「この道の行き着く果て」
昔から、お正月に良く聞く川柳の中に「正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」っていうのがありますよね。
お正月が来たことは、それはそれでおめでたいことなんだけど、一つ歳をとるということで、一つ寿命を削ったことになる。それを考えると、せっかくの、おとそ気分も、どこかに吹っ飛んでしまうという、まさに川柳の神髄をいくような句ですよね。
でもこれは、死というものが、あまりありがたくない、いや、むしろうとましいからこそ、川柳としてなりたつんですよね。もしも、死というものが、好ましいとはいわないまでも、決してうとましいものでなければ、「めでたくもなし」じゃなくなっちゃう。
もちろん、人は一度は必ず死ななければなりません。聖書にだって、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9:27)と書いてあります。
私たちの人生の果てに、死というものがあり、そしてその死後に、神によるさばきがあると聖書は言っています。このさばきとは、神によって私たちの罪が裁かれると言うことです。
罪というと、何やら犯罪を思い出して、そんな悪いことは、私はしていないから大丈夫だって思われるかも知れませんが、聖書が言う罪とは、単に悪いことをしたと言うだけではなく、心の中で人を憎んだり、ねたんだり、不道徳なことを思ったりすることも含まれています。
具体的な罪、犯罪や不道徳的な行為は、心の中の思いが形になって現れてきたものです。ですから、そのような行いとなって現れたものの根っこには、私たちの心の問題があるからです。そういった意味では、私たちは大なり小なり、すねにキズではありませんが、心に罪をもっていると言えるんじゃないでしょうかね。
そうだとしたら、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」という聖書の言葉が真実なら、やはり「正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」ってことになってしまいます。
でも、必ずしもそうではないんです。なぜなら先ほどの聖書の言葉の後には「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をもささげられました」と書いてあるからです。
これは、キリストが、私たちを縛り付ける罪から、私たちを解放するのだということなんですよ。ですから、私たちに対する神の裁きは、すでにおわってしまっている。このことを信じクリスチャンとなるならば、もはや神のさばきを恐れる必要がないのです。だから心配はいらない。
私の知り合いに、突然、体の具合が悪くなって倒れ、救急車で運ばれた人がいました。その人は担架で運ばれる途中、心配そうに見守る家族や友人達に、人差し指で天を指して、Vサインをしながら、病院に運ばれていったんだそうです。
間もなく、その人はおなくなりになったんですが、きっとその人は、自分が助からないって悟って、家族や友人に、「大丈夫だ。俺はキリストを信じてちゃんと天国に行くから安心しろ」って、そう伝えていたんでしょうね。それが、天を指さしてのVサインだった。
神を信じ、キリストを信じるときに、肉体の死はもはや忌まわしいものではなく、天国への勝利の凱旋の門出になる。そうなると、もはや「冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなしではなくなるんですね」
「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」新約聖書へブル人への手紙9章26節の言葉です。
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