2018年12月18日火曜日

ラグビーの話でラグビーの話ではない、事故の話で事故の話でない。聖書解釈の話でない聖書解釈の話

ラグビーの話でラグビーの話ではない、事故の話で事故の話でない。聖書解釈の話でない聖書解釈の話


 ラグビーにはコラプシングと言う反則があります。それは、故意にスクラムやモール(スクラムとモールの説明をすると長くなるので省略)を崩すと取られる反則で、相手にペナルティ・キックが与えられる重い反則です。この反則を繰り返すと、繰り返した選手は一時退場になったり、スクラムトライといって相手に得点が与えられたりします。なぜ、コラプシングには、このような罰則が科せられるのか。それは、スクラムやモールが崩れてしまうと、重大な怪我につながる危険性があるからです。
 先日、明治大学と早稲田大学のラグビーの試合がありましたが、このコラプシングの反則が、その勝敗を分けたと言われます。明治大学ののプロップ(ポジションの名前)の選手が、このスクラムを汲んでいる中でコラプシングを犯したと判断されたのです。レフリー(審判のこと)がコラプシングと判断する際、いくつかの目安となる行為があります。その中の一つにスクラム中に膝をつくというものがありします。試合の映像をみますと、たしかに、明治大学の選手が、ほんの一瞬ではあるが両ひざをついている。審判は、それを見逃さず読む見ていたのです。しかし、スクラムが崩れたわけで在りませんでした。
 これはスクラムで圧倒的に劣勢だった早稲田大学のプロップの選手が、体を低く当て、しかも自分の体が崩れないようにしながら、明治大学のプロップの選手にスクラムを崩させようとしているかなり技術的に高度プレーです。それで、明治大学の選手が一瞬膝をついてしまったのですが、彼は、スクラムを崩さず維持しようとして、すぐに持ち直し、結果としてスクラムが落ちる(崩れる)ことなく、スクラムを押し始めたのですが、それでも膝をついたと言うことでコラプシングの反則を取られることになりました。これで、動揺した明治大学の選手たちはここから崩れ始めました。その意味では、早稲田大学のプロップに選手の作戦勝ちであり、技術勝ちだと言えます。。
 私は、出身が明治大学でもあり、明治大学の熱狂的なファンの一人です。ですが、レフリーのジャッジが出た以上、この試合においては、それはそれで受け止めなければなりません。レフリーのジャッジはラグビーにおいては絶対だからです。しかし、今後のことを考えると、一考すべきジャッジであったことは間違いがありません。というのもともとコラプシングは、スクラムが崩れると危険なので、故意にスクラムを崩さないようにするために、重い罰則を科してまで、ルール上、やってはならない反則として定めてあるからです。
 今回のケースは、スクラムが弱い早稲田大学の選手が、その弱さをカバーするために、故意の相手にスクラムを崩させるようなスクラムの組み方をし、実際、明治大学の選手はスクラムを一瞬膝をつきコラプシングを取られたのですが、しかし彼は、壊さないように頑張って持ち直し、実際、スクラムは崩れなかったのです。この場合、コラプシングと言うルールの精神からすれば、コラプシングを取るべき事案であなかったと言えます。もし、仮にコラプシングの反則を適用するとするならば、適用する相手は、早稲田の選手に適用するほうが、ルールの精神には則ていたでしょう。しかし、レフリーは膝をついたという目安の方を優先したのです。
 同様のことが、ここ数日大きな話題となっていた先日の東名高速でおこった棄権運転致死罪を巡っての裁判でも争われました。この事件は、二人のドライバーの間で、ちょっとした言葉のやり取りのトラブルあり、その結果、一方がもう一方に対して高速道路であおり運転をし、最後には高速道路の追い越し車線で相手の車を停車させ、それがもとで追突事故が起こり、相手方に死者が出たという事件でした。この事案に値して、検察側は危険運転致死罪という重い求刑を求めました。
 この求刑に対して、被告・弁護側が争点にしようとしたのが、棄権運転致死傷罪の条文にある運転と言う言葉です。棄権運転致死傷罪は、運転中に危険な運転をしてる事に対する罪なのだから、車が停車している状態は運転ではない。この事故は、車が停止しているときに起こった自己だから危険運転ではないので無罪だというのが弁護側の主張です。これは、まさに棄権運転致死罪の条文の背後にある、法の精神や法哲学とは何かが問われる問題です。つまり、危険運転致死障在の条文をどのような精神で読み、理解し解釈するかが問われた裁判であると言えるでしょう。この裁判では、棄権運転致死罪が適用されたました。その意味では条文の文言そのものよりも、その法が定められた法の精神や、法哲学の方が重んじられたと言えます。

 じつは、この二つは、聖書を読むと言うことにも通じる事例です。聖書を読み、解釈する。そこには、聖書がいかなる精神で書かれているかが深く関わっているのです。それを無視して、字ずらの問題だけを追求するとすれば、あの明治大学と早稲田大学のコラプシングの判定や東名の危険運転致死罪の求刑に対して無罪を主張するのと同じになってしまうのではないでしょか。。
 聖書の読みと解釈についてはいろいろと意見や主張があります。聖書に書かれている処女降誕や死者の蘇り、はたまた海が二つに分かれてそこ渡るとか、太陽が少し後戻りをするといった様々な奇跡を巡っての議論や、聖書をどう解釈するかを巡っては、いろいろと議論があるのです。また、聖書の歴史的記述の正確性や科学的な誤りと思われる事柄についても、いろいろな主張があります。しかし、忘れてはならないのは、問題としなければならないのは、聖書の字ずらの問題ではなく、聖書の精神そのものなのです。聖書はどういった目的で書かれたのか、何を伝えたいのか。それが、一番大事なことなのです。
 私は、聖書に書かれている奇跡を決して信じていないわけではありません。むしろ信じていると言っても良いでしょう。しかし、聖書がいかなる精神の下で書かれているのかを忘れて、奇跡があったのかなかったのかなどを論じるとするならば、それは愚の骨頂です。
 聖書は、神が神の言葉として、神の精神と心を伝えるために書かれた神の言葉です。これは長らく、そして今も受け継がれているキリスト教会の主張であります。もっとも、聖書が神の言葉であるということを証明することも科学的に実証することもできません。だから、聖書が神の言葉であると言うのは、信仰です。信じている信仰の内容です。そして、その神の言葉である聖書を書き記したのは人間であり、その意味では聖書は人間の言葉でもあるのです。つまり、人間の言葉で書かれた聖書は神の言葉であるというのが、聖書の精神だと言えます。そして、この「人間の言葉」と言う主語を「神の言葉」いう相反する述語に「である」という繋辞をもちいて繋ぎ一つに結び合わせるのが聖霊なのです。
 先ほど申しましたように、これは、科学的に証明できるものではあいません。だから科学ではなく、信仰なのです。そして、その信仰の下にあって、神の言葉がどのような精神で書かれているかが問題となる。その精神とは、神が、この世界を愛し、この世界を神の恵みに満ちた世界へと導こうとしているということであり、この現実の世界で、悩み苦しんでいる人に救いをもたらそうとしていると言うところにあるのです。この精神を抜きに聖書を読むとき、聖書は全く分からないものとなるし、意味のない単なる古代の文献の一つでしかなくなってしまいます。
 しかし、それは聖書を聖書として書き記し、編纂した人々の精神をくみとった読み方ではありません。聖書は、あくまでも神の言葉として読まれ、解釈されるべきものなのです。

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