2019年4月17日水曜日

ネームレス


                 「ネームレス」

もう何年も前になりますが、妻が私に口をこぼした事がありました。男は、女性の愚痴、特に連れ合いの愚痴を、なかなかうまく聞けない生き物だと言われますが、さすがにそのときには、真剣に耳を傾けざるえませんでした。
妻が愚痴りながら言うには、「子供の保育園に行けば『誰々ちゃんのお母さん』と呼ばれ、家に帰ってご近所では、『だれそれの奥さん』といわれる。まだだれそれと名前がつけば良いほうで、ただの『奥さん』と呼ばれる方が圧倒的に多い。一体私は誰なんだろう」というのです。

 考えてみれば、私も妻の事を、「おい」とか「ねえ」とかで呼んでいて、良くても「お母さん」と言う程度。一度は「私はあなたの母親ではない。」とこっぴどく怒られて小さくなったことがありました。確かに妻は子供たちにとってはお母さんですが、私にとっては妻であっても母親ではありません。しかしそのときは、なんで妻がそんな事で怒り出したのかわかりませんでした。でも、「私は誰なんだろう」と言う愚痴を聞いて、その意味がわかったような気がするのです。

 たかが名前と思われるかもしれませんが、名前の背後には、その人自身の人格や存在があります。ですから人は名前を呼ばれる事によって、その人自身の存在する意味とか価値を認められている事を、感じ取っているのかもしれません。いわば、名前を呼ばれる事によって、自分が受け入れられているということを確認しているというわけです。
それを「誰々ちゃんのお母さん」とか「だれそれさんの奥さん」では、自分は子供やご主人の付属物でしかないように感じて、さみしくなったのでしょう。それで思わず愚痴閉まった。でもそんな気持ちもよくわかります

男性だって、自分の名前を呼ばれる事なく、会社名で呼ばれる事が少なくありません。それによって、自分が所属している会社の帰属意識が高まる反面、会社の一部分でしかない事を否応なしに思い知らされる事でもあります。
しかし、誰でも、自分の名前を呼んで欲しいのです。何かの付属物や、一部分のように見られるのでなく、かけがえのない自分として、自分の存在と人格を認めて、受け入れて欲しいのです。

旧約聖書のイザヤ書の411節に、神が「恐れるな、私はあなたをあなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」と言っている箇所ヶあります。神は、ひとりひとりの存在に目を留め、一人一人のことを大切に思い、受け入れようと思っておられる。だからこそ、あなたの名を呼び、あなたは私のものだとそう言われるんですね。
そして、あなたを聖い神のみもとに受け入れるために、私達の汚れた罪の行いや、醜い罪の心をきれいに洗い清める為に、イエス・キリスト様を十字架にかけて死なせられたのです。
ですから、先ほどのイザヤ書411節の言葉は、さらに4節で、「神の目に高価で尊い」と言う言葉に繋がっていきます。神は、あなたと言う存在の価値を認め、大切に考えてくださっているのです。

ちなみに、私はあれ以来、妻を名前で呼ぶようになりました。

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