2022年3月17日木曜日

聖書の言葉における言葉の限界性

           聖書の言葉における言葉の限界性

 聖書の言葉は、人間の言葉によって書かれたものである。これは歴史的事実である。同時に聖書は神の言葉である。これは信仰の事実である。これを聖書の人言性と神言性と呼ぶ。このように聖書は人言性と神言性と言う両性を持つ。このことは、聖書は人間に神に関する知識を完全な正しさを伝えるものではないことの明らかな証明となる。なぜならば、神は、神であって人間ではなく、我々人間を含んでこの世界を超越した存在だからである。

 それに対して、我々人間の語る言葉は、世界内を叙述する言葉であって、この世界内の存在と経験についての認識を語ることができるが、この世界を超越したものを語ることができない。この点において、我々はカントに同意することができる。つまり、いくら聖書を用いて、神についての命題化された知識を語ろうとも、その言葉は人間の言葉をもって語られている以上、それは神についての正しい知識を語っているということにならないのである。

 例えばこういうことである。我々が聖書をもとに「神は愛である」と語ったとしよう。そして、その根拠にヨハネの手紙一の五章を挙げたとして、その「愛」は、我々人間の認識内の愛であり、「神は愛である」というが伝えるものは、我々が認識するあ「愛」でしかない。その「愛」をもって、「神は愛である」ということが、神についての命題化された真理であるとするならば、神は我々人間の知性内の存在でしかなくなる。

命題化された真理と言うのは「Aは○○である」という主語と述部によって構成される短文で叙述されるものである。しかし、神は人間の知性を超えた超越的存在であって、本来「いる」という述部だけによって直感される存在である。だから、「神は愛である」と言う言葉も、超越者である神を完全に述べたものではない。つまりそれは、私たちの知性に置いて理解できる範囲内において「神は愛である」と語りうるものであり、そこで述べられている愛は、私たちの認識する愛とは質的に違っている。つまり、聖書が「神は愛である」という言葉で、神を命題的に定義するとするならば、それは決して神の実態を正しく伝えたことにはならない。むしろ、私たちの知性内において認識できる「愛」の概念によって神を歪曲化させることにさえなりかねない。それゆえに、神を命題的真理として語る言葉は、神に対する人間の解釈に過ぎないのである、

ここには、聖書の人言性が持つ言葉の限界性がある。そして著者が、東日本大震災の被災地において、そこにたたずむ被災者を前にして、「私たち人間は罪びとです。神は、その罪びとである私たちを罪とその罪の裁きである死から救うために十字架にかかって死んでくださったのです。それほどまでに神はあなたを愛しているのです」に空しさを感じたのは、この聖書の持つ言葉の人言性のゆえであり、この限界ある言葉をもって、「神は愛である」と命題して神を認識していたからに他ならないからである。された「神は愛である」という命題化された言葉の歪みのためである。それは、「愛」と言う言葉だけではない。直感した神の存在を人間の言葉で表現しようとするとき、いかなる言葉を用いても、神を矮小化し、歪曲化してしまっている。その意味で、人間の言葉は、神の前では限界性を持つ。

 しかし、それでもなお、聖書は「神は愛である」と命題的(あくまでも的である)に語る。実際ヨハネ手紙一の著者は、「神は愛である」と述べているのである。では、いったいなぜ、神はヨハネの手紙一の手紙の著者をして「神は愛である」と語らしめたのであろうか。それは、聖書が人間について語る者だからである。すなわち、神は、自らの行為をして愛というものを定義し、その定義に基づく愛によって、我々をたがいに愛し合う者とするために「神は愛である」と語るのである[i]。つまり、聖書は、我々人間の生き方について語るがゆえに、我々の知性内の言葉を持つ限界性内で、神の意思を語ることができるのである。このとき、神の前に限界性のある人間の言葉が、人間の言葉であると同時に、その人間としての言葉の限界性を超え、神の言葉としての神言性を持つのである。

このようにして、超越者たる神は、単に直感される存在としてだけでなく、言葉によってこの世界内に内在する。そして、神の言葉である聖書は、人間の言葉によって言い表す世界内の存在と経験を用いて、私たちを神の民として、神の前で生きるように導き、神の意思を伝えるのである。

 



[i] 「神は愛である」と述べるヨハネの手紙一の四章七節から二〇節は、七節の「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです」という、愛することへの勧めの言葉から始まる。そして、九節において「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです」と述べて「神は愛である」と提示する。そして、一〇節および一一節でその提示した「愛」の内容を「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」として表す。そして、再び一一節で「愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」と結び、再び愛し合うことへの勧めがなされている。このように、ヨハネ手紙一の著者が「神は愛である」と述べる意図は、徹底して私たちが「愛」と言う言葉で定義された生き方に私たちを導くためである。それは、たとえば創世記一七章一節において、神が「私は全能の神」であると言われる場合においても同じである。神は、人間の言葉が認識できる「全能」という言葉を通して、「私の前に歩み、全き者でありなさい」という神の前に生きる生き方を指し示している。このように、命題的に思われる言葉は、人間が理解し認識できる世界内の言葉として、世界内に生きる人間の生き方を提示するためのものである。

