2021年10月13日水曜日

薄いピンクの花束を真紅の花束へ

           薄いピンクの花束を真紅の花束へ

 昨日、今日の告別式に備えて、今ここにある生花が飾られました。それをみていると、色合いからでしょうか。私には何となく、Sさんのイメージにぴったりのお花が飾られたなと思いました。

 イメージというのは、漠然としたものです。しかし漠然としているからこそ、ずっと心の中に残っていきます。人間の記憶というものは、物事の詳細な部分まで正確に記憶し続けることはできません。最初は、いろいろなことが思い出されるでしょう。しかし、だんだんとそれらの記憶は薄れていき、最後はイメージだけが残っていく。

しかし、そのイメージは力強いものです。決して、私たちの心から消え去ることなく、いつまでも残っていく。きっと私は、このような薄いピンク色の花を見るたびに、Sさんのことを思い出すだろうなと思います。それほど、イメージというものは力強く私たちの心の中に残るのです。

 考えてみますと、聖書には、人間は神のイメージが刻み込まれていると記されています。それは、神様がイメージする「私たち人間が、いかにあるべきか」という神が思い描く人間本性であり、それは私たちが神ご自身に似たものとなるための神のイメージなのです。

 親は、子供に「こうあって欲しい」「このように育ってほしい」とかってにイメージを膨らませ、思い描きます。もちろん、必ずしも、それと同じようになるということではありませんが、親が子供の「こうあって欲しい」「このように育ってほしい」と思い描くそのイメージの背後にあるのは、子供の幸せを願う親の愛がある。

 神様が人間に、神のイメージを刻み込んだのは、まさに私たち一人一人が幸福になるようにと願う神の愛がそこにあるからです。しかし、現実の世界は、必ずしも幸せと感じられることばかりではありません。もちろん、幸せを感じる時もあるでしょう。しかし苦しいことや辛いことある。涙することも多くあるのです。

 ですから、私たちの人生は真紅のバラのようになりません。喜びのバラ色を涙が薄めて淡いピンク色にしていく。でも、見てください。この淡いピンク色に染まったこの花束は、何とも美しいではないですか。

 そしてその美しさは、私たちだけではない、神の目にも映っている美しさです。その美しさを見て、神様はSさんに、「よくやった。よく頑張って生き抜いてきたね」と言っておられるように思います。

 お気づきになられた方もおられるかもしれませんが、先ほどお読みしました新約聖書の箇所ヨハネの黙示録79節から17節は、実はSさんのご主人であられたKさんの告別式の際にもお読みした箇所です。旧約聖書のヨブ記1925節から27節も同じように、Kさんの葬儀の際に読んだ箇所です。

  私は、今日の子の告別式の式次第をどのようなものにするか、どの聖書箇所を世も上げたらよいか、いろいろと考えていました。その中で、Sさんのご主人のKさんの告別式はをどのように行ったのだろうかと思い、その時の式次第や式辞の原稿をもう一度、読み返していました。

 その時、Sさんが愛してやまなかったご主人の告別式と同じ式次第にしたらSさんは喜ぶんじゃないかなとそう思ったのです。もちろん、全く同じというわけにはいきません。聖歌の曲目も当然違いますし。構成も若干違っている。でも、聖書の言葉は同じものにしたのです。

 その聖書の言葉の新約聖書ヨハネの黙示録79節から17節の最後は、「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」であります。

 神を信じて生きた者たちであっても、「この世」では涙することも少なくない。「この世には悩みが多い」(ヨハネによる福音書1633節)からです。だから、涙することも少なからずある。そして、そのような人生を私たちは生きる。

 しかし、私たちが死という死という深い眠りを経て、目覚めたときに、主イエス・キリスト様は、その涙する人生を生きた人々の目の涙を拭き、ぬぐいとってくださるというのです。

 涙が拭き去られる。みなさん、今、この目の前にある薄いピンク色の花束を薄いピンク色にしている涙の部分をすべて拭き去る時、現れ出るのは喜びの真紅の花束です。Sさんが、今の、この深い眠りから目覚め、よみがえったその時には、主イエス・キリスト様がその目の涙をぬぐい取ってくださり、喜びの真紅の花束に包まれるのです。

 死は深い眠りです。しかし、眠ったものは目覚めます。目を閉じ一度眠りに落ちたものが目坐寝る時、眠ったときから目覚める時まで、たとえその間に何時間たっていようと、目覚めたときにはその間の時間はすべて失われ一瞬のように思われます。そして、その失われたかのように思われる時間が、私たちを癒し、回復させ、再び立ち上がらせ、起き上がらせるのです。

 そのように、今、深い死の眠りにつかれたSさんが目覚め起き上がる時、それはSさんにとっては一瞬の出来事です。一瞬にして喜びの真紅のバラに包まれるのです。この式辞に後に賛美する新聖歌330番は、アイルランドの民謡のメロディに歌詞をつけたものです。

 日本語の題は「幸い薄く見ゆるとき」ですが、英語で歌われる際のタイトルは「You raisee up(あなたが私を立ち上がらせてくださる)」です。神が、Sさんをこの深い死の眠りからやがて再び主が来たり給う日に立ち上がらせくださる。そのことを覚え、後ほど賛美したいと思います。お祈りしましょう。

礼拝説教「義の冠が待っている」

 

