2024年1月16日火曜日

心の欠けを満たしてくれる友

 新約聖書マタイによる福音書の十六章十六節~二十四節に、こんな話があります。ある時、一人の青年がイエス・キリスト様のところにやって来てこんな質問をしました。「永遠の命をえるために、私はどんなと良いことをしたらよいのでしょう」

 その質問に対してイエス・キリスト様は、「殺してはならない」とか「父母を敬え」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」といった戒めを守りなさいと答えます。するとその青年はさらにこう尋ねます。「それははみんな守っています。何か欠けているのでしょうか」

 するとイエス・キリスト様は「あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与え、私について来なさい。」この言葉を聞いた青年は、イエス・キリスト様のもとから悲しんで去っていったと言うのです、そして聖書は、この青年が去っていった理由は、彼が多くの財産を持っていたからだ説明しています。

 この青年が求めていたものは、永遠の命です。聖書で永遠の命と言うとき、それは神から与えられる。神の恵みであり祝福です。神様は、私たちを常に愛し、受け入れ、恵みを与えたいと思い、私たちに神の恵みと祝福とを差し出しておられます、ただ、そのことに「わたしたち」は気付かないでいるのです。なぜならば、「わたしたち」は、富や財産がわたしたちを幸せにしてくれると思っているからです。

けれども、人は、神から愛され、受け入れられているということに気付くときに始めて、神の恵みや祝福といったものを得ることができるのです。

キリストの時代の人々もまた、この神の恵みや祝福といったものは豊かな冨はであると考えていました。ですから、この青年が多くの財産を持っていたと言うことは、彼自身が神さまからの祝福をいただいていると言う証であり、幸福のしるしのはずでした。しかし、それでもなお、この青年は何か満たされていないものを感じているのです。どんなに、多くの冨を手に入れても、心のどこかに、何か満たされない気持ちがある。だから「何か欠けているのでしょうか」とイエス・キリスト様のところに訪ねてくるのです。

 結局、お金や財産といったものが、神の祝福なのではなく、どんなときでもキリストを頼り、キリストが人生の様々な場面で私たちを慰め励まし、そして支えてくださる神の愛が、神の祝福であり、恵みなのです。

 この青年は、イエス・キリスト様に「永遠の命をえるために、私はどんなと良いことをしたらよいのでしょう」と問うています。永遠の命とは、神の命です。神様は、「わたしたち」に自分の命を与えるほどに、「わたしたち」を愛してくださっています。それほどまでに「わたしたち」を愛しておられるからこそ「永遠」と呼ばれるほど、いつでも、どのような時にでも、わたしたちと共にいてくださり、わ「たしたち」を慰め励ましてくださるのです。だからイエス・キリスト様は、「あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与え、私について来なさい」というのです。それは、「何をおいても、私と一緒にいて、私と共に生きてなさい」ということです。

 普通に考えても、苦しい時に、慰め励ましてくれる友達や家族というものは、お金や財産以上にかけがえのないものですよね。そう言った友達や家族は、何よりも大切にしなければなりません。そういった存在が、私たちの心の賭けを満たしてくれるのです。でも、そんな友達や家族でもあっても、人間は弱さを持っています。ですからどんなに支えたくても支えきれなくなってしまうこともあります。また、時には仲違いをしてしまうことだってありますし、裏切られてしまうことだってある。
 けれどもイエス・キリスト様は、どんなときでも決してあなたを見捨てず裏切らないで、私たちと共に歩み、支え慰めて下さる永遠の友となって下さるお方です。だから、キリストについて行く、一緒に人生の歩みを歩んでいくということが大切なのです。

 次の言葉は新約聖書ヘブル人への手紙十三章五節にあるキリストの約束です。「金銭を愛する生活を生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。』

イエス・キリスト様は、今日、いつでも、どんなときでも、「あなた」を決して見捨てることのない「あなた」の永遠の友になろうと言って下さっています。ですから、どうか、このお方を心に受け入れて欲しいと思います。

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