2022年2月15日火曜日

十戒 「父と母とを敬え」

             十戒 「父と母とを敬え」

現在、北京オリンピックが開かれており、多くのアスリートたちが自分たちの積み重ねてきた努力の成果を競い合っています。競技においては、勝者と敗者をあらわしていますが、勝者であろうと敗者であろうと、血のにじむような努力をしてきたからこそ、勝者に対しても敗者に対しても感動し、同じように拍手を送るのではないでしょうか。
 私が多くの事を学んできたエラスムスという人は、信仰における努力ということを大切にしています。それは自らの信仰の歩みを研鑽するという努力です。私たちプロテスタントの教会の多くは、「信仰義認」ということを強調するがゆえに「救いは行いではなく神を信じる信仰による」と言ってきました。そのため、信仰における努力ということが見落とされてきました。

「救いは行いではなく神を信じる信仰による」という言葉は、間違っていません。それは正しいことです。私たちは自分の行いの結果、その行いに対する報酬として救いに与るわけではないからです。しかし、だからといって、神を信じる信仰は行いと無関係ではありません。神を信じるということは、神を見上げて生きるということでもあるからです。つまり、信仰とは神を信じるという決断と、神を見上げて生きるということから成り立つのです。

エラスムスという人が、信仰における努力ということを大切にしたのは、このためです。そして、その精神は十戒の中にも反映されています。いえ、旧約聖書自体、その精神に貫かれて書かれています。

 

 以前にも申し上げましたが、十戒は前半部分が神と人との関係に関わる内容が関わっています。そこには、神を信じるということとはどういうことかということが書かれています。つまり、敬虔とは何かということ教えているのです。そして、後半の部分では、人と人との関係について書かれています。それは、神を信じる者の倫理・道徳に関わる者です。

 倫理というのは、人間の行動を律するものであり、人と人との間にあって神を信じる者はいかに生きて行けばよいのかということを教えるものです。その人と人との関係を語り始めるにあたって、神はまず、「あなたの父と母とを敬え」と言います。

 

 この言葉は、家庭という最も小さな共同体が意識されて語られた言葉に他なりません。同時に、その言葉は今から三千年以上前の、中近東のパレスチナ地方で語られたということを心にとどめておく必要があります。そのうえで、二つの点に目を向けたいということです。
 一つは、「父と母を敬え」と「母」を入れている視点です。というのも、この中近東の文化の中には男性社会が根強くあるからです。三千年以上前の中近東を舞台にした聖書の中で、父を敬えというのではなく、母を敬えと言っている点は、極めて重要に思われます。


 いうまでもありませんが、子供を愛するのは父親だけでなく、母親も子供を愛しています。聖書の中にも子供を思う母親の姿がいくつも描かれています。ですから、その家族関係の中で、「あなたの父と母とを敬え」というとき、それは、父と母を根拠は、父と母が子どもに注ぐ愛情がまずあり、その愛情に「父と母を敬う」という態度をもって答えるということなのです。逆に言うならば、父親と母親に対しては、まず子供の惜しみない愛情を注ぐことを聖書は求めているといってもいいでしょう。そのように、惜しみない愛が注がれ、それに敬いをもって応じる。それが親と子の関係なのだと聖書は教えているのです。

 

 十戒は、旧約聖書にしるされています。その旧約聖書はキリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教が聖なる書物として受け入れています。その中で、キリスト教に際立って見られる特徴は、神を父として受け止めている点です。私たちの教団の藤巻充先生は、宗教学的視点をもってキリスト教を見ることができた稀有な神学者であり、私たち福音派の中では、唯一の存在です。その藤巻先生は、キリスト教の宗教経験は、イエス・キリスト様が神を父として経験し、その神を父として経験した経験を伝えたところにあると言っていますが、とても鋭い指摘です。しかし、十戒は「父と母を敬いましょう」と言います。それは、神が父であり母である存在だからです。つまり、神の中には、私たちを守り、支え、そして教え導く父性と、限りない無限の愛を子に注ぐ母性があふれているのです。
 ですから、十戒において「父と母とを敬いましょう」と勧めるその背景には、私たちに父なる神であり、母なる神でもある神を愛しましょうという」メッセージが、その根底にあるのです。

2021年10月13日水曜日

薄いピンクの花束を真紅の花束へ

           薄いピンクの花束を真紅の花束へ

 昨日、今日の告別式に備えて、今ここにある生花が飾られました。それをみていると、色合いからでしょうか。私には何となく、Sさんのイメージにぴったりのお花が飾られたなと思いました。

 イメージというのは、漠然としたものです。しかし漠然としているからこそ、ずっと心の中に残っていきます。人間の記憶というものは、物事の詳細な部分まで正確に記憶し続けることはできません。最初は、いろいろなことが思い出されるでしょう。しかし、だんだんとそれらの記憶は薄れていき、最後はイメージだけが残っていく。

しかし、そのイメージは力強いものです。決して、私たちの心から消え去ることなく、いつまでも残っていく。きっと私は、このような薄いピンク色の花を見るたびに、Sさんのことを思い出すだろうなと思います。それほど、イメージというものは力強く私たちの心の中に残るのです。

 考えてみますと、聖書には、人間は神のイメージが刻み込まれていると記されています。それは、神様がイメージする「私たち人間が、いかにあるべきか」という神が思い描く人間本性であり、それは私たちが神ご自身に似たものとなるための神のイメージなのです。

 親は、子供に「こうあって欲しい」「このように育ってほしい」とかってにイメージを膨らませ、思い描きます。もちろん、必ずしも、それと同じようになるということではありませんが、親が子供の「こうあって欲しい」「このように育ってほしい」と思い描くそのイメージの背後にあるのは、子供の幸せを願う親の愛がある。

