2024年1月23日火曜日

命の主権者

 親の遺産を相続するというのは、なかなか厄介なことのようです。それまで仲の良かった家族が遺産相続をめぐって骨肉の争いをするというようなことだってありようです。そして実際に、そのような話を聞いたこともあります。それは、財産やお金というものが、豊かな生活がもたらす安心を与えてくれ、将来の不安を取り除いてくれるように思うからでしょうね。

新約聖書ルカによる福音書十二章十三節以降に、その遺産相続をめぐる争いをめぐるこんな話があります。

 ある時一人の人が、キリストに相談を持ちかけました。その人は、兄弟が自分に、遺産を分けてくれないので、キリストに遺産相続の調停をしてもらおうと思っていたようです。
 キリストは、この人の相談を聞きながら、この人が、自分に遺産が入ってくれば、自分の将来は安心だと思っていることを見抜き、こんなことを言われたんです。「どんな貪欲にも注意しなさい。いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
 そして、こんな例え話をしました。「ある金持ちが、豊作で何年分もの食料を、蔵一杯に蓄え、心の中で、こう言いました。『これから先何年分もの食料が、たくわえられたから、もう大丈夫。安心して暮していける。』 その時神がその金持ちに語りかけます。『愚かな人だ。あなたは自分のために、これからのために、何年分もの食料を用意したが、お前の命は今日、取り去られる。そうしたら、お前が蓄えた食べ物は誰のものになるのか』」

 この例え話は、将来のために蓄えをすることが愚かなことだと言っているのではありません。将来のために、計画的な準備をすることは決して悪いことではないのです。けれども、キリストは、それだけでは十分ではない、もっと大切なことがあるのだということを教えているのです。それは、神を信じ、神により頼みながら生きると言うことです。

 もともと、この話は、一人の人が自分に遺産が入ってくれば、自分の将来は安心だと思い、キリストに遺産相続の調停を願い求めたところから始まっています。きっと、彼が受け取ることの出来る財産は、膨大なものだったんでしょうね。
 もし私たちが、この人と同じように、膨大な遺産を受け取ることが出来るとしたら、私たちだって、きっと同じように思っただろうと思います。人間は、今も昔も、お金や財産が人の幸せや将来を決めてしまうかのように、思ってしまうものなんですね。
 でも、実際はどんなにお金を積んでも、明日の命が保証されるわけではありません。私たちの命の主権者、お金でもなく、私たち自身でもなく、ただ神だけなのです。だからこそ私たちは、神を信じ、自分の人生を、命の主権者である神に委ねていくことが大切なんですね。

 この命の主権者である神は、私たちの罪を赦すためには、一人子であるキリストを、私たちの代わりに十字架で死なせるほどに、私たちを愛しておられます。だから、生きるにしても死ぬにしても、安心して私たち自身を委ねることが出来るのです。この神を信じ、あなたにも本当の平安を手に入れて欲しいと心からそう願います。

2024年1月20日土曜日

「いけにえ」とは何か

  キリスト教の正典は聖書です。正典とは正しい規範ということです。ですから、聖書がキリスト教の正典であるということは、キリスト教の教えと生き方の正しい規範を聖書がわたしたちに示しているというになります。そしてそれは、神様が「わたしたち」人間を、正しい道を正しく歩むことができるようにと導くためなのです。

 ところが、その聖書は、様々な文学形式をもって書かれています。一見すると、福音書のような伝記的な書物もあれば、歴史書のような書物もあり、手紙や詩と言ったものも含まれている。そのような、さまざまな方法で、聖書はわたしたちを導いているのです。その聖書の中に、詩篇と呼ばれる箇所があります。そこには150ばかりの古代イスラエルにおいて造られた詩が集められています。この詩篇の詩に、わかりやすいようい、後代のひとが、それぞれ1篇、2篇といったナンバリングがつけています。そのナンバリングされた詩篇の50篇には、私たち人間の生き方に対する重要な原則が語られています。その一つが感謝です。この詩篇50篇を記した詩人は、14 節で「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。」と述べています。

