「明日はどっちだ」
ずいぶん昔の前の話ですが、「話の聞けない男、地図の読めない女」って本が流行りましたよね。
実はね、わたしの妻も「地図が読めない女」でしてね。この間なんか、家内と二人で、初めての町を、私が車を運転し、家内が地図で道を確認しながら走っていたんです。そしたら家内が突然、「次の道どっちに曲がるのって」
地図を見ているのは家内の方でしょ。私の方が「どっちに曲がるんだ」って聞きたいのに、地図を見ている人間に聞かれたらもうどうしようもないですよ。しかたがないので、車を道の端に寄せて止めて、私が地図を確認して、何とか目的地にたどり着きました。
もっとも、このごろはナビゲーターって機械があって、機械が勝手に次は右、こっちの道は混んでいるからあっちの道を行きましょうって教えてくれる。つまり、機械が道先案内人というわけです。便利ですよね。
でも、どこかに旅行するとか、知らない町に行くって時には、地図やナビゲーターなどといった便利な道案内があるからいいのですが、私たちが生きて行くって言う、人生の旅路には、なかなかいい道案内はないものです。
一面、何も道案内がないからこそ人生は楽しいんだと、言えないこともないのですが、でもいつも楽しい事ばかりとは限りません、生きて行く中では、辛く、苦しい、試練の経験をすることだって少なくない。それが人生じゃないでしょうか。
私も、何度か、もう生きていくのが嫌だなって思うことが何度かありました。また、医者から私にガンができているっていわれた時、もし助からないで死ぬようなことがあったときは、このようにしよう、こうして欲しいと、家内と話し合っていたとき、突然家内が号泣し始めたんです。
本当に辛かったんだとおもいます。そんなときは、自分たちは、一体どうなるのか、明日をどうやって生きていくのかさえわからないような不安に押しつぶされそうになってしまいますよね。何も道案内がないのが楽しいんだなんて言ってられない。助けがほしいんです。
旧約聖書にあるイザヤ書の30章21節というところには、「また、あなたが左に行き、右に行くとき、そのうしろで『これが道だ、これに歩め』と言う言葉を聞く」という言葉があります。
これは、神様が、私たちが悩みや苦しみの中に陥ったとしても、神様が私たちを導いくださると宣言なさっておられるところだと言えます。
もちろん、私たちが、直にこの耳で「これが道だ、これを歩め」という神様の声を聞くって事はできません。でも、神様にお祈りしたり、聖書を読んでいたりすると、なんだか心がほっとするような感じがしたり、はっとする聖書の言葉に出会ったり、することがあります。
そんなときは、具体的にどうしようこうしようということではありませんが、何か、慰めを得たり、安心が得られたり、頑張ろうって思いがわき上がってくることがあります。
それは、明日がどっちにあるかわからなくなって、おじ惑っている私たちを、神様が地図となって、言葉にならない言葉で私たちを導いて下さっている。そう言うことなんだと思います。
私の家族は、私にガンができているようだといわれたとき、これからはどうなるんだろうかって、明日を見失いそうになりました。そんな悩みの中で、神様に祈りました。その祈りの中で、神様は言葉にならない言葉で、私の家族を平安な心へと導いて下さり、明日がどっちかわからないときに、確かな希望をあたえてくださっていたんです。
神様は、私たちを確かに導いて下さるお方なんですね。その神様が、あなたの人生の地図となりナビゲーターになりたいんだって、そうおっしゃっているんです。
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