 神様が人間に、神のイメージを刻み込んだのは、まさに私たち一人一人が幸福になるようにと願う神の愛がそこにあるからです。しかし、現実の世界は、必ずしも幸せと感じられることばかりではありません。もちろん、幸せを感じる時もあるでしょう。しかし苦しいことや辛いことある。涙することも多くあるのです。

 ですから、私たちの人生は真紅のバラのようになりません。喜びのバラ色を涙が薄めて淡いピンク色にしていく。でも、見てください。この淡いピンク色に染まったこの花束は、何とも美しいではないですか。

 そしてその美しさは、私たちだけではない、神の目にも映っている美しさです。その美しさを見て、神様はSさんに、「よくやった。よく頑張って生き抜いてきたね」と言っておられるように思います。

 お気づきになられた方もおられるかもしれませんが、先ほどお読みしました新約聖書の箇所ヨハネの黙示録79節から17節は、実はSさんのご主人であられたKさんの告別式の際にもお読みした箇所です。旧約聖書のヨブ記1925節から27節も同じように、Kさんの葬儀の際に読んだ箇所です。

  私は、今日の子の告別式の式次第をどのようなものにするか、どの聖書箇所を世も上げたらよいか、いろいろと考えていました。その中で、Sさんのご主人のKさんの告別式はをどのように行ったのだろうかと思い、その時の式次第や式辞の原稿をもう一度、読み返していました。

 その時、Sさんが愛してやまなかったご主人の告別式と同じ式次第にしたらSさんは喜ぶんじゃないかなとそう思ったのです。もちろん、全く同じというわけにはいきません。聖歌の曲目も当然違いますし。構成も若干違っている。でも、聖書の言葉は同じものにしたのです。

 その聖書の言葉の新約聖書ヨハネの黙示録79節から17節の最後は、「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」であります。

 神を信じて生きた者たちであっても、「この世」では涙することも少なくない。「この世には悩みが多い」(ヨハネによる福音書1633節)からです。だから、涙することも少なからずある。そして、そのような人生を私たちは生きる。

 しかし、私たちが死という死という深い眠りを経て、目覚めたときに、主イエス・キリスト様は、その涙する人生を生きた人々の目の涙を拭き、ぬぐいとってくださるというのです。

 涙が拭き去られる。みなさん、今、この目の前にある薄いピンク色の花束を薄いピンク色にしている涙の部分をすべて拭き去る時、現れ出るのは喜びの真紅の花束です。Sさんが、今の、この深い眠りから目覚め、よみがえったその時には、主イエス・キリスト様がその目の涙をぬぐい取ってくださり、喜びの真紅の花束に包まれるのです。

 死は深い眠りです。しかし、眠ったものは目覚めます。目を閉じ一度眠りに落ちたものが目坐寝る時、眠ったときから目覚める時まで、たとえその間に何時間たっていようと、目覚めたときにはその間の時間はすべて失われ一瞬のように思われます。そして、その失われたかのように思われる時間が、私たちを癒し、回復させ、再び立ち上がらせ、起き上がらせるのです。

 そのように、今、深い死の眠りにつかれたSさんが目覚め起き上がる時、それはSさんにとっては一瞬の出来事です。一瞬にして喜びの真紅のバラに包まれるのです。この式辞に後に賛美する新聖歌330番は、アイルランドの民謡のメロディに歌詞をつけたものです。

 日本語の題は「幸い薄く見ゆるとき」ですが、英語で歌われる際のタイトルは「You raisee up(あなたが私を立ち上がらせてくださる)」です。神が、Sさんをこの深い死の眠りからやがて再び主が来たり給う日に立ち上がらせくださる。そのことを覚え、後ほど賛美したいと思います。お祈りしましょう。

礼拝説教「義の冠が待っている」

 

主日礼拝(S姉告別)説教「義の冠が待っている」

 義の冠が待っている

旧約書:ヨブ記4211節‐17

福音書:ルカによる福音書617節‐26

使徒書:テモテへの第二の手紙4468

 

 今日の礼拝は、I修養生に奨励をしていただく予定でしたが、先日お祈りいただいていたS姉が、主の御許に召されたこともあり、急遽、予定を変更し、私が礼拝説教を担当させていただくことにいたしました。

 そして、今日の礼拝はそのS姉の棺を囲んで行われています。ですので、今日の礼拝は、S姉の告別礼拝という意味も含めた礼拝であることを、ご承知いただければと思います。その礼拝において私は、旧約書ヨブ記4211節から17節を、福音書はルカによる福音書617節から26節、使徒書としてテモテへの第二の手紙46節から8節から、聖書の言葉をお取次ぎしたいと思っています。

 

 そこで旧約書ヨブ記4211節から17節ですが、この個所は、ヨブ記全体の結末を告げる箇所です。そしてその内容は、神がヨブの人生の後半を神が祝福してくださったということを告げるものとなっています。

 このヨブ記に記されたヨブという人物の人生は、波乱万丈の人生です。ヨブの人生の人生の前半は、神の祝福を得て、経済的のも恵まれ、また多くの子供たちにも恵まれたものでした。ところが突然、その人生が全く逆転してしまいます。

 ある日ヨブは、外国から来た略奪者やあるいは自然災害によって、ヨブの持っていた財産、その当時は牛や羊と言った家畜や、使用人たちですが、そのすべてを失い、また子供たちもみんな失ってしまったと聞かされるのです。

