2020年7月20日月曜日

本物に近づく


「本物に近づく」

徳島県の鳴門市に、大塚美術館っていう、ちょっと変わった美術館があるんですが、知ってます?
 この美術館ね、何が変わってるかって、世界中の名画が展示されているんですが、全部にせ者なんです。実は、世界の名画を、特殊な技術で、陶器に焼き付けて再現してんです。私も行ったことがありますが、でもね、全部にせ物だったって、十分見る価値ありますよ。なんってたって、ここのすごいところは、本物に限りなく近いだけでなく、その展示空間まで再現してるんです。

たとえば、ミケランジェロの最後の審判など、それが描かれているシスティーナ礼拝堂そのものが再現されています。また古代カッパドキアの洞窟の礼拝堂の壁画もなんかも、洞窟そのものが再現されているんですよ。すごいでしょ。
 結局、この美術館は、いかに本物に近づけるかってことが、ひとつの重要なテーマになっているのかもしれませんね。これって、私たち人間の人生にも通じるようなテーマじゃないかなって、そう思うんです。つまりね。いかに、自分を自分らしく生きるかってことなんです。

私たちは、案外自分は、このままでいいのかなとか、もっと違っ人生があったんじゃないかなって、思うことあるんじゃないんでしょうかね。どうですか?それは、結局、自分らしさってことを考えていることでもあるんですね。もっとも自分らしい自分、つまり本当の自分は何なのかを、考えているってわけです。それってね、人生の目的や意義は何かってことだと言い換えられと思うんですよ。

こんな思いが、煮詰まってくると、人間はどこから来て、どこにいくのかっていう、宗教のテーマになってきます。そういった意味では、案外、私たち一人一人、だれもが宗教的な人間だって言えるのかもしれませんね。
でも、それでもやっぱり人生の目的や意味は何かって話は、あまりにも大きすぎて、それこそ、哲学者や宗教家が考えてくれって言いたくなっちゃいますよね。取り合えず、私たちには、一日一日が充実し、喜びと満足できるものでありたいってことが第一歩ですよね。でも、その小さな事が確かに大切です。

教会の礼拝の最後には、祝祷と言われるお祈りがあります。この祈りは、これから礼拝が終わって、一人一人が、神から、家庭や学校、職場に使命を持って派遣されていきますから、どうぞ神が祝福を与えて下さいって言う祈りです。
 あなたが、いま生活しているその場所に、神から使命を負って派遣されている。そこに、あなたにしかできない神から与えられた大切な働きと役割があるからです。そのような、大切な働きと役割を神が、あなたにお与えになっている。それは、あなたが、その使命を果たすのにふさわしい人だからです。 
この神の使命に、派遣されるのは、教会の礼拝の祝祷からです。ですから、あなたも、教会の礼拝においでになり、神の使命を受けて、あなたの生活の場に派遣されて生きませんか。

2020年6月19日金曜日

「安心を与える言葉」


              「安心を与える言葉」

ちょっと昔の話になりますが、一種の不眠症のような感じで、十分に眠れない時期があったんです。眠っていても、半分起きているみたいで、寝ているのか寝ていないのか、よくわからない感じ。じつはその時期、ちょっとした心配事があったからなんです。 
心配事がある時って、なんだか心がわさわさと騒いで、不安で、どうしようもなかったりするじゃないですか。考えてみてもしょうがないのに、ついつい考え込んで眠れなくなっちゃう。そんな感じだったんですね。

ところが、新約聖書のヨハネによる福音書の14章で、キリストは「あなたがたは、心を騒がせてはいけません。神を信じ、わたしを信じなさい。」と言っているんです。

不安なときに、心を騒がせるなって言われてもね。それができないから、眠れないでいるわけでしょ。随分無茶なことをいうなって、そんな感じがします。

でも、考えてみますとね。あながちそうとも言えないような気もします。

というのも、私の友人がこんな事を聞かせてくれたんです。それは、彼が、ちっちゃい頃に、迷子になったって話なんでした。彼は、何人かの友達と、言ったこともない遠くまで冒険しに時に、友達とはぐれてしまって、ひとりぼっちになっちゃったんですって。

