2024年1月16日火曜日

心の欠けを満たしてくれる友

 新約聖書マタイによる福音書の十六章十六節~二十四節に、こんな話があります。ある時、一人の青年がイエス・キリスト様のところにやって来てこんな質問をしました。「永遠の命をえるために、私はどんなと良いことをしたらよいのでしょう」

 その質問に対してイエス・キリスト様は、「殺してはならない」とか「父母を敬え」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」といった戒めを守りなさいと答えます。するとその青年はさらにこう尋ねます。「それははみんな守っています。何か欠けているのでしょうか」

 するとイエス・キリスト様は「あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与え、私について来なさい。」この言葉を聞いた青年は、イエス・キリスト様のもとから悲しんで去っていったと言うのです、そして聖書は、この青年が去っていった理由は、彼が多くの財産を持っていたからだ説明しています。

 この青年が求めていたものは、永遠の命です。聖書で永遠の命と言うとき、それは神から与えられる。神の恵みであり祝福です。神様は、私たちを常に愛し、受け入れ、恵みを与えたいと思い、私たちに神の恵みと祝福とを差し出しておられます、ただ、そのことに「わたしたち」は気付かないでいるのです。なぜならば、「わたしたち」は、富や財産がわたしたちを幸せにしてくれると思っているからです。

けれども、人は、神から愛され、受け入れられているということに気付くときに始めて、神の恵みや祝福といったものを得ることができるのです。

キリストの時代の人々もまた、この神の恵みや祝福といったものは豊かな冨はであると考えていました。ですから、この青年が多くの財産を持っていたと言うことは、彼自身が神さまからの祝福をいただいていると言う証であり、幸福のしるしのはずでした。しかし、それでもなお、この青年は何か満たされていないものを感じているのです。どんなに、多くの冨を手に入れても、心のどこかに、何か満たされない気持ちがある。だから「何か欠けているのでしょうか」とイエス・キリスト様のところに訪ねてくるのです。

 結局、お金や財産といったものが、神の祝福なのではなく、どんなときでもキリストを頼り、キリストが人生の様々な場面で私たちを慰め励まし、そして支えてくださる神の愛が、神の祝福であり、恵みなのです。

 この青年は、イエス・キリスト様に「永遠の命をえるために、私はどんなと良いことをしたらよいのでしょう」と問うています。永遠の命とは、神の命です。神様は、「わたしたち」に自分の命を与えるほどに、「わたしたち」を愛してくださっています。それほどまでに「わたしたち」を愛しておられるからこそ「永遠」と呼ばれるほど、いつでも、どのような時にでも、わたしたちと共にいてくださり、わ「たしたち」を慰め励ましてくださるのです。だからイエス・キリスト様は、「あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与え、私について来なさい」というのです。それは、「何をおいても、私と一緒にいて、私と共に生きてなさい」ということです。

 普通に考えても、苦しい時に、慰め励ましてくれる友達や家族というものは、お金や財産以上にかけがえのないものですよね。そう言った友達や家族は、何よりも大切にしなければなりません。そういった存在が、私たちの心の賭けを満たしてくれるのです。でも、そんな友達や家族でもあっても、人間は弱さを持っています。ですからどんなに支えたくても支えきれなくなってしまうこともあります。また、時には仲違いをしてしまうことだってありますし、裏切られてしまうことだってある。
 けれどもイエス・キリスト様は、どんなときでも決してあなたを見捨てず裏切らないで、私たちと共に歩み、支え慰めて下さる永遠の友となって下さるお方です。だから、キリストについて行く、一緒に人生の歩みを歩んでいくということが大切なのです。

 次の言葉は新約聖書ヘブル人への手紙十三章五節にあるキリストの約束です。「金銭を愛する生活を生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。』

イエス・キリスト様は、今日、いつでも、どんなときでも、「あなた」を決して見捨てることのない「あなた」の永遠の友になろうと言って下さっています。ですから、どうか、このお方を心に受け入れて欲しいと思います。

2024年1月13日土曜日

やり直しの人生(弟子ペテロの場合)

 イエス・キリスト様には、12使徒と呼ばれる、有名な12人の直弟子がいました。この12弟子の中のひとりのイスカリオテのユダの裏切りによって、イエス・キリスト様は捕らえられ、十字架に貼り付けられて死んだんです。でも、聖書は、イスカリオテのユダだけでなく、他の弟子たちも、さまざまな形でイエス・キリスト様を裏切った事を記しています。その中のひとりに、ペテロと言われる人がいるのですが、そのペテロは、熱血漢で、イエス・キリスト様の弟子の中ではリーダー的な存在です。ところが、こともあろうに、そのペテロが、いざイエス・キリスト様が捕らえられると、「私はイエスという男なんか知らない。」と、嘘をついてしまうのです。

