「未知との遭遇」
私が中学生の頃、教科書に、「なぜ蛇が怖いのか」という文章がありました。
それによると、蛇の怖さは日常性が欠如しているためだと言うんです。蛇が普段どんな生活をしているかなんて、私たち、ほとんど知りませんよね。その蛇が、突然、石垣の間からにょろにょろと出てくるからこそ、びっくりするんじゃないですか?そして、それは幽霊が恐いと思うのと同じなんだっていうんです。
確かに、幽霊も普段は何をしているのかわかりません。その何をしているのかわからない幽霊が、突然どろどろと現れてきて、「うらめしや」とのたまうからこそ恐んだって言うんです。仮に、幽霊の普段の生活、たとえば食事のおさんどんや、編物なんかしている姿を知っていたら、どろどろと現れても、恐いどころか「忙しいところ、ごくろうさん」と声をかけたくなってしまいます。
まさに、幽霊の出現とともに、私たちの目の前に、私たちの知らない世界が繰り広げられる、予期せぬ未知と遭遇するわけですこの「未知との遭遇」という経験が、私たちに恐ろしさを感じさせるんですね。
いきなり知らない世界に放りだされる恐怖。それは、死というものが与える恐怖に似ています。人間、死んだ後は一体どうなるんでしょうか?結局それは、私たち知りようのない世界です。私たちは死というものを通して、経験したことのない、全く新しい未知の世界に放り出されるのです。ここに、確かに死の恐怖があるといえます。
しかし、逆から言えば、死んだ先に何があるのかさえ分かってしまえば、もう死は怖いものではなくなるということです。仮に、そこに私たちを震え上がらせるような事があったとしても、何があるかさえ分かっていれば、対処のしようもあるというものです。
聖書には、人が死んだ後に、誰もが神の裁きの座に立たされるとあります。私たちの行いや、心に汚れがあるならば、それがどんなに小さなものであったとしても、その罪のゆえに神の裁きを受けなければならないって言うんですね。けれども、キリストを自分の罪の救い主と信じるならば、その裁きの座で、キリストが私たちを弁護し守ってくれるとも言うんです。私たちの罪が赦されて、裁かれるどころか逆に天国に確実に行けるというわけです。もし、私たちがこのことを信じるなら、死はもう恐いものではなくなくなります。
ですから、キリスト教の信仰は、死の恐怖から私たちを解き放つ信仰だといえます。それは、病の中にあろうと、老いていく中にあろうと、私たちに前向きに生きていく力と勇気を与える信仰でもあるのです。
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