2022年4月12日火曜日

2022年4月12日受難週 火曜日の黙想のために

 

        2022年4月12日受難週 火曜日の黙想のために

 

受難週の火曜日、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の受難週の黙想の言葉です。私たちの日々の歩みは、いつもうまくいくわけではありません。時には人から悪く言われたり、いわれもない非難の言葉を浴びせられ、心が沈んでしまうこともあるでしょう。その様な日々を思いながら聖書の言葉を、藤本牧師の黙想の言葉に導かれながら、思い廻らししましょう、

 

12(火)隠されたマナを与える

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。」(黙示録2:17)

 

イエスさま、あなたは私たちに勝利を与えると約束してくださいました。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(Ⅰコリント15:57)

勝利者のように歩ませてください。誹謗中傷を受け止める度量、忙しい毎日で自分を失わない余裕、様々なものが不足する中でも十分に満たされている心。勝利者として歩ませてください。そのために、あなたは毎日隠されたマナ(パン)を与えると約束してくださいました。御言葉を日々の糧としてかみしめることができますように。せっかく与えてくださっているこのようなマナを無駄にしませんように、知恵を与えてください。

2022年4月11日月曜日

2022年4月11日受難週 月曜日の黙想のために

          2022年4月11日受難週 月曜日の黙想のために

教会には、クリスマスを迎えるアドベントを年の最初の月として、そこから一年を数える教会歴というものがあります。クリスマスやイースターと言った教会の行事は、この教会歴に沿って行われます。
 その教会歴において、今週の日曜日は棕櫚の日曜日と呼ばれる日であり、この棕櫚の日曜日をさかいとして、教会は受難週というものにはいります。この受難週の金曜日が受苦日といって、キリストが十字架にかかられて死なれたことを覚え、時を過ごす教会にとって特別な日です。その受苦日までの一週間を受難週と呼び、一日一日、主イエス・キリスト様が十字架に向かって歩まれた日々を黙想しつつ思い廻らすのです。
 その黙想のための手引きとなる言葉を、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師が書いてくださっていますが、今日の言葉は次の通りです。ぜひ、あなたが心を静めて、神を思う廻らすためにお用いください。

11(月)死に至るまで忠実

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える」(黙示録 2:10)

イエスさま、あなたがスミルナの教会へ書き送った言葉を見るたびに、かつてスミルナの教会の牧師であったポリュカルポスを思い起こします。彼は言いました。「私は 84 年間キリストに仕えました。ただの一度も、キリストが私を悪く取り扱われたことはありません」。彼が火あぶりの刑で殉教する直前の言葉でした。

私もいつかは、大変な苦しみに遭うに違いありません。大きな試練に立ち向かうに違いありません。それが病であるのか、大切なテストであるのか、日常的なできごともあるでしょう。

しかし、そのようなときにもあなたに忠実であることができますように力を授けてください。その場面が福音とはまったく関係ない場合であったとしても、あなたが私をいつも支えていてくださることに気がつかせてください。そして、これまでの人生で、あなたはいつも誠実を尽くして私を助けてくださったことを思い起こすことができますように。あなたに忠実であることができますように。

2022年4月10日日曜日

棕櫚の主日礼拝説教「約束の成就」(’22年4月13日受難週主日)

‘22年4月第二主日(棕櫚の主日)礼拝説教「約束の成就」       2022.4.13

旧約書:創世記15章1節から19節

福音書:マタイによる福音書5章17節から20節

使徒書:へブル人への手紙12章1節から3節


 今日の主日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日となります。棕櫚の日曜日とは、イエス・キリスト様がエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そのエルサレムに入城される際の様子は、新約聖書ヨハネによる福音書12章12節から15節に描かれています。


その様子とは、イスラエルの民が棕櫚の葉を道に敷き詰めて、「ホサナ(「救い給え」と言う意味)」と歓喜の声をあげて、子ロバにのったイエス・キリスト様をエルサレム市街に迎え入れたとあります。棕櫚の日曜日と言う名前は、そのことに由来しています。


 その棕櫚に日曜日の礼拝の説教の中心となります聖書箇所はマタイによる福音書5章17節から20節です。この個所は、マタイの夜福音書の5章から7章にわたる山上の垂訓と呼ばれる、新約聖書の中では大変有名な個所の一部分です。