 いけにえとは、神に捧げる極めて宗教的行為ではありますが、なぜ「いけにえ」を献げるのかというと、それは神に対する感謝として捧げるのだというのです。つまり、「いけにえ」というと、何かおぞましい感じがしますし、なにかしら自分の罪に対する神の怒りをなだめる犠牲のような感じがします。しかし、この場合の「いけにえ」とは、神に喜んでいただける捧げものといった感じに受け止めていただければよいでしょう。
 ですから、この「いけにえ」という宗教的行為の背後に、神に対する感謝がなければ「いけにえ」は「いけにえ」として意味をなさないことになります。日々、私たちが生来ていることの背後には多くの人の支えがあります。その究極的な支えが神の存在であるとこの詩の作者は考えているのです。だからこそ、神に感謝としての「いけにえ」を捧げるのです。

 聖書には「なだめの供え物」(口語訳では「贖いの供え物」:ex.1ヨハ2:2)といった概念があます。その「なだめの供え物」はイエス・キリスト様の十字架の一点に集約されて行きます。このような、「なだめ」とか「贖い」といった言葉が持つ響きの背後には、神に対する恐れがあります。そこには、私たちの罪を怒り、裁く神がおり、その裁きをおそれるがゆえに、神を「なだめ」、罪を「購い」神の怒りを静めるという響きがつきまとうのです。
 ところが、この詩人は、「そうではない」というのであす「いえにえ」の本質は、恐れからなされるものではなく、感謝からなされるべきものなのだというのです。「贖い」や「なだめ」は、私たちから何か「贖いしろ」として、私たちの持っているものを奪っていく感じがします。神の怒りを鎮め、償うために、何かを差し出すと言った感じです。

もちろん、神は、私たちから何かしらの金品を求めているわけではありません。神には、何か金品の必要があるわけではありません。だから、「贖いしろ」として差し出される何かの大きさや価値によって。神は決して満足はしません。むしろ神が満足させるものは、私たちの神に対する「感謝」だけなのです。いえ、その「感謝」の気持ちさえ、神の恵みをいただくために必要としていないでしょう。むしろ、ただただ、私たちが神に感謝をする心を神は喜び嬉しく思ってくださっているのです。
 だから、私たちはイエス・キリスト様の十字架を見上げるとき、そこに「感謝」の気持ちがあってこそ、はじめてイエス・キリスト様の十字架は神に対して真の意味を持ちます。また、私たちの宗教的行為、すなわち礼拝も献金も奉仕も、神に対する「感謝」なくしては何の意味も持たないのです。このことを心に留めたいと思います。

 さらに、この詩に込められたもう一つの行動原理、それは神の教えに従って生きると言うことです。

 17節に「 あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。」とあります。更に神の教えを憎み、神の言葉に聞き従わないとき、人は罪に陥るのです。神の教えと言葉は、聖なるものです。ですから、その教えに背を向けて生きるならば、必然的に人は罪に向かって歩むことになってしまします。それでも、そのような神に背を向けて生きる自分の生き方を是とするならば、それはもはや自分自身が自分の神となっていると言わざるを得ません。
 自分自身が自分自身の神になってしまうとき、私たちは自分のしていることの善悪を判断することができなるなり、自分のしていることが絶対に正しいと思うようになり、自分を客観的にみることができなるなります。客観とは、物事を外側から眺め、批判的にみることだからです。ですから、私たちは、絶えず私たちの外側にある目から見た私たちの姿に耳を傾け、その声に聞くということをしなければ自己中心的な生き方に陥らざるを得ないのです。
 その意味で、聖書は私たち人間を外側から見る神の視点で語られた神の言葉です。つまり聖書は、人間が神について語った書ではななく、神が神の目から見た人間の姿を描いた書なのです。

2024年1月19日金曜日

あなたしか持たない名前


ある時イエス・キリスト様は、ピリポ・カイザリアと言うところに出かけて生きました。そのピリポ・カイザリアでの出来事です。それは、イエス・キリスト様が弟子たちに尋ねます。

イエス・キリスト:なあ、お前たち、人々は、私のことを何といっているか」
   
と尋ねられたことから始まります。イエス・キリスト様に「人々は、私のことを何といっているか」と尋ねられて弟子たちは

  弟子A:そうですねー。バプテスマのヨハネと同じような立派な先生だという者がいます。
  弟子B: いえいえイエス様、エリヤの再来だと言っている人達も多くいますよ。
  弟子C: いやー私の周りの人たちはエレミヤだとかモーセに匹敵する預言者だと
      言っていました。

