2019年5月20日月曜日

あなたは一人じゃない


             あなたは一人じゃない

あまり経験することのないことですし、したくもないことなのですが、以前、医者からガンであることを告げられました。もっとも、私の場合は甲状腺に出来た乳頭ガンというもので、ガンと呼ばれるものの中では最も性質のおとなしいガンらしく、おまけに発見がめっぽう早かったらしく、手術さえすれば心配はいらないとのことでした。

 そうはいっても、最初に甲状腺に腫瘍があると分かり、それがどうも悪性のもの、つまりはガンらしいと分かってから、実際にそれが、その性質のおとなしい乳頭ガンだと分かるまでに2ヶ月近くかかりました。その間、自分自身で「家庭の医学」やインターネットなどで調べると、甲状腺にできるガンは、その大半が先の乳頭がんというおとなしいガンで、回復の可能性が極めて高いものだということ分かりましたが、しかし同時に、5%ぐらいは非常にたちの悪いガンが同じように甲状腺に発生し、その場合は本当に厳しい状況であるといったことが分かってきました。

人間とはヘンなもので、95%は安全と分かってはいても、5%に危険性が突きつけられると、その5%が、残りの95%を凌駕してしまうほど重くのしかかってくるもののようです。ですから、今でこそ「心配はいらないとのことでした。」といえますが、私に出来たガンが、95%のおとなしいガンなのか、それとも5%の極悪のガンなのかがはっきりするまでは、生まれて初めて、真剣に自分自身の死という事に向き合わされました。そして、そこで私は、2つのことを痛感させられました。

一つは、神様は本当に平等なお方だということ、もう一つは人間は結局一人で死んでいかなければならないということです。
 私はよく人から、「あなたは牧師らしくない」といわれますが、しかしそれでも一応は牧師の末席にぶら下がっています。ですから神様を心から信じていまし、たとえ寸足らずの牧師であっても一生懸命神様にお仕えしたいと願っています。しかし、実際に病気になってみると、いかに牧師であろうと、信仰に熱心なクリスチャンであろうと、神様は人が病気になるときには、神を信じていようといまいとにかかわらず、同じようになさるのだなとおもったのです。

こういうと、「それみろ。だから神なんて信じても信じなくても同じだ。しょせん神なんかいないのだ。」と突っ込まれそうですが、しかし私は、だからこそ神様は公平なお方なんだ、と心からそう思えたのです。「お前は牧師だから、特別に病気に合わないようにしてあげよう。」とか、「お前は信仰に熱心だから、特別扱いをしてあげよう」などといわず、全ての人と同じようにお扱いになられる。これ以上の公平さはないように思えたのです。

だからこそ、どんなに罪深いと人が思おうと、どんなに牧師らしくないと思われるようなダメ牧師でも、神様は私を他の優れた人や牧師達と同じように愛してくださるお方なのだと言うことを実感として感じ、そして心が慰められたのです。
 また当たり前といえば当たり前なのですが、死ぬ時は、結局自分ひとりで死んでいかなければならないという現実が私に前にありました。どんなにつらくても、寂しくても家内に「いっしょに死んくれ」とはいえるものではありません。第一結婚式の誓いは「共に死が二人を分かつまでは、これを愛し、これを敬い、堅く節操を守るか。」です。死で分かたれるのですから、夫婦関係を盾にして、「いっしょに死んでくれ」では愛情もへったくれもあったものではありません。

人間、ある意味独りぼっちということほど恐ろしいことはないのかもしれませんし、人間にとって孤独ほどつらいものは、他には無いのかもしれません。だからこそ、一人ぼっちで死ななければならない孤独の恐怖とつらさが、人間に激しく死を厭わせるのかもしれない。そんな思いにすらなってしまいます。