主日礼拝(S姉告別)説教「義の冠が待っている」

 義の冠が待っている

旧約書:ヨブ記4211節‐17

福音書:ルカによる福音書617節‐26

使徒書:テモテへの第二の手紙4468

 

 今日の礼拝は、I修養生に奨励をしていただく予定でしたが、先日お祈りいただいていたS姉が、主の御許に召されたこともあり、急遽、予定を変更し、私が礼拝説教を担当させていただくことにいたしました。

 そして、今日の礼拝はそのS姉の棺を囲んで行われています。ですので、今日の礼拝は、S姉の告別礼拝という意味も含めた礼拝であることを、ご承知いただければと思います。その礼拝において私は、旧約書ヨブ記4211節から17節を、福音書はルカによる福音書617節から26節、使徒書としてテモテへの第二の手紙46節から8節から、聖書の言葉をお取次ぎしたいと思っています。

 

 そこで旧約書ヨブ記4211節から17節ですが、この個所は、ヨブ記全体の結末を告げる箇所です。そしてその内容は、神がヨブの人生の後半を神が祝福してくださったということを告げるものとなっています。

 このヨブ記に記されたヨブという人物の人生は、波乱万丈の人生です。ヨブの人生の人生の前半は、神の祝福を得て、経済的のも恵まれ、また多くの子供たちにも恵まれたものでした。ところが突然、その人生が全く逆転してしまいます。

 ある日ヨブは、外国から来た略奪者やあるいは自然災害によって、ヨブの持っていた財産、その当時は牛や羊と言った家畜や、使用人たちですが、そのすべてを失い、また子供たちもみんな失ってしまったと聞かされるのです。

 しかしそれでもなお、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言って、苦しみと悲しみの出来事に出会っても、その出来事に向き合い、前向きに生きて行こうとするのです。

 ところが今度は、そのヨブ自身が病に侵されるのです。そして、その病の中で苦しみぬくのです。そして「どうしてこのようなことが自分の身に起こるのか」を問う。その葛藤の中で、時に友人たちが、ヨブがこのような災難に会うのは、きっとヨブが何か罪を犯したために、その報いを受けているのだと責め立てます。

 またある時は、別の友人は、この試練は、神がヨブを訓練しているのだというようなことも言われる。もちろん、これらの友人の言葉は、悪意があってのことではありません。またそうではないと信じたい。しかし、その言葉がより一層ヨブを苦しめるのです。

 実は、このヨブが経験した苦難の背後には、思いもよらない理由がありました。それは、神とサタン、日本語では悪魔と訳される存在ですが、そのサタンと神とがヨブを巡って議論をしたという出来事です。悪魔は神に向かい言います。

「神様、あなたはヨブが立派な人間だ、見上げた信仰だと言われる。いや何ね。私は何もヨブが立派な人間でないとかいいかげんな信仰だなんていいませんよ。確かにヨブは立派な人間だ。見上げた信仰だ。

でもね、そりゃ神様、ヨブはあなたから祝福を受け、多くの財産が与えられ、守られているからでさあ。ヨブだって、財産のすべて、神様あなたが祝福してくださったと思えること全部を奪ってごらんなさい。たとえヨブと言えど、手のひらを返したように、あなたを呪いはじめるにちがいありませんぜ」

 「おやおや、サタンよ。言いたい放題言ってくれるね、だが断じてそのようなことはない。なんならヨブを試してみたらいい」。

 そんなわけで、ヨブの苦難が始まった。つまりこのヨブの物語は、ヨブの信仰の物語ではない。むしろ、神のヨブへの信頼の物語なのです。

 もちろん、当のヨブには、そんな話は知りえないことで、知ったところでそんなことは知ったところでなんにもならない。ただ「なぜなんだ。神を信じ、神と人も前に後ろ指を指されるようなことは一つもない私が、なんでこんな苦しみに会わなけりゃならないんだ。神様、いったいなぜなんだ」と問うしかないのです。その問いは、ヨブの魂の叫びであり、真実なそして神への叫び声なのです。

 私は、このヨブの物語を読むとき、S姉の人生の物語が重なり合ってくる。S姉は、高校生時代に神をラジオ番組「世の光」を通してキリスト教を知り、教会を訪ね、主イエス・キリスト様信じクリスチャンになられました。その後、教会を離れた時期もありましたが、心の中に信仰はしっかりと刻み込まれていたようです。

 そして、何十年かぶりに、彼女が洗礼を受けたこの教会の前身の一つである三鷹教会に戻ってこられた。私はその日の事、しっかりと覚えている。それこそ、今日の礼拝にS姉のお嬢さんが出席してくださっていますが、その時も、S姉と一緒に三鷹教会の礼拝に出席してくださっていました。私は、その時、お二人がどの席に座っていたか、またその時お嬢さんがはいていおられた長いブーツまで覚えています。

 しかし、それからのS姉の歩みは、本当に大きな試練の連続だった。それこそ大きな痛みと試練をいくつも経験したのです。けれども、その痛みや試練の中にあっても、神を信じ、前向きに歩んでこられたのです。

 そして、二人のお嬢さんが嫁がれ、お孫さんも与えられ、「さあ、これから」というときに、大きな不治の難病を患うことになった。また、大きな試練と苦しみに向き合わなければならなくなったのです。

 私は、正直に「神様なぜですか」と問わざるを得なかった。なぜ、この人がこんなに苦しまなければならないのか。「なぜ!、なぜ!!、なぜ!!!」。

 

