多様性をもっています。それら一つ一つの賜物に目を向けるならば、個人という存在に目が向いていきます。しかし、それは教会という体にとっては体の一部分ではあっても、体全体ではありません。一つの体にはもっと沢山の部分があるのです。ですから、自分がその一部分でないからといって、教会に必要とされていないわけではありません。もっと他の部分で、必要とされているのです。たとえば、15節では、「もし足が、わたしは手ではないから体に属さないといってもそれで体に属さないわけではない。」といわれています。たしかに、手と足とは全く違ったものであり、足と手の働きは全く違ったものです。しかし、たとえその働きは違っていても体の一部分であることは変わりありません。いえむしろ、足も手も体の一部分であるからこそ用いられるのであって、体から離れて存在するならば、その存在は何の意味も持たないものになってしまうのです。

むしろ、手も足も体の一部分として存在するからこそ、その働きを通して存在は意味を持つものとなることができるのです。そのことをパウロは16節から18節で次のようにいっています。「また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。」ここで、パウロがいっていることは目だけでは体の成す働きのすべてを行なうことができないし、耳だけでも体の働きのすべてをなす事ができないということであり、目には目の、耳には耳の働きがあるということです。つまりは、目は見るという目的の時には必要な働きであり、また耳は聞くという働きにその能力を発揮するということです。それは、いうならば体というものの活動には様々な意図や目的があって、それに応じて使われる体の部分や機能は違うのだから、体にはすべての部分が具えられているのだということなのです。

しかし、それは、見るという働きをするときには目が必要なので、見るという働きをするときには他の器官は働かなくても良いということではありません。確かに、見るという働きは、ものを認識するために中心的な働きをしますが、しかし、目の働きだけで充分だとは言えないのです。こんな事がありました。それは、見るということではなく、味を感じるということでしたが、昔、私が風邪を引いて真っ暗にした部屋で寝込んでいたとき、家内がコーラをコップに入れて持ってきてくれました。そのコーラを私は真っ暗な部屋で受け取り飲んだのです。その時家内は、私にコップの中に入っている飲み物が何であるかを告げないで渡したのです。ただ渡されるとき、それが何か黒い飲み物であることは分かりました。しかし、私が確認した情報はそれだけです。そして、暗闇の中でその黒い飲み物を飲んだのです。暗闇の中で何も見えない、いえ、黒い飲み物であったということだけは見て知っていた。情報はただそれだけです。鼻も詰まっていて臭いもかぐことができない。そのような中で、それを飲んだとき、私は、それがコーラであることが分かりませんでした。むしろ、ブラックコーヒーのような味がしたのです。

味を感じるというのは、舌の働きのように思います。しかし、ただ舌の働きだけでは正確に感じ取ることができないのです。視覚や嗅覚の助けがなければ、正確にものの味を判断することはできないのだということをその時に知ったのです。同じようなことは、手と足の関係でも言えます。たとえば、お正月には様々なスポーツの大会がありますが、その一つに箱根駅伝がある。私も、毎年箱根駅伝はテレビで観戦するのですが、走るという行為の中心は足の働きです。ですから、健脚とか足が速いといった具合に、走るという行為はもっぱら足について語ります。しかし、実際には走るという行為のためには腕のフリといったことが非常に重要です。腕を上手に使えなければ、決して速く走ることはできないのです。確かに、走るという行為の中心は足にあります。そして、みんなの注目も足に向けられていく、けれども、あまり注目はされませんが、手も大切な働きをして走るという足の働きを支えているのです。

たとえば、足の働きということを私たちの教会の働きのイメージの中でとらえるならばトラクト配布といったものでとらえられるかもしれません。一軒一軒のお宅を訪ね、トラクトをポストに入れていくということは、まさに足の働きだと言えます。けれども、ただポストにトラクトを放り込んでいけば、伝道ができるかというと、そういうことではないだろうと思います。たしかに、トラクト配布というとトラクトを配って歩く姿が目に浮かぶ。けれども、その配ったトラクトが伝道の実りと繋がっていくためには背後にある祈りが必要なのです。祈りなくしてただ漠然とトラクトを配るだけでは本当の伝道になってはいかない、祈りが伴ってその働きが実を結んでいくのです。足が速く走るためにはしっかりとした腕の振りが必要なように、トラクトを配る足がどれだけたくさんあっても、背後での祈り手が少なければ、その働きは充分なものにはなりません。教会という一つの体を作り上げる私たち一人一人は、たがいの賜物を生かし用いられるためにも、お互いが必要なのです。