昔のある哲学者が、「人間は社会的動物である。」といったそうですが、結局人間は、人と人との間にあって人間として生きていけるということなのでしょう。 
良く耳にすることですが、自分の友達が、本当の友達であるかどうかは、自分が困った時や困難なことに出会った時にわかるのだそうです。何事も順調で羽振りがいい時、あるいは波風の立っていないときには仲良くしていた友達が、ひとたび問題が起こり困ってしまうと離れていってしまう。そういった友達は、本当の友達ではないというのです。

そして、本当の友達とは、むしろ、困り苦しんでいるような時に、何もすることが出来なくても、その人を決して独りぼっちにし、孤独にしないように、そっと寄り添ってくれる者こそが、本当の友達なのだというのです。

今回、まがいなりにも自分の死ということに向きあってみて、結局人間は、自分独りで死んでいかなければならないとわかったのですが、しかし不思議と心は孤独ではありませんでした。それは、たとえ独りで死んでいくにしても、死に至る瞬間までは共に歩み、苦しみ支えてくれる妻や子供達がいてくれるということもありましたが、同時に、死んだ先まで「友よ、私はお前と死の先までも一緒に行こう。」と言われるイエス・キリストの存在をひしひしと感じられたからです。

まさしくイエス・キリストは、死というぎりぎりの困難さの中にあっても、決して私たちを独りぼっちにしない、本当の私たちの友なのです。

 2000年前にイエス・キリストは十字架の上で死なれました。それは私たちの罪に身代わりとなって私たに罪の許しをもたらす贖罪のための死であったと同時に、独りぼっちで死んでいかない私たちと共に、死出の旅路までにおいても、道行く友となるための死でもあったのかも知れない。そんなふうに思えて私には仕方がないのです。

2019年4月25日木曜日

安全神話の崩壊


                安全神話の崩壊

地震・雷・火事・親父。これは昔から語り継がれた恐いものの代名詞です。確かに、これらのものは、今でも恐いものに違いはないのですが、しかし、最のは親父はあまり恐いものではなくなってしまったようです。先日などは、友人が、女房ほど恐いものはないと愚痴をこぼしていましたから、現代では、さしずめ地震・雷・火事・女房といったところでしょうか。
 私の場合は、さらにこれに飛行機が加わります。この飛行機が恐いというのは、あの鉄の塊が飛ぶというのが信じられないということもありますが、やっぱり落っこちるのではないかという恐怖心が働くのだろうと思います。

 以前、私は小さな田舎町の教会の牧師をしていました。そのとき、所要で年に何回か東京に出向くことがあったのですが、どこから聞いてきたのか、家内が、2ヶ月前に予約すれば、飛行機の方が断然安くて早いというのです。そんなわけで、東京にいく予定が決まるや否や、そうそうにその安い飛行機のチケットを購入してきたのです。
 当然のことながら、私は「イヤダ!」とごねたのですが、「飛行機事故にあって死んでしまう確立よりもは、交通事故で死ぬ確立よりもはるかに少ないのよ。」と説得されて、結局シブシブながら飛行場に出かけていきました。
 飛行場について搭乗手続きをしながら、「そういえば新幹線やタクシーに乗る時に登場手続きなんかしないよなー」と、はたと気づきました。そして、「これは事故にあったときに身元を確認するために違いない。」という結論に達したのです。そうすると家内の説得で収まっていた不安が一気に頭をもたげてきました。

 考えてみると、船に乗る時の乗船手続きをする。あれはきっと広い海原で、海難事故に遭い行方不明になった時、だれが乗っていたかの身元を確認するためなのではないだろうか?などと思いをめぐらせながら、ふと目を上げると、そこに保険の自動手続き機がおいてあるではありませんか。「駅やバスターミナルには保険の自動販売機などは置いていない。やっぱり飛行機は恐いんだ。」と情けない思いになりながら、それでもやっぱり保険の手続きを、かの自動手続き機ですませて、ともかくも恐怖の1時間強の空の旅を終えたのでした。

