2022年4月10日日曜日

棕櫚の主日礼拝説教「約束の成就」(’22年4月13日受難週主日)

‘22年4月第二主日(棕櫚の主日)礼拝説教「約束の成就」       2022.4.13

旧約書:創世記15章1節から19節

福音書:マタイによる福音書5章17節から20節

使徒書:へブル人への手紙12章1節から3節


 今日の主日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日となります。棕櫚の日曜日とは、イエス・キリスト様がエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そのエルサレムに入城される際の様子は、新約聖書ヨハネによる福音書12章12節から15節に描かれています。


その様子とは、イスラエルの民が棕櫚の葉を道に敷き詰めて、「ホサナ(「救い給え」と言う意味)」と歓喜の声をあげて、子ロバにのったイエス・キリスト様をエルサレム市街に迎え入れたとあります。棕櫚の日曜日と言う名前は、そのことに由来しています。


 その棕櫚に日曜日の礼拝の説教の中心となります聖書箇所はマタイによる福音書5章17節から20節です。この個所は、マタイの夜福音書の5章から7章にわたる山上の垂訓と呼ばれる、新約聖書の中では大変有名な個所の一部分です。


山上の垂訓とは、イエス・キリスト様が、小高い丘の上から神を信じる者はいかに生きるべきかということを、群衆に向かい語り、お教えになった出来事です。その中でイエス・キリスト様は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」といわれるのです。


律法というのは、神がイスラエルの民に対していかに生きて行くかということをお教えになったもので、つまり、神の民の倫理です。しかし、この神の民の倫理は、神の目からみた人間がいかに生きるかということが語られたものであり、神の救いの業とは無関係ではありません。


と言うのも、神の民として神のみ前に生きるということと、神の救いの業とは表裏一体ものだからです。それは、神の救いの業というものは、神の救いの業の内に置かれた者は、神の民として神のみ前に神の民らしく生きて行くことによって完成されていくものであるということを意味しています。そしてそれが、人との契約ということに内実なのです。


 このように、私たちの信仰と行いというものは、神の救いの業において決して切り離すことができません。ところが、私たちプロテスタントの教会はしばしば信仰と行いというものを切り離してきました。


たとえば、私たちは「人は行いによって救われるのではない。ただ神を信じる信仰によってのみ救われるのだ」と言う言葉を、しばしば聞いてきました。そして、その言葉は間違っていない。救いは、私たちの行いに対する神からの報酬、あるいはご褒美として与えられるものではないからです。


 しかし、救いに行いが必要ではないというわけでありません。もし私たちが信仰に行いが必要でないというならば、それは間違っている。だとすれば、この救いに必要な行いとはいったい何なのでしょうか。


 それは、神に従う、あるいは神の言葉に従うということです。先ほどお読みいたしました旧約聖書の創世記15章1節から19節は、神がアブラハムにカナンの地と彼に子どもを与え、その子孫に、神がアブラハムに与えたカナンの地を与えることを契約なさった出来事が記されている箇所です。


 実は、神はこの創世記15章の先立つ12章において、アブラハムが75歳の時に、神から当時住んでいたハランの地を出て、カナンの地に移り住みなさいと言われます。そして、アブラハムを通して地の全ての人々が祝福されるという神の御計画を聞かされます。


 その言葉を聞いたアブラハムは、神の言葉に従ってハランの地を旅立ち、カナンの地に移り住むのです。そのアブラハムに対して神は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われるのです。


 確かに、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われましたが、アブラハムがハランの地を旅立ったのは75歳の時です。そして、その時点でアブラハムには子供がいなかった。だから、「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われても、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐ子孫はいないのです。


 そこでアブラハムは、エリエゼルと言う人を養子に迎え、その人にアブラハムの財産を受け継がせようとするのです。しかし、神はアブラハムに「あなたにあなたの実の子が生まれる」とそういわれるのです。そして、その子から多くの子孫が生まれ、その子孫が、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐのだというのです。


 アブラハムは、その神の言葉を信じた。その時、神は「これを彼の義と認められた」とある。先ほどの創世記15章6節です。


 実は、この個所は非常に微妙な個所でして、日本語訳の聖書をみますと、どの日本語訳聖書も、神の言葉を信じたアブラハムが神によって義と認められたと受け止められるように訳していますが、しかし、もともとのヘブル語聖書を見ますと、アブラハムが神を義なるお方だと認めたと訳すことも可能なのです。


 そして、ユダヤ人たちの聖書解釈の中には、アブラハムは神の言葉を信じ、神が語られた言葉に対して真実なお方であり、神は神が語られたことを必ずなされるお方だとみとめたと受け止めている解釈もあるのです。


 しかし、いずれにせよ、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言う言葉を語られ、それを実現なさるお方である。そのことを確かなものとするために、神はアブラハムと契約を結ばれるのです。


