‘21年4月第一主日復活祭礼拝礼拝説教「希望の物語」 2021.4.4
旧約書:ホセア書13章14節(p.1258)
福音書:マタイによる福音書27章45節から56節(pp.48-49)
使徒書:コリント人への第一手紙15章50節から54節(p.276)
今日は、私たちの主イエス・キリスト様が死から蘇られたことを記念する復活祭です。私たちは、先週の棕櫚の主日の礼拝で、マタイによる福音書27章45節から50節を通して、イエス・キリスト様が十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望的な思いの中で死なれたのは、私たちが絶望的な思いに陥ってしまった時に、同じように十字架の死という絶望的な思いを経験したイエス・キリスト様によって癒され・慰められるためであったと言うことを学びました。
そして今日の復活祭の礼拝は、そのマタイによる福音書27章45節から50節に続く51節から56節、特に51節から53節を中心に、聖書の言葉に向き合いたいと思います。
このマタイによる福音書27章51節から56節の記述は、意外に取り扱いが難しい箇所です。というのも、このマタイによる福音書の27章45節から51節は、同じ内容を取り上げているマルコによる福音書33節から41節とほとんど同じ記述になっています。
また、ルカによる福音書23章44節から49節にも、十字架の上でイエス・キリスト様が叫ばれた言葉は違っていますが、そのほかの内容はほとんど同じ記述が出ています。
ところが、マタイによる福音書は、その受難の物語の中の51節から53節に、イエス・キリスト様の受難の際に、墓に葬られていた多くの聖徒たちの死体が生き返り、イエス・キリスト様の復活のあとにエルサレムに入り、多くの人に現れたという、実にセンセーショナルな出来事を挿入するのです。
もちろん、このセンセーショナルな出来事は、マタイによる福音書だけに記されている出来事であり、他の三つの福音書には、この物語が記されていません。
それに対して、たとえばマタイによる福音書の9章18節から26節にある会堂司ヤイロの娘が生き返った物語は、マルコによる福音書にもルカによる福音書にも記されています。このヤイロの娘が生き返ったという出来事は、「その噂がその地方全体に広まった」といずれの福音書も伝えています。それほど死んだ人間が生き返るという事件は、人々の心に刻まれる非常に大きな出来事なのです。
だとすれば、この多くの死んだ聖徒たちが生き返り、墓を出てエルサレムにやってきて、多くの人に現れたという出来事は、ヤイロの娘が生き返った出来事よりも、もっと衝撃的な事件として、当然、人々に語り伝えられていたでしょう。なのに、マタイ以外のどの福音書も、この事件を取り上げていないのです。これは、実に不思議なことです。
また、マタイによる福音書は、イエス様が十字架で死なれたときに多くの聖徒の死体が生き返り、イエス様の復活の後に、墓から出てエルサレムに入ったと伝えています。
みなさん、イエス・キリスト様の十字架の死は、金曜日の午後に起こった出来事です。そして、復活なさったのは日曜日の朝。だとすれば、この生き返った多くの聖徒は、金曜日の午後に生き返り、日曜日の朝まで墓に留まり、それから墓から出てきたと言うことになります。これも極めて不自然です。
だとすると、このマタイによる福音書27章52節、53節の出来事は、歴史的事実というよりも、むしろマタイによる福音書の著者が何かを伝えるために、意図的に、象徴的あるいは比喩的な表現で、この52節、53節の物語を書いたのではないかと考えられます。
みなさん、聖書は誤りのない神の言葉です。これは、私たち福音派の立場であり信仰です。私もそのことを微塵も疑ってはいません。しかし、同時に聖書は、聖書記者という人間を介し、手紙や詩や歴史物語といった様々な文学的手法を用いて書かれています。
ですから、ある事柄が象徴的に描かれたり、比喩的に描かれたりするということは、少なからずあるのです。そしてその意味では、このマタイによる福音書の27章52節、53節の出来事も、ある事柄の象徴的、比喩的表現であると考えられます。
だとすれば、マタイによる福音書の著者は、いや、聖書そのものが、この出来事を通して、何をその読者に伝え、なにを物語りたかったのか。
みなさん、それは希望の物語です。私たちを、罪と死によって縛り付けているこの世から解放し、神の恵みの支配のもとで生きる者として下さったという救いを語り、希望を伝える物語なのです。その物語は「また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」という非常に短い小さな物語なのです。
しかし、その短い小さな物語は、キリスト教2千年の歴史をつらぬく長い救いの物語であり、多くの人に希望を与える大きな物語でもある。そしてその長く大きな希望の物語の中には、神を信じる私たち一人一人の様々な物語がある。
そこには自分の中にある苦々しい思いや自らが犯した罪のゆえに、良心の呵責に押しつぶされそうになった人が、神の赦しの言葉を得て、その良心の呵責から救われるという物語もあるでしょう。また、人間関係のもつれや、ゆえなく人から心を傷つけられるという深い痛みに苦しむ人が、神の言葉や教会によって癒されると言った物語、あるいは人間の死や病の現実の前で悲しむ人が慰めを受けるといった様々な救いの物語があるのです。
そして、今日、この会堂に集っているみなさん、ネットでこの礼拝に参加しておられるみなさん、送られてきた説教原稿で家庭礼拝を守っておられるみなさんのお一人お一人にも、良心の呵責に押しつぶされそうになったり、心が傷つけられた痛みを経験したり、あるいは病や死という現実の中で悲嘆なさった経験があるのではないかと思うのです。