 飛行機ー事故ー自分も事故に遭うー恐い。などとへたくそな連想ゲームのようにつなぎ合わせて恐れおびえているなど、日頃から安全に細心の注意を払っている飛行機会社や、整備にあたり運行している方々には、はなはだ失礼で申し訳ない話ですし、確かに飛行機事故など早々起こるものでないのでしょう。なのに、不思議と自分が事故に遭うかもしれないと恐がっているのは、まったくもって私の理不尽だといえます。
 振り返ってみますと、子供の頃の私は、どんな乗り物に乗っていても、決して自分だけは事故に遭うことなどないだろうと漠然と思っていました。例えどんな事故の話を聞いていても、自分が事故に遭うかもしれないなどとは考えもしませんでしたし、たとえ他の人が事故や災害にあっても、自分だけにはそんなことは絶対におこらないだろうと信じ込んでさえいました。なのに、いつの頃からか、私の心の中の安全神話は、すっかりと崩壊してしまっていたのです。

 マズローという学者によると、人間の欲望の基本的な欲求は安全への欲求だそうです。人間は、まず自分の命を保つために生理的欲求(食べたり、飲んだりすること)を持ち、それが満たされると、こんどは、その身の安全が確保されることを求めるのだそうです。そういった意味では、私の幼い日々には、この安全への欲求が完全に満たされていたように思います。それは、私の親が食べ物を与えてくれ、いつも守っていてくれるという安心に守られた満たしだったといえるでしょう。
 ところが、大人になって自立し、自分で自分の身を守らなければならなくなるにつれて、この私の心の中の安全神話はだんだんと蝕まれていき、ついには、こと飛行機に至っては完全に崩壊してしまったのです。

 思えば、子供の頃の私は、すべて誰かに依存しなければ生きて活けませんでした。言い換えれば、誰かに助けられ、頼って生きてたわけで、それが子供という事かもしれませんし、確かにそれが子供であるということの一つなのです。このように、依存しながら生きているからこそ、結局は自分自身後からでは自分自身を守りきれない、不慮の事故や災害に対して、それこそ神のご加護があるかのように安全を確信し、そして安心しきっていたのかもしれません。
 なのに、大人になってじりつして自分の力でいろんなことができるようになり、同時に自分の力を信じ、自分の力に頼って生きはじめると、そのとたんに私の安全神話が崩壊していってしまうとは、何とも皮肉なはなしとしか言いようがありません。

 私たちは、結局どんなに努力し、精進し頑張っても、抗えない現実に向き合うことがあります。たとえば死などもそうです。私たちは死という現実には決して抗えないのです。どんなに努力しても、結局自分自身の命さえ救うことが出来ないという事実を私たちは引受けなければならない時が来ます。
 自動車事故ならシートベルトを着用するなどの注意を払えば、助かることもあるでしょう。海難事故だって、板切れにしがみついて必死に泳げば何とかなるかもしれない。救命具やボートだってあるでしょう。けれども、こと飛行機事故には、そういった人間の努力や注意が入り込む余地は、極めて少ないといわざる得ません。それゆえに飛行機事故には独特の恐さがあるのかもしれません。

 人間は、自分の努力の及ぶ範囲では、自分の力で自分自身の身の安全を勝ち得、そして安心を獲得することもできるでしょう。でも、結局のところ、私たちの安全への欲求は、自分自身が頼れない存在であることを知って、自分自身を超えた存在、人間を超えた存在に頼り依存することでしか、本当の意味では満たされないものではないだろうかと思わされます。だからこそ、すべてを誰かに頼っていた子供の頃の私には、いつもゆるぎない安全神話があったのではないだろうかと思うのです。

 聖書は、私たちに、神に信頼し神に自分自身をゆだねなさいと教えます。それは、漠然とした不安に生きる私たちに対して、自分自身を超えた神というお方に頼り、私たちの心の中にある安全への欲求を満たし、そして安心を得なさいという、神からの私たちへの、招きの言葉のように思えるのです。