 しかしそれでもなお、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言って、苦しみと悲しみの出来事に出会っても、その出来事に向き合い、前向きに生きて行こうとするのです。

 ところが今度は、そのヨブ自身が病に侵されるのです。そして、その病の中で苦しみぬくのです。そして「どうしてこのようなことが自分の身に起こるのか」を問う。その葛藤の中で、時に友人たちが、ヨブがこのような災難に会うのは、きっとヨブが何か罪を犯したために、その報いを受けているのだと責め立てます。

 またある時は、別の友人は、この試練は、神がヨブを訓練しているのだというようなことも言われる。もちろん、これらの友人の言葉は、悪意があってのことではありません。またそうではないと信じたい。しかし、その言葉がより一層ヨブを苦しめるのです。

 実は、このヨブが経験した苦難の背後には、思いもよらない理由がありました。それは、神とサタン、日本語では悪魔と訳される存在ですが、そのサタンと神とがヨブを巡って議論をしたという出来事です。悪魔は神に向かい言います。

「神様、あなたはヨブが立派な人間だ、見上げた信仰だと言われる。いや何ね。私は何もヨブが立派な人間でないとかいいかげんな信仰だなんていいませんよ。確かにヨブは立派な人間だ。見上げた信仰だ。

でもね、そりゃ神様、ヨブはあなたから祝福を受け、多くの財産が与えられ、守られているからでさあ。ヨブだって、財産のすべて、神様あなたが祝福してくださったと思えること全部を奪ってごらんなさい。たとえヨブと言えど、手のひらを返したように、あなたを呪いはじめるにちがいありませんぜ」

 「おやおや、サタンよ。言いたい放題言ってくれるね、だが断じてそのようなことはない。なんならヨブを試してみたらいい」。

 そんなわけで、ヨブの苦難が始まった。つまりこのヨブの物語は、ヨブの信仰の物語ではない。むしろ、神のヨブへの信頼の物語なのです。

 もちろん、当のヨブには、そんな話は知りえないことで、知ったところでそんなことは知ったところでなんにもならない。ただ「なぜなんだ。神を信じ、神と人も前に後ろ指を指されるようなことは一つもない私が、なんでこんな苦しみに会わなけりゃならないんだ。神様、いったいなぜなんだ」と問うしかないのです。その問いは、ヨブの魂の叫びであり、真実なそして神への叫び声なのです。

 私は、このヨブの物語を読むとき、S姉の人生の物語が重なり合ってくる。S姉は、高校生時代に神をラジオ番組「世の光」を通してキリスト教を知り、教会を訪ね、主イエス・キリスト様信じクリスチャンになられました。その後、教会を離れた時期もありましたが、心の中に信仰はしっかりと刻み込まれていたようです。

 そして、何十年かぶりに、彼女が洗礼を受けたこの教会の前身の一つである三鷹教会に戻ってこられた。私はその日の事、しっかりと覚えている。それこそ、今日の礼拝にS姉のお嬢さんが出席してくださっていますが、その時も、S姉と一緒に三鷹教会の礼拝に出席してくださっていました。私は、その時、お二人がどの席に座っていたか、またその時お嬢さんがはいていおられた長いブーツまで覚えています。

 しかし、それからのS姉の歩みは、本当に大きな試練の連続だった。それこそ大きな痛みと試練をいくつも経験したのです。けれども、その痛みや試練の中にあっても、神を信じ、前向きに歩んでこられたのです。

 そして、二人のお嬢さんが嫁がれ、お孫さんも与えられ、「さあ、これから」というときに、大きな不治の難病を患うことになった。また、大きな試練と苦しみに向き合わなければならなくなったのです。

 私は、正直に「神様なぜですか」と問わざるを得なかった。なぜ、この人がこんなに苦しまなければならないのか。「なぜ!、なぜ!!、なぜ!!!」。

 

みなさん、私は先ほど、このヨブ記の物語が、S姉の人生の物語に重なり合って見えると申し上げました。しかし、この点だけは違うと言えるものがある。それは、ヨブは試練の中で、神につかみかからん迄に問いかけ、「神様、私はあなたと議論がしたい。なぜ、私がこんな目に合わなければならないのですか」とそういった。

 

 ヨブは神を呪うことはしませんでしたが、神様に激しく問うたのです。「神様、あなたは間違っている。何か間違っているのではないですか」と問い詰める。。

 

 しかしS姉は、ご自分が経験した様々な試練や苦しみの中でも、神に対してつぶやくことなく、前向きに生きようとしておられたし、前向きに生きてきた。いやひょっとしたら、私の知らないところで、ちょっとぐらいはつぶやいたのかもしれませんが、でも、本当に前向きに生きておられたのです。頑張りぬいたのです。この点はヨブとは違う。

 

 ヨブは神に「神様、私はあなたと議論がしたい。なぜ、私がこんな目に合わなければならないか」と問い詰める、そのヨブに対して神は「ヨブよ、お前は知っているか?」と語り掛けるのです。

 

「ヨブよ、おまえは知っているか? お前はこの世界が、宇宙がどのように始まり、造られたのか。おまえは海の底を見たことがあるか。世界の果てまでいったことがあるか。知らないことだらけだろう。不思議なことだらけだろう。

