2019年8月8日木曜日


大切な失くし「者」

先日ね、私の家にあるゴジラの人形の背びれの一部分が、抜け落ちてなくなってしまったんですよ。ほんの1センチ程度の部品なんですけど、大切にしているものでしょ。だから妻と私で捜し回りました。 
妻なんて、掃除機を空けて、吸ったごみの中まで捜しまわりました。結局、カーペットの下からみつかったんですけど、大事にしているゴジラですから大騒ぎでした。もし見つからなかったら、製造元のおもちゃ屋に電話して、頼み込んででも、代わりの部品を送ってもらうことも覚悟してたぐらいですからね。 
でもこれは人形の部品ですから、仮になくなってしまっても代わりの部品で済まされます。でも、人間だとそうはいきませんよね。

私の子供がまだ小さかった頃、それこそ2歳か3歳いかない頃に、家内が着替えをさせている時に、電話は何かで、ちょっと目を離したスキに、いなくなっちゃったんですよ。 
それで、家中捜したんだけれどみつからない。どうやら外にでていってしまったらしいんです。それど、家の周りを、それこそ声をあげながら名前を呼びながら捜しまわったんです。でも見つからない。そのときの家内の顔はね、もう青ざめてましたよ。 
 それで、警察に子供がいなくなったって電話したんです。そしたら、「どんな特徴の子ですか」って聞くわけです。どんな特徴ったって、裸ですよ。これほどの特徴はないでしょだから、裸の子ですっていったら、「ああ、裸の子ね、保護してますよ」ってね。もうほっとするやら嬉しいやら。

 大切な、かけがえのない子供です。確かに私には3人子供がいます。だから、ゴジラの部品のように、代わりのものとはいきません。たとえ、他に二人子供がいたとしても、その子の代わりになるような子なんていないじゃないですか。一人一人がかけがえのない、大事な愛する「私の子供」なんです。

 あのね、聖書は、キリストを、良い羊飼いのようなものだといっています。どんな良い羊飼いかって言うと、1匹でも、羊がいなくなったら、残りの99匹をおいてでも捜し回るような羊飼いが良い羊飼いだっていうんです。
 でもおかしいでしょ。99匹を残して1匹を探し回っている内に、残りの99匹に何かあったら大損害じゃないですか。ですから、損得勘定を考えれば、本当に良い羊飼いかどうかは疑問ですよね。

 じゃぁ、どこが「良い」羊飼いなのかのかっていうと、結局、たとえ1匹でもいなくなったら、後のことも考えずに捜しに飛び出すほど、1匹1匹の羊を大事に思い、大切に思っている。そのような羊を大切に思い慈しんでいるからこそ良い羊飼いだって言うことなんでしょうね。 
つまり、キリストは、私たち一人一人を、つまりはあなたを、かけがえのない「ひとり」として大切に思い、慈しんでおられるお方だと、聖書はそういいたいんですね。キリストにとって、あなたは、かけがえのない大事な愛する「私の子」なんです。

キリストは、今日もあなたの名前を呼びながら、あなたを捜し歩いています。そういった意味では、聖書は、あなたを呼び求めるキリストの声であるといっても良いだろうと思います。
ですから、どうか聖書を通して、あなたを呼び求めるキリストの愛のこもった声を聞いて欲しいなってそう思います。









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