みなさん、私は先ほど、このヨブ記の物語が、S姉の人生の物語に重なり合って見えると申し上げました。しかし、この点だけは違うと言えるものがある。それは、ヨブは試練の中で、神につかみかからん迄に問いかけ、「神様、私はあなたと議論がしたい。なぜ、私がこんな目に合わなければならないのですか」とそういった。

 

 ヨブは神を呪うことはしませんでしたが、神様に激しく問うたのです。「神様、あなたは間違っている。何か間違っているのではないですか」と問い詰める。。

 

 しかしS姉は、ご自分が経験した様々な試練や苦しみの中でも、神に対してつぶやくことなく、前向きに生きようとしておられたし、前向きに生きてきた。いやひょっとしたら、私の知らないところで、ちょっとぐらいはつぶやいたのかもしれませんが、でも、本当に前向きに生きておられたのです。頑張りぬいたのです。この点はヨブとは違う。

 

 ヨブは神に「神様、私はあなたと議論がしたい。なぜ、私がこんな目に合わなければならないか」と問い詰める、そのヨブに対して神は「ヨブよ、お前は知っているか?」と語り掛けるのです。

 

「ヨブよ、おまえは知っているか? お前はこの世界が、宇宙がどのように始まり、造られたのか。おまえは海の底を見たことがあるか。世界の果てまでいったことがあるか。知らないことだらけだろう。不思議なことだらけだろう。

でも、おまえが知らなくても、この宇宙・世界を私は造り、その宇宙や世界は今も存在している。私は、そのおまえが知らない天地創造の時からこのかた、その宇宙・世界と共にあり、私が作ったこの世界を守り宇宙を守ってきた。だとすれば、おまえが苦しんだその苦しみの理由をおまえが知る必要はない。お前が知らなくても、私はちゃんと知っている。そして私はおまえ守り、おまえと共にいる。」

 その時ヨブは、本当に心の底から神を信頼したのです。そして、ヨブを信頼してくださっている神に、ヨブもまた信頼をもって答えようと思った。そのことを聖書は次のようなヨブの言葉で表しています。ヨブ記4256節です。そこにはこう記されている。

 

5:わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。6:それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。

 こうして、ヨブは、先ほどお読みしました4211節から15節あるように、試練や苦しみに会う以前に増して、多くの神の祝福を得たというのがヨブの物語なのです。

 しかし、みなさん。みなさんもご存じのように、S姉は、ヨブが生涯の残りの半生に受けたような祝福をまだ得てはいません。それはつまり、S姉には、神からいただく大きな祝福を受ける残りの半生が残っているということ意味しています。これから受けるのです

 みなさん、ルカによる福音書の著者であるルカは、イエス・キリスト様の言葉を次のように伝えています。

20:あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである21:あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。22:人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

この言葉は、マタイによる福音書53節以降にある山上の垂訓の中の八福の教えと同じものです。しかし、マタイのよる福音書は、心の貧しい人たちは、さいわいである。神の国は彼らのものである」と記しています。つまり、マタイは、イエス・キリスト様の言葉を精神的な問題としてとらえた。心のありようとして受け止めたのです。

 ところがルカは、「貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」と言う。「あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである」と言う。ルカにとって、問題は今生きる私たちの現実なのです。その現実の世界は、苦難や苦しみに満ちている。その現実の苦難や苦しみの中に生きる人々に、イエス・キリスト様は、神がもたらされる神の恵みを語った。

 そして返す言葉で、「24:あなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。25:あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである」というのです。

 それは、まさに現実の世界の中で悩み苦しむ者と共に神はおられるからです。そして、そのこの世での苦しみは、私たちの人生の前半の半分で、その前半が終わった後、やがて訪れる神の王国の完成の時に与えられる残りの半生に得ることのできる神の祝福なのです。

 だからこそ、今、「この世」で祝福を得ていると思っている富んでいる人、満腹している人、笑っている人を「災いだ」というのです。それは、富や満足のゆえに、神を求める気持ちを忘れてしまっているからです。

 昨夜、妻がテレビを見ていて、小説家の遠藤周作が「神も仏もない」というようなところに立って、初めて私たちは本当の宗教をもとめるようになると言っていたと教えてくれました。「神も仏もない」というような苦しみの中で、私たちは初めて、本当に神を求め、神に出会い、神を信じ、神に寄り縋って生きる。遠藤周作は、そう言っているのです。

 そして、S姉の人生も、試練や苦しみの中から、神を求め、神を信じ、神に寄り縋った人生でした。その人生には、パウロが言う神が与えたもう「義の冠が待っている」。それは、やがてこの死という深い眠りから目覚めたときに与えられる残りの半生に、満ち溢れれている祝福なのです。

 みなさん、この「義の冠」は、私たち人ひとりにも備えられているものであり、私たちにも与えられるものです。そのことを覚えつつ、いましばらく沈黙の時を持ち、神の恵みを思いましょう。静まりの時を持ちます。目を閉じ、静かに今日、神があなたの心に語り掛けてくださったことに思いを馳せましょう。

