2023年8月21日月曜日

私たちは神の御業である

           礼拝説教「私たちは神の御業である」     

旧約書:ヨブ記4章1節から11節
福音書:ヨハネによる福音書9章1節から7節
使徒書:ガラテヤ書3章23節から28節

 今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所は、ヨハネによる福音書9章1節から12節です。この箇所は、イエス・キリスト様が物乞いをしていた生まれつき目の見えない人をお癒しになったこと告げる物語です。そのストーリーは、おおまか次のようなものです。

 あるとき、イエス・キリスト様が弟子たちと共に道を歩いていると、生まれつき目の見えない人が道端に坐り物乞いをしていた。それに気づいた弟子の一人が、イエス・キリスト様に「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」とたずねる。

 このとき弟子たちは、この人が、生まれつき目が見えないということを、すでに知っていたものと思われます。ひょっとしたら、ずっと以前から、この「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という質問が人々の間でささやかれていたのかもしれません。その問いを、弟子たちはイエス・キリスト様に訊いたのです。

 というのも、この当時は、病気や障碍というものは、人間の罪の結果、罰としてもたらされる因果応報的なものとして考えられていたからです。そしてそのような考え方を、私たちは旧訳聖書の中にも読み取り事ができます。

例えば、先ほどお読みしましたヨブ記がその一つです。ヨブ記というのは、信仰が厚く、敬虔に、そして真面目に生きてきたヨブという人が、家族や財産を失い、自分自身も病気になって苦しむという物語です。

 そのようなヨブの苦しみの背後には、神様と悪魔との間の議論がある。それは、悪魔は神にむかって、「ヨブがあのように信仰が厚く敬虔な態度で神を信じるのは、多くの財を築き、家族にも恵まれているからであり、それがあなたからの祝福だと受け止めているいるからです。もし彼が、不幸に見舞われたならば、ヨブはすぐにあなたを信じる信仰から離れてしまいますよ」と言いがかりから始まる。

 その悪魔の言葉に対して神は、「それならば、試してみろ」というのです。それで、ヨブは、悪魔の業によって財産も家族をも失うという災難にあい、自分自身までもが病気で苦しむことになる。しかし、それでもヨブは「われわれは、神から幸いを受けるのであるから、災いをもうけるべきではないか」と言って、神を呪うことも、恨むこともせず、神を信頼する心を失わないのです。

 ところが、ヨブの友人たちが彼を慰めようとして彼のもとにやって来ることで風向きが変わる。というのも、その友人たちは「ヨブ、お前がこんな苦しみに会うのは、お前が神の前に何か罪を犯したからであり、神がお前にその罪に対する罰をあたえているからだ。だから、自分の罪を神に告白し、神にお詫びして、神に赦しを請いなさい。そうすれば、許されるから」と言うからです。

 この言葉には、病気や障碍そして災いというものは、人間の罪の結果、罰としてもたらされるという因果応報的思想があります。それが顕著に表れているのが、先ほどお読みしたヨブ記4章節から1節までの言葉です。とりわけ7節以降の言葉にそれが見られます

 

7:考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、 断ち滅ぼされた者があるか。8:わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。9:彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。

 

 もちろん、ヨブの友人たちは、ヨブを慰めようとしているのですから、悪気はない。むしろ善意から言っている。しかし、その言葉がヨブを苦しめるのです。なぜなら、ヨブには自分は神の前に正しく歩み、罪を犯したことなどないという自負があるからです。実際、ヨブはそのような人であったのでしょう。そんなヨブにとって、もし、この苦しみが神に対する私の罪の罰であるとするならば、それは身に覚えのない不当な苦しみでしかないのです。だから、ヨブは友人たちに反論する。そうして、ヨブと友人たちの議論が、この4章から始まり延々と37章まで続くのです。

 みなさん、ヨブの苦しみは、悪魔がもたらした不幸や災いにあったからではありません。彼は「あなたの罪の結果であり、あなたの罪に対して神が罰をあたえたのだ」という友人たちの言葉に傷つき、心が痛み苦しんだのです。

 それと同じ言葉が、今、イエス・キリスト様の弟子たちによって、この生れつき目の見えない盲人に投げかけられるのです。「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と。

 おそらく、同じような言葉を、この人は何度も何度も耳にしてきたのでしょう。そして、その言葉は、彼を傷つけ苦しめて来たのではないかと思う。ひっとしたらこの人は「またか、もういい加減にしてくれ」と思っていたかもしれない。けれども、それでもこの人は、物乞いをしなければ生きて生きないのです。だから、人々の憐みを請うために道の傍らに坐るのです。

 その時、この盲人は突然、今まで聞いたことのない言葉を聞く。それはイエス・キリスト様の「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」という言葉です。それは、この生まれつき目の見えない人を通して神の御業が現れるということです。今まで、罪の罰を担ったものであると言われ続けてきたこの人が、神の御業を現すのです。

 この人が、目が見えないという障碍を負っているのは、罪に対する罰なのだという言葉。それはその人の存在そのものを否定する言葉です。そのような言葉を浴びせられ続けてきた自分が、「そうではない。あなたは神の御業を担う人間である」という言葉を聞く。その言葉は、いったいどのような響きでこの盲人の心に響き渡ったのでしょうか。

