2020年5月15日金曜日

困難は特別ではなく、神の恵みも変わらない


 困難は特別ではなく、神の恵みも変わらない


 今、私たちは、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、様々な活動を自粛するというある意味、自制を強いられています。そして、教会もまた様々な悩みや苦闘の中にあります。

 そのような状況ですので、新型コロナウィルス感染拡大状況下での様々な説教が語られてています。そして私も、そのような説教をなさせていただく機会がありますが、あとでそのときの説教を、後でビデオ見直してみたり、説教原稿を読み返してみたりすることが合います。

 しかし、新型コロナウィルスがもたらす様々な苦難や苦闘、そして不安と言ったことを意識しているのですが、何か特別なことを語っているというわけでもなく、普段の礼拝でお取次ぎしている説教と、根本的な部分ではとりたてて違わないことに気付きます。

 結局、特別に新型コロナウィルスがもたらす問題といったことを意識をしなくても、わ私たちは、普段から様々な問題や課題、また悩みの中で、痛みや不安を抱えながら生きているのだなと思われされます。そして、どんな時でも、神の言葉は変わることなく私たちに神の恵みを語ってくるのだと思わされるのです。

 一昨日、ある方々とインターネットでA.ヘッシェルという人の『人は独りではない』という本についていろいろと話をしていました。このヘッシェルというユダヤ教のラビであり宗教哲学者のことは、私も説教の中で何度かご紹介したので覚えておられる方もおられるかもしれません。そのヘッシェルが、『人は独りではない』という本の中で、このようなことを言っています。

   神について考えることは、彼を私たちの心の中の対象として見つけることではなく、神の中に自分自身を見つけることです。彼は(私たちを)知っておられるお方であり、私たちは(神に)知られています。(私たちが)神を考えることは、彼が主体であり、私たちがこの目的であることによって可能になります

 すこし、難しい言い回しですが、要は、私たちが神についてあれこれ考えたとしても、私たちが考えられる神の姿は、私たちのことを心配し思いやって下さる神様の姿だけなのだと言うことです。そして、私たちが神に語りかけるのではなく、神の方が私たちに語りかけてくださるのだとへッシェルは言うのです。
 私たちは、この新型コロナウィイルスの感染拡大のため、多くの我慢と犠牲が強いられています。そのような中で、「神様、なぜこのようなことが私たちに起こるのですか」と語りかけ、問いかけたい思いになります。
 N.T.ライトという神学者は、そのような問いかけをしても、その答えは分からないといいます。ただ、大切なのは「神様、なぜこのようなことが私たちに起こるのですか」と問いかけたくなる状況の下で、神の前に私たちがいかに生きるかが問われているのだといいます。まさに、ヘッシェルが言うように、神に問いかけ、語りかけるのではなく、神が私たちに語られることに耳を傾け、神の語りかけに従って生きることが大切だと、N.T.ライトは訴えるのです。
 教団の求めに応じて、コロナウィルスで苦闘する牧師や教会のための特別な説教をかたっても、神が私たちに語りかける言葉は、恵みにあふれた愛と慈しみに満ちた言葉なのです。
 まだ、しばらくは忍耐の時が続きます。しかし、神は、いつでも、どんな時でも、愛と慈しみに満ちた恵みの言葉を私たちに語りかけてくださっています。そのことを覚えつつ、この忍耐の時を、感謝をもって過ごしましょう。

フィリピの信徒への手紙(口語訳ピリピ人への手紙)2 6節から8

   6:キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執ししようとは思わ
  ず7:かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿
で現れ 8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