2021年6月10日木曜日

ソクラテスはキリスト教徒だった。

            ソクラテスはキリスト教徒だった。

 先日来、2世紀の古代教父と呼ばれる人たちの文書を読んでいます。その中にユスティノスという人が書いた「第一弁明」「第二弁明」と言ったものがあります。これらの書物は、キリスト教への迫害が広がって行くなかで、自分たちの信仰は決して怪しいものではないということを、それこそ弁明するために書かれたものです。驚くべきことですが、ユスティノスはこの「第一弁明」でソクラテスはキリスト教徒であったと言い、「第二弁明」では、ソクラテスは部分的ではあるがキリストを知っていたと言うのです。言うまでもありませんがソクラテスは紀元前5世紀の人ですから、イエス・キリスト様より500年近く前に生きた人です。ですから、ソクラテスがいわゆるキリスト教徒であったわけはありませんし、当然イエス・キリスト様に出会ったこともありません。もちろん、ユスティノスはそんなことは十分にわかっていて、その上でなおソクラテスはキリスト教徒であったと言い、部分的にキリストをしっていると言っているのです。

 それは、ソクラテスの生き方がキリスト教徒と言えるような生き方だったからです。ソクラテスは正義と言うことを重んじました。ですから、正しいことを求め、正しい生き方をしました。つまり、義を求め義に生きたのです。それゆえにユスティノスは、ソクラテスをキリスト教徒だと言った。しかし、それでも、ソクラテスはキリストを部分的にしか知らずキリストのすべてを知っていなかったと言います。

思うに、ユスティノスがソクラテスは部分的にしかキリストを知らなかったというのは、ソクラテスは愛がかけているからではないでしょか。確かに彼は正しいこと、正義を求め、そして自ら正義のために命を投げ出しました。しかし、彼の生き方は法を守り、法に準じて命を投げ出しました。しかし、彼の教えには、隣人を愛する隣人愛が欠けている。ユスティノスはそう思ったのではないでしょうか。そして、この隣人愛と言うことを求め、隣人愛に生きると言うことがなければ、キリスト教徒と呼ばれることはあっても、イエス・キリスト様を完全に知っているとは言えない。ユスティノスはそう言っているのではないかと思うのです。

このソクラテスをキリスト教徒と呼び、それでもなおソクラテスは部分的にしかキリストを知らなかったと言うユスティノスの言葉は、本当に考えさせられる問いかけです。確かに私たちはクリスチャン、すなわちキリスト教徒です。確かに私たちはキリスト教徒と呼ばれる存在ですが、しかし、その私たちもまた、部分的にしかイエス・キリスト様を知っていないのではないか。そうユスティノスは「今、ここで」キリスト教徒として生きる私たちに問いかけてくるのです。

しかし同時に、このユスティノスの言葉は逆説的にとらえるならば、そのように「隣人愛に欠けている」ソクラテスであり部分的にしかキリストを知っていると言えないような不完全な者であっても、神はそのソクラテスをキリスト教徒として受け入れてくださっていると言うことです。それほど大きな愛で私たちを包んでいて下さる。感謝なことではないですか。そしてそのような大きな愛で包まれているからこそ、私たちは不完全なものであるつつも完全な者を目指して生きていきたいと思うのです。

2021年4月29日木曜日

キリスト教や仏教を超えたところにある神の啓示

          キリスト教や仏教を超えたところにある神の啓示

 聖書に「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙516)という言葉があります。有名な言葉ですので皆さんもご存じだと思いますが、まさに、この新型コロナの感染拡大という災禍の中に、私たちの心に刻まなければならない言葉です。

 この「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい」という言葉を紹介している臨済宗のお寺のホームページがあります。円覚寺というお寺の2020年の55日の今日の言葉という記事です。そのなかで、この聖書の言葉が紹介されているのです。それは聖心会のシスターの鈴木秀子さんの言葉を引用しつつ書かれた次のような言葉です。

 

 「『新約聖書』の「テサロニケ人への第一の手紙」に次の言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」喜びというと、何か特別の出来事のように思ってしまいますが、そうではありません。おいしく食事ができることや健康に活動できること、家族がいてくれること、さらに言えば命が与えられていること、そのこと自体が喜びなのです。日々の小さな出来事にも喜びを発見し、またそのことに感謝して生きる。喜びや祈り、感謝を習慣化していくと、心が静まり、突然の事態にも動じなくなっていきます。いつか、この危機が過ぎ去った時に、自分が深められ成長できていることに気づくでしょう」。

 こういうあたたかく、親切なお言葉というのは、我々禅僧にはとてもまねができません。本当に心に染み入る言葉です。大きな力をいただくことができます。鈴木先生とは懇意にさせていただいていますが、思えばいつお目にかかっても、笑顔で喜びをたたえていらっしゃいます。そして祈りの人という雰囲気を常にお持ちであります。更に絶えず感謝の言葉を口になされています。鈴木先生にはすっかり習慣化され身についていらっしゃるのでした。いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、私もこれを習慣にするよう努力しようと思います。

 

 この引用された鈴木秀子さんの文章も優れた文章であり聖書理解ですが、そのような文章に触れて、「これはキリスト教の言葉だから」などと言われることなく「素直にそれを評価し、自分もいつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、私もこれを習慣にするよう努力しようと思います」とお寺のホームページに書き込まれた僧侶の方にも心を打たれ、素直に尊敬の念を覚えました。そこには、この僧侶の方の中に、イエス・キリスト様の内にある謙遜や寛容という物に通じる精神が見られます。