という具合に、弟子たちは口々に世間の人々のイエス・キリスト様に対する評判を告げます。弟子たちが伝える世間の評判を聞いて、イエス・キリスト様は「フッ」とため息をつき、一瞬、「わかっていないなー」と言うような表情を見せ、弟子たちの方を見て

  イエス: そうかい、世間の人はそんな風に言っているんだね。
      それじゃ―、あなた方は、私は誰だと言うんだい。

と尋ねます。そう尋ねられて、弟子たちは戸惑います。

  弟子A: おいおい、なんて答えたらいい、世間の連中がバプテスマのヨハネだとか
      「エリヤだとかエレミヤだモーセだ」と言っているとお答えしたときに、
      イエス様はちょっと不満げ見えたぞ。
  弟子B: お前もそう思ったか。エリヤもエレミヤも我々イスラエルの民にとっては
      大預言者だ。モーセに至っては神様の次ぐらいにえらい預言者なのに、
      それに匹敵する人だと言われても納得いかないとなると、
      誰だといえばいいんだ。

弟子たちは、互いにひそひそと話し合っています。そんな弟子たちの会話を耳にして、師たちの中ではリーダー格だったペテロが言います。

 ペテロ: 何だおまえたち、わかっていないな。大丈夫だ。ここは俺に任せろ

そう言ってペテロは、「イエス様、あなたは生ける神の子、キリストです」と答えます。
そのペテロの答えを聞いて、イエス・キリスト様は、「おっ」というようなちょっと驚いたような顔をしたあと、笑顔になり、満足げに

  イエス: パルヨナの子シモンよ。よく気が付いた。あなたは幸いな人だ。
       あなたの答えは正しい。
       ふつうは、そのことになかなか気づけないものだ。
       おまえも、そのことを自分の力で分かったなどと思ってはいけないよ。
       それじゃ父なる神様が、そのことをお前に教えてくれたから、
       気付くことができたのだ」

と言われたのです。イエス・キリスト様が神の子であるということは、人間の頭では理解することはできません。確かにそれは、神様が私たちの心に教えてくださることなのです。だからこそパウロは、コリント人への手紙第一の12章3節で、誰も聖霊なる神様の助けを借りなければ、イエス様こそが、私たちの王であり主なるおかただ」と言うことはできないというのです。

しかし、この話の大切なことは、ここからです。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」と言われたイエス・キリスト様は、ペテロに向かって。「バルヨナ・シモン、あなたはペテロだ」と言われるのです。

バルヨナ・シモンというのは、ペテロの本名です。しかし、ここでイエス・キリスト様はそのバルヨナ・シモンを「ペテロ」と言う名で呼ぶのです。これが大切なことだ。それは、このバルヨナ・シモンと言う人の本来あるべき姿、あるいは目指すべき姿が「ペテロ」と言う名で呼ばれるべき存在だからです。

名は体を表すと言いますが、イスラエルの国では、名前は、その人がどんな人であるかと言うことと深く結びついています。そして、その人がどんな人にならなければならないか、どんな働きをしなければならないかと言うことを示している。

そして、ペテロと言う名前は「岩」と言う意味です。バルヨナ・シモンにむかって、イエス・キリスト様が「バルヨナ・シモン、あなたはペテロだ」と言われたのは、ペテロが、後に建てあげられる教会の中心的な人物として基盤となる岩となる存在だからです。

ですから、バルヨナ・シモンという名の男は、ペテロという名前の人物にならなければならないのです。おなじように、神様は、私たちの名前を読んでいます。それは、私と言う名前は「濱和弘」と言う名ですが、実は、この日本では他にも「濱和弘」という人がいるのです。ですから「濱和弘」という名前でだけでは、その人と私との区別はつきません。しかし私の名前は、ただの「濱和弘」ではなく、「神を信じる濱和弘」であり、「牧師である濱和弘」です。神様はそのような神様が与えてくださった使命と思いを込もった新しい意味での「濱和弘」という名前を呼んでくださっている。

同じように、神様は、みなさんの名前を読んでおられる。その名前には、神様が与えてくださっているあなたしかできない神の使命を負った名前なのです。それは、世間の人々が、みなさんをどんなふうに言おうと、みなさんに対してどのような評判をたてようと、そんなことは関係ない。神様が、みなさん一人一人を、神の子としてくださり、神様がみなさんにあたえてくださる使命を生きる者となるようにと、みなさんの名前を呼んでいるのです。