2020515

2020年5月10日日曜日

コロナの先に何が見える


 コロナの先に何が見える


 政府より、正式に緊急事態宣言の5月中の延長が発表されました。これによりまして、教会の公の礼拝も、5月中は自粛することになります。6月の予定はまだ決まっていませんが、周りの状況を見ながら、公の礼拝に集うことを再開したいと願っています。
 ただ、教会の宣教を考えると、近隣の方々の理解をいただくことも大切なことなので、よく注意して、時期や再開の仕方を考えなければならないと思っています。早く公の礼拝を再開したいと言う気持ちがはやり、教会の近隣の方に不安を与えるようになってしまっては大変です。大阪府知事ではありませんが、集会の自粛の再開に向けてどのような出口対策を取るかが課題になっています。
 教団の事務所も5月一杯は閉じられることになり、いろいろと支障が出ることも考えられますが、現在の状況下ではやむを得ません。
 今回の新型コロナウィルスの世界的な流行を、14世紀の中世のヨーロッパのペストの流行に譬えて報道されたものをいくつか見かけました。私自身も、確かに似たような一面があるように感じています。
 もちろん、中世という時代背景は、今のような衛生状態ではありませんし、医療の内容も技術も格段に違っていますから、単純な比較はできませんが、人々がこぞって、この疫病に対して恐れや心配を感じており、多くの社会機能が停止してしまっていると言ったことなど、似たような一面も確かにあると言えます。
 その中世のヨーロッパでペストの流行もやがておさまり、ペスト騒動もやがて去って行きます。そしてペストが去った後のヨーロッパに何がやって来たかといいますと、ルネッサンスです。ルネッサンスというは、古典復興という文学的運動ですが、それに限らず人間とは何かを追求し、人間の可能性や尊厳性を評価し、人間の価値を認める運動です。
 中世ヨーロッパに人々は、苦しい出来事を通ることによって、自分たちの内側にある尊いものに目を向け始めたのです。
 今回の新型コロナウィルスに伴う自粛は、一人一人にとっても大変な試みですが、教会にとっても試練です。でも、この試練を通して私たちは、もう一度、教会とは何か、礼拝とは何かを考え、教会の持つ素晴らしさや、公の礼拝に共に集うことに意義と大切さを学び始めています。そしてそれは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。。
 まだしばらくは、公の礼拝への出席の自粛が求められます。本当に大変なことで、みなさんにも、様々なストレスを書けていると思います。しかし、この時にしっかりと忍耐し、この事を益と変えて、より善い教会を築き上げる礎としましょう。

それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ人への手紙/5 3節から5節)

2020年5月2日土曜日

分断ではなく穏やかな心をもって


分断ではなく穏やかな心をもって

 ゴールデンウィークに入りましたが、世の中はStay Home(ステイホーム・家で過ごそう)ということで、外出を自粛する日々をですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 教会での礼拝出席も、信徒の皆様に自粛をお願いして2か月近くなろうとしています。しかし、いつこの状態が解消されるかは、いまだ目途が立たない状態ですし、政府の緊急事態宣言も延長される方向にあると聞きます。ですので、私区たちの教会では、更に礼拝出席への自粛をいたします。。従いまして、次週(510日)の礼拝も、各自家庭で礼拝を守る形で行ってください。
先週は、礼拝の動画を挙げる際にミスが起こり、礼拝の動画を挙げる時間が25分ほど遅くなってしまいました。みなさんにご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ございませんでした。今週は、通常通り10時半には見られるように努めますのでよろしくお願いいたします。

 この新型コロナウィルスという疫病が世界中に広がっている状況について、キリスト教の世界は、この状況をどう受け止めたらよいか、戸惑いの中にあります。ジョン・パイパーというアメリカの改革派の指導的な牧師は、この事態は神からの警告なので、私たちは悔い改めの心をもってこの事態を受け取るべきである旨の主張をしています。
 それに対して、私が説教で何度かご紹介したN.T.ライトという新約聖書学者は、このような事態がなぜ起こったのかは、誰にもわからない。だからそれを詮索するのは止めて、このような事態の中で、私たちはいかに行動し、いかに生きるべきであるかを考えるべきだと言います。
 私は、個人的にはN.T.ライトの主張の方が正しいように思っています。その上で、なぜこのような事態が起こっているかはわかりませんが、悪魔はこのような事態を利用して、私たちと神との関係を分断し、また人と人との関係や私たちクリスチャン同士の絆を分断させようとしているように感じています
 かつて、14世紀にヨーロッパでペストが流行したときに起こったことは、まさに、そのような事でした。教会への信頼性が損なわれ、デマが流布し、そのデマによって多くのユダヤ人が虐殺されるという出来事が起こりました。そして、今の状況を見ますと、様々な流言があり、どこからこの新型コロナウィルスが起こったのかと言うことで、中国とアメリカとの間で互いに非難し合う言葉が飛び交っています。
 そのようなときだからこそ、私たち主イエス・キリスト様にあるキリスト者は、しっかりと神の言葉に留まり、和解の福音を生きることが大切です。たとえ一緒に集まって礼拝することができなくても、家庭で礼拝をしっかり守り、神の言葉に耳を傾けて聴き、神の言葉の前に静まる時を持ち、神に祈る時を持つことが大切です。

