「おお、神対応!!」
最近、若い人の会話のなかで「神」という言葉をよく聞きます。どうやら、とてもすごい能力を持つ人や、とても素晴らしいことをしたときに、「~って神だよね」とか「神対応」というような言い方をするようです。
このような言葉の使い方は、ある意味スラング(俗語)であって、本来の神と言葉が指し示す意味とは違っています。しかし、全く間違っていると言って否定することもないかなと思います。いやむしろ、なかなかセンスある使い方ではないかとさえ思います。
なぜならば、私たち人間は、神に似た者となるために、神の像(かたち)を持つ者として造られているからです。
聖書は旧約聖書と新約聖書の二つから成り立っています。旧約聖書はキリスト教会で神の独り子と信じられているイエス・キリスト様が誕生する以前のユダヤ人の歴史を通して表された神の物語が記されています。それに対して新約聖書はイエス・キリスト様の誕生以後の教会の歴史を通して表された神の物語が書かれているのです。
その旧約聖書の一番最初の項目、つまり聖書の一番最初の項目は、創世記と呼ばれるものです。その創世記の1章には、神様が人間をお造りになったという物語が書かれています。そこには、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」と書かれています。つまり、人間は神に似た者になるようにと造られているというのです。
もちろん、私たち一人一人が神の像(像)であるといわれても、とても私たち一人一人が神を表す者となっているかというと、必ずしもそうだとは言えません。むしろ、私自身を振り返ってみると神の名を汚すようなことを行ってしまっている現実がそこにあります。そのような現実をみると、私たちは罪びとだといわれても仕方がないような気持になってきます。それでも、聖書はあなた方には神の像(かたち)が与えられている言うのです。
古代ギリシャの哲学者の一人であるアリストテレスという人は、存在する物の全てのものの中には可能態と呼ばれるものがあると言います。可能態というのは種のようなものです。種は小さな粒にすぎませんが、その種を土に植え、水をやり育てていくと、小さな種が大きな木に育っていきます。小さな種の中に大きな木に育て行く基となるものがあるのだというのです。
このアリストテレスの言葉を借りるならば、今、とても神に似た者とは言えないような私たちであっても、神に似た者となる可能態をもっている。それは神の像(かたち)だ。その神の像(かたち)が、土に植えられ、栄養を与えられ、水を与えられるならば、神に似た姿の大きな大樹のごとき存在へと育っていくということなのでしょう。
キリスト教会には、神のかたちをあらわした木像や銅像や絵画というものはありません。たしかに、カトリック教会や正教会といった教会に行くと、イエス・キリスト様の像(ぞう)やマリヤ様の像(ぞう)があります。しかし、それらは、人となられた神の独り子の像ぞう)であって、父なる神の姿かたちを表す(像)ではありません。イエス・キリスト様の像(ぞう)は、あくまでも人間の姿となって現れたお姿であって、神そのものの姿は、人間の姿の背後に隠されています。
このようにキリスト教会で、神の姿かたちを像(ぞう)や絵画用いて表さないのは、旧約聖書の中に記された十戒という十の戒めの中に、「あなたは自分のために(神の)あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない」と書かれているからです。
あるとき、アブラハム。ヘッシェルという人が、ヘッシェルは聖書を学ぶための学校の教授でしたが、そこで聖書を学ぶ学生に、「なぜ神は、神の彫像を造ってはならない」と言われたのかと尋ねました。
学生は「目に見えない神は、目に見えるもので表すことができないからです」と答えます。この答えは、一般的な理解として受け入れらていた答えでした。ところがヘッシェルは「それは違う」というのです。そして、「神の像は、既に私たちの中に刻まれ、私たち自身が、つまり、あなたが神の像としてあるのだ。だから、人の手で偶像として神の像を造る必要などないのだ」と答えたというのです。
神様は私たち人間が神に似た者になるようにと神の像(かたち)を私たちにお与えになってくださっています。この神の像(かたち)という種がちゃんと大きな木に育っていくためには、土に埋められ、水や栄養を与えられる必要があります。そのために、教会という土があり、聖書という栄養があり、礼拝という水があるのです。
「~って神だよね」とか「神対応」と言われるときの「神」は、普通の人にはできないとおもえるほどにすごいという形容詞的な意味です。しかし、その「神」に私たちはなれるのです。その「神」になる種が私たちの内にあるからです。あとは、その種がちゃんと育っていくように、その種を良い土壌にまき、水と栄養を与えてやればよいのです。
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