はじめての場所で、迷子になって帰れなくなってしまった。彼はだんだん不安になってきて、涙がポロリポロリ。とうとう最後は「わんわん」と泣き出したんだそうです。 
そのときに、一人の人が「どうした。迷子か」って声をかけてくれてね、「家の電話番号わかるか。」って聞いてくれたんですって。それで電話番号を教えると、家に電話をしてくれた。 
その人は、一通りの事情を説明すると、「ほら、お父さんだよ。」って受話器を渡してくれた。その電話口の先でね、お父さんが「大丈夫だよ、心配するな。すぐ迎えに行くから」ってそう言っている。彼はね。その声を聞いて「ホント安心した」って、言っていました。

どんなにたくさんの慰めや励ましの言葉が、何の役にたたないこともあります。反対に、ほんの一言でしかないのに、不安や恐れで荒波のように騒いでいる心をほっとさせ、いっぺんに安心させてしまうことってあるでしょ。

私の友人が「大丈夫だと、心配するな。すぐ迎えに行くから。」っていう短い言葉で、安心することができたのは、それが彼のお父さんの言葉だったからです。 
つまり、自分に愛情を注いでくれている親の愛情とその父親に対する信頼が、彼の心を鎮め、安心させてくれたってことなんでしょね。

聖書は、私たちの心にいつも語りかける神様の言葉です。ですから、今日、あなたに、神様があなたを愛しているってことを知ってほしいんです。そして、その、あなたを愛する神様を信頼して欲しいなって、そう思うんです。 
そしたら、きっと、聖書を通して語りかける神様の言葉が、あなたが不安なときにも、あなたの心から不安をかき消してくれるだろうってそう思います。そして、安心で一杯に満たしてくれる。まさに「心を騒がせなくても良く」なるんですね。その神様が与える、安心で満たされる心を、あなたにも手に入れて欲しいなってそう思います。

2020年6月12日金曜日

会堂に集まる公同の礼拝はネット礼拝の補完か

        会堂に集まる公同の礼拝はネット礼拝の補完か

私たちの教会でネットを通じての礼拝が始まって3ヵ月が過ぎた。1年の1/4である。しかし、ようやく7月からは、3回に分散する形式であり完全に元の形ではないが、会堂での公同の礼拝を再開する。
もちろん、まだ教会に来ることに不安を感じている方々や、様々な事情で教会に来ることが困難な方のためにネットでの礼拝や説教原稿と式次第をあらかじめ送るということは続けていく。しかしそれは、公の礼拝に来ることができない方のための、あくまでも補完である。

 この新型コロナウィルスの災禍によって、教会でのネットの活用が一気に進み、ネットによる礼拝のライブ配信や録画配信が多く用いられた。
 一部には、これからの礼拝の形式としてネット礼拝を考える必要性がある声も聞こえる。その時に、会堂に集まってなされる公同の礼拝はどうなるのだろうか。ネットを見ることの出来ない人たちのための補完として会堂に集まっての礼拝が行われる。そんな理解が生まれてくるのだろうか。
 私としては直観としてネット礼拝というのは礼拝の本来あるべき形ではないと感じている。
 神学するとは、この直観をテーゼとして、その直感が如何に筋道を立てて論証していくかという作業でもある。そういった意味で、この新型コロナ災禍の中で、礼拝についてあれこれ学ぶ機会があら得られたのは幸いな事であった。そして、その学びを通しつつ直観は正しいのではないかと感じ始めている。
 公同の礼拝は、会堂に集まって行われるべきもので、ネット礼拝はあくまでも補完である。