 この礼拝への出席を自粛する状態がいつまで続くのかは誰にもわかりません。その意味で出口はまだ見えていない闇の状況です。しかし、私たちには、光である神がいらっしゃいます。そのことを覚えながら、大変ですが、穏やかな心をもって、家庭礼拝を守り、神の前に、キリスト者として節度を守り歩んでいきましょう。

   初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
                    
 ヨハネによる福音書11節から5

202051

                                濱 和弘

2020年4月24日金曜日

「霊と肉」


霊と肉

 東京の新型コロナウィルスの感染者数は、一時と比べると若干の現象は見られますが、相変わらず100人を超える新し感染者が出ており、まだまだ終息には時間がかかりそうですが、皆様、一週間の間お変わりありませんか。
 今週は私たちの教会に属する愛する兄弟が手術を受けると言うことで、みなさんにお祈りいただきましたが、この手紙を書き始めた少し前に、久子姉より、無事に手術が終わりましたとの連絡を受けました。9時から始まり15時近くまでの長丁場の手術ですが、神様に守られたことを覚えます。
 しかし、まだこれから術後の回復のための治療と期間が必要です。周りの情勢は新型コロナウィルス騒動で大変な状況下ですので、どうぞ引き続き兄弟と看護するご家族の上に、神様の恵みと支えとが注がれますようお祈りください。
 こうして、長く礼拝に集えないという状況の中で、私は「霊と肉」ということを考えさせられています。長いキリスト教会の歴史においては、この「霊と肉」というものについて、いろいろと考えられてきました。そのような中で、いつも霊が肉と比べそり優れたものであり、人間の肉、つまり肉体は霊よりも劣るものであるようにとらえられてきたように思います。
 場合によっては、プラトン哲学の影響もあり霊と肉とを二項対立的構造の中で捉えてしまい、肉体を人間にとって割るものであるかのように考えていた時代もありました。それがもっとも醜悪な形で表れたものがグノーシス主義と呼ばれる、初期のキリスト教の異端的思想でした。
 しかし、人間の肉体も神様の創造の業であり、人間の霊も肉体と言う器なしには存在し得ないものであると言うことを、現在の教会にみんなが集まって礼拝できないという状況の中で痛切に感じています。そして、みなさんが、心だけではなく、体をもって教会に集まり、礼拝する中で、皆さんの息(聖書言語のヘブル語もギリシャ語も霊と言う意味を持つ)を感じる中で、単に理念としてでなく、本当に一つの共同体、キリストの体という存在にリアリティ(現実感)をもってとなっていくのだなと教えられています。
 とわ言え、今の新型コロナウィルスが感染拡大しつつある現状の中、小金井市からも10名以上の感染者が起きている現実はしっかりと受け止めなければなりません。そして、決して教会がクラスターになることがなく、地域の方に不安感を与えないように努めなければなりません。また、まだはっきりとした方針が出ていませんが国の非常事態宣言が延長される可能性もあります。ですので、もうしばらく礼拝に集まることは自粛しなければなりません。
 今は受難の時ですが、信仰の模範であるイエス・キリスト様を見上げながら、激しい迫害の中にあっても信仰を守り抜いた初代教会の聖とたちのことを思いつつ辛抱しつつ頑張りたいと思います。
                 詩篇23

ダビデの歌うた

1 主はわたしの牧者であって、わたしには乏とぼしいことがない。
2 主はわたしを緑の牧場に伏ふさせ、いこいのみぎわに伴ともなわれる。
3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正道みち導かれる。
4 たといわたしは死の陰の谷たにを歩とも、わざわいを恐れません。
  あなたがわたしと共ともにおられるからです。
  あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け,
  わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
6 わたしの生きているかぎりは
  必らず恵みといつくしみとが伴なうでしょう。
  わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。


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                             牧師 濱和弘