2019年4月17日水曜日

ネームレス


                 「ネームレス」

もう何年も前になりますが、妻が私に口をこぼした事がありました。男は、女性の愚痴、特に連れ合いの愚痴を、なかなかうまく聞けない生き物だと言われますが、さすがにそのときには、真剣に耳を傾けざるえませんでした。
妻が愚痴りながら言うには、「子供の保育園に行けば『誰々ちゃんのお母さん』と呼ばれ、家に帰ってご近所では、『だれそれの奥さん』といわれる。まだだれそれと名前がつけば良いほうで、ただの『奥さん』と呼ばれる方が圧倒的に多い。一体私は誰なんだろう」というのです。

 考えてみれば、私も妻の事を、「おい」とか「ねえ」とかで呼んでいて、良くても「お母さん」と言う程度。一度は「私はあなたの母親ではない。」とこっぴどく怒られて小さくなったことがありました。確かに妻は子供たちにとってはお母さんですが、私にとっては妻であっても母親ではありません。しかしそのときは、なんで妻がそんな事で怒り出したのかわかりませんでした。でも、「私は誰なんだろう」と言う愚痴を聞いて、その意味がわかったような気がするのです。

 たかが名前と思われるかもしれませんが、名前の背後には、その人自身の人格や存在があります。ですから人は名前を呼ばれる事によって、その人自身の存在する意味とか価値を認められている事を、感じ取っているのかもしれません。いわば、名前を呼ばれる事によって、自分が受け入れられているということを確認しているというわけです。
それを「誰々ちゃんのお母さん」とか「だれそれさんの奥さん」では、自分は子供やご主人の付属物でしかないように感じて、さみしくなったのでしょう。それで思わず愚痴閉まった。でもそんな気持ちもよくわかります

男性だって、自分の名前を呼ばれる事なく、会社名で呼ばれる事が少なくありません。それによって、自分が所属している会社の帰属意識が高まる反面、会社の一部分でしかない事を否応なしに思い知らされる事でもあります。
しかし、誰でも、自分の名前を呼んで欲しいのです。何かの付属物や、一部分のように見られるのでなく、かけがえのない自分として、自分の存在と人格を認めて、受け入れて欲しいのです。

旧約聖書のイザヤ書の411節に、神が「恐れるな、私はあなたをあなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」と言っている箇所ヶあります。神は、ひとりひとりの存在に目を留め、一人一人のことを大切に思い、受け入れようと思っておられる。だからこそ、あなたの名を呼び、あなたは私のものだとそう言われるんですね。
そして、あなたを聖い神のみもとに受け入れるために、私達の汚れた罪の行いや、醜い罪の心をきれいに洗い清める為に、イエス・キリスト様を十字架にかけて死なせられたのです。
ですから、先ほどのイザヤ書411節の言葉は、さらに4節で、「神の目に高価で尊い」と言う言葉に繋がっていきます。神は、あなたと言う存在の価値を認め、大切に考えてくださっているのです。

