ある時イエス・キリスト様は、ピリポ・カイザリアと言うところに出かけて生きました。そのピリポ・カイザリアでの出来事です。それは、イエス・キリスト様が弟子たちに尋ねます。
イエス・キリスト:なあ、お前たち、人々は、私のことを何といっているか」
と尋ねられたことから始まります。イエス・キリスト様に「人々は、私のことを何といっているか」と尋ねられて弟子たちは
弟子A:そうですねー。バプテスマのヨハネと同じような立派な先生だという者がいます。
弟子B: いえいえイエス様、エリヤの再来だと言っている人達も多くいますよ。
弟子C: いやー私の周りの人たちはエレミヤだとかモーセに匹敵する預言者だと
言っていました。
という具合に、弟子たちは口々に世間の人々のイエス・キリスト様に対する評判を告げます。弟子たちが伝える世間の評判を聞いて、イエス・キリスト様は「フッ」とため息をつき、一瞬、「わかっていないなー」と言うような表情を見せ、弟子たちの方を見て
イエス: そうかい、世間の人はそんな風に言っているんだね。
それじゃ―、あなた方は、私は誰だと言うんだい。
と尋ねます。そう尋ねられて、弟子たちは戸惑います。
弟子A: おいおい、なんて答えたらいい、世間の連中がバプテスマのヨハネだとか
「エリヤだとかエレミヤだモーセだ」と言っているとお答えしたときに、
イエス様はちょっと不満げ見えたぞ。
弟子B: お前もそう思ったか。エリヤもエレミヤも我々イスラエルの民にとっては
大預言者だ。モーセに至っては神様の次ぐらいにえらい預言者なのに、
それに匹敵する人だと言われても納得いかないとなると、
誰だといえばいいんだ。
弟子たちは、互いにひそひそと話し合っています。そんな弟子たちの会話を耳にして、師たちの中ではリーダー格だったペテロが言います。
ペテロ: 何だおまえたち、わかっていないな。大丈夫だ。ここは俺に任せろ
そう言ってペテロは、「イエス様、あなたは生ける神の子、キリストです」と答えます。
そのペテロの答えを聞いて、イエス・キリスト様は、「おっ」というようなちょっと驚いたような顔をしたあと、笑顔になり、満足げに
イエス: パルヨナの子シモンよ。よく気が付いた。あなたは幸いな人だ。
あなたの答えは正しい。
ふつうは、そのことになかなか気づけないものだ。
おまえも、そのことを自分の力で分かったなどと思ってはいけないよ。
それじゃ父なる神様が、そのことをお前に教えてくれたから、
気付くことができたのだ」
と言われたのです。イエス・キリスト様が神の子であるということは、人間の頭では理解することはできません。確かにそれは、神様が私たちの心に教えてくださることなのです。だからこそパウロは、コリント人への手紙第一の12章3節で、誰も聖霊なる神様の助けを借りなければ、イエス様こそが、私たちの王であり主なるおかただ」と言うことはできないというのです。
しかし、この話の大切なことは、ここからです。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」と言われたイエス・キリスト様は、ペテロに向かって。「バルヨナ・シモン、あなたはペテロだ」と言われるのです。
バルヨナ・シモンというのは、ペテロの本名です。しかし、ここでイエス・キリスト様はそのバルヨナ・シモンを「ペテロ」と言う名で呼ぶのです。これが大切なことだ。それは、このバルヨナ・シモンと言う人の本来あるべき姿、あるいは目指すべき姿が「ペテロ」と言う名で呼ばれるべき存在だからです。
名は体を表すと言いますが、イスラエルの国では、名前は、その人がどんな人であるかと言うことと深く結びついています。そして、その人がどんな人にならなければならないか、どんな働きをしなければならないかと言うことを示している。
そして、ペテロと言う名前は「岩」と言う意味です。バルヨナ・シモンにむかって、イエス・キリスト様が「バルヨナ・シモン、あなたはペテロだ」と言われたのは、ペテロが、後に建てあげられる教会の中心的な人物として基盤となる岩となる存在だからです。
ですから、バルヨナ・シモンという名の男は、ペテロという名前の人物にならなければならないのです。おなじように、神様は、私たちの名前を読んでいます。それは、私と言う名前は「濱和弘」と言う名ですが、実は、この日本では他にも「濱和弘」という人がいるのです。ですから「濱和弘」という名前でだけでは、その人と私との区別はつきません。しかし私の名前は、ただの「濱和弘」ではなく、「神を信じる濱和弘」であり、「牧師である濱和弘」です。神様はそのような神様が与えてくださった使命と思いを込もった新しい意味での「濱和弘」という名前を呼んでくださっている。
同じように、神様は、みなさんの名前を読んでおられる。その名前には、神様が与えてくださっているあなたしかできない神の使命を負った名前なのです。それは、世間の人々が、みなさんをどんなふうに言おうと、みなさんに対してどのような評判をたてようと、そんなことは関係ない。神様が、みなさん一人一人を、神の子としてくださり、神様がみなさんにあたえてくださる使命を生きる者となるようにと、みなさんの名前を呼んでいるのです。
だから、私たちは人の評価など気にすることはありません。人の評判も気にすることはない。「あなた」が、イエス・キリスト様を「イエス様、あなたは生ける神の子、キリストです」と告白するならば、神様が、「あなた」の名を呼び、「あなたを」貴いものだと言ってくださっているのです。そして「あなた」しかできない、大切な使命を与えてくださるのです。だから、私たちは自信をもって、胸をはって生きて行きたいと思います。
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