22年イースター(復活際)礼拝説教「私たちは、今、立ち上がる」 2022年4月17日
旧約書:イザヤ書40章28節から31節」
福音書:ヨハネによる福音書2章13節から22節
使徒書:ペテロ第一の手紙5章9節から10節
今日は、イースター(復活祭)です。このイースターの朝に、私はみなさんと共に神を礼拝することを心から喜び、神に感謝したいと思います。
みなさん、このイザヤ書と言うのは、イスラエルの国がバビロン帝国に滅ぼされ、イスラエルの民が奴隷としてバビロン帝国に捕らえ連れていかれるといういわゆるバビロン捕囚と呼ばれる出来事を中心に描かれています。
具体的には、1章から39章までがイスラエルの国がバビロン帝国によって滅ぼされ、イスラエルの民がバビロンに捕囚されるという言葉が告げられ、40章以降66章までが、そのバビロン捕囚から解放され、イスラエルの民は故郷に帰り、イスラエルの国が回復されるという神の言葉が記されてます。
国が滅び、外国に奴隷として連れていかれるということは、大変な出来事です。そこには嘆きや、痛みや、悲しみ、苦しみがある。当然、その痛みや悲しみや苦しみをイスラエルの民はその身に負ったのです。
しかし神は、そのイスラエルの民を決して見捨てず、見放すようなことはなさらない。彼らを、その苦しみや悲しみ、そして痛みと嘆きの中から救い出されるのです。そして、再び立ち上がらせる。
もちろん国が亡びるということは、そこにそこに荒廃が起こり、神殿は壊され、もはや人の目には回復され復興される望みもないような状況が起こります。それはまさに、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」と言った状況なのです。しかし、そのような状態の中にあっても、神はこう言われるのです。
28:あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。29:弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
と。そして、このように「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」神だからこそ、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」ということができるのです。
このイザヤ書に記された神の言葉をまさに奴隷としてバビロンに連れていかれたいイスラエルの人々がこの言葉を聞いたならば、どんなに慰めを得、心が癒されたであろうかと思わされます。そして、この現実の歴史もイザヤ書の言葉通りに、イスラエルの人々はバビロン捕囚と言う苦難の経験の後、バビロニア帝国から解放され、国にかえり、粉々に壊されていた神殿を立て直し、神の都であるエルサレムを再建するのです。そこには、神の癒しと回復の物語がある。
まさに神は、私たちが、いかに弱り疲れ果て、倒れてしまっても、その倒れてしまったところから、神を待ち望み、神を見上げるならば、力を与え、新たなものとし、そこから立ち上がらせてくださる癒しの神であり、回復の神なのです。
その神の回復と癒しの物語は、さらにイエス・キリスト様の十字架の死と復活の物語となって歴史の中に刻まれて行きます。
これは、聖書が誤っているとか、聖書が真実を伝えていない、聖書には誤りがあるということではありません。むしろ神は、誤りなく神の御心を私たちに伝えるために、聖書を記した人にある程度の自由を与え、その聖書を記した人の持つ神学的な視点を用いて、神の御心を私たちに伝えているのです。ですから、例えばマタイによる福音書を記したマタイならマタイの視点と神学でイエス・キリスト様のご生涯を捉え、それによってイエス・キリスト様のご生涯の意味と目的を伝えようとする。当然、そこにはマタイが語り聞かせたいと考えている人々、つまり、マタイが想定しているマタイによる福音書の読者層がある。
同じように、ヨハネによる福音書を記したヨハネも、彼が記した福音書を読むであろうと想定した読者層がいる。そして、伝えたい内容がある。それにそってイエス・キリスト様のご生涯の物語りを語っていくのです。ですから、マタイやマルコ、そしてルカによる福音書とヨハネによる福音書の記述に違いがあるから、聖書が間違っているとか、その違いを何とか調整しようとして様々な解釈を加える必要などないのです。ヨハネによる福音書はヨハネによる福音書の視点でイエス・キリスト様のご生涯を語っている。それをそのまま受け取ればよいのです
では、ヨハネによる福音書が想定している読者層はだれかというと、その当時のギリシャ・ローマ文化の中にいる人々、つまり、ギリシャ人やローマ人といった人々や、それらの国に離散して暮らしているヘレスタイと呼ばれるユダヤ人であったろうと思われます。なぜそんなことがわかるのか。それは、ヨハネによる福音書の一章にあるギリシャ語の言葉遣いの中に顕著に現れている。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言い回しは、極めてギリシャ・ローマ的な言葉遣いなのです。