ですから、どんな働きにおいても、必要でない人は教会には一人もいないのです。それは、教会が様々な働きをするために、様々な賜物があるのではなく、教会がする一つ一つの働き、そのなかのどの一つをとっても、その一つの働きをするために、すべての人が必要とされているのです。だからこそ、教会に集う者は、誰一人として軽んじられてはならないのです。それこそ、ご年配の方から、幼い子どもたちに至るまで、誰一人として教会の働きの一つ一つに無関係な人などいません。もし、自分は必要でないと感じている人がいるならば、それは自分でそう思いこんでしまっているのです。また、仮に教会がそのように思わせてしまっていたとしたら、私たちはそのことを本当に反省しなければならないと思います。パウロが、「目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり」というのは、そう言うことなのです。もちろん、働きという言葉でとらえていくならば、活発に活動していることはよく働いているように見え、何もしていないことは働いていないように見えてしまいます。しかし、決してそうではありません。パウロは、教会に必要ではない存在など一人もいないということを示しつつこう言うのです。

「からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶあなたがたはキリストのからだであり、ひとりひとりはその肢体である」この「他より見劣りすると思えるところ」という表現あるいは「麗しくない部分」と「麗しい部分」という表現は、先の「目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり」という言葉に背反するように思われる表現です。そのような表現をパウロがあえてしたのは、私たち人間の目線でみるならば、「他より見劣りすると思えるところ」として目に映っているということであり、「麗しくない部分」に見えているということであろうと思います。しかし、それは私たちの目線で見るからであり、神の目線から見れば決してそう言うことではありません。むしろ、神の目から見れば、弱さと思われる様な部分、他より見劣りすると思われるところ、麗しくない部分こそが、教会というキリストの体にとってもっとも必要な部分なのです。

なぜならば、人間の目から見て弱さと映るところ、見劣りすると思われるところに神の恵みがもっとも注がれるからです。そして、その神の恵みが注がれるところこそ、もっとも信仰が必要なところだからです。というのも、人間の目から見て弱いと思われるところ、見劣りすると思われるところは、私たちが最も謙虚になることができるところだからです。そして、そのような謙虚な心になってこそ、初めて神の御業に頼り、神のお心を求めるからです。もし、教会が謙虚で謙遜な心を失ったならば、教会はキリストの体ではなくなります。キリストは神であるのに人になるまでになり謙遜のかぎりを尽くしてくださったお方ではありませんか。だとすれば、そのキリストの体である教会もまた謙遜な存在でなければなりません。その謙遜さを、私たちは弱さの中で学ぶのです。そういった意味では、私たちの弱さは、私たちをキリストの体なる教会たらしめるために必要な大切な宝なのだということができるだろうと思うのです。そして、神が、私たちに様々な賜物を与えてくださっているからこそ、私たちがキリストの体なる教会であり続けるために、私たちには弱さが、見劣りすると思われるような部分が必要なのです。

豊かな賜物、能力、才能、それは良いものであり、私たちに様々な教会の働きに導き、多くの神の業をなさせてくれます。そのような活動的なこと、具体的な業は、そしてそれに伴う結果は、気をつけなければ、私たちの心を高慢なものにしてしまいます。しかし、高慢は、謙遜の限りを尽くして人となったキリストに決してふさわしいものではありません。当然、教会がキリストの体であるならば、それは教会にとってもふさわしいものではないのです。だからこそ、私たちの弱さや見劣りすると思われるものは、私たちをキリストの体なる教会に繋がらせてくださるために大切なものなのです。神は私たちの弱さゆえに、私たちが神の恵みの中で生かされているということを明らかにしてくださっています。そして、そのことゆえに、私たちはキリストのからだなる教会としての調和を保つことができるのです。それは、誰もが互いに弱さを持つ存在として互いにいたわり合い、互いに支え合って生きているからです。ただ、教会が優れた賜物だけで成り立っているとするならば、教会は賜物の競い合いになっていくでしょう。どんなに、賜物に優劣はないといっても、目に見える華やかさや、その働きによって出てくる結果に人は惑わされてしまうからです。