山上の垂訓とは、イエス・キリスト様が、小高い丘の上から神を信じる者はいかに生きるべきかということを、群衆に向かい語り、お教えになった出来事です。その中でイエス・キリスト様は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」といわれるのです。


律法というのは、神がイスラエルの民に対していかに生きて行くかということをお教えになったもので、つまり、神の民の倫理です。しかし、この神の民の倫理は、神の目からみた人間がいかに生きるかということが語られたものであり、神の救いの業とは無関係ではありません。


と言うのも、神の民として神のみ前に生きるということと、神の救いの業とは表裏一体ものだからです。それは、神の救いの業というものは、神の救いの業の内に置かれた者は、神の民として神のみ前に神の民らしく生きて行くことによって完成されていくものであるということを意味しています。そしてそれが、人との契約ということに内実なのです。


 このように、私たちの信仰と行いというものは、神の救いの業において決して切り離すことができません。ところが、私たちプロテスタントの教会はしばしば信仰と行いというものを切り離してきました。


たとえば、私たちは「人は行いによって救われるのではない。ただ神を信じる信仰によってのみ救われるのだ」と言う言葉を、しばしば聞いてきました。そして、その言葉は間違っていない。救いは、私たちの行いに対する神からの報酬、あるいはご褒美として与えられるものではないからです。


 しかし、救いに行いが必要ではないというわけでありません。もし私たちが信仰に行いが必要でないというならば、それは間違っている。だとすれば、この救いに必要な行いとはいったい何なのでしょうか。


 それは、神に従う、あるいは神の言葉に従うということです。先ほどお読みいたしました旧約聖書の創世記15章1節から19節は、神がアブラハムにカナンの地と彼に子どもを与え、その子孫に、神がアブラハムに与えたカナンの地を与えることを契約なさった出来事が記されている箇所です。


 実は、神はこの創世記15章の先立つ12章において、アブラハムが75歳の時に、神から当時住んでいたハランの地を出て、カナンの地に移り住みなさいと言われます。そして、アブラハムを通して地の全ての人々が祝福されるという神の御計画を聞かされます。


 その言葉を聞いたアブラハムは、神の言葉に従ってハランの地を旅立ち、カナンの地に移り住むのです。そのアブラハムに対して神は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われるのです。


 確かに、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われましたが、アブラハムがハランの地を旅立ったのは75歳の時です。そして、その時点でアブラハムには子供がいなかった。だから、「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われても、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐ子孫はいないのです。


 そこでアブラハムは、エリエゼルと言う人を養子に迎え、その人にアブラハムの財産を受け継がせようとするのです。しかし、神はアブラハムに「あなたにあなたの実の子が生まれる」とそういわれるのです。そして、その子から多くの子孫が生まれ、その子孫が、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐのだというのです。


 アブラハムは、その神の言葉を信じた。その時、神は「これを彼の義と認められた」とある。先ほどの創世記15章6節です。


 実は、この個所は非常に微妙な個所でして、日本語訳の聖書をみますと、どの日本語訳聖書も、神の言葉を信じたアブラハムが神によって義と認められたと受け止められるように訳していますが、しかし、もともとのヘブル語聖書を見ますと、アブラハムが神を義なるお方だと認めたと訳すことも可能なのです。


 そして、ユダヤ人たちの聖書解釈の中には、アブラハムは神の言葉を信じ、神が語られた言葉に対して真実なお方であり、神は神が語られたことを必ずなされるお方だとみとめたと受け止めている解釈もあるのです。


 しかし、いずれにせよ、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言う言葉を語られ、それを実現なさるお方である。そのことを確かなものとするために、神はアブラハムと契約を結ばれるのです。


そして、その契約を結ぶ儀式として8節から17節のある動物を真ん中に二つに裂き、その間を通るということが行われる。この動物を二つに裂き、その間を通るということは、この契約を破るならば、その契約を破ったものは切り裂かれて殺されても仕方がないということを意味していると言われます。つまり契約を交わす者には、自らの命を賭するほどの責任と義務を負うからです。


 言うまでもないことですが、契約においては、契約を結ぶものそれぞれが相手に対して義務と責任を負います。それを双務契約と言います。しかし、そのようなお互いに責任と義務を負いあう双務契約とは異なり、一方のみが義務と責任を負う片務契約(片務)というものがある。


 この創世記15章の場面においては、神のみがこの裂かれた動物の間を通ったことだけがしるされていますので、ここにおいて神とアブラハムとの間に結ばれた契約は片務契約のようなものだったのかもしれません。