 それは、その人の存在そのものを暗闇の中から掬い取るような言葉です。だとすれば、その人を通して現れ出た神の御業とは何なのでしょうか。

 みなさん、私たちは、この箇所を読むと、それはイエス・キリスト様が、この見えない人の目を見えるようにしたことであると思ってします。私自身もそう思って読んでいた。でも、本当にそうなのでしょうか。

 確かに、聖書において、イエス・キリスト様が病を癒すとき、それは神の国の到来を示すの証の業として用いられています。しかし、そのために病の苦しみがあるのではありません。むしろ「あの人たちは罪の罰を受けて病や障碍という苦しみを負っているのだという」と人々の中傷や心ない声を投げかける世界に対して、「そうではない。彼らもまた神の創造の業であり、それゆえに神に愛されたかけがえのない神の子であって、神の王国の招かれているひとり一人なのだ」ということを証明するために、イエス・キリスト様は、癒しの業を成しているのではないか。私にはそう思えて仕方がないのです。

 

 この生まれつき目の見えない人は、人々が言うように、罪の罰を負って生まれてきたのではありません。神に愛され、神の創造の御業の中で生れて来た尊い神の子なのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、人々が中傷し、蔑んで見ているこの目の見えない人の前を、その苦悩を見過ごして通り過ぎることができないのです。だから、この人に目を止め癒すのです。

 みなさん、私たちは、イエス・キリスト様が、この目の見えない人の目を開くにあたって、「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」と言っている言葉に着目する必要があります。

 というのも、このヨハネによる福音書は、私たちが生きている「この世」という世界は暗闇に覆われていると言っているからです。だとすればその暗闇の世界では、誰もが目が見えていないのです。だからこの生まれつき目の見えない人が、神の愛する神の創造の業なのだということに気づかない。見えていない。だから「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親の罪なのだろう」などと言うのです。

 みなさん、目が見えていないのは、この生まれつき目の見えない人ではない。彼の周りにいた人々も、イエス・キリスト様の弟子たちも、いえ、今の時代の私たちだって同じように暗闇に覆われて目が見えていないのです。

 そうではないですか。私たちは、どこかで病に苦しむ人や障碍を負った人をかわいそう人、憐れむべき人だと、知らず知らずの内にそのような目で見ているようなことはないですか。人種や民族、肌の色や国籍と言ったこと、最近では性志向や性自認といった問題で、白眼視し、差別的なまなざしを持って見ていることがないでしょうか。そして知らず知らずの内に心無い言葉をかけてしまい、心を傷つけてしまっていることがある。

 そのような私たちに、暗闇に勝利したと言われるイエス・キリスト様は、目を開いてくださるのです。この物語は、「この世」という暗闇に覆われた世界の中で、目が見えなくなってしまっている私たちの目を開いて、私たちひとり一人が、すべての人が尊厳ある、尊いひとり一人であるということを見えるようにしてくださることを告げる物語なのです。なぜならばイエス・キリスト様は「世の光」だからです。

 そのキリストの光に照らされた者にとっては、もはや差別も区別もなく、誰一人も卑下されることもなく、すべての者が、皆がキリストの照らす光のもとで一つなのです。

 だから、誰もがキリストの弟子となれるし、神の恵みを受けることができる、神の恵みに与ることのできない者、神に愛されていない者など一人もいないのです。そのことを端的に述べているのが、先ほどお読みしたガラテヤ書の3章23章から29節、とりわけ27節から29節です。そこには

 

26:あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。27:キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。28:もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。29:もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 

と言われている。

 みなさん、私たちはイエス・キリスト様というお方のもとに身を置き、この人が照らす光の輝きによってあらわされた世界、それは神の王国と言って良いのですが、その世界を見る時、そこには、ダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、また健常者も障碍者の区別もなく、また、病の内にある者の健康なものも、すべての者が神の創造のもとにある神の業としてのかけがえのない一人一人が移りだされるのです。

 ヨブは、自分を襲った災難や病気という悪魔がもたらした出来事で心を痛め、傷つき、苦悩したのでありません。因果応報説と言ったこの世の闇の中にある友人たちの言葉、すなわち人の言葉によって苦しんだ。また、この目が見えないという障碍を負った人もまた、「生まれつき目が見えないのは、この人か、その両親の罪の罰として目が見えないのだ」という、人々の心無い言葉で傷ついていた。

 しかし、イエス・キリスト様は、そうではない。私たちはみな、そうすべての人は皆、神の創造の業のもとにある神の業を顕れである尊い存在なのだと言う。だから、イエス・キリスト様は、弟子たちの問いに対して、罪の宣告をするのではなく、まず神の恵みの業を語るのです。そのことを、今日の聖書箇所を通してイエス・キリスト様は「世の光」として、照らし出し、私たちに教えてくださっているのです。みなさん。私たちは、そのイエス・キリスト様に私たちは一つに結び合わされているのです。

そのことを、今しばらく、目を閉じ、心を静めて思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。   



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