‘20年10月第3主日宗教改革記念礼拝説教「キリストの信仰によって」 2020.10.18.
旧約書:出エジプト記書24章3節から9節
福音書:マタイによる福音書5章17節から20節
使徒書:ローマ人への手紙3章19節から13節
私たちの教会では、毎年10月の最後の週を宗教改革記念礼拝としています。本来ですと、宗教改革記念礼拝は11月の第一週なのですが、今年は事情があって、宗教改革記念礼拝を行わさせていただきます。もっとも、宗教改革記念礼拝と申しましても、とりわけ何か特別なプログラムをすると言うことではありません。ただ、宗教改革と言う私たちプロテスタントの原点となった出来事を顧みつつ、神の恵みと言うことについて考え、私たちを憐み、顧みてくださった神の愛について思いを馳せたいのです。
今の高校では、世界史と日本史は選択科目となっていますので、全員が世界史を学ぶことはありませんが、私が中学生や高校生の時には、世界史は必修科目で必ず学ばなければならない科目でした。その世界史の時間で学んだ宗教改革と言うのは、マルチン・ルターと言う人物が、当時のカトリック教会の腐敗に抗議(すなわちプロテスト)した運動であり、そこからプロテスタントの教会ができたのだと学びました。
ところが、こうして牧師になり、さらに宗教改革期のキリスト教を専門に学ぶようになりますと、中学や高校で学んだことは、決して宗教改革の中心ではなく、宗教改革が起こった本当の原因は、ルターの救いの確信が揺らいだことによって引き起こされた救いに関する教理の理解の違いが問題であると言うことがわかってきました。
すなわち、人が救われるには、何らかの形で人間が関与すると考えた当時の教会の考え方に対して、ルターは、神の救いの業に、人間は全く関与できないと主張したところから、宗教改革と言うものが始まったというのです。そしてそこから、人は行いによって救われるのではなく、ただ信仰によってのみ救われるのだという、いわゆる信仰義認と言うプロテスタントの中心的教理が打ちたてられたのです。
そしてその根底には、人間は神の前に徹底的に罪びとであり、神の前では救いに値するような善き業を何一つ行うことができないのだという人間理解がありました。ですから、人が救われるのは、罪に汚れたものが神の義に包まれて、本来は罪によって裁かれるべき者が、罪赦され、義と認められたと宗教改革者であるルターと言う人は言ったのです。
ですからルターは、カトリック教会は堕落して悪いことをしているから、悔い改めて良いことをしなさいと言って宗教改革を起こしたのではなく、人間は誰しもが神の前には罪びとなのであるから、罪を悔い改めて、罪びとである私たちを包み込んで下さる神の義に寄り縋る信仰をもって生きいていれば大丈夫だといったのです。
みなさん。私たちは、先ほど新約聖書ローマ人への手紙3章19節から23節をお読みしましたが、宗教改革以後500年間の間、私たちはその箇所を、まさに今申し上げたような理解のもとで読んできたのです。ところが現代になり、いろいろと研究が進み、イエス・キリスト様の時代のユダヤ人の状況や思想、そしてキリスト教の歴史と言ったものが明らかになってきました。それにつれて、どうもこのローマ人への手紙の3章19節から23節は、それまで私たちが読み込んできた意味とはどうも違っていると言うことがわかってきました。
21:しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしさ れて、現された。22:それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである
という御言葉の「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と訳されている言葉は、本来ならば「イエス・キリストの信仰(信実)による神の義」と訳すべきものであると言われるようになってきました。
つまり、「私がイエス・キリスト様を信じる」という私の信仰を中心に置くのではなく、むしろ、イエス・キリスト様の信仰、それは十字架の死に至るまで神に従い抜くというイエス・キリスト様の信実さなのですが、その「イエス・キリスト様の信仰」が、神の義を私たちにもたらすのです。
みなさん、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」がと言う言葉が持つニュアンスは、「私」がイエス・キリスト様を信じるという、「私」の主体性に光をあてます。しかし、「イエス・キリストの信仰(信実)による神の義」と言う理解は、どこまでもイエス・キリスト様を中心に置く信仰です。そしてそれはイエス・キリスト様の恵みによってのみ私たちが救われるという、より恵みが強調される信仰なのです。 では、なぜ、このイエス・キリスト様の十字架の死に至るまで神に従い抜いた信実な信仰が私たちを救うのか。それは、神の御子であるイエス・キリスト様が人としてこの世界に生まれてから、十字架の死に至るまで、神の御心に添って生きられたからです。