2020年4月20日月曜日

みなさまへ


皆様へ

 新型コロナウィルスの感染拡大の防止のために、公の礼拝を自粛するという方針を立て、それを実行し初めて1か月近くが過ぎようとしていますが、みなさんお変わりありませんでしょうか。
 牧師もその家族の共に特に大きな変化なく過ごしておりますのでご安心ください。また、みなさんの中で、体調がすぐれないとか、祈って欲しい課題とかはございませんでしょうか。ございましたら、どうぞご連絡ください。
 一か月も皆さんのお顔を見ておりませんと、なんだかとても寂しいような気がします。改めて、教会は、神によって結び付けられた人と人との繋がりによる共同体なのだなと言うことを痛感しています。また、毎週土曜日、皆様方がいらっしゃらない会堂で礼拝を執り行っていますと、礼拝とは決して個人的なものではなく、教会と言うキリストを頭とする共同体の業なのだと言うことを思い知らされます。まさに、教会は礼拝共同体なのです。
 そのことを思い、日曜日の通常礼拝が行われる時間には、教会のホームページで流される礼拝の様子に合わせ、私もそ服牧師も、また撮影をして下さる方も含めた3人でみなさんと共に礼拝に与っています。
 このような、共に集まっての礼拝を自粛するということがいつまで続くのかと思わされます。一応56日の緊急事態宣言の解除が目安となっていますが、現実の状況は予断を許しません。状況によっては、緊急事態宣言が解除されても、自主的に自粛する判断をしなければならないかもしれません。その意味では先の見えない戦いです。
 しかし、私たちの主は、必ず私たちが共に集まり、主の前に礼拝するその時を与えてくださいます。ですから、今の時は、どうぞ忍耐し、希望を与えてくださる主を仰ぎ臨みましょう。

9:この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。10:あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。

 ペテロ第一の手紙5910節の言葉です。神の言葉を約束として信じ、共にこの困難な時を乗り切っていきましょう。今週も、日曜日には礼拝の動画を見ることができます。また見ることができない方も説教の原稿と週報をお送りいたしますので、家庭礼拝のためにお用い下さい。

2020年4月9日木曜日

緊急事態宣言を受けて、私たちの教会の対応

緊急事態宣言に対する日本ホーリネス教団の対応について

【第5報】新型コロナウイルスの感染拡大を受けてのお願い

主の聖なる御名をたたえます。
 すでに報道にありますように、新型コロナウイルスの感染拡大が危機的状況に陥り、今週7日、ついに7都府県に対して緊急事態宣言が出されました。これに対して、すでにそれぞれの教会において対応策を考えておられると思いますが、教団としましても、改めて以下のようにお願いをいたします。

1.緊急事態宣言が出された地域にある教会の対応について
・これまで教団としましては、各自治体から出される週末の外出自粛要請に対しては、「教会員が集まる礼拝形式は避けていただく」ことをお願いしながらも、あくまで各教会の判断に任せることとしてきました。
・しかし、今週出された緊急事態宣言への対応につきましては、対象の地域にある教会では、教会員が集まる礼拝形式は速やかに中止してくださるよう強く勧告いたします。これは教会員を感染から守るためであり、また全国的な感染拡大を抑えるために、その地域にある教会としての極めて重要な姿勢です。教会の近隣住民の方々は、教会がこれまでと変わらずに集会を続けていることに対して、大きな不安を覚えておられます。自分たちの通常の信仰スタイルを貫こうとすることによって、教会が地域住民に大きな不安を与えたり、感染を広げる源になったりするようなことがあっては決してなりません。緊急事態宣言が出された地域にあっては、教会に集まる形の礼拝を中止してくださるよう、改めて強く要請いたします。

2.それ以外の地域にある教会について
・現時点では、緊急事態宣言を出すには至っていない地域であっても、感染が徐々に広がっていることと思います。都心に比べると、感染拡大の時期が遅れているだけのことであって、そのうち地方にも感染拡大の波が及んでいくと言われています。
・そこで、まだ時間的な猶予がある今のうちに、教会に集まることができなくなった場合の対応策につきまして、至急検討してくださるようお願いいたします。

3.牧師が感染した場合の対応策の検討について
・都市部を中心に、感染源が分からない感染者が急速に増えております。このため、細心の注意を払っていても、残念ながら牧師が感染してしまうケースが出てくることも予想されます。主の守りと助けを祈り求めながらも、もし牧師が感染した場合、その後の礼拝をどのようにするか、事前に検討しておくことが教会に求められるリスク管理として非常に重要です。
・ある教区では、礼拝のライブ配信を始めている教会同士で約束し、一方の牧師が感染した場合、もう一方の牧師によるライブ配信を一緒に視聴できるように取り決めています。知らない教会の牧師のメッセージを視聴するよりも、教区内の牧師によるライブ配信を視聴することにより、教区内で一緒に礼拝をささげる恵みを味わうことができます。
・それぞれの教区や地域によって、対応できる方法は異なることと思いますが、教区内の近隣の教会が互いに助け合いながら、教会員の礼拝生活がなんとか守られるように、ご検討くださるようお願いいたします。