 かつてのキリスト教は、自分たちだけ真理を持っている最高の宗教だと言って、イスラム文化圏やアジア文化圏を見下ろすような視線が合ったことを、私は歴史を学ぶ一人の牧師として認めざるを得ません。そしてそのことが、サミュエル・ハンチントンが言う文明の衝突を生み出し、植民地支配をとどめることができず、また戦争の悲劇に結びついて行ったことを否定できないのです。

 しかし、創世記には神様は人間をお造りになったとあります。そしてその時に、人間を神の像(かたち)にお造りになったと言われるのです。そしてその神の像は、宗教を超え、民族を超えすべての人に与えられている。ですから、牧師であろうと僧侶の方であろうと、この神の像から湧き上がる思いに素直になるとき、謙遜さや寛容さといったイエス・キリスト様の内にある御性質に通じるものを持ち、御霊の実である愛、喜び、柔和、寛容、親切、誠実、善意、平安、自制を身に着けていくことができるのだろうと思います。

 神学の中の啓示論と言われる分野においては、自然神学という考え方があります。それは、神様が神の造られたすべてのものを通して、神様というお方を私たちは知ることができるという考え方です。それは聖書が語るところであり、人間の生き方や心ありようを通しても神様は私たちに神というお方を示しておられるのです。実際、今回のこの僧侶の方の言葉を通して、私は大切なことを教えられたように思います。

 考えてみますと日本人の霊性について深く考えた仏教学者の鈴木大拙は仏教学者というだけでなく中世のキリスト教の霊性の巨人といわれるエックハルトの研究をしながら日本人の霊性についての考察をまとめ、その鈴木大拙の影響を受けた世界的な哲学者西田幾多郎は、鈴木大拙からの影響にさらにそこにキリスト教のエッセンスを加えながら「西田哲学」を構築し、その「西田哲学」の影響化で、八木誠一や小田垣雅也、小野寺功といった「無」の神学者といわれる神学の営みがなされてきました。

 私も、学びの中で、少しだけですがこの「無」の神学について学ばさせていただきました。そうすると、この無の神学の中に、私たちの教団の聖化といった神学思想に通じるものがあると思わされるのです。そう言った意味では、私たちは仏教の言葉からも学ぶことは多いのです。そこには、仏教とかキリスト教と言った垣根を超えて、神様は私たちにご自分を示し、神に喜ばれる人間の在り方を示しておられる神様のお姿がある。そのことを心に覚え、刻んでおきたいたいと思います。

2021年4月3日土曜日

‘21年4月第一主日復活祭礼拝礼拝説教「希望の物語」

 

214月第一主日復活祭礼拝礼拝説教「希望の物語」           2021.4.4

旧約書:ホセア書1314(p.1258)

福音書:マタイによる福音書2745節から56節(pp.48-49

使徒書:コリント人への第一手紙1550節から54節(p.276)

 今日は、私たちの主イエス・キリスト様が死から蘇られたことを記念する復活祭です。私たちは、先週の棕櫚の主日の礼拝で、マタイによる福音書2745節から50節を通して、イエス・キリスト様が十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望的な思いの中で死なれたのは、私たちが絶望的な思いに陥ってしまった時に、同じように十字架の死という絶望的な思いを経験したイエス・キリスト様によって癒され・慰められるためであったと言うことを学びました。

 そして今日の復活祭の礼拝は、そのマタイによる福音書2745節から50節に続く51節から56節、特に51節から53節を中心に、聖書の言葉に向き合いたいと思います。

 このマタイによる福音書2751節から56節の記述は、意外に取り扱いが難しい箇所です。というのも、このマタイによる福音書の2745節から51節は、同じ内容を取り上げているマルコによる福音書33節から41節とほとんど同じ記述になっています。

 また、ルカによる福音書2344節から49節にも、十字架の上でイエス・キリスト様が叫ばれた言葉は違っていますが、そのほかの内容はほとんど同じ記述が出ています。 

ところが、マタイによる福音書は、その受難の物語の中の51節から53節に、イエス・キリスト様の受難の際に、墓に葬られていた多くの聖徒たちの死体が生き返り、イエス・キリスト様の復活のあとにエルサレムに入り、多くの人に現れたという、実にセンセーショナルな出来事を挿入するのです。

 もちろん、このセンセーショナルな出来事は、マタイによる福音書だけに記されている出来事であり、他の三つの福音書には、この物語が記されていません。

 それに対して、たとえばマタイによる福音書の918節から26節にある会堂司ヤイロの娘が生き返った物語は、マルコによる福音書にもルカによる福音書にも記されています。このヤイロの娘が生き返ったという出来事は、「その噂がその地方全体に広まった」といずれの福音書も伝えています。それほど死んだ人間が生き返るという事件は、人々の心に刻まれる非常に大きな出来事なのです。

 だとすれば、この多くの死んだ聖徒たちが生き返り、墓を出てエルサレムにやってきて、多くの人に現れたという出来事は、ヤイロの娘が生き返った出来事よりも、もっと衝撃的な事件として、当然、人々に語り伝えられていたでしょう。なのに、マタイ以外のどの福音書も、この事件を取り上げていないのです。これは、実に不思議なことです。

また、マタイによる福音書は、イエス様が十字架で死なれたときに多くの聖徒の死体が生き返り、イエス様の復活の後に、墓から出てエルサレムに入ったと伝えています。

みなさん、イエス・キリスト様の十字架の死は、金曜日の午後に起こった出来事です。そして、復活なさったのは日曜日の朝。だとすれば、この生き返った多くの聖徒は、金曜日の午後に生き返り、日曜日の朝まで墓に留まり、それから墓から出てきたと言うことになります。これも極めて不自然です。