 しかも、ご丁寧に3度にわたって、「私はイエスという男なんか知らない」とそう言ってしまうんですね。もっとも、ペテロにも良心の痛みというものがありますから、自分がイエス・キリスト様を裏切ってしまったことを、激しく後悔します。そして、自分の裏切りの行為を、泣いてキリストにお詫びをするんですね。そうこうしていると、十字架に付けられたイエス・キリスト様が死んで3日後に、よみがえります。そのよみがえったイエス・キリストが、ペテロ達弟子の所に現われたのです。

 私は、その時にペテロ退き持ちを想像しますとね、きっとバツが悪かったと思いますよ。自分が3度も裏切ったイエス・キリスト様が目の前にいるんですから。居心地が悪かったでしょうね。そんなペテロに対して、イエス・キリスト様は、「あなたは私を愛しますか」とそう訊ねました。もちろん、そのイエス・キリスト様の問いかけに対して、ペテロは「はい、私があなたを愛することをは、あなたがよくご存知です。」とそう答えました。
 ところが、その答えを聞いたイエス・キリスト様は、もう一度「あなたは私を愛しますか」と訊ねるのです。当然ペテロは「ハイ、愛しています」と同じ答えをする。そうすると、更にもう一度イエス・キリスト様は「あなたは私を愛しますか」とそう訊ねられたのです。
 3度も同じ質問をするなんて、キリストってなんて疑い深いんだろうって、そう思われるかも知れませんね。でもそうじゃないんです。イエス・キリスト様は、ペテロが3度「私はイエスという男なんか知らない」と言ってしまった過ちを、完全に赦していると言うことをペテロの知らせるために、わざわざ3度も「あなたは私を愛しますか。」とそう訊ねたのです。それは、過ちを犯したペテロがその過ちから立ち上がり、人生を新しくやり直していくためだったのです。

 人間は誰でも過ちを犯します。もう二度としないと思っていても、同じ過ちや失敗を繰り返すことがあります。けれども、私たちが、私たちの犯した過ちを、本当に悔い、神様にお詫びをするならば、神様は、私たちの罪や過ちのすべてを完全に赦してくれるんですね。そしてそこから、立ち上がり、人生をやり直していくことを願っておられるのです。そして願うだけでなく、そのやり直しに人生を共に歩んでくださるのです。」
 神のひとり子なる神キリストは、ペテロに3度、「あなたは私を愛しますか」と訊ねることで、そのことを私たちに教えておられるのです。すなわち、神様も神の御子であるイエス・キリスト様も、「あなた」が「あなた」の人生をやり直せるように、「あなた」を完全に受け入れておられるのです。

2024年1月11日木曜日

あなたがいてくれるだけで

  実は、孫の誕生日がちかづいてきており、どんなお祝いの誕生日プレゼントを買おうかと頭を悩ましています。誕生日のお祝いをするというのは、祝われる側はもちろんのこと、祝う側にとっても嬉しいものです。本当に生まれてくれてありがとうと思うからです。ところが、ある人がこんなことをいっていました。

『「お誕生日おめでとう」という言葉には、「あなたが生まれてくれたことも嬉しいけど、今、あなたがいてくれることが、本当に嬉しい」。そう言う思いが込められているんだ』って言うのです。良い言葉ですよね。そしてそのような思いで、「お誕生日おめでとう」と言われたら、言われた側も、本当に嬉しくなるんじゃないかなって思うんですが、どうでしょうか。それは、誕生日を祝ってくれる人の温かい愛が、伝わってくるからなんでしょうね。そんなわけで、今日は、そのような思いをこめて、私も、孫に「お誕生日おめでとう」って言ってやろうと思います。

 ところで、旧約聖書イザヤ書四十三章四節には、神が、先程のお誕生日をお祝いする言葉とおなじように、「あなたがいてくれることが本当に嬉しい。」という思いで、私たちに語りかけている言葉があります。それは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という言葉です。神が、私たちを高価で尊いと言って下さるとき、私たちが神に何か役立つものだから、価値があると言っているのではありません。神は、まさに全知全能の神です。ですから、私たちから何かお世話してもらわなければこまるとか、何かをしてもらわなければならない存在ではありません。