宮清めと言う出来事は、神殿で神に捧げるための動物を売っていた商売人や、その動物を売り買いするために用いられていた特別な通貨を手に入れるため両替をしていた両替商などを、イエス・キリスト様がご覧になり、怒りを覚え「私の父の家を商売の家とするな」といって、その商売人や両替商を神殿から追い出したという出来事です。
みなさん、神殿はエルサレムにある。その神殿で神に動物を捧げるとして、それを遠い地方にいる人がわざわざ連れてくるのは大変です。おまけに神に捧げる動物には、傷のない完全なものでなければならないと言ったルールもありましたので、それに適した動物を神殿で買った方が、遠くから来る人にとっては便利でありがたい。おそらく、そのような理由で神殿の庭で、神殿に捧げる動物の売り買いが始まったのだろうと思います。そのように、遠くから神殿に来る人達への配慮と思いやりから始まった動物の売り買いが、配慮思いやりと言う目的よりも、むしろ商売が目的になってきた。
さらには、その動物の売り買いをするために、神殿で使う特別な通貨を使わなければならないとすることで両替商が両替をする。そこにも利潤が生じてくる。そしておそらく、そこで得られた利益から、当時の祭司たちに還元されるといったこともあったのでしょう。
もちろん、神殿での商売で利潤を得ていたであろう人々は、そのようなイエス・キリスト様の行為に腹を立てる。そして「祭司でもないおまえに、このようなことをする権威や権限があるのだ。あるのならそのしるしを見せろ」と詰め寄る。その時、イエス・キリスト様は「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とそういわれるのです。そして、このヨハネによる福音書を記したヨハネは、それは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事であり、イエス・キリスト様と言うお方は、「この世」と言う闇の中に置かれて、「この世」によって神の前に死んだようになっている私たちを再生し、新しい命にお息吹を与えてくださるお方なのだと理解した。
つまり、あの宮清めの出来事は、まさにイスラエルの民にとっては、彼らの神を信じる信仰の死と再生の物語だということなのです。そしてその死と再生の物語は、単にイスラエルの民の問題だけではなく、イエス・キリスト様が十字架にかかって死なれ、よみがえることで物語によって、すべての人の死と再生の物語となるのです。
みなさん、私たち人間は、すべからく神の創造の業により、神に似た者となるために神の像を与えられた存在です。だから、すべての人は尊い尊厳性を持った存在です。しかし、その私たちは「この世」と言う世界の中置かれている。その「この世」が与える価値観やものの見方によって、神の像を与えられ、神に似た者となるようにされている私たち人間の現実は、決して本来あるべき姿からは遠く離れてしまっている。
そのような中で、神によって尽きられた私たち人間が、いやあなたが、神の創造の業にある本来あるべき人間の姿に立ち帰るための死と再生の物語なのだということをヨハネは、ヨハネによる福音書を読むであろう人々に伝えたかったのです。そして、その死と再生の物語は、繰り返し教会の歴史の中で起こっている。いや、教会と、その教会に繋がる私たち一人一人は、この死と再生の物語の中を生きているのです。
先ほどお読みしましたペテロ第一の手紙5章6節から11節は、迫害が迫っている小アジア半島(現在のトルコ)にある教会の人々に書かれた手紙の一節です。そこでは、それこそ、悪魔が教会とそれにつながるクリスチャンを激しき迫害し打ち壊そうとしていると言われています。それはまさに1世紀の教会の姿です。
そのような中にあって、苦難と苦しみ、痛みと悲しみの中に置かれるであろう人々に、ペテロ第一の手紙の著者は、迫害が迫っているけれど、神を信じる信仰をもってしっかり生きなさい。教会は、そして教会に繋がるあなた方は試練の中で苦しみ、痛み、悲しむことがあるだろうでも、神様はあなたたちを癒し、強め、力づけてくださり、そこから再び立ち上がらせてくださる。仮に教会が打ち壊されてしまったと思うようなことがあっても、私たちが弱りはて、倒れてしまうようなことがあっても大丈夫だ。
あなた方はイエス・キリスト様の死と再生の物語に与り、イエス・キリスト様の死と再生の物語を生きるものなのだ。だから大丈夫だと、このペテロ第一の手紙は励ましているのです。そしてみなさん、私たちは、また私たちの教会は、この死と再生の物語を生きている。
だから私たちは、そして私たちの教会は、たとえ困難や試練の中に倒れそうになっても、また倒れてしまっても、必ず再び立ち上がっていくことができるのです。
そのことを、今日、このイースターの朝に、心にしっかりと刻みたいと思います。
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