だから、私たちは人の評価など気にすることはありません。人の評判も気にすることはない。「あなた」が、イエス・キリスト様を「イエス様、あなたは生ける神の子、キリストです」と告白するならば、神様が、「あなた」の名を呼び、「あなたを」貴いものだと言ってくださっているのです。そして「あなた」しかできない、大切な使命を与えてくださるのです。だから、私たちは自信をもって、胸をはって生きて行きたいと思います。

2024年1月17日水曜日

2024年元旦礼拝説教「神の逆対応」

 

2024年元旦礼拝説教「神の逆対応」                 2024年1月1日

旧約書:ヨブ記1章6節から12節
福音書;マタイによる福音書5章1節から10節
使徒書:コリント人への第二の手紙12章1節から10節

 

 新しい年を迎え2024年の歩みが始まりました。今年は、先ほどお読みしました。新約聖書コリント人への第二の手紙12章1節から10節の言葉の中にある9節の「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言う言葉を、今年の指針の言葉として掲げたいと思います。

 

 この言葉は、この9節の言葉は、パウロが自分の肉体に何か弱さを感じていた時に、神様がパウロに語り掛けてくださった言葉だと言っています。パウロが感じていた肉体の弱さというものが何であったのかは定かではありません。目のが悪くなっていたのではないかとか、伝道旅行中にかかかったマラリアの後遺症により発作ではないかといろいろと言われますが、実際のところはよくわかりません。

 

 しかし、パウロはその肉体的な弱さのために「三度、神に願った」というのですから、それはパウロにとって悩みの種の一つであったことはまず間違いないと思われます。そしてそれは、パウロが多くの啓示を受けたため、思い上がらないようにサタンがパウロを打ったためだというのです。

 

 この表現は、私にとってはとても奇異な感じがします。パウロが神様からの多くの啓示を受けたため、パウロ自信が思い上がって高慢にならないように、神様がパウロに肉体のとげ、すなわち弱さを与えたというのでしたら、しっくりくるのですが、サタンの使いが、パウロが高慢にならないようにパウロを打ったというのは、どうもしっくりこないのです。むしろ思い上がって高慢になった方が、サタンにとっては望ましいように思えるのです。

 

 そこで、注解書をいろいろと調べてみましたがなかなか納得できるような説明をしているものはありませんでした。そこで、新約聖書のもともとの原語であるギリシャをあたりました。そうすると、7節は、他の可能性があることがわかりました。

 

その科の生のある別訳と言うのは、「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」とありますところが、「私はあまりに多くの啓示を受けたので、私が大喜びしないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」と訳することができる可能性や、「私はあまりに多くの啓示を受けたので、私が賛美しないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」がある可能性です。

 

 そうすると、ここの部分がわかるような気がする。というのも、「私が大喜びしないよう」と言う訳や、「私が賛美しないように」と言う訳は、神様がパウロに多くのことをあらわし、お示しになった。それはとても喜ばしいことであるので、喜び神様を賛美し、神様が啓示してくださったことを人々に伝え、証するということがないように、私に肉体に、神様に敵対するサタンが、パウロの肉体に棘を与えたというニュアンスが読み取れるからです。

 

 そこには、先ほどお読みした旧約聖書のヨブ記の1章で、神様に語ったサタンの言葉に通じるものがあります。それは、神様が「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」と言う言葉に対して、

 

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」

 

と言う言葉です。神様が恵みを多く与えたならば、人は神を神を賛美し、ほめたたえることは当たり前だ。だか、災いが襲ってきたら、人は神を敬うどころが呪うだろう。人間とはそんなものだとサタンは言うのです。

 

 そうかもしれません。確かに人間にはそのような弱さがある。だからサタンはヨブを打ち、災いと苦難を与え苦しめるのです。しかしヨブは、災いが自分に襲ってきたときに、「なぜなのだ」と神の党ことはあり、「神様に何か間違いがあるのではないか」という苦悩はありましたが、神様を恨んだり、呪ったりはしませんでした。

 

 同じように、神様から多くの恵みを与えられているパウロの肉体に、棘と言われる何らかの病気かあるいは不自由さを与えたのです。それによって、パウロが神様をほめた耐え、賛美し、神様を証ししないようにするためであった。そう考えると、このコリント人への第二の手紙12章7節の言葉がすっきりとわかるような気がします。