先週申しましたが、賜物と言う言葉の言語はカリスマです。それは神の恵みカリスから出た言葉であって、神の恵みによって与えられているものです。ですから、賜物それ自体、そしてそれが生み出す結果は、決して人がほこるべきものではなく、その結果はすべて神の栄光に帰されるべきものです。けれども、どんなに神に栄光を帰すと言っても、どこかで自分を誇ってしまうような一面を私たちは心の中に持っています。それこそ、私たちが罪人である所以なのです。だからこそ、わたしたちは、本当に心の底から謙遜になることができるように、見劣りするところがあるのです。その私たちの弱いところ、見劣りするところを知ってこそ、互いに尊敬しあい尊び合うことができ、また互いに支え合うことができるようになります。また、そのような弱さを知るからこそ、教会が一つの神の業をなしていくときに、一つのキリストからだとして喜ぶことができるのです。

さきほど、箱根駅伝の話を致しましたが、今年の箱根駅伝の優勝校は東洋大学でした。私は、その優勝インタヴューの際に一人の選手が語った言葉が非常に印象に残りました。今朝の説教の準備がありましたので余計に心に残ったのかもしれませんが、このようなことを言っていたのです。それは、おおよそ、次のような内容でした。「私は、自分個人の走りの内容としては納得いかないものもありますが、チーム全体として優勝という目標を達成できたので素直に喜びたい。」私は選手がどのような走りをしたかは覚えていませんが、おそらく彼自身は自分は充分な働きはできなかった、チームに十分貢献できなかったとそう思っていたのでしょう。また、自分自身の目標も達成できなかったのかもしれません。けれどもチームは優勝という目標を達成したのです。駅伝は、走っているときは一人一人です。しかし、最終的にはチーム全体の目標があります。優勝を目標にしているチームもあるでしょう。最後まで走り抜くことを目標にしているチームもあるかも知れません。その中で、たとえ選手の一人が失敗しても、他の選手がそれを補って目標を達成できたならば、そこは大きな喜びがあるのです。

もちろん、教会と駅伝とは同じものではありません。しかし、教会もまた一つの目的をもち、使命をもって集められている集まりです。それは一つの体として結びあわされたものですから、駅伝のチームよりもっと深く、密接な関係で結ばれたものです。一人一人がバラバラに走るのではなく、一緒に助け合いながら共に歩んでいくものだからです。だからこそ、私たちが本当にキリストの体として一つに結びあわされているとするならば、教会がその目的や使命を達成するために共に悩み、その目的や使命を成し遂げるときに喜びはもっともっと大きいものになります。そのような、深い結び付きによって一つにされている存在が教会というところなのです。そして、その教会が負っている目的と使命は、神を礼拝することであり、交わりをなすことであり、互いの信仰を高め深めあっていくことであり、そして、福音を宣教していくことです。この事のために私たちは呼び集められているのです。

この目的と使命を果たすために、私たちには多くの賜物が神から与えられています。また、同時に私たちには多くの弱さと欠けもあります。そして、その弱さと欠けを互いに補い合い、支え合い、励まし合うために、ここにいる一人一人がいるのです。私たちはそうやって支え合っていくためにここにいるのです。ですから、ここにいる一人のあなたはみんなのために存在し、ここにいるみんなは一人のあなたのためにいるのです。もちろん、そうやって互いに補い合い、支え合い、励まし合ってもまだまだ欠けがあり、弱さがあり、見劣りするところも、麗しくはないところもあるだろうと思います。けれども、その私たちでは補いきれない弱さや、欠けや見劣りするところ、麗しくないところを補ってくださるイエス・キリスト様というお方が教会にはおられるのです。もし、このお方なしに、互いに補い合い、支え合い、励まし合うだけの存在であるならば、そのような交わりや集団は社会には数え切れないほどあります。そのような交わりや集団と教会が決定的に違うのは、私たちでは決して補いきれず支え合いきれないこと、励まし合えないようなときにも、キリストが私たちのその弱さ欠けを担って下さると言うところにあるのです。
ですから、そのことを信じ、私たちは自分に与えられた賜物を用い神と教会に仕え、また自分の弱さを知り、それを認めて謙虚になって互いに支え合い、励まし合いながら、最終的にはキリストの支えと神の恵みに中にあることを覚え、感謝しながら歩むものでありたいと願います。そのような、歩みを教会がしていくならば、私たちの教会は、必ず、教会の持つ目的と使命である神を礼拝し、交わりをなし、互いの信仰を高め深めあい、そして、福音を宣教なしていくということを成し遂げ、互いに喜び合うことができるようになると信じるのです。
お祈りしましょう。

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