その神が、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とそう言って下さるのは、神が、あなたを愛しておられるからです。だから、あなたがいてくれるというだけで、神の心は喜びに満たされるのです。
 ところが、「何も出来なくても、何もしなくてもいい。ただいてくれるだけで、本当に嬉しい」と思うほどの深い愛で愛されているのに、私たちは、その神の目から逃れて生きて行こうとしてはいないしょうか。「神なんかいない。」「神なんか信じない」と、私たちの心から神の存在を締め出してしまっているならば、「あなたがいてくれるだけで、私はとっても嬉しい」という温かい神の愛の言葉を聞くことができません。

 今の時代は、本当に殺伐とした時代です。人間関係にも、本当に神経を使わなければならないと入った状況です。だからこそ、今の私たちに本当に必要なものは、「あなたがいてくれるだけで嬉しい」といった愛の言葉なのではないかと思うのです。その愛の言葉を、神は今日もあなたに語りかけておられます。ですから、あなたも、この神を心に信じ、神があなたに語りかける愛の言葉を聞きながら生きていって欲しいと思います。

2024年1月10日水曜日

詩篇49篇の黙想

 詩篇49篇の黙想

 この詩篇49篇には、この詩人(それは、表題に従えばコラと言うこと似なるのだが)の死生観がにじみ出ている。しかも、その死生観は旧約聖書においては極めて特異な死生観である。

 一般に旧約聖書は、人間の死後に関心を寄せていない。むしろ生きているその生において如何に神の祝福を得て生きるかに関心が向けられている。そしてその神の祝福とは、長寿であったり、多くの子供であったり、財産と言った寝に見える形で表される。

 ところがこの詩人は、それらのものがいっさい空しいと言う。そして、死んだなら人は等しく地の下にある陰府に下るのだと言うのである(11節12節)。もちろん、死んだ後、人は皆等しく陰府に下るというのは旧約的発想である。だからこそ、この地上で得る神の祝福に目が向けられているのである。だが、この詩人は、魂の救いに目を向けているのである(8節9節)。そしてこの魂の救いには贖い代が求められるのであるが、その贖い代を人は払いきることが出来ない。だれも払いきることが出来ないのである。

 もしここで、この詩が終わっていたとしたならば、人の一生とはなんと空しいことだろうか。東方教会の伝統は、罪と死の関係をわれわれ西方教会と逆転させ、死と罪の現実を、この死の空しさのゆえに、人は罪を犯す者となるという風に捉える。人間の死という現実があるがゆえに、人間は刹那的この世の快楽を求め、そこに罪が入り込むというのである。このような見方の神学的是非はあるかも知れないが、極めて卓越した人間観察だと言える。

 しかし、この詩人は、魂の贖いに目を向ける。それは、陰府から我々を贖い出す神の御業なのであり、キリストの十字架によって完成された神の救いの業なのである。

 この人は死んだなら皆等しく陰府に下るという旧約的思想に立ちながら、その陰府から神は魂をあがないだして下さるということを、コラの子たちが詠うということは、何とも皮肉な出来事である。というのもコラという人物は、モーセとアロンに逆らい、この世の栄誉を求めて生きたまま地に呑まれ、陰府下った人物だからである(民16:1-35)。その子孫が、陰府から贖い出す神の御業をたたえる者となっていると言うことにも、我々は神の救いの歴史の不思議さ見ることが出来る。

 旧約聖書全般を見れば、そこには確かに、神の前に如何に生きるかが問題とされ、その結果が生きている中に現れることが切に願われている。しかし、死後にも神の祝福があることが、所々に垣間見られている。この詩篇に先立つ48篇の最後の言葉は、「この神は代々限りなく私たちの神、死を越えて私たちを導く、と」となっている。この死を越えてと言う言葉は、死という事態を越えて死後まで導くと言う意味と捉えるのか、死線を越えてと捉えるのかによって意味は違ってくる。また、個人的な死を意味し死後の世界を導くと捉えるのか、個人的な死の現実があってもその子孫を世々代々に渡って神が、神の民を導くと言う意味にも捉えられる。おそらく、文脈から言うならば、それがもっとも適切であろう。

しかし、黙想の世界においては、この「この神は代々限りなく私たちの神、死を越えて私たちを導く、と」と言う言葉の後に、詩篇49篇が置かれているのはなんとも味わい深い事象である。

