2020年6月3日水曜日

ポストコロナにおいて学ぶ礼拝


 ポストコロナにおいて学ぶ礼拝

 この新型コロナウィルスの騒動は、教会に大きな変化をもたらすのではないかと言うことが言われています。とりわけ、この騒動によって各教会がネット礼拝というものを導入し、今後はネットを通じた礼拝というのが主流になるのではないかという意見もあることは、以前にもお伝えした通りです。
 そんなわけで、私は今、教会の礼拝の歴史や東方教会の伝統にある教会の礼拝(奉神礼)やカトリック教会の礼拝(ミサ典礼)、そしてプロテスタントの教会の礼拝など色々調べ、学んでいます。
 そのような中で、気が付くことは、東方教会(正教会)やカトリック教会の礼拝は、共通している部分も多く、また古代からの礼拝形式をしっかり受け継いでいるのに対し、プロテスタントの多くの教会は、宗教改革以後、とりわけカルヴァンの改革以後、その礼拝の形式をガラッと変えてしまったと言うことです。
たとえば、それは式次第においてはっきりと表れています。東方教会の奉神礼にしてもカトリック教会のミサ典礼にしても、神が語るという部分と、その語りかける神に対して、最高の奉仕を捧げるという、神の語りと応答ということが式次第の中ではっきりしているのですが、プロテスタントの教会は、神が語られると言うことに重きがもたれ、その神の語りかけに対して、私たちが犠牲をもって神に応答すると言う面が弱いと言うことです。聖餐式でさえ、神の恵みの手段であり恵みの経路であって、東方教会やカトリック教会のように、(人となられたイエス・キリストが捧げられた)最高の奉仕の捧げものとはなっていません。
 これは、ただ神の恵みのみを強調するプロテスタントの特徴のゆえであろうと思います。もちろんそれは、大切なことではありのですが、神に対して犠牲を払ってでも応答するという信仰も見落としてはなりません。では、プロテスタントの教会においては、その犠牲はどこで払われているでしょうか。それは決められた時間に教会堂と言う決まった場所に出かけていく時間と労力という犠牲を払い、そして献金を捧げるという金銭的犠牲を払うことの中に見出せます。言葉をもって「神かく語れる」という神の語りに犠牲を持って答えるという応答が、これらによって示され、礼拝の本質の一つの応答という側面が実践されるのです。我々は、ここのところを見落としてはならないのです。
 もう一つ、正教会やカトリック教会とプロテスタントの教会との違いは、祈りと賛美において顕著に表れています。正教会やカトリック教会の礼拝は、全体として音楽が中心に行われ、祈りと讃美が詠唱という形で密接に結びついています。それは、音楽(旋律)をもって礼拝を進めることによって、神というお方を言葉だけでなく、五感を持って感じるように意図されているからです。
 神は、言葉では語りつくせないお方であり、神の世界は言葉では語りつくせないものであるから、音楽や美術(ステンドグラスや装飾品)、司祭の服装や香の香りなどを用い、言葉にできない神の秘儀を五感で伝えようとしているのです。教会堂が荘厳な造りになっているのもそのためです。教会堂に来れば、「この世」での日頃の生活とは全く違った空間がある。そこで、日常の違ったとは全く違った時間を過ごすことで、私たちの日常を超えた神の世界を五感で感じとる。私たちプロテスタントは、言葉によって神を伝えることに重きを置きすぎて、この事を置き去りにしてしまったのかもしれません。
 だからこそ、私たちは、今の日曜日の主日を家庭で礼拝をしているという現状は、けっして好ましい状態ではないと言うことです。礼拝は、「この世」ならざる神の世界を感じるときです。日常を超えた神の世界を経験し、それを日常の生活の中に生かしていく、そこに礼拝の意義の一つがあります。
 それを考える新型コロナウィルスがもたらした異常事態です。その事を覚え、新型コロナ以後に、再び礼拝が回復されると同時に、礼拝の本質、それはキリスト教の本質なのですが、そのキリスト教の本質を表す礼拝を持っていきたいと思います。それは、私たちは、私たちの言葉では言い表せないお方を礼拝し、私たちの言葉による認識では知ることの出来ないお方を感じ取っているのだと言うことが著されている礼拝です。

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