 じっさい、パウロはこのサタンが与えた肉体の棘のゆえに、神様に三度願ったと聖書は記しています。そこには、ヨブが「神様、なぜですか。神様が何か間違っていませんか」と問いかけたような思いが読み取れます。

 

 しかし、そのようなパウロに神様は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われるのです。確かにパウロには弱さがある。苦しみ悩む部分もある。だからこそ、「私に頼りなさい。私が弱さを持つあなたを、その弱さの中にあるあなたと共に歩み、あなたを慰め、支えるから」と神様は言われるのです。

 

 パウロが、弱さを克服して自分自身の力で生きていくならば、それこそ高慢なものになっていく。だからこそ神様は、サタンがパウロが神様を喜び、賛美しないようにと与えた肉体の棘を逆に、パウロが高慢にならないように用いて、パウロが神様を頼り、神様に支えながら生きていくようにと、教え導かれるのです。

 

 なぜならば、私たちが生きていく中で、自分自身の力ではどうしようもない壁にぶつかることがあるからです。その時に、自分自身の力に頼って生きていくならば、私たちは挫折をするだけで、それを乗り越えることができないのです。

 

 けれども、神様により頼み生きる生き方をするものは、そのような自分自身ではどうしようもない出来事にぶつかったときにも、神様に助けの道を見いだすことができる、神様の支えをいただいて生きていくことができるのです。

いやむしろ、そのような弱さの中にある時こそ、12章10節の「それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」と言うことを経験することができるのです。

 

 みなさん、弱い時にこそ神様の恵みを感じ、神様の力と支えを知る、喜び神を賛美できるということがは、サタンが「あなたが恵みを与え、祝福を与えるから神を信じ、神を誉めた讃えるのです」と神様に主張した主張とは全く逆のものです。

 

 そして、そのような逆説をイエス・キリスト様が、マタイによる福音書5章にある有名な山上の垂訓で語られるのです。

 

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでい る人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。(10節)義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

 

 これは全くの逆説です。まさに「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言うことであり、「私は、弱いときにこそ強いからです」と言うことが、このイエス・キリスト様の山上の垂訓の言葉の中に現れ出ています。

 

 みなさん、今、日本のキリスト教は逆風の中にあります。本当に宣教も苦しく、教会も大変な中にある。でもね、私たちには神様の支えがある。私たちと共に歩んでくださる神様がおられるのです。

そのことを、しっかりと心に覚えつつ、今年一年もみなさんと共に歩んでいきたいと思います。しばらく静まりの時を持ちましょう。私たちが弱さの中にあっても、共に歩み、支え、力づけてくださる神様が、教会と共に、またあなたの今年一年の歩みにいてくださるのです。そのことを、心静めて思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。

2024年1月16日火曜日

心の欠けを満たしてくれる友

 新約聖書マタイによる福音書の十六章十六節~二十四節に、こんな話があります。ある時、一人の青年がイエス・キリスト様のところにやって来てこんな質問をしました。「永遠の命をえるために、私はどんなと良いことをしたらよいのでしょう」

 その質問に対してイエス・キリスト様は、「殺してはならない」とか「父母を敬え」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」といった戒めを守りなさいと答えます。するとその青年はさらにこう尋ねます。「それははみんな守っています。何か欠けているのでしょうか」

 するとイエス・キリスト様は「あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与え、私について来なさい。」この言葉を聞いた青年は、イエス・キリスト様のもとから悲しんで去っていったと言うのです、そして聖書は、この青年が去っていった理由は、彼が多くの財産を持っていたからだ説明しています。

 この青年が求めていたものは、永遠の命です。聖書で永遠の命と言うとき、それは神から与えられる。神の恵みであり祝福です。神様は、私たちを常に愛し、受け入れ、恵みを与えたいと思い、私たちに神の恵みと祝福とを差し出しておられます、ただ、そのことに「わたしたち」は気付かないでいるのです。なぜならば、「わたしたち」は、富や財産がわたしたちを幸せにしてくれると思っているからです。

