「出来事となる言葉」
息子が小学一年生になったころ、何を思ったのか、自分から「剣道がやりたい」と言い出しました剣。それで、私たち夫婦は、息子のために剣道を教えてくれるところを探しました。それで、教会の近くにある剣道クラブで稽古を始めたんです。
剣道は武道でもあり、その稽古には、やはり厳しい一面があることは間違いがありません。だから、途中で「止めたい」と言い出すんじゃないかって心配になりました。けれども、息子がもし「止めたい」っていってきても、私も妻も「絶対に止めさせないぞ」って思っていました。
それは、自分で「剣道をやりたい」って言い出したからです。自分で言った言葉には、自分で責任を取らなければなりません。だから、きちんと最後までやり遂げさせるつもりでした。そんなわけで息子は高校を卒業するまで、剣道を続けました。
大学に入ってからもしばらくは続けていましたが、勉強が忙しくなったのか、大学に入学してしばらくして止めてしまいましたが、その時はもう大人になっていましたから、私たち夫婦も何言い優戦でした。
ところで、聖書は、おもにヘブル語とギリシャ語で言葉でかかれていますが、そのへブル語で、言葉という単語は「ダーバール」といいます。このダーバールは、「言葉」という意味と同時に「出来事」と言う意味もあります。つまり語られた言葉は、必ず出来事になると言うことなんですね。
日本にも「言霊」っていう考え方があります。縁起のいい言葉を使えばいいことが起こり、縁起の悪い言葉を使えば、悪いことが起こるというやつですよ。ヘブル語のダーバールの感覚にちょっと似ている感じがしますね。
でも、この語られた言葉は必ず出来事になるっていう「ダーバール」は、言霊とは似てはいますが、しかしちょっと違うのです。それは、人間の語った言葉が出来事を生み出すというのではなく、神が語った言葉は、必ず出来事になるということなんです。
人間の語った言葉は、意外と信頼が置けないものです。ですから必ず出来事になるとは限りません。「剣道をやりたい」って言い出して稽古をはじめた息子です。でも、いつやめると言い出すかわかりません。だからこそ、親である私たちは、自分の言ったことに責任を持たせるために「絶対に止めさせないぞ」とそう決心しているわけです。
けれども、神が語られた言葉は、必ず出来事となる。神の言葉は信頼のおける言葉のです。その神の言葉が、「私はあなたを見捨てず、あなたをはなれない」と言います。神は、は私たちを愛してくださっているからです。だから、神は、この神の言葉を信じるものとと、共にいてくださり、私たちを支え続けてくださるのです。神が私たちを見捨てない。この言葉は、必ず出来事になるのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