 しかし、もともと片務契約と言うのは一方のみが責任と義務を負うものでありますが、しかし、このよう片務契約というものは、もともと主人や王が、その僕や国民の忠誠さや忠実さを見て、その態度に対して恩恵を与えるようなものなのです。


 つまり、アブラハムの神に対する忠実さや忠誠さを見て、神がアブラハムに対して恵みを与えるという契約を結ばれたと考えられるのです。その際、 神が負う責任は明らかです。それはと言う神の約束を果たすことです。「アブラハムの子孫が多く生み広がり、その子孫にこの地を与えます」と言う約束を果たす義務と責任を神が終われるのです。


 もちろん、その契約の前提となるアブラハムの神に対する忠実さは、アブラハムが神の言葉に従って故郷ハランの地から家族を連れて旅立ち、神が示した約束の地であるカナンの地に移り住んだことの中に見ることができる。そこには、神の語られた言葉に従って生きるアブラハムの姿を見ることができるのです。


 このアブラハムが主なる神の言葉に従うという忠誠、忠実さに対して、その忠実さを見た神が、何の対価を求めず恵みを与えるという契約がアブラハムの子孫までにも及ぶというのが、アブラハムと神との間の契約が持つ構造です。


 そして、その契約が歴史の中で展開し、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がアブラハムのように神の言葉に従ていくもととなっていくようにと、律法を用いながら神が導いておられるというのが、旧約聖書が物語る物語なのです。


 そしてその旧約聖書の物語が、イエス・キリスト様の受難の物語の中で語り継がれていくのです。それは、十字架の死に至るまでに神のご意思と御計画に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご生涯が、まさに神の律法を成就するものだからです。


 この神の律法は、マタイによる福音書22章35節から40節で、イエス・キリスト様がパリサイ派の人々に、「律法で最も大切な教えはなんですか?」と尋ねられた際にお答えになった「神を愛し、隣人を愛する」ということに集約されます。


 そして、この「隣人を愛する」ということは、敵をも愛するということを含むのです。つまり、隣人とは、仲のいい友達や、親戚家族と言った者だけではなく、敵をも愛するものである。それは、結局のところ、民族や人種を超えて全ての人が、隣人となのです。


 この、「神を愛し、隣人を愛する」という律法の生きた方を死に至るまで従順に生きられ、神の律法を成就なさったお方がイエス・キリスト様なのです。そのイエス・キリスト様の従順さのゆえに、すべての人が新しい契約のもとに置かれたのです。


それは、アブラハムの神の言葉に従う忠実さによって、約束された「地のすべての物が祝福される」という神の約束が、イエス・キリスト様によって成就されるという神の約束の成就でもあります。


 だからこそ、すべての人がイエス・キリスト様の生き方に倣い、「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方を、目指して生きる者とされたのです。


 みなさん、私たちは先ほど「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と語りかけるヘブル人への手紙12章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。みなさん、へブル人への手紙というのは、もちろんその内容がユダヤ的・ヘブライ的なので「へブル人への手紙」というタイトルがついているのですが、突き詰めて言うならば、神の民イスラエルとされた者に向かって書かれた手紙ということです。


 それは、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい契約のもとに生きる者すべてが、イエス・キリスト様を目指し、イエス・キリスト様に倣い「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方に招かれているということなのです。そして、その生き方を目指し生きるところに神の救いの業が実を結んでいく。神の民が神の民として、神の恵みと祝福が支配する神の王国で生きて行くものとなるのです。


 先ほど申しましたように、今日は棕櫚の日曜日です。イエス・キリスト様が神の都であるエルサレムに王として入城した日を記念する日です。このとき、イエス・キリスト様は軍馬ではなく、仔ロバに乗って、平和の王としてエルサレムに入られた。


 そこには「神を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を完成し成就するイエス・キリスト様のお姿が現れています。そして、その生き方に倣うことを、神は私たちに求めておられる。そのことを覚え、今、静まりの時をもち、心にしっかりと刻みたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め、私たちを祝福するという神の約束を思いましょう。静まりの時を持ちます。

       2022.4.13

旧約書:創世記15章1節から19節、福音書:マタイによる福音書5章17節から20節、使徒書:へブル人への手紙12章1節から3節


 今日の主日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日となります。棕櫚の日曜日とは、イエス・キリスト様がエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そのエルサレムに入城される際の様子は、新約聖書ヨハネによる福音書12章12節から15節に描かれています。

