キリスト教や仏教を超えたところにある神の啓示
聖書に「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙5章16節)という言葉があります。有名な言葉ですので皆さんもご存じだと思いますが、まさに、この新型コロナの感染拡大という災禍の中に、私たちの心に刻まなければならない言葉です。
この「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい」という言葉を紹介している臨済宗のお寺のホームページがあります。円覚寺というお寺の2020年の5月5日の今日の言葉という記事です。そのなかで、この聖書の言葉が紹介されているのです。それは聖心会のシスターの鈴木秀子さんの言葉を引用しつつ書かれた次のような言葉です。
「『新約聖書』の「テサロニケ人への第一の手紙」に次の言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」喜びというと、何か特別の出来事のように思ってしまいますが、そうではありません。おいしく食事ができることや健康に活動できること、家族がいてくれること、さらに言えば命が与えられていること、そのこと自体が喜びなのです。日々の小さな出来事にも喜びを発見し、またそのことに感謝して生きる。喜びや祈り、感謝を習慣化していくと、心が静まり、突然の事態にも動じなくなっていきます。いつか、この危機が過ぎ去った時に、自分が深められ成長できていることに気づくでしょう」。
こういうあたたかく、親切なお言葉というのは、我々禅僧にはとてもまねができません。本当に心に染み入る言葉です。大きな力をいただくことができます。鈴木先生とは懇意にさせていただいていますが、思えばいつお目にかかっても、笑顔で喜びをたたえていらっしゃいます。そして祈りの人という雰囲気を常にお持ちであります。更に絶えず感謝の言葉を口になされています。鈴木先生にはすっかり習慣化され身についていらっしゃるのでした。いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、私もこれを習慣にするよう努力しようと思います。
この引用された鈴木秀子さんの文章も優れた文章であり聖書理解ですが、そのような文章に触れて、「これはキリスト教の言葉だから」などと言われることなく「素直にそれを評価し、自分もいつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、私もこれを習慣にするよう努力しようと思います」とお寺のホームページに書き込まれた僧侶の方にも心を打たれ、素直に尊敬の念を覚えました。そこには、この僧侶の方の中に、イエス・キリスト様の内にある謙遜や寛容という物に通じる精神が見られます。
かつてのキリスト教は、自分たちだけ真理を持っている最高の宗教だと言って、イスラム文化圏やアジア文化圏を見下ろすような視線が合ったことを、私は歴史を学ぶ一人の牧師として認めざるを得ません。そしてそのことが、サミュエル・ハンチントンが言う文明の衝突を生み出し、植民地支配をとどめることができず、また戦争の悲劇に結びついて行ったことを否定できないのです。
しかし、創世記には神様は人間をお造りになったとあります。そしてその時に、人間を神の像(かたち)にお造りになったと言われるのです。そしてその神の像は、宗教を超え、民族を超えすべての人に与えられている。ですから、牧師であろうと僧侶の方であろうと、この神の像から湧き上がる思いに素直になるとき、謙遜さや寛容さといったイエス・キリスト様の内にある御性質に通じるものを持ち、御霊の実である愛、喜び、柔和、寛容、親切、誠実、善意、平安、自制を身に着けていくことができるのだろうと思います。
神学の中の啓示論と言われる分野においては、自然神学という考え方があります。それは、神様が神の造られたすべてのものを通して、神様というお方を私たちは知ることができるという考え方です。それは聖書が語るところであり、人間の生き方や心ありようを通しても神様は私たちに神というお方を示しておられるのです。実際、今回のこの僧侶の方の言葉を通して、私は大切なことを教えられたように思います。
考えてみますと日本人の霊性について深く考えた仏教学者の鈴木大拙は仏教学者というだけでなく中世のキリスト教の霊性の巨人といわれるエックハルトの研究をしながら日本人の霊性についての考察をまとめ、その鈴木大拙の影響を受けた世界的な哲学者西田幾多郎は、鈴木大拙からの影響にさらにそこにキリスト教のエッセンスを加えながら「西田哲学」を構築し、その「西田哲学」の影響化で、八木誠一や小田垣雅也、小野寺功といった「無」の神学者といわれる神学の営みがなされてきました。
私も、学びの中で、少しだけですがこの「無」の神学について学ばさせていただきました。そうすると、この無の神学の中に、私たちの教団の聖化といった神学思想に通じるものがあると思わされるのです。そう言った意味では、私たちは仏教の言葉からも学ぶことは多いのです。そこには、仏教とかキリスト教と言った垣根を超えて、神様は私たちにご自分を示し、神に喜ばれる人間の在り方を示しておられる神様のお姿がある。そのことを心に覚え、刻んでおきたいたいと思います。
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