2020年6月3日水曜日

ポストコロナにおいて学ぶ礼拝


 ポストコロナにおいて学ぶ礼拝

 この新型コロナウィルスの騒動は、教会に大きな変化をもたらすのではないかと言うことが言われています。とりわけ、この騒動によって各教会がネット礼拝というものを導入し、今後はネットを通じた礼拝というのが主流になるのではないかという意見もあることは、以前にもお伝えした通りです。
 そんなわけで、私は今、教会の礼拝の歴史や東方教会の伝統にある教会の礼拝(奉神礼)やカトリック教会の礼拝(ミサ典礼)、そしてプロテスタントの教会の礼拝など色々調べ、学んでいます。
 そのような中で、気が付くことは、東方教会(正教会)やカトリック教会の礼拝は、共通している部分も多く、また古代からの礼拝形式をしっかり受け継いでいるのに対し、プロテスタントの多くの教会は、宗教改革以後、とりわけカルヴァンの改革以後、その礼拝の形式をガラッと変えてしまったと言うことです。
たとえば、それは式次第においてはっきりと表れています。東方教会の奉神礼にしてもカトリック教会のミサ典礼にしても、神が語るという部分と、その語りかける神に対して、最高の奉仕を捧げるという、神の語りと応答ということが式次第の中ではっきりしているのですが、プロテスタントの教会は、神が語られると言うことに重きがもたれ、その神の語りかけに対して、私たちが犠牲をもって神に応答すると言う面が弱いと言うことです。聖餐式でさえ、神の恵みの手段であり恵みの経路であって、東方教会やカトリック教会のように、(人となられたイエス・キリストが捧げられた)最高の奉仕の捧げものとはなっていません。
 これは、ただ神の恵みのみを強調するプロテスタントの特徴のゆえであろうと思います。もちろんそれは、大切なことではありのですが、神に対して犠牲を払ってでも応答するという信仰も見落としてはなりません。では、プロテスタントの教会においては、その犠牲はどこで払われているでしょうか。それは決められた時間に教会堂と言う決まった場所に出かけていく時間と労力という犠牲を払い、そして献金を捧げるという金銭的犠牲を払うことの中に見出せます。言葉をもって「神かく語れる」という神の語りに犠牲を持って答えるという応答が、これらによって示され、礼拝の本質の一つの応答という側面が実践されるのです。我々は、ここのところを見落としてはならないのです。
 もう一つ、正教会やカトリック教会とプロテスタントの教会との違いは、祈りと賛美において顕著に表れています。正教会やカトリック教会の礼拝は、全体として音楽が中心に行われ、祈りと讃美が詠唱という形で密接に結びついています。それは、音楽(旋律)をもって礼拝を進めることによって、神というお方を言葉だけでなく、五感を持って感じるように意図されているからです。
 神は、言葉では語りつくせないお方であり、神の世界は言葉では語りつくせないものであるから、音楽や美術(ステンドグラスや装飾品)、司祭の服装や香の香りなどを用い、言葉にできない神の秘儀を五感で伝えようとしているのです。教会堂が荘厳な造りになっているのもそのためです。教会堂に来れば、「この世」での日頃の生活とは全く違った空間がある。そこで、日常の違ったとは全く違った時間を過ごすことで、私たちの日常を超えた神の世界を五感で感じとる。私たちプロテスタントは、言葉によって神を伝えることに重きを置きすぎて、この事を置き去りにしてしまったのかもしれません。
 だからこそ、私たちは、今の日曜日の主日を家庭で礼拝をしているという現状は、けっして好ましい状態ではないと言うことです。礼拝は、「この世」ならざる神の世界を感じるときです。日常を超えた神の世界を経験し、それを日常の生活の中に生かしていく、そこに礼拝の意義の一つがあります。
 それを考える新型コロナウィルスがもたらした異常事態です。その事を覚え、新型コロナ以後に、再び礼拝が回復されると同時に、礼拝の本質、それはキリスト教の本質なのですが、そのキリスト教の本質を表す礼拝を持っていきたいと思います。それは、私たちは、私たちの言葉では言い表せないお方を礼拝し、私たちの言葉による認識では知ることの出来ないお方を感じ取っているのだと言うことが著されている礼拝です。

