2022年6月5日日曜日

2022年聖霊降臨日(ペンテコステ)記念礼拝「主なる神が我らの弁護人」

 

22年聖霊降臨日(ペンテコステ)記念礼拝

        「主なる神が我らの弁護人」

                         202265

旧約書:申命記7章6節から8節
福音書:ヨハネによる福音書1518節から27
使徒書:使徒行伝21節から6

 今日はペンテコステ、すなわち聖霊降臨日です。イエス・キリスト様は、十字架に架けられ、三日目に復活し、よみがえられました。そのよみがえられたイエス・キリスト様は、40日間弟子たちに現れ、弟子たちに神の国のことについて教えられ、天に昇られたのです
 そのよう様子は、使徒行伝1章に書かれています。このイエス・キリスト様が天に昇られたという出来事があった後、イエス・キリスト様の弟子たちが集まって祈っていました。その時、突然、激しい風が吹いてくるような音がして、炎のような舌が分かれて現れ、弟子たちの上に留まるという出来事があったのです。
 すると弟子たちは、聖霊に満たされ。聖霊が語らせるままに、他国の言葉で話だし、イエス・キリスト様の事を、エルサレムに来ていたあらゆる国の人に伝えはじめ、そこから世界中に教会が建てあげられるようになった。そのことが、使徒行伝21節から6節に記されています。そしてそのことを記念する日がペンテコステなのです。

 私たちは、このペンテコステを聖霊降臨日と呼びますが、先日、あるキリスト教の雑誌に、このペンテコステの出来事を巡って、二つの立場からの神学的理解についての議論が記されていました。
 それは、このペンテコステの出来事は聖霊のバプテスマだという主張と、これは聖霊のバプテスマではなく、聖霊の満たしの出来事だという異なる主張による議論でした。このように一つの出来事でも、教派や育ってきた伝統でその解釈が違ってくるということはよくあることです。だからキリスト教に様々な多様性がある。多様性があってよいのです。
 しかし、そのような多様性の中にも一致はある。このペンテコステの出来事に対する神学的な理解には違い、すなわち多様性があっても、それでもなお、私たちひとり一人に聖霊なる神が与えられているという事実において、私たちは一致することができるのです。

 聖霊なる神が私たち共にいてくださる。この聖霊なる神は、私たちの弁護者です(ヨハネによる福音書1526節)。口語訳聖書や新改訳2017では助け主と訳していますが、もともとの原語である弁護者という意味を持つギリャ語はπαράκλητος(パラクレートス)という言葉であり、ホーリネス教団の公用聖書である協会共同訳は、弁護人と訳しています。

 私たちは、聖書がこの聖霊なる神を弁護人と呼んでおられると言われると、即座に聖霊なる神は、罪びとであり私たちを、父なる神の前に弁護してくださるお方であると、そう思っいがちです。実は、私もそう思っていました。しかし、聖霊なる神は弁護人であると書かれている文脈を見ていくと、どうも、そうではないことがわかってきます。

この弁護するものとは、聖霊なる神が、私たちが罪びとであることを、父なる神に弁護してくださると言うのではなく、むしろキリストを信じる者を、「この世」が迫害する中で、「この世」というキリスト教に敵対し、クリスチャンを迫害する者たちに対して、彼らが証する彼らの信仰を、聖霊なる神が弁護してくださるというニュアンスなのです。
 だからこそ、先ほどお読みした使徒行伝1章にある、炎のような舌が分かれて現れ、弟子たちの上に留まるという出来事があった後に、弟子たちが、聖霊に満たされ、他国の言葉で話だし、イエス・キリスト様の事を伝えはじめた。その時に、聖霊なる神が、彼らの弁護者となり、彼らの言っていることは正しいのだと弁護して下さった。そこからイエス・キリスト様の福音が世界中に広がり、そして信徒の群れである教会が建てあげられ始め、今日に至るというキリスト教会の歴史があるのです。

 しかし、だからといって、この弁護人である聖霊なる神は、イエス・キリスト様の事を、言葉をもって延べ伝える人たち、たとえば伝道者と呼ばれるような人たちだけに与えられているわけではありません。クリスチャンが、「この世」の中にあって、クリスチャンとして、信仰をもって生きるとき、聖霊なる神は、私たちと共に生き、私たちを支えてくださるお方です。

 イエス・キリスト様を証するということは、言葉で証するだけでなく、クリスチャンがクリスチャンとして生活するだけも、それはイエス・キリスト様を証することになります。私たちがこうして毎週神を礼拝しながら生きること、それだけも、私たちは神を証し、イエス・キリスト様を証しているのです。
 あるいは食事の際に、祈りをもって神に感謝すること、そういった一つ一つのことが神を証し、イエス・キリスト様を証するのです。そういった、日々の生活の一つ一つの積み重ねが、神を証し、イエス・キリスト様を証する生活となっていく。みなさん、クリスチャンがクリスチャンとして生きて行くということそれだけで、私たちはイエス・キリスト様というお方を伝えるものとなっている。神に役立つ者となっているのです。

 しかしみなさん、クリスチャンがクリスチャンとして「この世」の中で生きて行くということは、決して簡単なことではありません。様々な軋轢が生まれることもありますし、心の中で葛藤を覚えることもあるでしょう。