2024年1月9日火曜日

23年1月第一主日礼拝説教「マルタの信仰告白」

 23年1月第一主日礼拝説教「マルタの信仰告白」                2023.1.7

旧約書:申命記18章13節から21節
福音書:ヨハネによる福音書11章17節から28節
使徒書:ヘブル人への手紙11章1節2節

 今日の礼拝説教の中心となる箇所は、先週の礼拝説教に続くヨハネによる福音書11章17節から28節です。イエス・キリスト様が親しくしていたマルタとマリヤの姉妹の兄弟ラザロが病気になっているとの知らせを聞き、そのラザロのところへ行こうとして、旅立たれます。今日の箇所は、そのマリヤとマルタそしてラザロの家に、イエス・キリスト様が到着したときの出来事が記されています。

 イエス・キリスト様が到着したとき、既にラザロが死んで墓に葬られ四日が過ぎていたとあります。また、イエス・キリスト様はラザロが病気であるという知らせを聞いて、二日ほどたってベタニヤにあるラザロに家に向かっています、またその旅程は二日ほどかかっています。だとすれば、マリヤとマルタの家から使者がイエス・キリスト様に所にたどり着くまで、最低で二日、そして仮にイエス・キリスト様が知らせを聞いすぐに旅立ったとしても往復で二日かかるのです。だとすればイエス・キリスト様がラザロの病気の話を聞いた時にはラザロは亡くなっていたことになります。
 このラザロの家があったベタニヤというのは、エルサレムから25丁はなれたところにあったといいますので、距離にして約⒉7㎞というまさにエルサレムの近郊です。ですから、11章7節にありますようにイエス・キリスト様がラザロのもとに行こうと言ったときに、弟子たちが「先生、ユダヤ人たちが、先ほどもあなたを石で打ち殺そうとしていましたのに、またそこうに行かれるのですか」と心配したのもうなずけます。ユダヤ人がイエス・キリスト様を石で打ち殺そうとしたのは、まさにエルサレムでの出来事だったからです。
 しかしそれでもなお、イエス・キリスト様はエルサレムの郊外のラザロの家に行かれるのです。イエス・キリスト様が来られたと聞いて、マルタはイエス・キリスト様を出迎えに行きます。そこで、マルタがイエス・キリスト様に発した言葉が 

主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています

というものです。ウィリアム・バークレーや榊原康夫をはじめとする多くの聖書注解者が、このマルタの言葉に、「ラザロが病気であることをお知らせしたのに、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という非難の響きと同時に、それでもなお、イエス・キリスト様を信頼する心が読み取れると言っています。

 この、「ラザロが病気であることをお知らせしたのに、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という非難の響きというのは、おそらくはイエス・キリスト様が、ラザロが病気であるという知らせを聞いて、なお二日滞在していた地にとどまっていたということを念頭に置いてのことであろうと思います。
 しかし、イエス・キリスト様が知らせを聞いた時点で、ラザロはすでに亡くなっていたのです。たとえ、イエス・キリスト様が知らせを聞いてすぐの駆け付けたとしても、ラザロが亡くなって二日が過ぎています。そういった点を考慮すると、マルタの言葉に非難めいた響きを読み取るのは、少々読み込みすぎかもしれません。
 しかし、彼女がイエス・キリスト様に信頼を寄せていたことは確かです。「彼女のあなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」という言葉は、真実な心から出た言葉なのです。ところが、その信頼は十分なものではありませんでした。そのことをイエス・キリスト様は明らかにし、ただ信頼するだけではなく、イエス・キリスト様を神の御子として信じ受け入れる信仰告白へと導くのです。ではどうやって、イエス・キリスト様はマルタを導かれたのでしょうか。
 まずイエス・キリスト様は、マルタに「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と語りかけます。その語りかけにマルタは、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えます。このマルタの答えは、当時のユダヤ教の終末論的希望と一致します。
 当時にユダヤ人たちの間に死者の復活があるという人たちと、復活はないと否定する人たちがいたことは使徒行伝23章8節を見れば明らかです。そこには「元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している」と記されています。
 またN.T.ライトというイギリス国教会の司祭で新約学者は、当時のユダヤの民衆の名Kには、当時のローマ帝国の支配下にある状況にあって、彼らは、その支配から解放され、新しい聖地と神殿が回復され、その地で自由に律法を全うして生きていくという希望を持っていたと言います。そして、その時に命に甦るという希望を持っていた人たちがいたと述べています。まさに、パリサイ派の人々はそのような人だったと言えるでしょう。ですから、マルタが「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えは、そのような人々の希望を言い表す言葉であったと言えます。

 しかし、その答えに対してイエス・キリスト様はさらに、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と追いかけるのです。
 みなさん、マルタは21節22節で

