2020年5月22日金曜日

共に集まる共同体の礼拝


             共に集まる共同体の礼拝

東京の一日の新型コロナウィルス感染者数が、一桁から十人弱といった数になり、全行的もの非常事態宣言が解除される地域が多くなってきました。これも、みなさんの努力が実を結んだ結果です。礼拝に期待、会堂に集まり、共に賛美したい、祈りたい、そして聖書の言葉に耳を傾け、説教を分かち合いたいという思いを我慢して、家庭礼拝を守ってこられた賜物だと思います。
残念ながら、首都圏はもう少し緊急事態宣言が続きます。ですから、まだしばらくは礼拝の自粛を続けなければなりませんが、このような状況も必ず終わりが来ます。ですからもう少しの間、共に頑張りましょう。
この期間中、私は何冊かの本を並行して読んでいますが、その中に『古代キリスト教典礼史』という本があります。ユングマンという人が書いた古代のキリスト教がどのような礼拝をおこなっていたかということに対する研究書です。
ユングマンは、その書のなかで、「初期のキリスト教は、共同の礼拝のために定期的に集まることが重要だと強調していた」と言います。そして初期のキリスト教徒たちは「自分の家で祈ることはできたし、そこで感謝の祭儀(濱註:聖餐式)にも参加できた。しかし、キリスト者は、けっして自分たちの集会をやめなかった。毎日曜日、(濱註:迫害のための)生命の危険を冒してまで、感謝の祭儀を共に祝うために集まった」と記しています。
 今、私たちは残念ながら共に集まり、共同体の礼拝をすることができず、聖餐を分かち合うことができません。初期のキリスト者が「毎日曜日、(濱註:迫害のための)生命の危険を冒してまで、感謝の祭儀を共に祝うために集まった」ように礼拝をすることができていません。
 それは、迫害のために自分の命が失われるという恐れの為ではありません。むしろ、私たちが人に感染させ、苦しみを与える可能性があることを覚え、その危険性を避けるためです。しかし、いつまでも今のままでいいわけではありません、近い将来、ある程度感染の広がりがおさまったならば、またともに集まって礼拝をおこないたいと思います。古代の殉教者の一人が言ったように「感謝の祭儀(聖餐式=礼拝)なしに、私たちは生きられない」からです。
 その際にも、感染防止のための注意が必要です。必ずマスクをし、喚起に気を付け、賛美の歌い方や聖餐の持ち方にも注意を払う必要があります。でも、そういった注意を払いつつ、共の集まり共同体の礼拝をおこないたいと思っていますし、そう遠くない時に、そのような時が来ると信じて待っています。

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