そして、その契約を結ぶ儀式として8節から17節のある動物を真ん中に二つに裂き、その間を通るということが行われる。この動物を二つに裂き、その間を通るということは、この契約を破るならば、その契約を破ったものは切り裂かれて殺されても仕方がないということを意味していると言われます。つまり契約を交わす者には、自らの命を賭するほどの責任と義務を負うからです。


 言うまでもないことですが、契約においては、契約を結ぶものそれぞれが相手に対して義務と責任を負います。それを双務契約と言います。しかし、そのようなお互いに責任と義務を負いあう双務契約とは異なり、一方のみが義務と責任を負う片務契約(片務)というものがある。


 この創世記15章の場面においては、神のみがこの裂かれた動物の間を通ったことだけがしるされていますので、ここにおいて神とアブラハムとの間に結ばれた契約は片務契約のようなものだったのかもしれません。


 しかし、もともと片務契約と言うのは一方のみが責任と義務を負うものでありますが、しかし、このよう片務契約というものは、もともと主人や王が、その僕や国民の忠誠さや忠実さを見て、その態度に対して恩恵を与えるようなものなのです。


 つまり、アブラハムの神に対する忠実さや忠誠さを見て、神がアブラハムに対して恵みを与えるという契約を結ばれたと考えられるのです。その際、 神が負う責任は明らかです。それはと言う神の約束を果たすことです。「アブラハムの子孫が多く生み広がり、その子孫にこの地を与えます」と言う約束を果たす義務と責任を神が終われるのです。


 もちろん、その契約の前提となるアブラハムの神に対する忠実さは、アブラハムが神の言葉に従って故郷ハランの地から家族を連れて旅立ち、神が示した約束の地であるカナンの地に移り住んだことの中に見ることができる。そこには、神の語られた言葉に従って生きるアブラハムの姿を見ることができるのです。


 このアブラハムが主なる神の言葉に従うという忠誠、忠実さに対して、その忠実さを見た神が、何の対価を求めず恵みを与えるという契約がアブラハムの子孫までにも及ぶというのが、アブラハムと神との間の契約が持つ構造です。


 そして、その契約が歴史の中で展開し、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がアブラハムのように神の言葉に従ていくもととなっていくようにと、律法を用いながら神が導いておられるというのが、旧約聖書が物語る物語なのです。


 そしてその旧約聖書の物語が、イエス・キリスト様の受難の物語の中で語り継がれていくのです。それは、十字架の死に至るまでに神のご意思と御計画に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご生涯が、まさに神の律法を成就するものだからです。


 この神の律法は、マタイによる福音書22章35節から40節で、イエス・キリスト様がパリサイ派の人々に、「律法で最も大切な教えはなんですか?」と尋ねられた際にお答えになった「神を愛し、隣人を愛する」ということに集約されます。


 そして、この「隣人を愛する」ということは、敵をも愛するということを含むのです。つまり、隣人とは、仲のいい友達や、親戚家族と言った者だけではなく、敵をも愛するものである。それは、結局のところ、民族や人種を超えて全ての人が、隣人となのです。


 この、「神を愛し、隣人を愛する」という律法の生きた方を死に至るまで従順に生きられ、神の律法を成就なさったお方がイエス・キリスト様なのです。そのイエス・キリスト様の従順さのゆえに、すべての人が新しい契約のもとに置かれたのです。


それは、アブラハムの神の言葉に従う忠実さによって、約束された「地のすべての物が祝福される」という神の約束が、イエス・キリスト様によって成就されるという神の約束の成就でもあります。


 だからこそ、すべての人がイエス・キリスト様の生き方に倣い、「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方を、目指して生きる者とされたのです。


 みなさん、私たちは先ほど「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と語りかけるヘブル人への手紙12章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。みなさん、へブル人への手紙というのは、もちろんその内容がユダヤ的・ヘブライ的なので「へブル人への手紙」というタイトルがついているのですが、突き詰めて言うならば、神の民イスラエルとされた者に向かって書かれた手紙ということです。


 それは、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい契約のもとに生きる者すべてが、イエス・キリスト様を目指し、イエス・キリスト様に倣い「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方に招かれているということなのです。そして、その生き方を目指し生きるところに神の救いの業が実を結んでいく。神の民が神の民として、神の恵みと祝福が支配する神の王国で生きて行くものとなるのです。


 先ほど申しましたように、今日は棕櫚の日曜日です。イエス・キリスト様が神の都であるエルサレムに王として入城した日を記念する日です。このとき、イエス・キリスト様は軍馬ではなく、仔ロバに乗って、平和の王としてエルサレムに入られた。


 そこには「神を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を完成し成就するイエス・キリスト様のお姿が現れています。そして、その生き方に倣うことを、神は私たちに求めておられる。そのことを覚え、今、静まりの時をもち、心にしっかりと刻みたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め、私たちを祝福するという神の約束を思いましょう。静まりの時を持ちます。