2020年5月29日金曜日

変わらないもの


                変わらないもの

 この新型コロナウィルスによる一連の騒動は、私たちの生活に大きな変化をもたらすのではないかと言われています。そして、それは教会の在り方にも変化をもたらすと言う声も聞こえてきます。たとえば、このみんなが公の礼拝に出席することを自粛する中で、これからの無理に会堂に行かなくても礼拝は、ネット礼拝でも十分やって行けるし、交わりもネットでもできるのではないかといった意見も出てき始めています。
 もちろん、そのような意見に反対する意見も多くあり、ただちにキリスト教全体が、ネット礼拝に移行するということではないでしょう。礼拝というのは、私たちキリスト者の信仰生活の中心にあることですので、教会とは何か、また礼拝とは何かと言うことを十分に検討し考えることなくして、そのような重大な変更を行うことは、キリスト教の本質を損ねることにもなりかねません。だから、慎重に考えていく必要があります。
 そのような中、カトリック教会は礼拝(カトリック的表現では典礼)をどう考えて来たのか、あるいは正教会(ロシア正教など)は、礼拝(正教科の表現では奉神礼)をどのように捉えているかについて、学びつつ調べています。
 その中で分かったことは、カトリック教会も正教会も、礼拝において神の御言葉に耳を傾け、説教の言葉に耳を傾けるだけでなく、聖餐も説教と同じように、またある意味、聖書朗読や説教以上に礼拝において重要な役割を負っていると言うことです。また、賛美もプロテスタントの教会以上に用いられています。それは、礼拝全体の雰囲気を通して、五感のすべてを通して、神の臨在を感じ取り、神の存在に触れようとするためです。
 ただ、神を知性によって知る(知解)のではなく、五感を通して全身で神に触れあうことで神というお方の存在と交わろうとしているのです。
 私たちプロテスタントは、聖書主義に立ち、聖書という神の言葉を尊び、聖書の権威の前に頭を垂れてきました。それは決して悪い事でないのですが、そのために神を知ると言うことが、聖書を読み、そこから知識や知性によって理解するという面が強くなり、古代の教会から受けついてきた全身で神と交わるという側面が弱くなっていることは否めない事実です。
 しかし、この新型コロナの騒動の期間を通して、私は、改めて聖餐式の大切さを教えられましたし、賛美の重要性を学びました。そして、一日も早く、みなさんと共に聖餐のパンとぶどう酒に与り、また共に賛美したいという願いがより強くなりました。

2020年5月22日金曜日

共に集まる共同体の礼拝


             共に集まる共同体の礼拝

東京の一日の新型コロナウィルス感染者数が、一桁から十人弱といった数になり、全行的もの非常事態宣言が解除される地域が多くなってきました。これも、みなさんの努力が実を結んだ結果です。礼拝に期待、会堂に集まり、共に賛美したい、祈りたい、そして聖書の言葉に耳を傾け、説教を分かち合いたいという思いを我慢して、家庭礼拝を守ってこられた賜物だと思います。
残念ながら、首都圏はもう少し緊急事態宣言が続きます。ですから、まだしばらくは礼拝の自粛を続けなければなりませんが、このような状況も必ず終わりが来ます。ですからもう少しの間、共に頑張りましょう。
この期間中、私は何冊かの本を並行して読んでいますが、その中に『古代キリスト教典礼史』という本があります。ユングマンという人が書いた古代のキリスト教がどのような礼拝をおこなっていたかということに対する研究書です。
ユングマンは、その書のなかで、「初期のキリスト教は、共同の礼拝のために定期的に集まることが重要だと強調していた」と言います。そして初期のキリスト教徒たちは「自分の家で祈ることはできたし、そこで感謝の祭儀(濱註:聖餐式)にも参加できた。しかし、キリスト者は、けっして自分たちの集会をやめなかった。毎日曜日、(濱註:迫害のための)生命の危険を冒してまで、感謝の祭儀を共に祝うために集まった」と記しています。
 今、私たちは残念ながら共に集まり、共同体の礼拝をすることができず、聖餐を分かち合うことができません。初期のキリスト者が「毎日曜日、(濱註:迫害のための)生命の危険を冒してまで、感謝の祭儀を共に祝うために集まった」ように礼拝をすることができていません。
 それは、迫害のために自分の命が失われるという恐れの為ではありません。むしろ、私たちが人に感染させ、苦しみを与える可能性があることを覚え、その危険性を避けるためです。しかし、いつまでも今のままでいいわけではありません、近い将来、ある程度感染の広がりがおさまったならば、またともに集まって礼拝をおこないたいと思います。古代の殉教者の一人が言ったように「感謝の祭儀(聖餐式=礼拝)なしに、私たちは生きられない」からです。
 その際にも、感染防止のための注意が必要です。必ずマスクをし、喚起に気を付け、賛美の歌い方や聖餐の持ち方にも注意を払う必要があります。でも、そういった注意を払いつつ、共の集まり共同体の礼拝をおこないたいと思っていますし、そう遠くない時に、そのような時が来ると信じて待っています。