 たとえば、毎週神を礼拝するために教会に集まるということだって、決して簡単なことではありません。それができないことだってある。また、食事の際に感謝の祈りを捧げてから食べ始めるといっても、レストランのような人目のあるとことでお祈りすることが、何か人と違ったことをするようで恥ずかしく感じてなかなかできない人もいる。
 かつて私がそうでした。若いころの私はクリスチャンの仲間と一緒に食事に行くようなとき、食事をすることそれ自体は楽しいのですが、みんなで食事をするのですから、誰かが代表者になって声を出して祈る。そうすると、周りが変わった連中がいるという目で見るのではないかと思えて、祈るのが嫌だった。ましてや、その祈りをしなければならないときなどは、本当に嫌だった。そもそも、クリスチャンの中であっても、人前で祈るのが好きではなかったのです。
 要は、人の見る目、人が自分をどう見るのか、ひいては人が自分をどう評価するかが気になったのです。私の友人が、日本には世間様という神様がいると言いました。そして、確かに世間様はいる。世間様、つまり人の目というものの圧力に、私たちは押しつぶされそうなりながら生きているというたことがある。そしてかつての私もそうだったのです。だから私は、そのような自分を、信仰者として、クリスチャンとして心の中で「だめな奴だ」と思っていました。

だからこそ、そうですみなさん、だからこそ私たちには弁護人が必要なのです。助け主が必要なのです。それは、できない私を、叱咤激励し、できないことをできるようにしてくれる助け主でもなく、できないものを、父なる神に対して、この人は、罪びとです、この人はだめなクリスチャンですが、どうぞ許してやってくださいといって弁護する弁護人でもありません。 

確かに私たちは、あの炎のような舌がひとり一人の頭に上に留まったペンテコステの出来事の直後から、イエス・キリスト様のことを語り伝えて行った使徒たちや最も原初の教会の人々の勇ましい姿をみると、そこに私たちを励まし、力づける聖霊なる神の姿を見るような思いがします。
 しかし、神様は、またイエス・キリスト様はそのような勇猛果敢な弟子だけを求めているのではありません。むしろ、人間の目には弱さを持った人や欠けがあると思われる人も神の民として求めておられるのです。
 そして、大丈夫だよ、安心しろと慰め、支えながら神を信じ、イエス・キリスト様を信じるクリスチャンとしての信仰生活を生かしてくださる。いえ、そういった人こそ、神は神の教会に必要な人だと言って求めておられるのです。

考えてみますと、イエス・キリスト様がお生まれになるまでの旧約聖書において、神の歴史を担ったイスラエルの民は、決して大きな、力のある人々ではありませんでした。むしろ、数の少ない少数者であり、力のない民であったからこそ、神はイスラエルの民を神の選びの民として選び出し、神の救いの物語を担う民となさったのです。
 しかも、彼らは決して信仰深い人たちであったかといえば、必ずしもそうではない。むしろ彼らの歴史には、信仰者としてはとても褒められないような歩みが数多くみられるのです。そして、社会的にはいつも弱者で虐げられてきた民なのです。にもかかわらず、それでも神は、イスラエルの民を選び、見守り、励まし、支えておられる。そして、イスラエルの民を神の民として育み育てておられるのです。そこには、神の慈しみと憐みがあふれている。 

みなさん、私たちは決して強い者ではありません。弱さを多く抱えたものです。欠けもいっぱいある。また、神を信じて生きているからといって、必ずしも「この世」に評価されるような成功をおさめることもないかもしれません。
 ですから、それこそ私たちを見て、周りの人からは、あれでも神を信じている者なかと言われることもあるでしょう。また、神を信じてもなにも良いことなどないではないかといわれることがあるかもしれません。
 しかしそれでもなお、聖霊なる神は、そのような「この世」という社会に向かい、「この人たちは、まぎれもなく神を信じ、神に愛され、神に養い育てられ、はぐくまれている人だ。神の目に高価で尊い人なのだ」と、声高らかに弁護してくださっている。

 みなさん、「この世」という世界のまなざしは目に見える成果や結果に目を注いでいます。そして、華々しい働きや結果を納める人を称賛し、褒め称えます。しかし、神のまなざしは、「この世」にあって、目立った働きをし、結果を残すことがなくても、ただ愚直に神を信じ、神の言葉に耳を傾けて生きて行く人に注がれて、そのような人を称賛するのです。そして、キリストの体なる教会に必要な人だと言って、教会に呼び集めてくださっている。

もちろん、神を信じ、華々しい活躍をし、結果を残すような人にも、神は目を注いでくださっています。しかし神は、その活躍のゆえに、その成果のゆえに目を注いでいられるのではない。教会における働きは、その賜物の多様性による結果でしかなく、その結果に優劣などなく、結果によって神の評価が変わるというようなものではありません。
 神は、ただ私たちが「この世」にあって小さき者だからこそ、そのまなざしを注ぐのです。華々しい活躍をする人だからではない。人の目から見た強い信仰を生きる人だからでもない。むしろ、「この世」にあって、「この世」から、小さきものとされているにもかかわらず、神を信じ、神の言葉に耳を傾けて生きて行く者であるからこそ、神は私たちを顧み、私たちに目を注がれるのです。そして聖霊なる神を私たちに与えてくださる。

だから、教会には不必要な人だの誰一人としていない。また、教会には聖霊なる神が共にいてくださらないというような人は誰一人もいないのです。大切なことは、私たちが、そのことを愚直に信じられるかどうかということです。
 そして、そのことを愚直に信じるということは、けっして自分は「ダメだ」と自己卑下しないということです。自分はダメなクリスチャンだとか、自分は信仰の弱いものだと思わないことです。そのような思いは、神と「この世」に向かって、「この人は、神に愛され、神の祝福に与る人だ」と弁護してくださる弁護人である聖霊なる神の言葉を否定することなのです。

 たとえ、誰かが、そして「この世」が、どんなに私たちを卑下し、認めず、ダメな奴だと言おうとも、聖霊なる神は、声を大にして、「この人は、神に愛され、神の祝福を受け継ぐ,高価で尊い人なのだ」と弁護してくださっているのです。そのことを覚え、神に感謝して生きて行くものでありたいですね。静まりの時を持ちましょう。

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