その様子とは、イスラエルの民が棕櫚の葉を道に敷き詰めて、「ホサナ(「救い給え」と言う意味)」と歓喜の声をあげて、子ロバにのったイエス・キリスト様をエルサレム市街に迎え入れたとあります。棕櫚の日曜日と言う名前は、そのことに由来しています。その棕櫚に日曜日の礼拝の説教の中心となります聖書箇所はマタイによる福音書5章17節から20節です。この個所は、マタイの夜福音書の5章から7章にわたる山上の垂訓と呼ばれる、新約聖書の中では大変有名な個所の一部分です。

山上の垂訓とは、イエス・キリスト様が、小高い丘の上から神を信じる者はいかに生きるべきかということを、群衆に向かい語り、お教えになった出来事です。その中でイエス・キリスト様は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」といわれるのです。

 律法というのは、神がイスラエルの民に対していかに生きて行くかということをお教えになったもので、つまり、神の民の倫理です。しかし、この神の民の倫理は、神の目からみた人間がいかに生きるかということが語られたものであり、神の救いの業とは無関係ではありません。

と言うのも、神の民として神のみ前に生きるということと、神の救いの業とは表裏一体ものだからです。それは、神の救いの業というものは、神の救いの業の内に置かれた者は、神の民として神のみ前に神の民らしく生きて行くことによって完成されていくものであるということを意味しています。そしてそれが、人との契約ということに内実なのです。このように、私たちの信仰と行いというものは、神の救いの業において決して切り離すことができません。ところが、私たちプロテスタントの教会はしばしば信仰と行いというものを切り離してきました。

たとえば、私たちは「人は行いによって救われるのではない。ただ神を信じる信仰によってのみ救われるのだ」と言う言葉を、しばしば聞いてきました。そして、その言葉は間違っていない。救いは、私たちの行いに対する神からの報酬、あるいはご褒美として与えられるものではないからです。

 しかし、救いに行いが必要ではないというわけでありません。もし私たちが信仰に行いが必要でないというならば、それは間違っている。だとすれば、この救いに必要な行いとはいったい何なのでしょうか。それは、神に従う、あるいは神の言葉に従うということです。先ほどお読みいたしました旧約聖書の創世記15章1節から19節は、神がアブラハムにカナンの地と彼に子どもを与え、その子孫に、神がアブラハムに与えたカナンの地を与えることを契約なさった出来事が記されている箇所です。

 実は、神はこの創世記15章の先立つ12章において、アブラハムが75歳の時に、神から当時住んでいたハランの地を出て、カナンの地に移り住みなさいと言われます。そして、アブラハムを通して地の全ての人々が祝福されるという神の御計画を聞かされます。その言葉を聞いたアブラハムは、神の言葉に従ってハランの地を旅立ち、カナンの地に移り住むのです。そのアブラハムに対して神は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われるのです。

 確かに、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われましたが、アブラハムがハランの地を旅立ったのは75歳の時です。そして、その時点でアブラハムには子供がいなかった。だから、「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われても、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐ子孫はいないのです。

 そこでアブラハムは、エリエゼルと言う人を養子に迎え、その人にアブラハムの財産を受け継がせようとするのです。しかし、神はアブラハムに「あなたにあなたの実の子が生まれる」とそういわれるのです。そして、その子から多くの子孫が生まれ、その子孫が、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐのだというのです。アブラハムは、その神の言葉を信じた。その時、神は「これを彼の義と認められた」とある。先ほどの創世記15章6節です。

 実は、この個所は非常に微妙な個所でして、日本語訳の聖書をみますと、どの日本語訳聖書も、神の言葉を信じたアブラハムが神によって義と認められたと受け止められるように訳していますが、しかし、もともとのヘブル語聖書を見ますと、アブラハムが神を義なるお方だと認めたと訳すことも可能なのです。そして、そのような訳に基づいてユダヤ人たちの聖書解釈の中には、アブラハムは神の言葉を信じ、神が語られた言葉に対して真実なお方であり、神は神が語られたことを必ずなされるお方だとみとめたと受け止めている解釈もあるのです。

