21年3月第4週受難節第6週(受難週)礼拝説教「キリストの叫び」 2021.3.28
旧約書:詩篇第22篇1節から18節
福音書:マタイによる福音書27章45節から50節
使徒書:へブル人への手紙4章14節から16節
今日は、棕櫚の主日と呼ばれるイエス・キリスト様が子ロバに乗ってエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そして、この日から受難週に入り、26日の金曜日のイエス・キリスト様の十字架の死を覚える受苦日を迎えます。
その受苦日に向かう週の最初の日に、私たちは、このマタイによる福音書27章45節から50節の御言葉を中心にして、神の言葉である聖書の言葉にあるイエス・キリスト様の、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に向き合い、イエス・キリスト様の十字架の死の意味について考えたいと思います。
この箇所において、マタイによる福音書の著者は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエス・キリスト様の言葉を、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というヘブル語で記しています。
ギリシャ語で書かれたマタイによる福音書において、この箇所では、あえてヘブル語に置き換えて、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と書き記したのは、マタイによる福音書は、ユダヤ人たちを読者として想定して書かれていると考えられるからです。
それはおそらく、イエス・キリスト様が十字架にかけられた際に、その十字架のそばにいた人々が、イエス・キリスト様の言葉を聞いて「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と言った理由を明らかにするためであったと思われます。つまり、「エリ、エリ(אֵ לִ י אֵ לִ י)」という言葉を、エリヤ(אֵ לִ יָּהו)というふうに聞き違えたというわけです。
これは、ギリシャ語の「セー モウ、セー モウ(Θεέ μου θεέ μου,)」としたのでは、なぜ人々がイエス・キリスト様の言葉を聞いて「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と思った理由がわからない。しかし、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉ならば、「エリ、エリ」という言葉を、エリヤというふうに聞き違えたと説明がつくのです。
みなさん、エリヤというのは旧約聖書に出てくる預言者で、紀元前9世紀前半に活躍した人物です。そのエリヤについて、私たちが手にしている旧約聖書の最後の書であるマラキ書4章5節には、「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」。という記述があります
そして、イエス・キリスト様の時代のイスラエルの人々は、この主の大いなる恐るべき日である終わりの時代には、預言者エリヤが再び現れ、イスラエルの民を救うメシヤ、すなわち油注がれた王の到来のための備えをすると考え、エリヤとメシヤの到来を待っていました。そこにはイスラエルという神の王国の再建への期待があります。
そして人々の間には、ナザレから出て来たイエスという人物こそが、そのメシヤであるという期待がありました。イエス・キリスト様が子ロバに乗ってエルサレムに入城なされる際に、人々が「ダビデの子にホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ、いと高きところに、ホサナ」と叫び、歓喜の声を持って迎え入れた様子(マタイ21章8節)には、このナザレのイエスこそが、メシヤであるという期待が感じ取られます。
だからこそ、イエス・キリスト様の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉を聞き違えた人々の中に「待て、エリヤが彼を助け来るかどうかを見ていよう」などという声が聞こえてくるのです。
しかし、マタイによる福音書の著者が、イエス・キリスト様の語られた言葉を、わざわざヘブル語で書き記した理由は、それだけではないと思われます。
みなさん、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉の意味は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、その言葉は、詩篇22篇1章1節の言葉に重なり合います。
そしてこのマタイによる福音書を書き記した著者は、イエス・キリスト様の叫ぶ言葉を通して、読者であるユダヤ人が、詩篇22篇1節の言葉を思い起こすことを期待している。
その詩篇22篇は、深い絶望の中から語られる詩篇です。まさに祈ってもその祈りが神に聞かれない、嘆きの声を上げても神がその嘆きの声を聞いて下さらない。そのような絶望的な思いの中から語られる詩篇です。
つまり、この「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉で始まる詩篇22篇は、祈りが答えられない、神が苦しむ私の声を聞いてくれないという絶望の淵にある人の嘆きの言葉なのです。その嘆きを、イエス・キリスト様もまた共に経験しているのです。
みなさん、実は、この詩篇22篇はイエス・キリスト様の受難の物語と重なり合う部分が多い詩篇です。たとえば7節8節の
すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り 動かして言う、「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
また同じく詩篇22篇の18節にある「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」という言葉は、マタイによる福音書27章35節で、「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け」たという出来事と重なり合います。
このように、イエス・キリスト様の受難の出来事は、詩篇22篇の詩人の苦しみと重なり合わされ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という神に見捨てられ見離された絶望の言葉となって、イエス・キリスト様の口から語られるのです。
みなさん、この時、イエス・キリスト様は神の御子であるのにもかかわらず、「わが父、わが父」と呼びかけてはいません。神の御子であられるのにもかかわらず、「わが神、わが神」と言われるのです。
それは、神のひとり子であり、それゆえに神であり、苦しむ必要のないお方が、私たちと同じように苦しみを負い、痛みを感じ、嘆き、絶望を経験なさったと言うことにほかなりません。神であられるお方が、私たちと同じ苦しみや痛み、嘆きや絶望を負われた。
みなさん、私たちの生きている「この世」という世界は、まるで神などいないと思われる神が隠されている世界です。そこには、苦しみや、痛みや、嘆きが渦巻いている。そのような世界の中で私たちは生きているのです。
実際、私たちは、「神も仏もあるものか」と思えるような苦しみや痛み、嘆きを経験します。そのような絶望的な経験などないという人もいるだろうと思いますが、それはそれで幸せなことなのかもしれません。しかし、そう言った人は必ずしも多くはありません。
病や、貧困や、欠乏、そして死といった出来事が失望を生み出し、私たちを嘆き悲しませます。そしてときには私たちを絶望の淵に突き落とすことがある。その苦しみや痛みや嘆きを、神の御子イエス・キリスト様も私たちと同じように負われたのです。
そのことを新約聖書へブル人への手紙の著者は、へブル人への手紙4章15節16節で、次のように語ります。
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
この「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」という言葉は、新改訳聖書2017では、「私たちの弱さに同情できない方ではない」となっています。この同情、あるいは思いやるという言葉の元々のギリシャ語が持つニュアンスは、他者の感じたものと同じような感覚を持って、その他者からの影響を受けるという感じのニュアンスを持っています。
ですから、大祭司であるイエス・キリスト様は、私たちの痛みや苦しみ、あるいは悲しみ、逆に喜びといったものに共感し、そして影響を受け、深く心が動かされ、それ故に、痛みや苦しみ、悲しみの中にある私たちに関わらずにはいられないお方だというのです。
みなさん、相手の心に共感するためには、自分の中に同じような心がなければなりません。私たちが「この世」という神がいないかのような世界の中で経験する、苦しみや悲しみ、痛みや嘆きといった絶望的な思いに共感するためには、同じように、「この世」という神がいないような世界で、同じように絶望的な思いを経験し、その苦しみ、悲しみ、痛みや嘆きを知らなければならない。
詩編22篇の言葉に重ね合わされた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか)というイエス・キリスト様の叫びは、まさにあの詩篇22篇の詩人と同じように、「この世」にあって苦しむ私たちと同じ絶望的な思いを経験してくださったことの証に他なりません。
そして、そのような絶望的な思いをイエス・キリスト様が経験なされたのは、私たちが絶望の淵に陥ってしまった時に、そのイエス・キリスト様によって癒され・慰められるためです。マタイによる福音書の記者は、あえてイエス・キリスト様の言葉をヘブル語で書き記すことで、そのことを、読者に、そして私たちに伝えたかった。
みなさん、神の御子であり、神の言葉であるイエス・キリスト様は、聖書の言葉を通して、またイエス・キリスト様の体なる教会を通して、私たちに慰めを与え、支えを与え、励ましを与えてくださいます。
だからこそ、教会では毎週の礼拝で聖書の言葉が読まれ、聖餐を通して交わりが持たれるのです。それは、神の言葉である聖書と教会を築き上げている私たちの交わりを通して、主イエス・キリスト様のもたらす慰めや支えや励ましを得るためなのです。
同時にそれは、私たちがキリストの体なる教会に呼び集められ、私たちを通して、多くの人が慰められ、支えられ、励まされ、その心が癒されるためなのです。そのために、私たちはこの「キリストの体なる教会」に呼び集められている。
今日の礼拝は、そのイエス・キリスト様の十字架の苦難を思い、心に刻んでいく受難週を迎える主日の礼拝です。だからこそ、今、心を静め、主イエス・キリスト様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか)と叫ばれ、死んで行かれた出来事に思いを馳せたいと思います。静まりの時を持ちます。
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