2018年8月6日月曜日

73回目の広島原爆記念日

今日は、73回目の広島原爆記念日。
73年前の今日、広島に原子爆弾が投下され、多くの人の命が奪われた。
戦争においては、多くの人の命が奪われ、悲しい出来事が繰り返し行われている。
そのような悲惨な出来事に巻き込まれて奪われる命に優劣はなく、いずれの死も傷ましい出来事である。
 しかし、それでもなお原爆投下と言う出来事は、決して忘れてはならない出来事としてこうして毎年繰り返しこの日を記念し、その悲劇を語り継がれている。それは、73年の今日、広島で起こった出来事がいかに悲惨で、非人道的であったかということであろう。そして、この日は、戦争と言うもっとも愚かで悲惨な結果をうみだした出来事の頂点にある人間の愚かな行為の象徴でもあるのだ。

 しかし、ここで一般論的なことを言おうと言うのではない。一人のキリスト者としてこの問題について切り込んでみたいのだ。というのも、この時期にアメリカでは原爆投下の是非を問うアンケートがなされるが、半数近い人が、是とし肯定する考えを持っているからだ。いったいこれはどういうことなのか。
 私はキリスト教の信者であり、キリスト教の牧師である。福音派と呼ばれるアメリカでの大多数のキリスト者が属するグループに身を置いている。だからこそ、この結果に驚きと悲しみを禁じ得ない。
 原爆を投下していい理由などどこにもない。それをあるというのは、いじめにおいて、いじめた側がいじめられた人間にも問題があると言っているに等しい。それでもなお、あの広島における原爆投下が正しいと主張するすれば、それはアメリカ人であるということの誇りを守ろうとする自己義認であり、自己正当化ではないのか。自己義認と自己正当化は、宗教改革の際にルターが人間の罪の根源として指摘したものである。だとすれば、原爆投下を正当化するキリスト者が、その罪に陥っているということにはならないのあろうか。

 もちろん、原爆が投下されたという歴史的出来事をもって、アメリカ人が悪いとっているのではないしアメリカという国家が悪いと言っているのではない。その責任をとれとアメリカ人や、アメリカと言う国に要求するのでもない。むしろ大切なのは、原爆投下という悲惨な攻撃を行おうと意思決定したプロセスとその動機を明らかにし、その問題点を明らかにして、同様の悲劇を繰り返さないことである。
 原爆という歴史的出来事は、単に投下されたと言うことだけが歴史的事実ではない。それを投下すると言う決断がなされ実行される過程の中で、誰が、何のために、その決断をしたのかと言うことまでも含んで歴史的出来事なのである。それを歴史学的な方法論に基づきながらつまびらかに明らかにしていくことで、原爆投下という出来事が、初めて正しく評価され、責任が明らかになるのであって、民族感情やナショナリズムよって評価され、正当化されるべきではない。ましてや、その評価や正当化が自己義認や自己正当化から出ているとしたら、キリスト者としては、あってはななないことではないのか。しかし、悲しいことだが、アメリカの福音派の中から、そのような声がほとんど聞こえて来ない。

 罪を悔い、それを改め、神の前に真摯に生きて行こうとするのがキリスト者の生である。それは日本のキリスト者にもアメリカのキリスト者にも言えることである。そのように罪を悔い、それを改め、神の前に真摯に生きて行こうとするためには、原爆と言う出来事の真実を明らかされなければならない。それがあって、はじめて神の前に真摯に生きられるのではないだろうか。
 戦争は様々な悲劇を生み出した。そこにおいて、私たちは人間の持つ愚かさを露見させた。だからこ、その悲劇を民族環境やナショナリズムによって捉えるのではなく、神の前に立つ一人のキリスト者として捉え見る必要がある。
 

 
 
 

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