 しかし、いずれにせよ、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言う言葉を語られ、それを実現なさるお方である。そのことを確かなものとするために、神はアブラハムと契約を結ばれるのです。そして、その契約を結ぶ儀式として8節から17節のある動物を真ん中に二つに裂き、その間を通るということが行われる。この動物を二つに裂き、その間を通るということは、この契約を破るならば、その契約を破ったものは切り裂かれて殺されても仕方がないということを意味していると言われます。つまり契約を交わす者には、自らの命を賭するほどの責任と義務を負うからです。

 言うまでもないことですが、契約においては、契約を結ぶものそれぞれが相手に対して義務と責任を負います。それを双務契約と言います。しかし、そのようなお互いに責任と義務を負いあう双務契約とは異なり、一方のみが義務と責任を負う片務契約(片務)というものがある。この創世記15章の場面においては、神のみがこの裂かれた動物の間を通ったことだけがしるされていますので、ここにおいて神とアブラハムとの間に結ばれた契約は、この片務契約のようなものだったのかもしれません。

 しかし、元来、片務契約と言うのは一方のみが責任と義務を負うものでありますが、しかし、このよう片務契約というものは、その期限が主人や王が、その僕や国民の忠誠さや忠実さを見て、その態度に対して恩恵を与えるようなものなのです。つまり、アブラハムの神に対する忠実さや忠誠さを見て、神がアブラハムに対して恵みを与えるという契約を結ばれたと考えられるのです。その際、 神が負う責任は明らかです。それはと言う神の約束を果たすことです。「アブラハムの子孫が多く生み広がり、その子孫にこの地を与えます」と言う約束を果たす義務と責任を神が終われるのです。

 もちろん、その契約の前提となるアブラハムの神に対する忠実さは、アブラハムが神の言葉に従って故郷ハランの地から家族を連れて旅立ち、神が示した約束の地であるカナンの地に移り住んだことの中に見ることができる。そこには、神の語られた言葉に従って生きるアブラハムの姿を見ることができるのです。

 このアブラハムが主なる神の言葉に従うという忠誠、忠実さに対して、その忠実さを見た神が、何の対価を求めず恵みを与えるという契約がアブラハムの子孫までにも及ぶというのが、アブラハムと神との間の契約が持つ構造です。そして、そのような構造を持つ契約が歴史の中で展開し、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がアブラハムのように神の言葉に従ていくもととなっていくようにと、律法を用いながら神が導いておられるというのが、旧約聖書が物語る物語なのです。そしてその旧約聖書の物語が、イエス・キリスト様の受難の物語の中で語り継がれていくのです。それは、十字架の死に至るまでに神のご意思と御計画に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご生涯が、まさに神の律法を成就するものだからです。

 この神の律法は、マタイによる福音書22章35節から40節で、イエス・キリスト様がパリサイ派の人々に、「律法で最も大切な教えはなんですか?」と尋ねられた際にお答えになった「神を愛し、隣人を愛する」ということに集約されます。そして、この「隣人を愛する」ということは、敵をも愛するということを含むのです。つまり、隣人とは、仲のいい友達や、親戚家族と言った者だけではなく、敵をも愛するものである。それは、結局のところ、民族や人種を超えて全ての人が、隣人となのです。

 この、「神を愛し、隣人を愛する」という律法の生きた方を死に至るまで従順に生きられ、神の律法を成就なさったお方がイエス・キリスト様なのです。そのイエス・キリスト様の従順さのゆえに、すべての人が新しい契約のもとに置かれたのです。それは、アブラハムの神の言葉に従う忠実さによって、約束された「地のすべての物が祝福される」という神の約束が、イエス・キリスト様によって成就されるという神の約束の成就でもあります。だからこそ、すべての人がイエス・キリスト様の生き方に倣い、「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方を、目指して生きる者とされたのです。

 みなさん、私たちは先ほど「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と語りかけるヘブル人への手紙12章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。みなさん、へブル人への手紙というのは、もちろんその内容がユダヤ的・ヘブライ的なので「へブル人への手紙」というタイトルがついているのですが、突き詰めて言うならば、神の民イスラエルとされた者に向かって書かれた手紙ということです。

 それは、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい契約のもとに生きる者すべてが、イエス・キリスト様を目指し、イエス・キリスト様に倣い「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方に招かれているということなのです。そして、その生き方を目指し生きるところに神の救いの業が実を結んでいく。神の民が神の民として、神の恵みと祝福が支配する神の王国で生きて行くものとなるのです。