ちなみに、私はあれ以来、妻を名前で呼ぶようになりました。

2019年3月11日月曜日

みんな同じ


「みんな同じ」

 ずいぶん前の話になりますが、我が家の近くに大型の電気屋が開店しました。私も、物見がてらに開店の翌日に行ってきたのですが、開店記念セールの一環で、抽選会をしていました。この抽選会の参加資格は、2000円以上の買い物をしてくださった方と言うことだったようです。
 そこで、漏れ聞こえてきた会話です。それはどうやら、3万円以上買い物をした人だったようですが、「2000円だけ買っても一回抽選できるけど、私たちは3万円以上もかって一回だけしか抽選できない。なんか不公平よね。」っと言うのです。
 確かに、2000円だけ買った人も、3万円以上買った人も、まったく同じで1回ぽっきりしか抽選できないとしたら、なんだか不公平な感じがしないわけでもありません。そのうえ、もし、2000買った人が、1等を当たりを引き上げ、3万円以上も買った自分が、ハズレのポケットティッシュだったら、もう不満が爆発しちゃいそうです。
 聖書の中にも、似たような話があります。ある時、ひとりのぶどう園の主人が、ぶどうの収穫のために、労働者を雇いに、朝早く町に出かけていきました。町には、その日の一日の仕事を求めて集まっている人であふれていました。
 主人は、その中の良く働きそうな男に声をかけて「一日1デナリで働かないか」と声をかけました。1デナリというのは、2000年前のイスラエルの労働者が働く、一日分の給料としては十分なものでした。
 当然、その男は、喜んでその仕事を引き受け、一生懸命、主人のぶどう園で働きました。けれども、まだまだ人手が足らないようなので、主人は、お昼頃になって、別の男をやっとって来ました。しかし様子を見ていると、それでも間に合わないようです。そこで夕方近くになって、主人はさらに別の男を雇ってきたのです。
 やがて、日もとっぷりと暮れ、ぶどう園で働いていた男達に給料を払う時間になってきました。主人は、夕方近くに雇った男から順番に、それぞれ約束の1デナリづつ給料を支払ってやったのです。
 すると、朝早くから働いていた男から、「一日中一生懸命働いた私と、ほんの数時間働いた者とが同じ給料なんて不公平だ。」と不満が爆発してしまいました。
でも、その気持ちもわかるような気がします。あの2000円以上で一回抽選と同じ心理が働いているんでしょうね。働くものや、買い手にしてみれば、それは不公平極まりない出来事なのです。
あの2000円以上で、一回の抽選という開店セールを考えた電気屋の主人は、おそらく、2000円のお客さんにも、3万円のお客さんにも同じように開店の感謝の気持ちを表したかったんでしょうね。だからみんな同じようにしたんだと思います。
同様にぶどう園の主人は、朝早く雇った者も夕方雇った者も、彼らが生活する為には一日1デナリが必要な事を思い、同じように彼らの生活に気を配ってあげたのです。
買い手や労働者が自分の利権や利得を考えれば不公平に見えることも、売り手、雇い主の思いやりや心づかいから考えれば、みんなが同じなのです。
聖書は、あのぶどう園の主人は神様のことをあらわしていると言います。神様は、人が自分にどんな利益をもたらし、どんなに役に立つかによって差をつけようとするお方ではありません。むしろあのぶどう園の主人のように、すべての人の事を心配し、心づかいをしてくださるお方なのです。そして、私たちが、神の裁きにあうことなく、天国でちゃんと暮らしていけるようにと、イエス・キリスト様を、私達の罪の救い主として、この地上におくってくださったんですね。

2019年2月18日月曜日

ネームレス


「ネームレス」


よく、男っていうのは、なかなか女性の愚痴、特に連れ合いの愚痴を、うまく聞いてあげられないって言われるんですけど、そんなもんなんですかね?でも以前、うちの妻がこぼした愚痴には、ちょっと考えさせられました。
その愚痴というのは、「子供の保育園に行けば『誰々ちゃんのお母さん』と呼ばれ、家に帰ってご近所では、『濱さんの奥さん』といわれる。一体私は誰なんだろう」っていうものです。
 確かに、考えてみれば、当時の私は、普段妻を呼ぶときは、「おい」とか「ねえ」、良くても「お母さん」と言う程度。一度は「私はあなたの母親じゃないわよ。」ってこっぴどく怒られて小さくなったことがありました。
 そのときは、なんで妻がそんな事で怒り出したのかわかんなかったんです。でも「私は一体誰なんだろう」と言う愚痴を聞いて、その意味がわかったような気がしました。

 たかが名前と思われるかもしれませんが、名前の背後には、その人自身の人格や存在があります。ですから、人は名前を呼ばれる事によって、その人自身の存在する意味とか価値を認められている事を、感じ取っているのかもしれませんね。いわば、名前を呼ばれる事によって、自分が受け入れられているということを確認しているというわけです。
それを「誰々ちゃんのお母さん」とか「だれそれさんの奥さん」では、自分が子供やご主人の付録のように感じて、さみしくなったのかもしれません。それで思わず愚痴ってしまった。でもそんな気持ちもよくわかります。