でも、おまえが知らなくても、この宇宙・世界を私は造り、その宇宙や世界は今も存在している。私は、そのおまえが知らない天地創造の時からこのかた、その宇宙・世界と共にあり、私が作ったこの世界を守り宇宙を守ってきた。だとすれば、おまえが苦しんだその苦しみの理由をおまえが知る必要はない。お前が知らなくても、私はちゃんと知っている。そして私はおまえ守り、おまえと共にいる。」

 その時ヨブは、本当に心の底から神を信頼したのです。そして、ヨブを信頼してくださっている神に、ヨブもまた信頼をもって答えようと思った。そのことを聖書は次のようなヨブの言葉で表しています。ヨブ記4256節です。そこにはこう記されている。

 

5:わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。6:それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。

 こうして、ヨブは、先ほどお読みしました4211節から15節あるように、試練や苦しみに会う以前に増して、多くの神の祝福を得たというのがヨブの物語なのです。

 しかし、みなさん。みなさんもご存じのように、S姉は、ヨブが生涯の残りの半生に受けたような祝福をまだ得てはいません。それはつまり、S姉には、神からいただく大きな祝福を受ける残りの半生が残っているということ意味しています。これから受けるのです

 みなさん、ルカによる福音書の著者であるルカは、イエス・キリスト様の言葉を次のように伝えています。

20:あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである21:あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。22:人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

この言葉は、マタイによる福音書53節以降にある山上の垂訓の中の八福の教えと同じものです。しかし、マタイのよる福音書は、心の貧しい人たちは、さいわいである。神の国は彼らのものである」と記しています。つまり、マタイは、イエス・キリスト様の言葉を精神的な問題としてとらえた。心のありようとして受け止めたのです。

 ところがルカは、「貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」と言う。「あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである」と言う。ルカにとって、問題は今生きる私たちの現実なのです。その現実の世界は、苦難や苦しみに満ちている。その現実の苦難や苦しみの中に生きる人々に、イエス・キリスト様は、神がもたらされる神の恵みを語った。

 そして返す言葉で、「24:あなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。25:あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである」というのです。

 それは、まさに現実の世界の中で悩み苦しむ者と共に神はおられるからです。そして、そのこの世での苦しみは、私たちの人生の前半の半分で、その前半が終わった後、やがて訪れる神の王国の完成の時に与えられる残りの半生に得ることのできる神の祝福なのです。

 だからこそ、今、「この世」で祝福を得ていると思っている富んでいる人、満腹している人、笑っている人を「災いだ」というのです。それは、富や満足のゆえに、神を求める気持ちを忘れてしまっているからです。

 昨夜、妻がテレビを見ていて、小説家の遠藤周作が「神も仏もない」というようなところに立って、初めて私たちは本当の宗教をもとめるようになると言っていたと教えてくれました。「神も仏もない」というような苦しみの中で、私たちは初めて、本当に神を求め、神に出会い、神を信じ、神に寄り縋って生きる。遠藤周作は、そう言っているのです。

 そして、S姉の人生も、試練や苦しみの中から、神を求め、神を信じ、神に寄り縋った人生でした。その人生には、パウロが言う神が与えたもう「義の冠が待っている」。それは、やがてこの死という深い眠りから目覚めたときに与えられる残りの半生に、満ち溢れれている祝福なのです。

 みなさん、この「義の冠」は、私たち人ひとりにも備えられているものであり、私たちにも与えられるものです。そのことを覚えつつ、いましばらく沈黙の時を持ち、神の恵みを思いましょう。静まりの時を持ちます。目を閉じ、静かに今日、神があなたの心に語り掛けてくださったことに思いを馳せましょう。

2021年6月10日木曜日

ソクラテスはキリスト教徒だった。

            ソクラテスはキリスト教徒だった。

 先日来、2世紀の古代教父と呼ばれる人たちの文書を読んでいます。その中にユスティノスという人が書いた「第一弁明」「第二弁明」と言ったものがあります。これらの書物は、キリスト教への迫害が広がって行くなかで、自分たちの信仰は決して怪しいものではないということを、それこそ弁明するために書かれたものです。驚くべきことですが、ユスティノスはこの「第一弁明」でソクラテスはキリスト教徒であったと言い、「第二弁明」では、ソクラテスは部分的ではあるがキリストを知っていたと言うのです。言うまでもありませんがソクラテスは紀元前5世紀の人ですから、イエス・キリスト様より500年近く前に生きた人です。ですから、ソクラテスがいわゆるキリスト教徒であったわけはありませんし、当然イエス・キリスト様に出会ったこともありません。もちろん、ユスティノスはそんなことは十分にわかっていて、その上でなおソクラテスはキリスト教徒であったと言い、部分的にキリストをしっていると言っているのです。

 それは、ソクラテスの生き方がキリスト教徒と言えるような生き方だったからです。ソクラテスは正義と言うことを重んじました。ですから、正しいことを求め、正しい生き方をしました。つまり、義を求め義に生きたのです。それゆえにユスティノスは、ソクラテスをキリスト教徒だと言った。しかし、それでも、ソクラテスはキリストを部分的にしか知らずキリストのすべてを知っていなかったと言います。

思うに、ユスティノスがソクラテスは部分的にしかキリストを知らなかったというのは、ソクラテスは愛がかけているからではないでしょか。確かに彼は正しいこと、正義を求め、そして自ら正義のために命を投げ出しました。しかし、彼の生き方は法を守り、法に準じて命を投げ出しました。しかし、彼の教えには、隣人を愛する隣人愛が欠けている。ユスティノスはそう思ったのではないでしょうか。そして、この隣人愛と言うことを求め、隣人愛に生きると言うことがなければ、キリスト教徒と呼ばれることはあっても、イエス・キリスト様を完全に知っているとは言えない。ユスティノスはそう言っているのではないかと思うのです。

