2019年5月20日月曜日

あなたは一人じゃない


             あなたは一人じゃない

あまり経験することのないことですし、したくもないことなのですが、以前、医者からガンであることを告げられました。もっとも、私の場合は甲状腺に出来た乳頭ガンというもので、ガンと呼ばれるものの中では最も性質のおとなしいガンらしく、おまけに発見がめっぽう早かったらしく、手術さえすれば心配はいらないとのことでした。

 そうはいっても、最初に甲状腺に腫瘍があると分かり、それがどうも悪性のもの、つまりはガンらしいと分かってから、実際にそれが、その性質のおとなしい乳頭ガンだと分かるまでに2ヶ月近くかかりました。その間、自分自身で「家庭の医学」やインターネットなどで調べると、甲状腺にできるガンは、その大半が先の乳頭がんというおとなしいガンで、回復の可能性が極めて高いものだということ分かりましたが、しかし同時に、5%ぐらいは非常にたちの悪いガンが同じように甲状腺に発生し、その場合は本当に厳しい状況であるといったことが分かってきました。

人間とはヘンなもので、95%は安全と分かってはいても、5%に危険性が突きつけられると、その5%が、残りの95%を凌駕してしまうほど重くのしかかってくるもののようです。ですから、今でこそ「心配はいらないとのことでした。」といえますが、私に出来たガンが、95%のおとなしいガンなのか、それとも5%の極悪のガンなのかがはっきりするまでは、生まれて初めて、真剣に自分自身の死という事に向き合わされました。そして、そこで私は、2つのことを痛感させられました。

一つは、神様は本当に平等なお方だということ、もう一つは人間は結局一人で死んでいかなければならないということです。
 私はよく人から、「あなたは牧師らしくない」といわれますが、しかしそれでも一応は牧師の末席にぶら下がっています。ですから神様を心から信じていまし、たとえ寸足らずの牧師であっても一生懸命神様にお仕えしたいと願っています。しかし、実際に病気になってみると、いかに牧師であろうと、信仰に熱心なクリスチャンであろうと、神様は人が病気になるときには、神を信じていようといまいとにかかわらず、同じようになさるのだなとおもったのです。

こういうと、「それみろ。だから神なんて信じても信じなくても同じだ。しょせん神なんかいないのだ。」と突っ込まれそうですが、しかし私は、だからこそ神様は公平なお方なんだ、と心からそう思えたのです。「お前は牧師だから、特別に病気に合わないようにしてあげよう。」とか、「お前は信仰に熱心だから、特別扱いをしてあげよう」などといわず、全ての人と同じようにお扱いになられる。これ以上の公平さはないように思えたのです。

だからこそ、どんなに罪深いと人が思おうと、どんなに牧師らしくないと思われるようなダメ牧師でも、神様は私を他の優れた人や牧師達と同じように愛してくださるお方なのだと言うことを実感として感じ、そして心が慰められたのです。
 また当たり前といえば当たり前なのですが、死ぬ時は、結局自分ひとりで死んでいかなければならないという現実が私に前にありました。どんなにつらくても、寂しくても家内に「いっしょに死んくれ」とはいえるものではありません。第一結婚式の誓いは「共に死が二人を分かつまでは、これを愛し、これを敬い、堅く節操を守るか。」です。死で分かたれるのですから、夫婦関係を盾にして、「いっしょに死んでくれ」では愛情もへったくれもあったものではありません。

人間、ある意味独りぼっちということほど恐ろしいことはないのかもしれませんし、人間にとって孤独ほどつらいものは、他には無いのかもしれません。だからこそ、一人ぼっちで死ななければならない孤独の恐怖とつらさが、人間に激しく死を厭わせるのかもしれない。そんな思いにすらなってしまいます。

昔のある哲学者が、「人間は社会的動物である。」といったそうですが、結局人間は、人と人との間にあって人間として生きていけるということなのでしょう。 
良く耳にすることですが、自分の友達が、本当の友達であるかどうかは、自分が困った時や困難なことに出会った時にわかるのだそうです。何事も順調で羽振りがいい時、あるいは波風の立っていないときには仲良くしていた友達が、ひとたび問題が起こり困ってしまうと離れていってしまう。そういった友達は、本当の友達ではないというのです。

そして、本当の友達とは、むしろ、困り苦しんでいるような時に、何もすることが出来なくても、その人を決して独りぼっちにし、孤独にしないように、そっと寄り添ってくれる者こそが、本当の友達なのだというのです。

今回、まがいなりにも自分の死ということに向きあってみて、結局人間は、自分独りで死んでいかなければならないとわかったのですが、しかし不思議と心は孤独ではありませんでした。それは、たとえ独りで死んでいくにしても、死に至る瞬間までは共に歩み、苦しみ支えてくれる妻や子供達がいてくれるということもありましたが、同時に、死んだ先まで「友よ、私はお前と死の先までも一緒に行こう。」と言われるイエス・キリストの存在をひしひしと感じられたからです。

まさしくイエス・キリストは、死というぎりぎりの困難さの中にあっても、決して私たちを独りぼっちにしない、本当の私たちの友なのです。

 2000年前にイエス・キリストは十字架の上で死なれました。それは私たちの罪に身代わりとなって私たに罪の許しをもたらす贖罪のための死であったと同時に、独りぼっちで死んでいかない私たちと共に、死出の旅路までにおいても、道行く友となるための死でもあったのかも知れない。そんなふうに思えて私には仕方がないのです。

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