 先ほど申しましたように、今日は棕櫚の日曜日です。イエス・キリスト様が神の都であるエルサレムに王として入城した日を記念する日です。このとき、イエス・キリスト様は軍馬ではなく、仔ロバに乗って、平和の王としてエルサレムに入られた。そこには「神を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を完成し成就するイエス・キリスト様のお姿が現れています。そして、その生き方に倣うことを、神は私たちに求めておられる。そのことを覚え、今、静まりの時をもち、心にしっかりと刻みたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め、私たちを祝福するという神の約束を思いましょう。静まりの時を持ちます。


2022年4月9日土曜日

日本ホーリネス教団相模原キリスト教会のHP

 今年から兼牧をする日本ホーリネス教団相模原キリスト教会のHPができました。LampMateの上坂兄の多大なる協力をいただいてようやくUpにこぎつけました。

まだ完全に完成と言うわけではないのですが、みなさんにお見せできるところまでは出来上がりましたのでアップします。
 よろしければ一度、(いえ一度と言わず何度でも)覗いてみてくだされば嬉しいです。

https://sagamihara-kirisuto.kyoukai.jp/

2022年4月5日火曜日

出来事となる言葉

 

「出来事となる言葉」

 息子が小学一年生になったころ、何を思ったのか、自分から「剣道がやりたい」と言い出しました剣。それで、私たち夫婦は、息子のために剣道を教えてくれるところを探しました。それで、教会の近くにある剣道クラブで稽古を始めたんです。

 剣道は武道でもあり、その稽古には、やはり厳しい一面があることは間違いがありません。だから、途中で「止めたい」と言い出すんじゃないかって心配になりました。けれども、息子がもし「止めたい」っていってきても、私も妻も「絶対に止めさせないぞ」って思っていました。

 それは、自分で「剣道をやりたい」って言い出したからです。自分で言った言葉には、自分で責任を取らなければなりません。だから、きちんと最後までやり遂げさせるつもりでした。そんなわけで息子は高校を卒業するまで、剣道を続けました。

 大学に入ってからもしばらくは続けていましたが、勉強が忙しくなったのか、大学に入学してしばらくして止めてしまいましたが、その時はもう大人になっていましたから、私たち夫婦も何言い優戦でした。

 

 ところで、聖書は、おもにヘブル語とギリシャ語で言葉でかかれていますが、そのへブル語で、言葉という単語は「ダーバール」といいます。このダーバールは、「言葉」という意味と同時に「出来事」と言う意味もあります。つまり語られた言葉は、必ず出来事になると言うことなんですね。

 

日本にも「言霊」っていう考え方があります。縁起のいい言葉を使えばいいことが起こり、縁起の悪い言葉を使えば、悪いことが起こるというやつですよ。ヘブル語のダーバールの感覚にちょっと似ている感じがしますね。

 でも、この語られた言葉は必ず出来事になるっていう「ダーバール」は、言霊とは似てはいますが、しかしちょっと違うのです。それは、人間の語った言葉が出来事を生み出すというのではなく、神が語った言葉は、必ず出来事になるということなんです。

 人間の語った言葉は、意外と信頼が置けないものです。ですから必ず出来事になるとは限りません。「剣道をやりたい」って言い出して稽古をはじめた息子です。でも、いつやめると言い出すかわかりません。だからこそ、親である私たちは、自分の言ったことに責任を持たせるために「絶対に止めさせないぞ」とそう決心しているわけです。

 けれども、神が語られた言葉は、必ず出来事となる。神の言葉は信頼のおける言葉のです。その神の言葉が、「私はあなたを見捨てず、あなたをはなれない」と言います。神は、は私たちを愛してくださっているからです。だから、神は、この神の言葉を信じるものとと、共にいてくださり、私たちを支え続けてくださるのです。神が私たちを見捨てない。この言葉は、必ず出来事になるのです。

2022年3月17日木曜日

聖書の言葉における言葉の限界性

           聖書の言葉における言葉の限界性

 聖書の言葉は、人間の言葉によって書かれたものである。これは歴史的事実である。同時に聖書は神の言葉である。これは信仰の事実である。これを聖書の人言性と神言性と呼ぶ。このように聖書は人言性と神言性と言う両性を持つ。このことは、聖書は人間に神に関する知識を完全な正しさを伝えるものではないことの明らかな証明となる。なぜならば、神は、神であって人間ではなく、我々人間を含んでこの世界を超越した存在だからである。