けれども、人は、神から愛され、受け入れられているということに気付くときに始めて、神の恵みや祝福といったものを得ることができるのです。

キリストの時代の人々もまた、この神の恵みや祝福といったものは豊かな冨はであると考えていました。ですから、この青年が多くの財産を持っていたと言うことは、彼自身が神さまからの祝福をいただいていると言う証であり、幸福のしるしのはずでした。しかし、それでもなお、この青年は何か満たされていないものを感じているのです。どんなに、多くの冨を手に入れても、心のどこかに、何か満たされない気持ちがある。だから「何か欠けているのでしょうか」とイエス・キリスト様のところに訪ねてくるのです。

 結局、お金や財産といったものが、神の祝福なのではなく、どんなときでもキリストを頼り、キリストが人生の様々な場面で私たちを慰め励まし、そして支えてくださる神の愛が、神の祝福であり、恵みなのです。

 この青年は、イエス・キリスト様に「永遠の命をえるために、私はどんなと良いことをしたらよいのでしょう」と問うています。永遠の命とは、神の命です。神様は、「わたしたち」に自分の命を与えるほどに、「わたしたち」を愛してくださっています。それほどまでに「わたしたち」を愛しておられるからこそ「永遠」と呼ばれるほど、いつでも、どのような時にでも、わたしたちと共にいてくださり、わ「たしたち」を慰め励ましてくださるのです。だからイエス・キリスト様は、「あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与え、私について来なさい」というのです。それは、「何をおいても、私と一緒にいて、私と共に生きてなさい」ということです。

 普通に考えても、苦しい時に、慰め励ましてくれる友達や家族というものは、お金や財産以上にかけがえのないものですよね。そう言った友達や家族は、何よりも大切にしなければなりません。そういった存在が、私たちの心の賭けを満たしてくれるのです。でも、そんな友達や家族でもあっても、人間は弱さを持っています。ですからどんなに支えたくても支えきれなくなってしまうこともあります。また、時には仲違いをしてしまうことだってありますし、裏切られてしまうことだってある。
 けれどもイエス・キリスト様は、どんなときでも決してあなたを見捨てず裏切らないで、私たちと共に歩み、支え慰めて下さる永遠の友となって下さるお方です。だから、キリストについて行く、一緒に人生の歩みを歩んでいくということが大切なのです。

 次の言葉は新約聖書ヘブル人への手紙十三章五節にあるキリストの約束です。「金銭を愛する生活を生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。』

イエス・キリスト様は、今日、いつでも、どんなときでも、「あなた」を決して見捨てることのない「あなた」の永遠の友になろうと言って下さっています。ですから、どうか、このお方を心に受け入れて欲しいと思います。

2024年1月13日土曜日

やり直しの人生(弟子ペテロの場合)

 イエス・キリスト様には、12使徒と呼ばれる、有名な12人の直弟子がいました。この12弟子の中のひとりのイスカリオテのユダの裏切りによって、イエス・キリスト様は捕らえられ、十字架に貼り付けられて死んだんです。でも、聖書は、イスカリオテのユダだけでなく、他の弟子たちも、さまざまな形でイエス・キリスト様を裏切った事を記しています。その中のひとりに、ペテロと言われる人がいるのですが、そのペテロは、熱血漢で、イエス・キリスト様の弟子の中ではリーダー的な存在です。ところが、こともあろうに、そのペテロが、いざイエス・キリスト様が捕らえられると、「私はイエスという男なんか知らない。」と、嘘をついてしまうのです。

 しかも、ご丁寧に3度にわたって、「私はイエスという男なんか知らない」とそう言ってしまうんですね。もっとも、ペテロにも良心の痛みというものがありますから、自分がイエス・キリスト様を裏切ってしまったことを、激しく後悔します。そして、自分の裏切りの行為を、泣いてキリストにお詫びをするんですね。そうこうしていると、十字架に付けられたイエス・キリスト様が死んで3日後に、よみがえります。そのよみがえったイエス・キリストが、ペテロ達弟子の所に現われたのです。

