2023年4月14日金曜日

オリゲネスに見る教会の姿

             オリゲネスに見る教会の姿

先日、古代の教父のオリゲネスという人のルカによる福音書10章にある善きサマリア人の譬えから語られた説教を呼んでいました。教父とは、古代から中世初期にかけて教会の指導者であり、その信仰や、生活態度が教会の模範となるような人物で、後のキリスト教会の神学に大きな影響を与えた人たちのことです。

 その中で、オリゲネスという人物は非常に興味深い人で、その教えは古代ローマカトリック教会では異端であるとされ、その著作は焼き捨てられましたが、ギリシャ正教の系譜にある東方教会では受け入れられています。そして、異端とされたにもかかわらずその神学は、後の西方教会の神学に大きな影響を与えたとされる人物です。
 そのオリゲネスの善きサマリア人の説教においては、このエルサレムから下って来た旅人は、エルサレムに譬えられた天の楽園から追放されたアダムであると解釈されています。そしてそれは、この世に生きるわたしたち人間の姿であると言えます。そして、強盗は神に敵対する勢力の比喩的表現であると言われます。また祭司は律法、レビ人は預言者です。つまり、この二つは旧約を示していると言えます。そして善きサマリア人はイエス・キリスト様であり、宿屋は教会だと言われています。

 このような、たとえ話の登場人物や事物を何かの比喩的表現であると理解して物語を解釈する方法を寓意的解釈と言い、古代から中世の教会で用いられた聖書解釈の方法です。今日では、このような寓意的解釈を用いて聖書を解釈すると言うことはほとんどなされませんが、しかし、聖書の思想を学ぶためには、有益なことも少なからずあります。そして、このオリゲネスの寓話的解釈からも学ぶべきことは多くあります。

 オリゲネスは、「この世」という天の楽園から離れた世界に生きる私たちは、神にて期待する罪の力によって傷つけられ、痛めつけられ、倒れ苦しんでいますが、イエス・キリスト様が、そのような私たちを助けてくださるのですが、傷が癒され、回復する場は教会だと言うのです。このオリゲネス解釈は、教会を築き上げている私たちには、とても重要なことを教えてくれます。それは、教会は癒しの場であり、慰めの場であり、回復の場として立ち上げられているのであって、人を傷つけ、痛めつける「この世」という世界とは全く違ったものだと言うことです。

 そして、傷つけられ、痛めつけられ、倒れ苦しんでいる人にとって、律法や預言者といったものは、本来人間のあるべき姿を示して呉れてはいますが助けにはなりません。もちろん、律法や預言者は、人間が生きて行くうえで大切なものであり、なくてはならないものです。ですが、それは傷が癒され、肉体も心も回復して初めて役立つものです。ですから、教会は、まず、慰めと癒しと回復の業が第一に求められるべきものであり、それがあって初めて、私たちはエルサレム、すなわち天のエルサレムを目指して歩いて行くことができるからです。

 だとすれば、私たちの教会が目指すべき姿がどこにあるかが見えてきます。それは、癒しの場であり、慰めが語られ、力が与えられる場である教会です。今までもそうですし、これからもそのような教会を立て上げるために、みなさんと共に歩いて行ければと、オリゲネスの説教を読ませていただきました。


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