 それに対して、我々人間の語る言葉は、世界内を叙述する言葉であって、この世界内の存在と経験についての認識を語ることができるが、この世界を超越したものを語ることができない。この点において、我々はカントに同意することができる。つまり、いくら聖書を用いて、神についての命題化された知識を語ろうとも、その言葉は人間の言葉をもって語られている以上、それは神についての正しい知識を語っているということにならないのである。

 例えばこういうことである。我々が聖書をもとに「神は愛である」と語ったとしよう。そして、その根拠にヨハネの手紙一の五章を挙げたとして、その「愛」は、我々人間の認識内の愛であり、「神は愛である」というが伝えるものは、我々が認識するあ「愛」でしかない。その「愛」をもって、「神は愛である」ということが、神についての命題化された真理であるとするならば、神は我々人間の知性内の存在でしかなくなる。

命題化された真理と言うのは「Aは○○である」という主語と述部によって構成される短文で叙述されるものである。しかし、神は人間の知性を超えた超越的存在であって、本来「いる」という述部だけによって直感される存在である。だから、「神は愛である」と言う言葉も、超越者である神を完全に述べたものではない。つまりそれは、私たちの知性に置いて理解できる範囲内において「神は愛である」と語りうるものであり、そこで述べられている愛は、私たちの認識する愛とは質的に違っている。つまり、聖書が「神は愛である」という言葉で、神を命題的に定義するとするならば、それは決して神の実態を正しく伝えたことにはならない。むしろ、私たちの知性内において認識できる「愛」の概念によって神を歪曲化させることにさえなりかねない。それゆえに、神を命題的真理として語る言葉は、神に対する人間の解釈に過ぎないのである、

ここには、聖書の人言性が持つ言葉の限界性がある。そして著者が、東日本大震災の被災地において、そこにたたずむ被災者を前にして、「私たち人間は罪びとです。神は、その罪びとである私たちを罪とその罪の裁きである死から救うために十字架にかかって死んでくださったのです。それほどまでに神はあなたを愛しているのです」に空しさを感じたのは、この聖書の持つ言葉の人言性のゆえであり、この限界ある言葉をもって、「神は愛である」と命題して神を認識していたからに他ならないからである。された「神は愛である」という命題化された言葉の歪みのためである。それは、「愛」と言う言葉だけではない。直感した神の存在を人間の言葉で表現しようとするとき、いかなる言葉を用いても、神を矮小化し、歪曲化してしまっている。その意味で、人間の言葉は、神の前では限界性を持つ。

 しかし、それでもなお、聖書は「神は愛である」と命題的(あくまでも的である)に語る。実際ヨハネ手紙一の著者は、「神は愛である」と述べているのである。では、いったいなぜ、神はヨハネの手紙一の手紙の著者をして「神は愛である」と語らしめたのであろうか。それは、聖書が人間について語る者だからである。すなわち、神は、自らの行為をして愛というものを定義し、その定義に基づく愛によって、我々をたがいに愛し合う者とするために「神は愛である」と語るのである[i]。つまり、聖書は、我々人間の生き方について語るがゆえに、我々の知性内の言葉を持つ限界性内で、神の意思を語ることができるのである。このとき、神の前に限界性のある人間の言葉が、人間の言葉であると同時に、その人間としての言葉の限界性を超え、神の言葉としての神言性を持つのである。

このようにして、超越者たる神は、単に直感される存在としてだけでなく、言葉によってこの世界内に内在する。そして、神の言葉である聖書は、人間の言葉によって言い表す世界内の存在と経験を用いて、私たちを神の民として、神の前で生きるように導き、神の意思を伝えるのである。

 



[i] 「神は愛である」と述べるヨハネの手紙一の四章七節から二〇節は、七節の「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです」という、愛することへの勧めの言葉から始まる。そして、九節において「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです」と述べて「神は愛である」と提示する。そして、一〇節および一一節でその提示した「愛」の内容を「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」として表す。そして、再び一一節で「愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」と結び、再び愛し合うことへの勧めがなされている。このように、ヨハネ手紙一の著者が「神は愛である」と述べる意図は、徹底して私たちが「愛」と言う言葉で定義された生き方に私たちを導くためである。それは、たとえば創世記一七章一節において、神が「私は全能の神」であると言われる場合においても同じである。神は、人間の言葉が認識できる「全能」という言葉を通して、「私の前に歩み、全き者でありなさい」という神の前に生きる生き方を指し示している。このように、命題的に思われる言葉は、人間が理解し認識できる世界内の言葉として、世界内に生きる人間の生き方を提示するためのものである。