このソクラテスをキリスト教徒と呼び、それでもなおソクラテスは部分的にしかキリストを知らなかったと言うユスティノスの言葉は、本当に考えさせられる問いかけです。確かに私たちはクリスチャン、すなわちキリスト教徒です。確かに私たちはキリスト教徒と呼ばれる存在ですが、しかし、その私たちもまた、部分的にしかイエス・キリスト様を知っていないのではないか。そうユスティノスは「今、ここで」キリスト教徒として生きる私たちに問いかけてくるのです。

しかし同時に、このユスティノスの言葉は逆説的にとらえるならば、そのように「隣人愛に欠けている」ソクラテスであり部分的にしかキリストを知っていると言えないような不完全な者であっても、神はそのソクラテスをキリスト教徒として受け入れてくださっていると言うことです。それほど大きな愛で私たちを包んでいて下さる。感謝なことではないですか。そしてそのような大きな愛で包まれているからこそ、私たちは不完全なものであるつつも完全な者を目指して生きていきたいと思うのです。

2021年4月29日木曜日

キリスト教や仏教を超えたところにある神の啓示

          キリスト教や仏教を超えたところにある神の啓示

 聖書に「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙516)という言葉があります。有名な言葉ですので皆さんもご存じだと思いますが、まさに、この新型コロナの感染拡大という災禍の中に、私たちの心に刻まなければならない言葉です。

 この「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい」という言葉を紹介している臨済宗のお寺のホームページがあります。円覚寺というお寺の2020年の55日の今日の言葉という記事です。そのなかで、この聖書の言葉が紹介されているのです。それは聖心会のシスターの鈴木秀子さんの言葉を引用しつつ書かれた次のような言葉です。

 

 「『新約聖書』の「テサロニケ人への第一の手紙」に次の言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」喜びというと、何か特別の出来事のように思ってしまいますが、そうではありません。おいしく食事ができることや健康に活動できること、家族がいてくれること、さらに言えば命が与えられていること、そのこと自体が喜びなのです。日々の小さな出来事にも喜びを発見し、またそのことに感謝して生きる。喜びや祈り、感謝を習慣化していくと、心が静まり、突然の事態にも動じなくなっていきます。いつか、この危機が過ぎ去った時に、自分が深められ成長できていることに気づくでしょう」。

 こういうあたたかく、親切なお言葉というのは、我々禅僧にはとてもまねができません。本当に心に染み入る言葉です。大きな力をいただくことができます。鈴木先生とは懇意にさせていただいていますが、思えばいつお目にかかっても、笑顔で喜びをたたえていらっしゃいます。そして祈りの人という雰囲気を常にお持ちであります。更に絶えず感謝の言葉を口になされています。鈴木先生にはすっかり習慣化され身についていらっしゃるのでした。いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、私もこれを習慣にするよう努力しようと思います。

 

 この引用された鈴木秀子さんの文章も優れた文章であり聖書理解ですが、そのような文章に触れて、「これはキリスト教の言葉だから」などと言われることなく「素直にそれを評価し、自分もいつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、私もこれを習慣にするよう努力しようと思います」とお寺のホームページに書き込まれた僧侶の方にも心を打たれ、素直に尊敬の念を覚えました。そこには、この僧侶の方の中に、イエス・キリスト様の内にある謙遜や寛容という物に通じる精神が見られます。

 かつてのキリスト教は、自分たちだけ真理を持っている最高の宗教だと言って、イスラム文化圏やアジア文化圏を見下ろすような視線が合ったことを、私は歴史を学ぶ一人の牧師として認めざるを得ません。そしてそのことが、サミュエル・ハンチントンが言う文明の衝突を生み出し、植民地支配をとどめることができず、また戦争の悲劇に結びついて行ったことを否定できないのです。

 しかし、創世記には神様は人間をお造りになったとあります。そしてその時に、人間を神の像(かたち)にお造りになったと言われるのです。そしてその神の像は、宗教を超え、民族を超えすべての人に与えられている。ですから、牧師であろうと僧侶の方であろうと、この神の像から湧き上がる思いに素直になるとき、謙遜さや寛容さといったイエス・キリスト様の内にある御性質に通じるものを持ち、御霊の実である愛、喜び、柔和、寛容、親切、誠実、善意、平安、自制を身に着けていくことができるのだろうと思います。

 神学の中の啓示論と言われる分野においては、自然神学という考え方があります。それは、神様が神の造られたすべてのものを通して、神様というお方を私たちは知ることができるという考え方です。それは聖書が語るところであり、人間の生き方や心ありようを通しても神様は私たちに神というお方を示しておられるのです。実際、今回のこの僧侶の方の言葉を通して、私は大切なことを教えられたように思います。

 考えてみますと日本人の霊性について深く考えた仏教学者の鈴木大拙は仏教学者というだけでなく中世のキリスト教の霊性の巨人といわれるエックハルトの研究をしながら日本人の霊性についての考察をまとめ、その鈴木大拙の影響を受けた世界的な哲学者西田幾多郎は、鈴木大拙からの影響にさらにそこにキリスト教のエッセンスを加えながら「西田哲学」を構築し、その「西田哲学」の影響化で、八木誠一や小田垣雅也、小野寺功といった「無」の神学者といわれる神学の営みがなされてきました。