だとすると、このマタイによる福音書2752節、53節の出来事は、歴史的事実というよりも、むしろマタイによる福音書の著者が何かを伝えるために、意図的に、象徴的あるいは比喩的な表現で、この52節、53節の物語を書いたのではないかと考えられます。

 みなさん、聖書は誤りのない神の言葉です。これは、私たち福音派の立場であり信仰です。私もそのことを微塵も疑ってはいません。しかし、同時に聖書は、聖書記者という人間を介し、手紙や詩や歴史物語といった様々な文学的手法を用いて書かれています。

 ですから、ある事柄が象徴的に描かれたり、比喩的に描かれたりするということは、少なからずあるのです。そしてその意味では、このマタイによる福音書の2752節、53節の出来事も、ある事柄の象徴的、比喩的表現であると考えられます。

 だとすれば、マタイによる福音書の著者は、いや、聖書そのものが、この出来事を通して、何をその読者に伝え、なにを物語りたかったのか。

 みなさん、それは希望の物語です。私たちを、罪と死によって縛り付けているこの世から解放し、神の恵みの支配のもとで生きる者として下さったという救いを語り、希望を伝える物語なのです。その物語は「また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」という非常に短い小さな物語なのです。

 しかし、その短い小さな物語は、キリスト教2千年の歴史をつらぬく長い救いの物語であり、多くの人に希望を与える大きな物語でもある。そしてその長く大きな希望の物語の中には、神を信じる私たち一人一人の様々な物語がある。

そこには自分の中にある苦々しい思いや自らが犯した罪のゆえに、良心の呵責に押しつぶされそうになった人が、神の赦しの言葉を得て、その良心の呵責から救われるという物語もあるでしょう。また、人間関係のもつれや、ゆえなく人から心を傷つけられるという深い痛みに苦しむ人が、神の言葉や教会によって癒されると言った物語、あるいは人間の死や病の現実の前で悲しむ人が慰めを受けるといった様々な救いの物語があるのです。

 そして、今日、この会堂に集っているみなさん、ネットでこの礼拝に参加しておられるみなさん、送られてきた説教原稿で家庭礼拝を守っておられるみなさんのお一人お一人にも、良心の呵責に押しつぶされそうになったり、心が傷つけられた痛みを経験したり、あるいは病や死という現実の中で悲嘆なさった経験があるのではないかと思うのです。

 それは、ある意味、先週お話ししたように、イエス・キリスト様が、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれ死んで行かれたような、深い絶望に陥った経験なのかもしれません。

 しかし、そのような絶望の中にあったとしても、私たちは必ず立ちあがれる。再び希望を持って生きることができるのです。なぜならば、イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちを縛り付け、私たちを苦しめる死と罪の法則から私たちを解放するからです。

 私は牧師という職にありますので、お恥ずかしい程度のものではありますが、神学の学びをしてきました。また、教会の皆さんのご理解もあって、継続的に神学の学びを続けさせてもいただいています。その学びを通して、このイエス・キリスト様の生きておられた時代のユダヤ人たちがもっていた終末思想というものに触れる機会がありました。

 その一つが、この当時のユダヤの終末思想においては、罪というものが、私たちの内にあるものとしてではなく、いやもちろんそれもあるのでしょうが、それ以上に私たちの外側にある宇宙的な力として私たちを支配していると考えられていたと言うことです。

 そのような考え方は、イエス・キリスト様や12使徒たちに、またパウロの内にもあったと言えるでしょう。むしろ、そのような考え方で「世の終わり」、終末というものを捉えていたと考えるのが妥当でしょう。

 その宇宙的な力である罪が、私たちを神から引き離し、私たちを罪の支配のもとに置くのです。そしてその罪の支配のもとで私たちは苦しみ、人を傷つけたり、傷つけられたり、様々な悪を犯してしまう。また、その私たちの外側にある宇宙的な罪が、人間世界の様々な痛みや苦悩を生み出し、最終的には私たちに死をもたらすのです。

 イエス・キリスト様がもたらす救いは、その罪と死の支配から私たちを解放し、神の恵みが支配する神の王国へ、私たちを招き入れてくださいます。そこは、赦しと、慰めと癒し、そして励ましに満ちている世界です。そして、私たちを命へと導く。

この神の王国が私たちを導く命を、ヨハネによる福音書は「永遠の命」と呼びます。それは、あのヤイロの娘が生き返ったという意味での命ではありません。ヤイロの娘は、確かにイエス・キリスト様によって一度は蘇りましたが、永遠に生きているというわけではない。彼女は歴史の中のどこかで、もう一度死を経験している。

 しかし、神の国がもたらす「永遠の命」は、永遠なる神の命です。みなさん、私たちの肉体は、必ず死を経験します。先ほどお読みしました新約聖書コリント人への第一手紙の1550節から57節には、「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」とあります。

 このコリント人への第一の手紙1550節から57節には、死は眠りに譬えられています。そして、神を信じ、イエス・キリスト様を信じたものは、その死の眠りから、朽ちる肉体ではない朽ちない体となって甦ると語られています。

 ここには、死に勝利する希望が語られ、「永遠の命」への希望が語られている。だからこそ、コリント人への第一の手紙1555節は、「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と、罪と死に勝利されたイエス・キリスト様を高らかに誉め讃えるのです。