       2022.4.13

旧約書:創世記15章1節から19節、福音書:マタイによる福音書5章17節から20節、使徒書:へブル人への手紙12章1節から3節


 今日の主日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日となります。棕櫚の日曜日とは、イエス・キリスト様がエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そのエルサレムに入城される際の様子は、新約聖書ヨハネによる福音書12章12節から15節に描かれています。

その様子とは、イスラエルの民が棕櫚の葉を道に敷き詰めて、「ホサナ(「救い給え」と言う意味)」と歓喜の声をあげて、子ロバにのったイエス・キリスト様をエルサレム市街に迎え入れたとあります。棕櫚の日曜日と言う名前は、そのことに由来しています。その棕櫚に日曜日の礼拝の説教の中心となります聖書箇所はマタイによる福音書5章17節から20節です。この個所は、マタイの夜福音書の5章から7章にわたる山上の垂訓と呼ばれる、新約聖書の中では大変有名な個所の一部分です。

山上の垂訓とは、イエス・キリスト様が、小高い丘の上から神を信じる者はいかに生きるべきかということを、群衆に向かい語り、お教えになった出来事です。その中でイエス・キリスト様は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」といわれるのです。

 律法というのは、神がイスラエルの民に対していかに生きて行くかということをお教えになったもので、つまり、神の民の倫理です。しかし、この神の民の倫理は、神の目からみた人間がいかに生きるかということが語られたものであり、神の救いの業とは無関係ではありません。

と言うのも、神の民として神のみ前に生きるということと、神の救いの業とは表裏一体ものだからです。それは、神の救いの業というものは、神の救いの業の内に置かれた者は、神の民として神のみ前に神の民らしく生きて行くことによって完成されていくものであるということを意味しています。そしてそれが、人との契約ということに内実なのです。このように、私たちの信仰と行いというものは、神の救いの業において決して切り離すことができません。ところが、私たちプロテスタントの教会はしばしば信仰と行いというものを切り離してきました。

たとえば、私たちは「人は行いによって救われるのではない。ただ神を信じる信仰によってのみ救われるのだ」と言う言葉を、しばしば聞いてきました。そして、その言葉は間違っていない。救いは、私たちの行いに対する神からの報酬、あるいはご褒美として与えられるものではないからです。

 しかし、救いに行いが必要ではないというわけでありません。もし私たちが信仰に行いが必要でないというならば、それは間違っている。だとすれば、この救いに必要な行いとはいったい何なのでしょうか。それは、神に従う、あるいは神の言葉に従うということです。先ほどお読みいたしました旧約聖書の創世記15章1節から19節は、神がアブラハムにカナンの地と彼に子どもを与え、その子孫に、神がアブラハムに与えたカナンの地を与えることを契約なさった出来事が記されている箇所です。

 実は、神はこの創世記15章の先立つ12章において、アブラハムが75歳の時に、神から当時住んでいたハランの地を出て、カナンの地に移り住みなさいと言われます。そして、アブラハムを通して地の全ての人々が祝福されるという神の御計画を聞かされます。その言葉を聞いたアブラハムは、神の言葉に従ってハランの地を旅立ち、カナンの地に移り住むのです。そのアブラハムに対して神は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われるのです。

 確かに、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われましたが、アブラハムがハランの地を旅立ったのは75歳の時です。そして、その時点でアブラハムには子供がいなかった。だから、「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われても、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐ子孫はいないのです。

 そこでアブラハムは、エリエゼルと言う人を養子に迎え、その人にアブラハムの財産を受け継がせようとするのです。しかし、神はアブラハムに「あなたにあなたの実の子が生まれる」とそういわれるのです。そして、その子から多くの子孫が生まれ、その子孫が、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐのだというのです。アブラハムは、その神の言葉を信じた。その時、神は「これを彼の義と認められた」とある。先ほどの創世記15章6節です。

 実は、この個所は非常に微妙な個所でして、日本語訳の聖書をみますと、どの日本語訳聖書も、神の言葉を信じたアブラハムが神によって義と認められたと受け止められるように訳していますが、しかし、もともとのヘブル語聖書を見ますと、アブラハムが神を義なるお方だと認めたと訳すことも可能なのです。そして、そのような訳に基づいてユダヤ人たちの聖書解釈の中には、アブラハムは神の言葉を信じ、神が語られた言葉に対して真実なお方であり、神は神が語られたことを必ずなされるお方だとみとめたと受け止めている解釈もあるのです。