男性だって、自分の名前を呼ばれる事なく、会社名で呼ばれる事が少なくありません。もちろん、それによって、自分が所属している会社への帰属意識は高まりますが、反面、会社の歯車でしかない事が否応なしに思い知らされる事でもあるのです。
やっぱり、誰でも、自分の名前を呼んで欲しいんですよね。誰かの付録や、一部分のように見られるのでなく、かけがえのない存在として、人格を認め、受け入れて欲しいのではないでしょうか。

旧約聖書のイザヤ書の411節に、神が「恐れるな、私はあなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」と言っている箇所があります。
神は、ひとりひとりの存在に目を留め、一人一人のことを大切に思い、受け入れようと思っておられるのです。だからこそ、あなたの名を呼び、あなたは私のものだとそう言われるんですね。
そして、あなたを聖い神のみもとに受け入れるために、私達の汚れた罪の行いや、醜い罪の心をきれいに洗い清める為に、イエス・キリスト様を十字架にかけて死なせられました。
ですから、先ほどのイザヤ書411節にある聖書の言葉は、さらに「あなたは、神の目に高価で尊い」と言う言葉に繋がっていくのです。そう、神は、あなたと言う存在の価値を認め、大切に考えてくださっているのです。

2019年2月1日金曜日

スポーツと信仰

 スポーツと信仰

サッカーアジア杯の熱戦が繰り広げられ、いよいよ決勝の時をむかえ、日本代表が決戦に挑む。
 スポーツの大会、とりわけサッカーの国際大会を見ていていつも思わされるのが、スポーツと信仰の関係だ。サッカーの試合では、しばしば危険なラフプレーを目にすることがある。それこそ、「削る」という言葉で言い表されるようなプレーであり、相手を傷つけるプレーだ。それは、実際にけがという結果に至ったか至らないかは問題ではない。そのような可能性を秘めたプレーであるならば、それは決して褒められた、そしてあるべきプレーではない。
 スポーツ選手が全てそうだとは言わないが、実際、そのような危険なプレーをしている選手は良心咎めを感じないのだろうか。とりわけ、神を信じるクリスチャンの選手、そしてクリスチャンだけでなく、同じ聖書の神を信じるユダヤ教を信じるジューイッシュの選手やイスラム今日をモスリム信じるの選手もなどはどのように感じているのだろうか。
 もちろん、スポーツには怪我がつきものだ。一生懸命プレーした結果、意図せず怪我につながる接触が起こりうることは十分にありうる。私は、そのようなプレーを問題にしているのではない。私が問題にしているのは、怪我をする可能性があるという認識が少しでもあるプレーや相手を殴ったり蹴ったりする行為を、あえて意図的に行う場合である。
 私は、そういったプレーをクリスチャン選手、ジュ―イッシュ選手そしてモスリムの選手が、意図的に相手を傷つけるような「削る」プレーをしていないと信じたいし、審判をだまして反則をもらおうとするシュミレーションなどはしていないと信じたい。しかし、絶対にしていないと断言できるかと言われると、胸を張ってそうだと言えない現実もある。
 とりわけ、クリスチャンの多いヨーロッパや南米のチームや、モスリムの多い中近東にチーム、そして東アジアではクリスチャンの比率の多い韓国の選手などが、そのようなラフプレーや卑怯な行為をしているのを見たとき、「もし、彼らがクリスチャンや、ジューイッシュ、あるいはモスリムであるとするならば、そのような行為は神の正義と信実、なによりも神の聖を汚す行為である。彼らには、今自分は神の名を汚し、神の栄誉を気付付けているという発想は出てこないのだろうかと心配になる。
 同時に、私も一人のクリスチャンとして、もし日本人選手がそのようなプレーをしたとき、その行為を同じ日本人であり日本の勝利のためにという大義名分のために受容していたならば、それは、神の正義と聖を汚す一人となっている。
 かく言う私も、サッカーではないが過去に一度だけ、故意に相手を傷つけるような汚いプレーをしたことがある。故意に、相手の選手の手のひらをスパイクで踏みつけたのだ。私は、今でもその時のことを後悔し、恥じている。それは、一人のキリスト者として、それだけではない一人の人間としてしてはならない恥ずべき行為なのだ。スポーツとは、元来、フェアに行うべきものである。もちろん、勝利を目指して戦うのだから、勝つことは最大の目的である。しかし、いかに勝つためにとは言え相手を傷つけたり、危害を加えたりといった神の名を汚してまで手に入れるべきものではない。
 今日、日本はアジアの頂点をかけて戦う。本当に正々堂々と、神と人の前に恥ずべきことのない再興のプレーを見たいと思っている。もちろん応援もそうだ。私も、それを心掛けて日本代表を応援したいと思っている。