2022年2月15日火曜日

十戒 「父と母とを敬え」

             十戒 「父と母とを敬え」

現在、北京オリンピックが開かれており、多くのアスリートたちが自分たちの積み重ねてきた努力の成果を競い合っています。競技においては、勝者と敗者をあらわしていますが、勝者であろうと敗者であろうと、血のにじむような努力をしてきたからこそ、勝者に対しても敗者に対しても感動し、同じように拍手を送るのではないでしょうか。
 私が多くの事を学んできたエラスムスという人は、信仰における努力ということを大切にしています。それは自らの信仰の歩みを研鑽するという努力です。私たちプロテスタントの教会の多くは、「信仰義認」ということを強調するがゆえに「救いは行いではなく神を信じる信仰による」と言ってきました。そのため、信仰における努力ということが見落とされてきました。

「救いは行いではなく神を信じる信仰による」という言葉は、間違っていません。それは正しいことです。私たちは自分の行いの結果、その行いに対する報酬として救いに与るわけではないからです。しかし、だからといって、神を信じる信仰は行いと無関係ではありません。神を信じるということは、神を見上げて生きるということでもあるからです。つまり、信仰とは神を信じるという決断と、神を見上げて生きるということから成り立つのです。

エラスムスという人が、信仰における努力ということを大切にしたのは、このためです。そして、その精神は十戒の中にも反映されています。いえ、旧約聖書自体、その精神に貫かれて書かれています。

 

 以前にも申し上げましたが、十戒は前半部分が神と人との関係に関わる内容が関わっています。そこには、神を信じるということとはどういうことかということが書かれています。つまり、敬虔とは何かということ教えているのです。そして、後半の部分では、人と人との関係について書かれています。それは、神を信じる者の倫理・道徳に関わる者です。

 倫理というのは、人間の行動を律するものであり、人と人との間にあって神を信じる者はいかに生きて行けばよいのかということを教えるものです。その人と人との関係を語り始めるにあたって、神はまず、「あなたの父と母とを敬え」と言います。

 

 この言葉は、家庭という最も小さな共同体が意識されて語られた言葉に他なりません。同時に、その言葉は今から三千年以上前の、中近東のパレスチナ地方で語られたということを心にとどめておく必要があります。そのうえで、二つの点に目を向けたいということです。
 一つは、「父と母を敬え」と「母」を入れている視点です。というのも、この中近東の文化の中には男性社会が根強くあるからです。三千年以上前の中近東を舞台にした聖書の中で、父を敬えというのではなく、母を敬えと言っている点は、極めて重要に思われます。


 いうまでもありませんが、子供を愛するのは父親だけでなく、母親も子供を愛しています。聖書の中にも子供を思う母親の姿がいくつも描かれています。ですから、その家族関係の中で、「あなたの父と母とを敬え」というとき、それは、父と母を根拠は、父と母が子どもに注ぐ愛情がまずあり、その愛情に「父と母を敬う」という態度をもって答えるということなのです。逆に言うならば、父親と母親に対しては、まず子供の惜しみない愛情を注ぐことを聖書は求めているといってもいいでしょう。そのように、惜しみない愛が注がれ、それに敬いをもって応じる。それが親と子の関係なのだと聖書は教えているのです。

 

 十戒は、旧約聖書にしるされています。その旧約聖書はキリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教が聖なる書物として受け入れています。その中で、キリスト教に際立って見られる特徴は、神を父として受け止めている点です。私たちの教団の藤巻充先生は、宗教学的視点をもってキリスト教を見ることができた稀有な神学者であり、私たち福音派の中では、唯一の存在です。その藤巻先生は、キリスト教の宗教経験は、イエス・キリスト様が神を父として経験し、その神を父として経験した経験を伝えたところにあると言っていますが、とても鋭い指摘です。しかし、十戒は「父と母を敬いましょう」と言います。それは、神が父であり母である存在だからです。つまり、神の中には、私たちを守り、支え、そして教え導く父性と、限りない無限の愛を子に注ぐ母性があふれているのです。
 ですから、十戒において「父と母とを敬いましょう」と勧めるその背景には、私たちに父なる神であり、母なる神でもある神を愛しましょうという」メッセージが、その根底にあるのです。