それは、ある意味、先週お話ししたように、イエス・キリスト様が、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれ死んで行かれたような、深い絶望に陥った経験なのかもしれません。
しかし、そのような絶望の中にあったとしても、私たちは必ず立ちあがれる。再び希望を持って生きることができるのです。なぜならば、イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちを縛り付け、私たちを苦しめる死と罪の法則から私たちを解放するからです。
私は牧師という職にありますので、お恥ずかしい程度のものではありますが、神学の学びをしてきました。また、教会の皆さんのご理解もあって、継続的に神学の学びを続けさせてもいただいています。その学びを通して、このイエス・キリスト様の生きておられた時代のユダヤ人たちがもっていた終末思想というものに触れる機会がありました。
その一つが、この当時のユダヤの終末思想においては、罪というものが、私たちの内にあるものとしてではなく、いやもちろんそれもあるのでしょうが、それ以上に私たちの外側にある宇宙的な力として私たちを支配していると考えられていたと言うことです。
そのような考え方は、イエス・キリスト様や12使徒たちに、またパウロの内にもあったと言えるでしょう。むしろ、そのような考え方で「世の終わり」、終末というものを捉えていたと考えるのが妥当でしょう。
その宇宙的な力である罪が、私たちを神から引き離し、私たちを罪の支配のもとに置くのです。そしてその罪の支配のもとで私たちは苦しみ、人を傷つけたり、傷つけられたり、様々な悪を犯してしまう。また、その私たちの外側にある宇宙的な罪が、人間世界の様々な痛みや苦悩を生み出し、最終的には私たちに死をもたらすのです。
イエス・キリスト様がもたらす救いは、その罪と死の支配から私たちを解放し、神の恵みが支配する神の王国へ、私たちを招き入れてくださいます。そこは、赦しと、慰めと癒し、そして励ましに満ちている世界です。そして、私たちを命へと導く。
この神の王国が私たちを導く命を、ヨハネによる福音書は「永遠の命」と呼びます。それは、あのヤイロの娘が生き返ったという意味での命ではありません。ヤイロの娘は、確かにイエス・キリスト様によって一度は蘇りましたが、永遠に生きているというわけではない。彼女は歴史の中のどこかで、もう一度死を経験している。
しかし、神の国がもたらす「永遠の命」は、永遠なる神の命です。みなさん、私たちの肉体は、必ず死を経験します。先ほどお読みしました新約聖書コリント人への第一手紙の15章50節から57節には、「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」とあります。
このコリント人への第一の手紙15章50節から57節には、死は眠りに譬えられています。そして、神を信じ、イエス・キリスト様を信じたものは、その死の眠りから、朽ちる肉体ではない朽ちない体となって甦ると語られています。
ここには、死に勝利する希望が語られ、「永遠の命」への希望が語られている。だからこそ、コリント人への第一の手紙15章55節は、「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と、罪と死に勝利されたイエス・キリスト様を高らかに誉め讃えるのです。
みなさん、このコリント人への第一の手紙15章55節のイエス・キリスト様の死に対する勝利を讃える言葉は、先ほどお読みした旧約聖書ホセア書13章14節の「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」の引用だと言われます。
ところが、このホセア書13章14節は、9節にある「イスラエルよ、わたしはあなたを滅ぼす。だれがあなたを助けることができよう」という言葉から始まる、厳しい裁きの宣告の中に置かれている言葉なのです。
ですから13章14節の前半の「わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか」という言葉は、「神はイスラエルの民を贖い、お救いになられるだろうか、いやお救いにならない」という意味であり、それゆえに、あの「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」という言葉もまた、救いの言葉ではなく、イスラエルの民を裁く神の裁きの言葉なのです。
しかし、この厳しい裁きの言葉も、神の憐れみが隠されているからです。この憐れみを隠していた覆いが取除かれ、神の憐れみが現れ出るとき、「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」という言葉は、裁きの言葉から恵みの言葉へと変えられる。それが、コリント人への第一の手紙の15章55節で起こっている
みなさん、今日の説教の中心であるマタイによる福音書27章52節、53節の出来事は、私たちがこの世の生を生きる中で、私たちを支配する罪の力がもたらす苦しみや、悲しみや、痛み、苦悩に対して、神が私たちを支え、慰め、癒しを与えてくださる救いの物語であり、また、死や病という現実に向き合う者にとっては、復活と永遠の命という希望を語る希望の物語です。それは、まさに私たちに対して神が語りかける神の救いの物語であり、この救いの物語こそが神を信じ生きる私たちクリスチャンの希望の物語となるのです。
今しばらく、心を静め、沈黙の内に、この神の希望の物語、救いの物語に思いを馳せたいと思います。静まりの時を持ちます。