2019年2月1日金曜日

スポーツと信仰

 スポーツと信仰

サッカーアジア杯の熱戦が繰り広げられ、いよいよ決勝の時をむかえ、日本代表が決戦に挑む。
 スポーツの大会、とりわけサッカーの国際大会を見ていていつも思わされるのが、スポーツと信仰の関係だ。サッカーの試合では、しばしば危険なラフプレーを目にすることがある。それこそ、「削る」という言葉で言い表されるようなプレーであり、相手を傷つけるプレーだ。それは、実際にけがという結果に至ったか至らないかは問題ではない。そのような可能性を秘めたプレーであるならば、それは決して褒められた、そしてあるべきプレーではない。
 スポーツ選手が全てそうだとは言わないが、実際、そのような危険なプレーをしている選手は良心咎めを感じないのだろうか。とりわけ、神を信じるクリスチャンの選手、そしてクリスチャンだけでなく、同じ聖書の神を信じるユダヤ教を信じるジューイッシュの選手やイスラム今日をモスリム信じるの選手もなどはどのように感じているのだろうか。
 もちろん、スポーツには怪我がつきものだ。一生懸命プレーした結果、意図せず怪我につながる接触が起こりうることは十分にありうる。私は、そのようなプレーを問題にしているのではない。私が問題にしているのは、怪我をする可能性があるという認識が少しでもあるプレーや相手を殴ったり蹴ったりする行為を、あえて意図的に行う場合である。
 私は、そういったプレーをクリスチャン選手、ジュ―イッシュ選手そしてモスリムの選手が、意図的に相手を傷つけるような「削る」プレーをしていないと信じたいし、審判をだまして反則をもらおうとするシュミレーションなどはしていないと信じたい。しかし、絶対にしていないと断言できるかと言われると、胸を張ってそうだと言えない現実もある。
 とりわけ、クリスチャンの多いヨーロッパや南米のチームや、モスリムの多い中近東にチーム、そして東アジアではクリスチャンの比率の多い韓国の選手などが、そのようなラフプレーや卑怯な行為をしているのを見たとき、「もし、彼らがクリスチャンや、ジューイッシュ、あるいはモスリムであるとするならば、そのような行為は神の正義と信実、なによりも神の聖を汚す行為である。彼らには、今自分は神の名を汚し、神の栄誉を気付付けているという発想は出てこないのだろうかと心配になる。
 同時に、私も一人のクリスチャンとして、もし日本人選手がそのようなプレーをしたとき、その行為を同じ日本人であり日本の勝利のためにという大義名分のために受容していたならば、それは、神の正義と聖を汚す一人となっている。
 かく言う私も、サッカーではないが過去に一度だけ、故意に相手を傷つけるような汚いプレーをしたことがある。故意に、相手の選手の手のひらをスパイクで踏みつけたのだ。私は、今でもその時のことを後悔し、恥じている。それは、一人のキリスト者として、それだけではない一人の人間としてしてはならない恥ずべき行為なのだ。スポーツとは、元来、フェアに行うべきものである。もちろん、勝利を目指して戦うのだから、勝つことは最大の目的である。しかし、いかに勝つためにとは言え相手を傷つけたり、危害を加えたりといった神の名を汚してまで手に入れるべきものではない。
 今日、日本はアジアの頂点をかけて戦う。本当に正々堂々と、神と人の前に恥ずべきことのない再興のプレーを見たいと思っている。もちろん応援もそうだ。私も、それを心掛けて日本代表を応援したいと思っている。

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