4.その他
・夏季聖会やキャンプをはじめ、教団主催の諸行事をどうするかにつきましては、4 月 14 日(火)にインターネットを利用して行われる執行部会議、各局会議、教団委員会にて協議いたします。決まりましたら、改めてお知らせいたします。
・牧師給(最低謝儀)の支出が困難に陥っている教会に対する支援につきましても、14 日の教団委員会にて協議いたします。もうしばらくお待ちくださるようお願いいたします。
息が詰まるような重たい空気に覆われている私たちの世界ですが、主イエスが私たちのために十字架にかかってくださった大きな恵みを覚えながら、喜びのイースターを迎えたいと思います。このときも、父なる神が私たちの世界を憐れんでくださり、爆発的な感染拡大をとどめてくださるように。また、医療従事者をはじめとする多くの方々の働きが支えられますように。
皆さまの教会の上に、主の守りと祝福がありますようお祈りいたします。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
(ヨハネ 16 章 33 節/聖書協会共同訳)

主にありて

2020年4月2日木曜日

礼拝は不要不急なものか。


  新型コロナウィルスによる緊急事態の中で問われる礼拝は不要不急な事柄か

いかがお過ごしですか。今週(45日)も先週と同じく、教会に集まって礼拝するのではなく、各家庭で礼拝を守っていただきます。また、来週(412)も同じく、家庭での礼拝をお願いいたします。
みんなで集まって礼拝できないストレスをお感じだろうと思います。わたしもそうです。
でも、もうしばらくは我慢してください。みなさんが感染しないためでもあり、また教会が感染源とならないためですので、どうぞ辛抱してください。
 そのため、日曜日の10時半にはパソコンあるいはスマートホンで小金井福音キリスト教会のホームページにある今週の説教のコーナーからその日の礼拝が見られるようにしてありますのでご利用ください。
ところで、フロリダのメガチャーチの牧師さんが、外出禁止令にもかかわらず礼拝を持った(大勢の信徒が集まった)ことで、逮捕されたと言うニュースがありました。unlawful assembly and a violation of health emergency rules(健康に対する緊急事態法違反と違法的集会)という罪状だそうです
現在の情勢の中、礼拝を休まず強行する論理として、礼拝は不要不急なものではないと言うものがあるようです。ここでみんなで集まる公の礼拝を休止したら、それこそ礼拝は私たちの生活の中で、不要不急なものであると言うことを認めることになると言うわけです。
しかし、「今の時節」における礼拝に集まることを自粛する行為は、礼拝を不要不急の行為として認めることではなく、「あなたの隣人を愛せよ」というイエス・キリストの言葉を実践するものであり、それこそが絶対急務の事柄であって、礼拝を礼拝として実践することだと思います。それはまさに、イエス・キリスト様が譬えとして語られた「安息日に井戸に落ちたものを助ける行為」(ルカ145)だと言えるでしょうね。
カトリックの礼拝(ミサ典礼)の中心は、キリストの最高の奉仕を捧げるであると聞きます。つまり、礼拝はイエス・キリストの十字架の死という愛の業を、神に対する最高の奉仕として捧げるためのものなのです。だとすれば、愛の行為として公のミサに出席しないことは礼拝の本質を全うしていることになります。

 それに対して、プロテスタントの多くの教会の礼拝は説教を聞き、神の恵みに与ることを中心に行われます。神の恵みに与り、神の恵みによって自らを神に奉げ、神の言葉に生きるところにプロテスタントの礼拝の本質があると言えるでしょう。
 神の言葉に生きる。それは神の言葉(ロゴス)そのものであるイエス・キリスト様に倣って生きるということ。そのイエス・キリスト様の生涯は、「あなたの隣人を愛せよ」の完全な成就です。つまり、今の新型コロナウィルスの感染が拡大という情勢の中、プロテスタントにおいても、礼拝堂おける公の礼拝にあえて集まらないということは、礼拝の本質を全うしていることであると思います。

 むしろ、このような時節に、周囲の状況を顧みずに、礼拝は不要不急の行為ではないと言って礼拝に集まるように求める事は、逆に礼拝の本質を見失っていると私は考えます。
 私たちは今、礼拝に集まることができません。しかし、それはキリストの愛に倣い、隣人を愛するが故のことであり、私たちが礼拝に集まりたい気持ちを、一旦抑え、今の情勢という特別な状況下のもとで各家庭で礼拝をおこなうことで、私たちは礼拝の根底にあるキリストと一つになると言う礼拝と教会の本質を生きているのです。
 だから、みなさん。希望をもって頑張り、ちゃんと家庭で、また一人であっても礼拝しましょう。