   「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」

と言っています。つまり彼女は、イエス・キリスト様が願うならば、神様はラザロに命を与え死から救ってくださっただろうと言っているのです。確かに、神様は命を与えるお方です。ですから、彼女の答えは間違っていない。しかし、このときにマルタにとって、イエス・キリスト様は、神と人をとりなす存在ではあっても命を与える存在ではないのです。おそらくマルタはイエス・キリスト様を偉大な預言者と捉えていたのだろうと思います。
 みなさん、私たちは先ほど、申命記18章の13節から21節までをお読みしました。そこにはモーセが語った言葉が記されていますが、そこでモーセは「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」と言っています。
 モーセは、イスラエルの民がエジプトで奴隷となっていた時、その支配から解放し、人々を救いした預言者です。そのモーセのような救いをもたらす預言者が起こされると旧約聖書は語るのです。また、マラキ書4章5節には

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」

 とあります。つまり、やがて、イスラエルの民が救われる救いの時にはエリヤのような預言者やモーセのような預言者がやがて現れるというのです。そのことを受けるようにして、ヨハネによる福音書の1章19節から21節で人々がバプテスマのヨハネに、「あなたはエリヤの再来ですか、それともあの預言者ですか」と尋ねている箇所があります。このあの預言者というのが、モーセが言った私のような預言者が起こされると言ったその預言者なのです。

 そして、バプテスマのヨハネにしたように、イエス・キリスト様を、そのエリヤの再来であるとか、モーセのような預言者であると考えていたのではないかと思われます。そこには、彼らが待ち望んできた救い主であり、イスラエルの王となるお方が来る前に、預言者エリヤとモーセのような預言者再来するという期待があったからです。

そしてマルタもまた、イエス・キリスト様をそのような預言者であると捉えていたと思われるのです。だからこそ、そのマルタに、イエス・キリスト様は、「私が死者をよみがえらせ、命を与えるものなのだ、あなたはそれを信じるか」と迫るのです。それは、イエス・キリスト様は、エリヤでもなく、モーセのような預言者でもなく、まさこの世界に王として来られたお方であり救い主メシアだからです。
 イスラエルの民にとって、イスラエルの王は神自身です。ですから、「私が死者をよみがえさせ、命を与えるものなのだ、あなたはそれを信じるか」と迫るイエス・キリスト様の言葉は、私こそがイスラエルを抑える王であるということを信じるかということを迫る言葉でもあります。しかし、イエス・キリスト様は、ただイスラエルの民を救う王として来られたわけではありません。それにまさる神の王国を治める王として来られたお方です。そしてその神の王国は、単にイスラエルの民だけに開かれているのではなく、世界中のすべての人に対して開かれているものです。
 もっとも、マルタ自身がそこまで理解できていたかどうかはわかりませんが、しかし、それでも、彼女はイエス・キリスト様を信頼していたその信頼は確かなものであったようです。イエス・キリスト様に「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と問われ、素直に「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」と応えるのです、

 来るべきキリスト、それは油注がれた王でということです。そしてイスラエルの民にとってイスラエルの王は、神ご自身なのです。だから、マルタは。イエス・キリスト様は神の御子であるというのです。そして、この言葉はマルタにとっての信仰告白の言葉となった。
 みなさん、マルタはまだ、ラザロのよみがえりを見たわけでもありません。また、具体的に神の王国がこの世界の中に広がっていくのも見ていない。けれども、まだ見ていないのに、イエス・キリスト様の言葉を聴き、その言葉をそのまま受け止めて信じるのです。もちろん、マルタとてやみくもに信じたわけではないでしょう。ここに至るまでにあるイエス・キリスト様との様々な交流や、それまでイエス・キリスト様がなされたことを見て来たことを通して築き上げられた信頼関係もあったでしょう。しかし、それでもなお彼女は、まだ見ていない信仰の事実を信じ受け入れたのです。

みなさん、私は、このマルタの姿に、先ほどお富舌ヘブル人への手紙11章1節のある「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することであるという新を見る思いがします。そしてその信仰の大切さを思うのです。それと同時に、信じる決断、信仰告白に至るまでに、いかに、イエス。キリスト様に対する信頼が大切かということを教えられるます。
 それは、今日、イエス・キリスト様を伝える伝道の業が困難な日本の現状における教会に対するとても重要な事だと思うのです。みなさん。教会はキリストの体であり、キリストの業を行う共同体です。そのキリストの体である教会が、人々に信頼されていなければ、教会が語る宣教の言葉が人々に受け入れられ、信仰告白に導くことができないからです。