 私も、学びの中で、少しだけですがこの「無」の神学について学ばさせていただきました。そうすると、この無の神学の中に、私たちの教団の聖化といった神学思想に通じるものがあると思わされるのです。そう言った意味では、私たちは仏教の言葉からも学ぶことは多いのです。そこには、仏教とかキリスト教と言った垣根を超えて、神様は私たちにご自分を示し、神に喜ばれる人間の在り方を示しておられる神様のお姿がある。そのことを心に覚え、刻んでおきたいたいと思います。

2021年4月3日土曜日

‘21年4月第一主日復活祭礼拝礼拝説教「希望の物語」

 

214月第一主日復活祭礼拝礼拝説教「希望の物語」           2021.4.4

旧約書:ホセア書1314(p.1258)

福音書:マタイによる福音書2745節から56節(pp.48-49

使徒書:コリント人への第一手紙1550節から54節(p.276)

 今日は、私たちの主イエス・キリスト様が死から蘇られたことを記念する復活祭です。私たちは、先週の棕櫚の主日の礼拝で、マタイによる福音書2745節から50節を通して、イエス・キリスト様が十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望的な思いの中で死なれたのは、私たちが絶望的な思いに陥ってしまった時に、同じように十字架の死という絶望的な思いを経験したイエス・キリスト様によって癒され・慰められるためであったと言うことを学びました。

 そして今日の復活祭の礼拝は、そのマタイによる福音書2745節から50節に続く51節から56節、特に51節から53節を中心に、聖書の言葉に向き合いたいと思います。

 このマタイによる福音書2751節から56節の記述は、意外に取り扱いが難しい箇所です。というのも、このマタイによる福音書の2745節から51節は、同じ内容を取り上げているマルコによる福音書33節から41節とほとんど同じ記述になっています。

 また、ルカによる福音書2344節から49節にも、十字架の上でイエス・キリスト様が叫ばれた言葉は違っていますが、そのほかの内容はほとんど同じ記述が出ています。 

ところが、マタイによる福音書は、その受難の物語の中の51節から53節に、イエス・キリスト様の受難の際に、墓に葬られていた多くの聖徒たちの死体が生き返り、イエス・キリスト様の復活のあとにエルサレムに入り、多くの人に現れたという、実にセンセーショナルな出来事を挿入するのです。

 もちろん、このセンセーショナルな出来事は、マタイによる福音書だけに記されている出来事であり、他の三つの福音書には、この物語が記されていません。

 それに対して、たとえばマタイによる福音書の918節から26節にある会堂司ヤイロの娘が生き返った物語は、マルコによる福音書にもルカによる福音書にも記されています。このヤイロの娘が生き返ったという出来事は、「その噂がその地方全体に広まった」といずれの福音書も伝えています。それほど死んだ人間が生き返るという事件は、人々の心に刻まれる非常に大きな出来事なのです。

 だとすれば、この多くの死んだ聖徒たちが生き返り、墓を出てエルサレムにやってきて、多くの人に現れたという出来事は、ヤイロの娘が生き返った出来事よりも、もっと衝撃的な事件として、当然、人々に語り伝えられていたでしょう。なのに、マタイ以外のどの福音書も、この事件を取り上げていないのです。これは、実に不思議なことです。

また、マタイによる福音書は、イエス様が十字架で死なれたときに多くの聖徒の死体が生き返り、イエス様の復活の後に、墓から出てエルサレムに入ったと伝えています。

みなさん、イエス・キリスト様の十字架の死は、金曜日の午後に起こった出来事です。そして、復活なさったのは日曜日の朝。だとすれば、この生き返った多くの聖徒は、金曜日の午後に生き返り、日曜日の朝まで墓に留まり、それから墓から出てきたと言うことになります。これも極めて不自然です。

だとすると、このマタイによる福音書2752節、53節の出来事は、歴史的事実というよりも、むしろマタイによる福音書の著者が何かを伝えるために、意図的に、象徴的あるいは比喩的な表現で、この52節、53節の物語を書いたのではないかと考えられます。

 みなさん、聖書は誤りのない神の言葉です。これは、私たち福音派の立場であり信仰です。私もそのことを微塵も疑ってはいません。しかし、同時に聖書は、聖書記者という人間を介し、手紙や詩や歴史物語といった様々な文学的手法を用いて書かれています。

 ですから、ある事柄が象徴的に描かれたり、比喩的に描かれたりするということは、少なからずあるのです。そしてその意味では、このマタイによる福音書の2752節、53節の出来事も、ある事柄の象徴的、比喩的表現であると考えられます。

 だとすれば、マタイによる福音書の著者は、いや、聖書そのものが、この出来事を通して、何をその読者に伝え、なにを物語りたかったのか。

 みなさん、それは希望の物語です。私たちを、罪と死によって縛り付けているこの世から解放し、神の恵みの支配のもとで生きる者として下さったという救いを語り、希望を伝える物語なのです。その物語は「また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」という非常に短い小さな物語なのです。

 しかし、その短い小さな物語は、キリスト教2千年の歴史をつらぬく長い救いの物語であり、多くの人に希望を与える大きな物語でもある。そしてその長く大きな希望の物語の中には、神を信じる私たち一人一人の様々な物語がある。

