薄いピンクの花束を真紅の花束へ
昨日、今日の告別式に備えて、今ここにある生花が飾られました。それをみていると、色合いからでしょうか。私には何となく、Sさんのイメージにぴったりのお花が飾られたなと思いました。
イメージというのは、漠然としたものです。しかし漠然としているからこそ、ずっと心の中に残っていきます。人間の記憶というものは、物事の詳細な部分まで正確に記憶し続けることはできません。最初は、いろいろなことが思い出されるでしょう。しかし、だんだんとそれらの記憶は薄れていき、最後はイメージだけが残っていく。
しかし、そのイメージは力強いものです。決して、私たちの心から消え去ることなく、いつまでも残っていく。きっと私は、このような薄いピンク色の花を見るたびに、Sさんのことを思い出すだろうなと思います。それほど、イメージというものは力強く私たちの心の中に残るのです。
神様が人間に、神のイメージを刻み込んだのは、まさに私たち一人一人が幸福になるようにと願う神の愛がそこにあるからです。しかし、現実の世界は、必ずしも幸せと感じられることばかりではありません。もちろん、幸せを感じる時もあるでしょう。しかし苦しいことや辛いことある。涙することも多くあるのです。
ですから、私たちの人生は真紅のバラのようになりません。喜びのバラ色を涙が薄めて淡いピンク色にしていく。でも、見てください。この淡いピンク色に染まったこの花束は、何とも美しいではないですか。
そしてその美しさは、私たちだけではない、神の目にも映っている美しさです。その美しさを見て、神様はSさんに、「よくやった。よく頑張って生き抜いてきたね」と言っておられるように思います。
お気づきになられた方もおられるかもしれませんが、先ほどお読みしました新約聖書の箇所ヨハネの黙示録7章9節から17節は、実はSさんのご主人であられたKさんの告別式の際にもお読みした箇所です。旧約聖書のヨブ記19章25節から27節も同じように、Kさんの葬儀の際に読んだ箇所です。
その時、Sさんが愛してやまなかったご主人の告別式と同じ式次第にしたらSさんは喜ぶんじゃないかなとそう思ったのです。もちろん、全く同じというわけにはいきません。聖歌の曲目も当然違いますし。構成も若干違っている。でも、聖書の言葉は同じものにしたのです。
その聖書の言葉の新約聖書ヨハネの黙示録7章9節から17節の最後は、「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」であります。
神を信じて生きた者たちであっても、「この世」では涙することも少なくない。「この世には悩みが多い」(ヨハネによる福音書16章33節)からです。だから、涙することも少なからずある。そして、そのような人生を私たちは生きる。
しかし、私たちが死という死という深い眠りを経て、目覚めたときに、主イエス・キリスト様は、その涙する人生を生きた人々の目の涙を拭き、ぬぐいとってくださるというのです。
涙が拭き去られる。みなさん、今、この目の前にある薄いピンク色の花束を薄いピンク色にしている涙の部分をすべて拭き去る時、現れ出るのは喜びの真紅の花束です。Sさんが、今の、この深い眠りから目覚め、よみがえったその時には、主イエス・キリスト様がその目の涙をぬぐい取ってくださり、喜びの真紅の花束に包まれるのです。
死は深い眠りです。しかし、眠ったものは目覚めます。目を閉じ一度眠りに落ちたものが目坐寝る時、眠ったときから目覚める時まで、たとえその間に何時間たっていようと、目覚めたときにはその間の時間はすべて失われ一瞬のように思われます。そして、その失われたかのように思われる時間が、私たちを癒し、回復させ、再び立ち上がらせ、起き上がらせるのです。
そのように、今、深い死の眠りにつかれたSさんが目覚め起き上がる時、それはSさんにとっては一瞬の出来事です。一瞬にして喜びの真紅のバラに包まれるのです。この式辞に後に賛美する新聖歌330番は、アイルランドの民謡のメロディに歌詞をつけたものです。
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