「へセドの愛」
最近は、教会で結婚式を挙げる人が多いようですが、キリスト教式の結婚式のクライマックスは、なんと言っても「あなたは、相手の人が病気の時でも、健康な時でも、変わらない愛でこの人を愛することを約束しますか?」という互いに愛しあう約束を交わす場面ではないでしょうか。
教会の結婚式で交わす愛の約束ですから、当然、その愛とは、聖書に書かれている愛ということになります。でもね、日本語の聖書で愛って訳されている言葉は、もともとの言葉ではいくつかあるということは前回もお話しました。
その中の一つは、先週お話したアッハァバという愛。なんだか良くわからないけど、でも「この人が好き」と言う理屈抜きの愛で、結婚するまではこのアッハァバの愛でもいいわけです。
ところが、いざ結婚するとそれだけじゃ困る。そこでヘブル語のへセドという愛が登場するわけですが、このヘセドって愛は、契約の愛、約束の愛と訳されるような言葉です。
契約の愛っていいますと、なにやら不純な感じがしますが、実はそうじゃない。へセドって愛は、「私はあなたを愛すると約束したから、どんなことがあってもその約束に忠実にあなたを愛し続けます。」という愛なのです。
神様は、人間がいとおしくていとおしくて仕方がない。だから、あなたが私の子となり、私の民となるという約束を結ぶならば、私もあなたを私の子、神の民として迎えることを約束しよう。そして、約束した以上は、何があっても、私はあなたを愛し続けるよというのがヘセドの愛で、これもまた、神様が人に注がれる愛なのです。
結婚式で、牧師が「あなたは、この人が病気の時でも、健康な時でも、変わらない愛で愛することを約束しますか?」とたずねる時、それは、あなたは、この人がいとおしくていとおしくてたまらなくて結婚しようとしていますが、この人を伴侶とすると約束する以上、何が起ころうと、どんなことがあっても、この人を妻あるいは夫として、この人意外に妻や夫としての愛は与えません。」と言うことを約束しますかと訊ねているわけです。
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