 みなさん、このコリント人への第一の手紙1555節のイエス・キリスト様の死に対する勝利を讃える言葉は、先ほどお読みした旧約聖書ホセア書1314節の「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」の引用だと言われます。

 ところが、このホセア書1314節は、9節にある「イスラエルよ、わたしはあなたを滅ぼす。だれがあなたを助けることができよう」という言葉から始まる、厳しい裁きの宣告の中に置かれている言葉なのです。

ですから1314節の前半の「わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか」という言葉は、「神はイスラエルの民を贖い、お救いになられるだろうか、いやお救いにならない」という意味であり、それゆえに、あの「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」という言葉もまた、救いの言葉ではなく、イスラエルの民を裁く神の裁きの言葉なのです。

しかし、この厳しい裁きの言葉も、神の憐れみが隠されているからです。この憐れみを隠していた覆いが取除かれ、神の憐れみが現れ出るとき、「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」という言葉は、裁きの言葉から恵みの言葉へと変えられる。それが、コリント人への第一の手紙の1555節で起こっている 

 みなさん、今日の説教の中心であるマタイによる福音書2752節、53節の出来事は、私たちがこの世の生を生きる中で、私たちを支配する罪の力がもたらす苦しみや、悲しみや、痛み、苦悩に対して、神が私たちを支え、慰め、癒しを与えてくださる救いの物語であり、また、死や病という現実に向き合う者にとっては、復活と永遠の命という希望を語る希望の物語です。それは、まさに私たちに対して神が語りかける神の救いの物語であり、この救いの物語こそが神を信じ生きる私たちクリスチャンの希望の物語となるのです。

 今しばらく、心を静め、沈黙の内に、この神の希望の物語、救いの物語に思いを馳せたいと思います。静まりの時を持ちます。

21年3月第4週受難節第6週(受難週)礼拝説教「キリストの叫び」

 

213月第4週受難節第6週(受難週)礼拝説教「キリストの叫び」    2021.3.28

旧約書:詩篇第221節から18

福音書:マタイによる福音書2745節から50

使徒書:へブル人への手紙414節から16

 

 今日は、棕櫚の主日と呼ばれるイエス・キリスト様が子ロバに乗ってエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そして、この日から受難週に入り、26日の金曜日のイエス・キリスト様の十字架の死を覚える受苦日を迎えます。

 その受苦日に向かう週の最初の日に、私たちは、このマタイによる福音書2745節から50節の御言葉を中心にして、神の言葉である聖書の言葉にあるイエス・キリスト様の、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に向き合い、イエス・キリスト様の十字架の死の意味について考えたいと思います。

 この箇所において、マタイによる福音書の著者は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエス・キリスト様の言葉を、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というヘブル語で記しています。 

ギリシャ語で書かれたマタイによる福音書において、この箇所では、あえてヘブル語に置き換えて、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と書き記したのは、マタイによる福音書は、ユダヤ人たちを読者として想定して書かれていると考えられるからです。

それはおそらく、イエス・キリスト様が十字架にかけられた際に、その十字架のそばにいた人々が、イエス・キリスト様の言葉を聞いて「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と言った理由を明らかにするためであったと思われます。つまり、「エリ、エリ(אֵ לִ י אֵ לִ י)」という言葉を、エリヤ(אֵ לִ יָּהוというふうに聞き違えたというわけです。

 これは、ギリシャ語の「セー モウ、セー モウ(Θεέ μου  θεέ μου,としたのでは、なぜ人々がイエス・キリスト様の言葉を聞いて「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と思った理由がわからない。しかし、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉ならば、「エリ、エリ」という言葉を、エリヤというふうに聞き違えたと説明がつくのです。

みなさん、エリヤというのは旧約聖書に出てくる預言者で、紀元前9世紀前半に活躍した人物です。そのエリヤについて、私たちが手にしている旧約聖書の最後の書であるマラキ書45節には、「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」。という記述があります 

そして、イエス・キリスト様の時代のイスラエルの人々は、この主の大いなる恐るべき日である終わりの時代には、預言者エリヤが再び現れ、イスラエルの民を救うメシヤ、すなわち油注がれた王の到来のための備えをすると考え、エリヤとメシヤの到来を待っていました。そこにはイスラエルという神の王国の再建への期待があります。

 そして人々の間には、ナザレから出て来たイエスという人物こそが、そのメシヤであるという期待がありました。イエス・キリスト様が子ロバに乗ってエルサレムに入城なされる際に、人々が「ダビデの子にホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ、いと高きところに、ホサナ」と叫び、歓喜の声を持って迎え入れた様子(マタイ218)には、このナザレのイエスこそが、メシヤであるという期待が感じ取られます。

 だからこそ、イエス・キリスト様の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉を聞き違えた人々の中に「待て、エリヤが彼を助け来るかどうかを見ていよう」などという声が聞こえてくるのです。

 しかし、マタイによる福音書の著者が、イエス・キリスト様の語られた言葉を、わざわざヘブル語で書き記した理由は、それだけではないと思われます。

みなさん、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉の意味は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、その言葉は、詩篇2211節の言葉に重なり合います。

