2020年4月2日木曜日

礼拝は不要不急なものか。


  新型コロナウィルスによる緊急事態の中で問われる礼拝は不要不急な事柄か

いかがお過ごしですか。今週(45日)も先週と同じく、教会に集まって礼拝するのではなく、各家庭で礼拝を守っていただきます。また、来週(412)も同じく、家庭での礼拝をお願いいたします。
みんなで集まって礼拝できないストレスをお感じだろうと思います。わたしもそうです。
でも、もうしばらくは我慢してください。みなさんが感染しないためでもあり、また教会が感染源とならないためですので、どうぞ辛抱してください。
 そのため、日曜日の10時半にはパソコンあるいはスマートホンで小金井福音キリスト教会のホームページにある今週の説教のコーナーからその日の礼拝が見られるようにしてありますのでご利用ください。
ところで、フロリダのメガチャーチの牧師さんが、外出禁止令にもかかわらず礼拝を持った(大勢の信徒が集まった)ことで、逮捕されたと言うニュースがありました。unlawful assembly and a violation of health emergency rules(健康に対する緊急事態法違反と違法的集会)という罪状だそうです
現在の情勢の中、礼拝を休まず強行する論理として、礼拝は不要不急なものではないと言うものがあるようです。ここでみんなで集まる公の礼拝を休止したら、それこそ礼拝は私たちの生活の中で、不要不急なものであると言うことを認めることになると言うわけです。
しかし、「今の時節」における礼拝に集まることを自粛する行為は、礼拝を不要不急の行為として認めることではなく、「あなたの隣人を愛せよ」というイエス・キリストの言葉を実践するものであり、それこそが絶対急務の事柄であって、礼拝を礼拝として実践することだと思います。それはまさに、イエス・キリスト様が譬えとして語られた「安息日に井戸に落ちたものを助ける行為」(ルカ145)だと言えるでしょうね。
カトリックの礼拝(ミサ典礼)の中心は、キリストの最高の奉仕を捧げるであると聞きます。つまり、礼拝はイエス・キリストの十字架の死という愛の業を、神に対する最高の奉仕として捧げるためのものなのです。だとすれば、愛の行為として公のミサに出席しないことは礼拝の本質を全うしていることになります。

 それに対して、プロテスタントの多くの教会の礼拝は説教を聞き、神の恵みに与ることを中心に行われます。神の恵みに与り、神の恵みによって自らを神に奉げ、神の言葉に生きるところにプロテスタントの礼拝の本質があると言えるでしょう。
 神の言葉に生きる。それは神の言葉(ロゴス)そのものであるイエス・キリスト様に倣って生きるということ。そのイエス・キリスト様の生涯は、「あなたの隣人を愛せよ」の完全な成就です。つまり、今の新型コロナウィルスの感染が拡大という情勢の中、プロテスタントにおいても、礼拝堂おける公の礼拝にあえて集まらないということは、礼拝の本質を全うしていることであると思います。

 むしろ、このような時節に、周囲の状況を顧みずに、礼拝は不要不急の行為ではないと言って礼拝に集まるように求める事は、逆に礼拝の本質を見失っていると私は考えます。
 私たちは今、礼拝に集まることができません。しかし、それはキリストの愛に倣い、隣人を愛するが故のことであり、私たちが礼拝に集まりたい気持ちを、一旦抑え、今の情勢という特別な状況下のもとで各家庭で礼拝をおこなうことで、私たちは礼拝の根底にあるキリストと一つになると言う礼拝と教会の本質を生きているのです。
 だから、みなさん。希望をもって頑張り、ちゃんと家庭で、また一人であっても礼拝しましょう。

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