そこには自分の中にある苦々しい思いや自らが犯した罪のゆえに、良心の呵責に押しつぶされそうになった人が、神の赦しの言葉を得て、その良心の呵責から救われるという物語もあるでしょう。また、人間関係のもつれや、ゆえなく人から心を傷つけられるという深い痛みに苦しむ人が、神の言葉や教会によって癒されると言った物語、あるいは人間の死や病の現実の前で悲しむ人が慰めを受けるといった様々な救いの物語があるのです。

 そして、今日、この会堂に集っているみなさん、ネットでこの礼拝に参加しておられるみなさん、送られてきた説教原稿で家庭礼拝を守っておられるみなさんのお一人お一人にも、良心の呵責に押しつぶされそうになったり、心が傷つけられた痛みを経験したり、あるいは病や死という現実の中で悲嘆なさった経験があるのではないかと思うのです。

 それは、ある意味、先週お話ししたように、イエス・キリスト様が、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれ死んで行かれたような、深い絶望に陥った経験なのかもしれません。

 しかし、そのような絶望の中にあったとしても、私たちは必ず立ちあがれる。再び希望を持って生きることができるのです。なぜならば、イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちを縛り付け、私たちを苦しめる死と罪の法則から私たちを解放するからです。

 私は牧師という職にありますので、お恥ずかしい程度のものではありますが、神学の学びをしてきました。また、教会の皆さんのご理解もあって、継続的に神学の学びを続けさせてもいただいています。その学びを通して、このイエス・キリスト様の生きておられた時代のユダヤ人たちがもっていた終末思想というものに触れる機会がありました。

 その一つが、この当時のユダヤの終末思想においては、罪というものが、私たちの内にあるものとしてではなく、いやもちろんそれもあるのでしょうが、それ以上に私たちの外側にある宇宙的な力として私たちを支配していると考えられていたと言うことです。

 そのような考え方は、イエス・キリスト様や12使徒たちに、またパウロの内にもあったと言えるでしょう。むしろ、そのような考え方で「世の終わり」、終末というものを捉えていたと考えるのが妥当でしょう。

 その宇宙的な力である罪が、私たちを神から引き離し、私たちを罪の支配のもとに置くのです。そしてその罪の支配のもとで私たちは苦しみ、人を傷つけたり、傷つけられたり、様々な悪を犯してしまう。また、その私たちの外側にある宇宙的な罪が、人間世界の様々な痛みや苦悩を生み出し、最終的には私たちに死をもたらすのです。

 イエス・キリスト様がもたらす救いは、その罪と死の支配から私たちを解放し、神の恵みが支配する神の王国へ、私たちを招き入れてくださいます。そこは、赦しと、慰めと癒し、そして励ましに満ちている世界です。そして、私たちを命へと導く。

この神の王国が私たちを導く命を、ヨハネによる福音書は「永遠の命」と呼びます。それは、あのヤイロの娘が生き返ったという意味での命ではありません。ヤイロの娘は、確かにイエス・キリスト様によって一度は蘇りましたが、永遠に生きているというわけではない。彼女は歴史の中のどこかで、もう一度死を経験している。

 しかし、神の国がもたらす「永遠の命」は、永遠なる神の命です。みなさん、私たちの肉体は、必ず死を経験します。先ほどお読みしました新約聖書コリント人への第一手紙の1550節から57節には、「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」とあります。

 このコリント人への第一の手紙1550節から57節には、死は眠りに譬えられています。そして、神を信じ、イエス・キリスト様を信じたものは、その死の眠りから、朽ちる肉体ではない朽ちない体となって甦ると語られています。

 ここには、死に勝利する希望が語られ、「永遠の命」への希望が語られている。だからこそ、コリント人への第一の手紙1555節は、「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と、罪と死に勝利されたイエス・キリスト様を高らかに誉め讃えるのです。

 みなさん、このコリント人への第一の手紙1555節のイエス・キリスト様の死に対する勝利を讃える言葉は、先ほどお読みした旧約聖書ホセア書1314節の「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」の引用だと言われます。

 ところが、このホセア書1314節は、9節にある「イスラエルよ、わたしはあなたを滅ぼす。だれがあなたを助けることができよう」という言葉から始まる、厳しい裁きの宣告の中に置かれている言葉なのです。

ですから1314節の前半の「わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか」という言葉は、「神はイスラエルの民を贖い、お救いになられるだろうか、いやお救いにならない」という意味であり、それゆえに、あの「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」という言葉もまた、救いの言葉ではなく、イスラエルの民を裁く神の裁きの言葉なのです。

しかし、この厳しい裁きの言葉も、神の憐れみが隠されているからです。この憐れみを隠していた覆いが取除かれ、神の憐れみが現れ出るとき、「死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」という言葉は、裁きの言葉から恵みの言葉へと変えられる。それが、コリント人への第一の手紙の1555節で起こっている 

 みなさん、今日の説教の中心であるマタイによる福音書2752節、53節の出来事は、私たちがこの世の生を生きる中で、私たちを支配する罪の力がもたらす苦しみや、悲しみや、痛み、苦悩に対して、神が私たちを支え、慰め、癒しを与えてくださる救いの物語であり、また、死や病という現実に向き合う者にとっては、復活と永遠の命という希望を語る希望の物語です。それは、まさに私たちに対して神が語りかける神の救いの物語であり、この救いの物語こそが神を信じ生きる私たちクリスチャンの希望の物語となるのです。

 今しばらく、心を静め、沈黙の内に、この神の希望の物語、救いの物語に思いを馳せたいと思います。静まりの時を持ちます。