 そしてこのマタイによる福音書を書き記した著者は、イエス・キリスト様の叫ぶ言葉を通して、読者であるユダヤ人が、詩篇221節の言葉を思い起こすことを期待している。

 その詩篇22篇は、深い絶望の中から語られる詩篇です。まさに祈ってもその祈りが神に聞かれない、嘆きの声を上げても神がその嘆きの声を聞いて下さらない。そのような絶望的な思いの中から語られる詩篇です。

 つまり、この「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉で始まる詩篇22篇は、祈りが答えられない、神が苦しむ私の声を聞いてくれないという絶望の淵にある人の嘆きの言葉なのです。その嘆きを、イエス・キリスト様もまた共に経験しているのです。

 みなさん、実は、この詩篇22篇はイエス・キリスト様の受難の物語と重なり合う部分が多い詩篇です。たとえば78節の

すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り 動かして言う、「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。

 という言葉は、今日の説教の中心となっているマタイによる福音書2745節から50節までの直前の38節から45節で、十字架に磔られたイエス・キリスト様に対して、人々が頭を振りながらののしって言った言葉と行動とに重なり合います。

また同じく詩篇22篇の18節にある「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」という言葉は、マタイによる福音書2735節で、「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け」たという出来事と重なり合います。

 このように、イエス・キリスト様の受難の出来事は、詩篇22篇の詩人の苦しみと重なり合わされ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という神に見捨てられ見離された絶望の言葉となって、イエス・キリスト様の口から語られるのです。

 みなさん、この時、イエス・キリスト様は神の御子であるのにもかかわらず、「わが父、わが父」と呼びかけてはいません。神の御子であられるのにもかかわらず、「わが神、わが神」と言われるのです。 

 それは、神のひとり子であり、それゆえに神であり、苦しむ必要のないお方が、私たちと同じように苦しみを負い、痛みを感じ、嘆き、絶望を経験なさったと言うことにほかなりません。神であられるお方が、私たちと同じ苦しみや痛み、嘆きや絶望を負われた。

 みなさん、私たちの生きている「この世」という世界は、まるで神などいないと思われる神が隠されている世界です。そこには、苦しみや、痛みや、嘆きが渦巻いている。そのような世界の中で私たちは生きているのです。

 実際、私たちは、「神も仏もあるものか」と思えるような苦しみや痛み、嘆きを経験します。そのような絶望的な経験などないという人もいるだろうと思いますが、それはそれで幸せなことなのかもしれません。しかし、そう言った人は必ずしも多くはありません。

 病や、貧困や、欠乏、そして死といった出来事が失望を生み出し、私たちを嘆き悲しませます。そしてときには私たちを絶望の淵に突き落とすことがある。その苦しみや痛みや嘆きを、神の御子イエス・キリスト様も私たちと同じように負われたのです。

 そのことを新約聖書へブル人への手紙の著者は、へブル人への手紙41516節で、次のように語ります。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 

 この「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」という言葉は、新改訳聖書2017では、「私たちの弱さに同情できない方ではない」となっています。この同情、あるいは思いやるという言葉の元々のギリシャ語が持つニュアンスは、他者の感じたものと同じような感覚を持って、その他者からの影響を受けるという感じのニュアンスを持っています。

ですから、大祭司であるイエス・キリスト様は、私たちの痛みや苦しみ、あるいは悲しみ、逆に喜びといったものに共感し、そして影響を受け、深く心が動かされ、それ故に、痛みや苦しみ、悲しみの中にある私たちに関わらずにはいられないお方だというのです。

 みなさん、相手の心に共感するためには、自分の中に同じような心がなければなりません。私たちが「この世」という神がいないかのような世界の中で経験する、苦しみや悲しみ、痛みや嘆きといった絶望的な思いに共感するためには、同じように、「この世」という神がいないような世界で、同じように絶望的な思いを経験し、その苦しみ、悲しみ、痛みや嘆きを知らなければならない。

 詩編22篇の言葉に重ね合わされた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか)というイエス・キリスト様の叫びは、まさにあの詩篇22篇の詩人と同じように、「この世」にあって苦しむ私たちと同じ絶望的な思いを経験してくださったことの証に他なりません。

 そして、そのような絶望的な思いをイエス・キリスト様が経験なされたのは、私たちが絶望の淵に陥ってしまった時に、そのイエス・キリスト様によって癒され・慰められるためです。マタイによる福音書の記者は、あえてイエス・キリスト様の言葉をヘブル語で書き記すことで、そのことを、読者に、そして私たちに伝えたかった。

 みなさん、神の御子であり、神の言葉であるイエス・キリスト様は、聖書の言葉を通して、またイエス・キリスト様の体なる教会を通して、私たちに慰めを与え、支えを与え、励ましを与えてくださいます。

 だからこそ、教会では毎週の礼拝で聖書の言葉が読まれ、聖餐を通して交わりが持たれるのです。それは、神の言葉である聖書と教会を築き上げている私たちの交わりを通して、主イエス・キリスト様のもたらす慰めや支えや励ましを得るためなのです。

 同時にそれは、私たちがキリストの体なる教会に呼び集められ、私たちを通して、多くの人が慰められ、支えられ、励まされ、その心が癒されるためなのです。そのために、私たちはこの「キリストの体なる教会」に呼び集められている。

 今日の礼拝は、そのイエス・キリスト様の十字架の苦難を思い、心に刻んでいく受難週を迎える主日の礼拝です。だからこそ、今、心を静め、主イエス・キリスト様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか)と叫ばれ、死んで行かれた出来事に思いを馳せたいと思います。静まりの時を持ちます。