2020年5月15日金曜日

困難は特別ではなく、神の恵みも変わらない


 困難は特別ではなく、神の恵みも変わらない


 今、私たちは、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、様々な活動を自粛するというある意味、自制を強いられています。そして、教会もまた様々な悩みや苦闘の中にあります。

 そのような状況ですので、新型コロナウィルス感染拡大状況下での様々な説教が語られてています。そして私も、そのような説教をなさせていただく機会がありますが、あとでそのときの説教を、後でビデオ見直してみたり、説教原稿を読み返してみたりすることが合います。

 しかし、新型コロナウィルスがもたらす様々な苦難や苦闘、そして不安と言ったことを意識しているのですが、何か特別なことを語っているというわけでもなく、普段の礼拝でお取次ぎしている説教と、根本的な部分ではとりたてて違わないことに気付きます。

 結局、特別に新型コロナウィルスがもたらす問題といったことを意識をしなくても、わ私たちは、普段から様々な問題や課題、また悩みの中で、痛みや不安を抱えながら生きているのだなと思われされます。そして、どんな時でも、神の言葉は変わることなく私たちに神の恵みを語ってくるのだと思わされるのです。

 一昨日、ある方々とインターネットでA.ヘッシェルという人の『人は独りではない』という本についていろいろと話をしていました。このヘッシェルというユダヤ教のラビであり宗教哲学者のことは、私も説教の中で何度かご紹介したので覚えておられる方もおられるかもしれません。そのヘッシェルが、『人は独りではない』という本の中で、このようなことを言っています。

   神について考えることは、彼を私たちの心の中の対象として見つけることではなく、神の中に自分自身を見つけることです。彼は(私たちを)知っておられるお方であり、私たちは(神に)知られています。(私たちが)神を考えることは、彼が主体であり、私たちがこの目的であることによって可能になります

 すこし、難しい言い回しですが、要は、私たちが神についてあれこれ考えたとしても、私たちが考えられる神の姿は、私たちのことを心配し思いやって下さる神様の姿だけなのだと言うことです。そして、私たちが神に語りかけるのではなく、神の方が私たちに語りかけてくださるのだとへッシェルは言うのです。
 私たちは、この新型コロナウィイルスの感染拡大のため、多くの我慢と犠牲が強いられています。そのような中で、「神様、なぜこのようなことが私たちに起こるのですか」と語りかけ、問いかけたい思いになります。
 N.T.ライトという神学者は、そのような問いかけをしても、その答えは分からないといいます。ただ、大切なのは「神様、なぜこのようなことが私たちに起こるのですか」と問いかけたくなる状況の下で、神の前に私たちがいかに生きるかが問われているのだといいます。まさに、ヘッシェルが言うように、神に問いかけ、語りかけるのではなく、神が私たちに語られることに耳を傾け、神の語りかけに従って生きることが大切だと、N.T.ライトは訴えるのです。
 教団の求めに応じて、コロナウィルスで苦闘する牧師や教会のための特別な説教をかたっても、神が私たちに語りかける言葉は、恵みにあふれた愛と慈しみに満ちた言葉なのです。
 まだ、しばらくは忍耐の時が続きます。しかし、神は、いつでも、どんな時でも、愛と慈しみに満ちた恵みの言葉を私たちに語りかけてくださっています。そのことを覚えつつ、この忍耐の時を、感謝をもって過ごしましょう。

フィリピの信徒への手紙(口語訳ピリピ人への手紙)2 6節から8

   6:キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執ししようとは思わ
  ず7:かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿
で現れ 8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

2020515