2019年1月31日木曜日

変革する力


「変革する力」

今ね、世界中で、私はクリスチャンですって言う人が、194338千人もいるんですって。ずいぶん細かく調べたなって思いますが、世界のおおよそ1/3、つまり、3人に一人は、何らかの形で、キリスト教を信じているってことになります。

日本では、クリスチャンってあまり見かけませんから、そんなに多くないように思うでしょ。でも、世界に目を広げると、本当に多くの人が、クリスチャンだって思っているですね。

もちろん、この数字は世界一です。でも、今では、世界一信じられているキリスト教も、最初は本当に小さい群れでした。しかもね、当時のローマ帝国や、ユダヤ教から、様々な迫害を受けていたんです。今で言えばいじめですね。

そんないじめをキリスト教会が受けるようになったのは、当時のユダヤ教やローマ帝国の社会制度を根底から変えてしまうようなものだと、思われたからなんです。

新約聖書の使徒の働きというところには、当時の人が、クリスチャンに対して、「彼らは世界中を騒がせている人たちである」といっているところがあります。これは、天下をひっくり返すようなことをしているってことなんです。

もちろん、天下をひっくり返すって言ったって、武力で政権を打ち倒すとか、デモを行って、政治を変えていこうとしたわけじゃありません。むしろ、キリストを信じる時に、その人の生き方や、物の見方が変わっていく。そんなクリスチャンの姿を見て、みんながキリスト教を信じるようになると、世の中の制度や価値観、生き方まで変わってしまうぞと、そう思ったんでしょうね。

たとえばね、先ほどの「使徒の働き」の5章には、当時のクリスチャンが受けた迫害のことが記されています。彼らはキリスト教のことを人々に教え、知らせていたために、ユダヤ教の指導者達から、ムチを打たれたんです。そのとき、弟子たちは、そのような迫害に大して、「人に聞き従うよりも、神に聞き従うべきです。」って言って、断固として屈っしなかった。

そんあ弟子たちの中に、ペテロと人もいました。彼は、キリストの一番弟子言われる人です。なのに、キリストが裁判にかけられている時に、自分もキリストと同じ目にあっちゃ大変だと思い、「自分はキリストなんか知らない」って言ってしまった人です。そう言った意味では、迫害を恐れて一度はキリストを裏切った人だっていえます。

でも、そのペテロが、迫害の中でいじめられ、ムチを打たれた弟子達の中の一人にいたんです。更には、その後にかれは、牢屋に入れられたり、最後には殺されてしまったとさえ言われています。
あの弱々しく気の小さいペテロの心が、勇敢で大胆な心に変わっていった。まさに、ペテロが本気で、キリストが自分の罪を赦してくれる救い主であると信じた時、彼の心に変化がおきたんですね。そして、死から復活したキリストと出会った時に、死の恐怖を乗り越える天国への希望をもった。それがペテロに力を与えたんだろうって思います。

もちろん、みんながみんなペテロのように急激に変わるってことではありません。ゆっくりと変わっていく人だっています。むしろその方が多いのかもしれません。でも、確かに、キリストを信じ、クリスチャンになって神に従う人は、その心の中が変わっていくんです。そして心の中が変わることで、生き方や生活が少しずつ変わっていく。

キリストを信じる信仰は、私を、そして、あなたを変えてくれる力になるんですね