 しかし、いずれにせよ、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言う言葉を語られ、それを実現なさるお方である。そのことを確かなものとするために、神はアブラハムと契約を結ばれるのです。そして、その契約を結ぶ儀式として8節から17節のある動物を真ん中に二つに裂き、その間を通るということが行われる。この動物を二つに裂き、その間を通るということは、この契約を破るならば、その契約を破ったものは切り裂かれて殺されても仕方がないということを意味していると言われます。つまり契約を交わす者には、自らの命を賭するほどの責任と義務を負うからです。

 言うまでもないことですが、契約においては、契約を結ぶものそれぞれが相手に対して義務と責任を負います。それを双務契約と言います。しかし、そのようなお互いに責任と義務を負いあう双務契約とは異なり、一方のみが義務と責任を負う片務契約(片務)というものがある。この創世記15章の場面においては、神のみがこの裂かれた動物の間を通ったことだけがしるされていますので、ここにおいて神とアブラハムとの間に結ばれた契約は、この片務契約のようなものだったのかもしれません。

 しかし、元来、片務契約と言うのは一方のみが責任と義務を負うものでありますが、しかし、このよう片務契約というものは、その期限が主人や王が、その僕や国民の忠誠さや忠実さを見て、その態度に対して恩恵を与えるようなものなのです。つまり、アブラハムの神に対する忠実さや忠誠さを見て、神がアブラハムに対して恵みを与えるという契約を結ばれたと考えられるのです。その際、 神が負う責任は明らかです。それはと言う神の約束を果たすことです。「アブラハムの子孫が多く生み広がり、その子孫にこの地を与えます」と言う約束を果たす義務と責任を神が終われるのです。

 もちろん、その契約の前提となるアブラハムの神に対する忠実さは、アブラハムが神の言葉に従って故郷ハランの地から家族を連れて旅立ち、神が示した約束の地であるカナンの地に移り住んだことの中に見ることができる。そこには、神の語られた言葉に従って生きるアブラハムの姿を見ることができるのです。

 このアブラハムが主なる神の言葉に従うという忠誠、忠実さに対して、その忠実さを見た神が、何の対価を求めず恵みを与えるという契約がアブラハムの子孫までにも及ぶというのが、アブラハムと神との間の契約が持つ構造です。そして、そのような構造を持つ契約が歴史の中で展開し、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がアブラハムのように神の言葉に従ていくもととなっていくようにと、律法を用いながら神が導いておられるというのが、旧約聖書が物語る物語なのです。そしてその旧約聖書の物語が、イエス・キリスト様の受難の物語の中で語り継がれていくのです。それは、十字架の死に至るまでに神のご意思と御計画に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご生涯が、まさに神の律法を成就するものだからです。

 この神の律法は、マタイによる福音書22章35節から40節で、イエス・キリスト様がパリサイ派の人々に、「律法で最も大切な教えはなんですか?」と尋ねられた際にお答えになった「神を愛し、隣人を愛する」ということに集約されます。そして、この「隣人を愛する」ということは、敵をも愛するということを含むのです。つまり、隣人とは、仲のいい友達や、親戚家族と言った者だけではなく、敵をも愛するものである。それは、結局のところ、民族や人種を超えて全ての人が、隣人となのです。

 この、「神を愛し、隣人を愛する」という律法の生きた方を死に至るまで従順に生きられ、神の律法を成就なさったお方がイエス・キリスト様なのです。そのイエス・キリスト様の従順さのゆえに、すべての人が新しい契約のもとに置かれたのです。それは、アブラハムの神の言葉に従う忠実さによって、約束された「地のすべての物が祝福される」という神の約束が、イエス・キリスト様によって成就されるという神の約束の成就でもあります。だからこそ、すべての人がイエス・キリスト様の生き方に倣い、「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方を、目指して生きる者とされたのです。

 みなさん、私たちは先ほど「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と語りかけるヘブル人への手紙12章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。みなさん、へブル人への手紙というのは、もちろんその内容がユダヤ的・ヘブライ的なので「へブル人への手紙」というタイトルがついているのですが、突き詰めて言うならば、神の民イスラエルとされた者に向かって書かれた手紙ということです。

 それは、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい契約のもとに生きる者すべてが、イエス・キリスト様を目指し、イエス・キリスト様に倣い「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方に招かれているということなのです。そして、その生き方を目指し生きるところに神の救いの業が実を結んでいく。神の民が神の民として、神の恵みと祝福が支配する神の王国で生きて行くものとなるのです。

 先ほど申しましたように、今日は棕櫚の日曜日です。イエス・キリスト様が神の都であるエルサレムに王として入城した日を記念する日です。このとき、イエス・キリスト様は軍馬ではなく、仔ロバに乗って、平和の王としてエルサレムに入られた。そこには「神を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を完成し成就するイエス・キリスト様のお姿が現れています。そして、その生き方に倣うことを、神は私たちに求めておられる。そのことを覚え、今、静まりの時をもち、心にしっかりと刻みたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め、私たちを祝福するという神の約束を思いましょう。静まりの時を持ちます。


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