 私は、その時にペテロ退き持ちを想像しますとね、きっとバツが悪かったと思いますよ。自分が3度も裏切ったイエス・キリスト様が目の前にいるんですから。居心地が悪かったでしょうね。そんなペテロに対して、イエス・キリスト様は、「あなたは私を愛しますか」とそう訊ねました。もちろん、そのイエス・キリスト様の問いかけに対して、ペテロは「はい、私があなたを愛することをは、あなたがよくご存知です。」とそう答えました。
 ところが、その答えを聞いたイエス・キリスト様は、もう一度「あなたは私を愛しますか」と訊ねるのです。当然ペテロは「ハイ、愛しています」と同じ答えをする。そうすると、更にもう一度イエス・キリスト様は「あなたは私を愛しますか」とそう訊ねられたのです。
 3度も同じ質問をするなんて、キリストってなんて疑い深いんだろうって、そう思われるかも知れませんね。でもそうじゃないんです。イエス・キリスト様は、ペテロが3度「私はイエスという男なんか知らない」と言ってしまった過ちを、完全に赦していると言うことをペテロの知らせるために、わざわざ3度も「あなたは私を愛しますか。」とそう訊ねたのです。それは、過ちを犯したペテロがその過ちから立ち上がり、人生を新しくやり直していくためだったのです。

 人間は誰でも過ちを犯します。もう二度としないと思っていても、同じ過ちや失敗を繰り返すことがあります。けれども、私たちが、私たちの犯した過ちを、本当に悔い、神様にお詫びをするならば、神様は、私たちの罪や過ちのすべてを完全に赦してくれるんですね。そしてそこから、立ち上がり、人生をやり直していくことを願っておられるのです。そして願うだけでなく、そのやり直しに人生を共に歩んでくださるのです。」
 神のひとり子なる神キリストは、ペテロに3度、「あなたは私を愛しますか」と訊ねることで、そのことを私たちに教えておられるのです。すなわち、神様も神の御子であるイエス・キリスト様も、「あなた」が「あなた」の人生をやり直せるように、「あなた」を完全に受け入れておられるのです。

2024年1月11日木曜日

あなたがいてくれるだけで

  実は、孫の誕生日がちかづいてきており、どんなお祝いの誕生日プレゼントを買おうかと頭を悩ましています。誕生日のお祝いをするというのは、祝われる側はもちろんのこと、祝う側にとっても嬉しいものです。本当に生まれてくれてありがとうと思うからです。ところが、ある人がこんなことをいっていました。

『「お誕生日おめでとう」という言葉には、「あなたが生まれてくれたことも嬉しいけど、今、あなたがいてくれることが、本当に嬉しい」。そう言う思いが込められているんだ』って言うのです。良い言葉ですよね。そしてそのような思いで、「お誕生日おめでとう」と言われたら、言われた側も、本当に嬉しくなるんじゃないかなって思うんですが、どうでしょうか。それは、誕生日を祝ってくれる人の温かい愛が、伝わってくるからなんでしょうね。そんなわけで、今日は、そのような思いをこめて、私も、孫に「お誕生日おめでとう」って言ってやろうと思います。

 ところで、旧約聖書イザヤ書四十三章四節には、神が、先程のお誕生日をお祝いする言葉とおなじように、「あなたがいてくれることが本当に嬉しい。」という思いで、私たちに語りかけている言葉があります。それは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という言葉です。神が、私たちを高価で尊いと言って下さるとき、私たちが神に何か役立つものだから、価値があると言っているのではありません。神は、まさに全知全能の神です。ですから、私たちから何かお世話してもらわなければこまるとか、何かをしてもらわなければならない存在ではありません。

その神が、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とそう言って下さるのは、神が、あなたを愛しておられるからです。だから、あなたがいてくれるというだけで、神の心は喜びに満たされるのです。
 ところが、「何も出来なくても、何もしなくてもいい。ただいてくれるだけで、本当に嬉しい」と思うほどの深い愛で愛されているのに、私たちは、その神の目から逃れて生きて行こうとしてはいないしょうか。「神なんかいない。」「神なんか信じない」と、私たちの心から神の存在を締め出してしまっているならば、「あなたがいてくれるだけで、私はとっても嬉しい」という温かい神の愛の言葉を聞くことができません。

 今の時代は、本当に殺伐とした時代です。人間関係にも、本当に神経を使わなければならないと入った状況です。だからこそ、今の私たちに本当に必要なものは、「あなたがいてくれるだけで嬉しい」といった愛の言葉なのではないかと思うのです。その愛の言葉を、神は今日もあなたに語りかけておられます。ですから、あなたも、この神を心に信じ、神があなたに語りかける愛の言葉を聞きながら生きていって欲しいと思います。