神のひとり子であられるお方が、神の御心に添って人間の肉体をとり、マリヤを母として人としてお生まれになった。そのご降誕の出来事から、十字架の上で死なれるまで、イエス・キリスト様は人として完全に神の御心に従い、神の御言葉に従って生きられたのです。そしてそれは、神の律法を完全に全うした生き方なのです。
イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、神がイスラエルの民の先祖であるアブラハム、イサク、そしてヤコブと結んだ契約の為でした。しかし、エジプトから救い出された人々は、「先祖と神の約束のゆえに」と言うだけでなく、自分たちも神の民として神と契約を結ぶのです。
それに対してイスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言った言葉を果たす義務を神にたいして負うのです。そして、この神とイスラエルとの民の契約が、互いの果たすべき義務を双方が負うと言うことを示す犠牲の動物の血を半分は祭壇に振りかけ、残りの半分を民に振りかけてという象徴的行為をもって結ばれたのです 。こうして、この契約を土台に神とイスラエルの民との交わりがそこに生み出されたと言えます。ところが、イスラエルの民は、神の言葉に聴き従うということを誠実に守り行いませんでした。
たとえば、先週、ヨベルの年と言うことをお話しいたしました。神がヨベルの年という規定を設け、50年に一度は、買い取った土地は元の持ち主に返し、奴隷は解放し、負債は全部帳消しにして、いっさいのものを回復しなさいとイスラエルの民に告げたにも関わらす、イスラエルの民がそのヨベルの年を守ったと言うことがないのです。つまり、彼らは、神と人との契約において、約束不履行をしていたのです。そのイスラエルの民の不履行となっている約束を、イエス・キリスト様は完全に神に従い抜くことで全うしてくださったのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、先ほどの新約聖書マタイによる福音書5章17節から20節で、
私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。
と言われるのです。みなさん、律法とは、神とイスラエルの民との間の契約において、人が守り行うべき神の言葉です。イスラエルの民は、神の言葉をすべて守りますと言いつつ、完全にそれを守ってはいませんでした。それは、律法を廃棄する行為であると言っても良いものです。
しかし、イエス・キリスト様は、ご降誕の出来事から十字架の死に至るまで、神に誠実に従い抜かれたのです。それによってイエス・キリスト様は律法を廃棄するのではなく、成就してくださったのです。このイエス・キリスト様の信実な信仰によって、神はイエス・キリスト様を義となさったのです。
このイエス・キリスト様の義が、イエス・キリスト様と一つに結ばれ弟子としてたもの、すなわちクリスチャンとなった者にも与えられるのです。そして洗礼は、そのイエス・キリスト様と一つに結ばれたと言うことの証です。だから、洗礼を受けると言うことは大切なことであり、ないがしろにされてはならないものなのです。
みなさん、先ほどももうしましたように、今日は宗教改革を記念する礼拝です。そして、その宗教改革の中心にあった信仰義認ということを、こんにち、私たちは真摯な思いで見直す必要があります。
それは、私が神を信じイエス・キリスト様を信じるがゆえに、罪びとの私が、神の義の衣を着せていただき、義ではないものが義と認められるということではなく、イエス・キリスト様が神を信じ、神に従い抜いて生きられたがゆえに、イエス・キリスト様の弟子となった私たちもまた、この神に従って生きる生き方を生きる者とされたと言うことなのです。
もちろん、その私たちの歩みは、不完全で足らないものです。その意味では、私たちは不完全な弟子です。しかし、その不完全な弟子であり、不完全なキリスト者に過ぎない私たちを、神はイエス・キリスト様のゆえに、「良し」と認めて下さり、完全な者として、イエス・キリスト様の御足の後を歩む者としてくださったのです。
みなさん、先ほどのローマ人への手紙の3章22節には「それ(神の義)は、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」とわれています。そうです。イエス・キリスト様の信仰によってもたらされる神の義は、すべての人に差別なく与えられるのです。すべての人と言うのですから、そこにはあなたも含まれています。そのように神は、階級や身分、立場や能力の違いはあっても、私たちを、そしてあなたを神の前に正しいものとして受け入れて下さり、神の王国の聖なる民として、顧み、祝福へと招いてくださるのです。
そのことを覚えながら、今しばらく静まりの時を持ち、イエス・キリスト様の信仰のゆえに、私たちを受け入れてくださる神の恵みに心を向けたいと思います。静まりの時を持ちます。
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