 私たちはイエス・キリスト様に信頼されたように、人々に信頼されるキリストの業を行うものとなる必要があるです。そして、そのキリストの業とは、神を愛して礼拝をし、隣人を愛するという愛を実践していくことだと思うのです。このことを覚えながら、今年一年の歩みをしていきたいと思います。しばらく静まりまりましょう。心を静めて、神の御子であるイエス・キリスト様のことを思いましょう。

神様の不思議な名前

 

聖書の中で、神様がご自分の名前について語っているところがあります。その箇所は旧約聖書の出エジプト記という箇所の3章13節、14節です。そこにはこうあります。

モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」

ここのは、神様の名乗りがあります。この神の名乗りは、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民に向かってなされるのですが、そこで表された神様の名は「私はいる」というものです。この「私はいる」という言葉は、旧約聖書が書かれたもともとの原語であるヘブライ語ではאֶהְ יֶ(エヒィエー)という一つの単語です。これはヘブライ語の動詞は、動詞が人称を含みながら活用するからです。このエヒィエーは「私はある」との訳されますので、以下では「私はある」とします。

神様は、私の名は「私はある」であると言われます。実に奇妙な名前です。しかし、この名前は、とても大切なのです。というのも「ある」という動詞は、英語のbeであり、要は「存在する」ということを意味しています。つまり、神は、この世界に存在するすべてのものを存在させている存在の根源であるということなのです。ですから「あなた」が「今、ここに存在している」のは、あなたが自身の力や頑張りによって「あなた」が存在しているのではなく、神様が「あなた」という人を「存在」させているのです。

この「わたしはある」という言葉の「わたし」一人称単数うの代名詞です。ですから「わたしはある」という言葉の「わたし」の部分に、、だれもが、「Aはある」というように、「わたし」の部分に自分の固有名詞を入れることが可能です。そのときまさに「わたしはある」いう言葉には、その言葉を発した人自身の、「わたしはわたしである」という自認が生まれてきます。

 この自認する「わたし」は絶対的「わたし」ではありません。それは極めて相対的です。たとえば、ある高校で成績がトップの子がいます。その子の「わたし」は「自分は優秀だ」と自認する「わたし」です。そして周囲もこの子に期待を寄せています。しかし世の中には優秀な人間が数多くいます。そのような中に置かれると「自分は優秀だ」と自認する「わたし」は崩壊し、「自分は普通だ」あるいはばあいのよっては、「自分は劣っている」という自認をもって「わたし」を見ることすらあるのです。つまり、通常わたしたちが自覚する「わたし」という自分は、極めて相対的であり、他人の目から見た自分の姿なのです。

 そのようなわたしたちが、『は「わたしはある』というものである」と名乗る神様にむかい、「わたしはある」という名を呼び求める時、周囲に左右されない真の自己が現れ出ます。それは、神のよって存在させられている「わたし」の姿であり、神の目からみた「わたし」の姿なのです。神様は人間や世界を超越する絶対他者です。ですからその絶対者である神様の前に立つときに、そこにゆるぎのない真の自己の姿が立ち現れるのです。それこそが、まさに神の目からみた「わたし」の姿なのです。

 その神様の前に立ち現れた真の自己としての「わたし」と現実の自分自身の自我が自認する「わたし」との間には差異があります。自我とは、この世界の中で様々な経験をし、その経験を通して自分が自分自身の意識の中に思い描く自分の姿だからです。そしてこの世界で生きるわたしたちが経験することの中には、様々な試練や苦しみや悩みを経験があります。その経験の中で苦しみ、悩み、悲しみ、傷つき痛む「わたし」が、神様に向かい「わたしはある」という神様の名を叫び呼び求めるとき、その叫びはただ神様の名を呼ぶということに留まらず、ここに苦しみ、悩み、悲しみ、傷つき痛む「わたしがいる」という声にもなります。つまり「わたしはある」という名によって、痛みを通して神と人とが不可分に結びつくのです。そのような「わたしはある」という名前で神様は自らをエジプトで奴隷として苦しんできたイスラエルの民に現わしたのです。
 神様が「私はある」という名のものであるというとき、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を生かし、存在させているのは私(神)であるという宣言でもあります。それは、「私はあなたを大切に思っているよ。だから私は、あなたを生かし存在させているのだ」という神様の前言でもあり「私は、いつでもあなたと共にいる(エヒィエー)よ」という神様の語り掛けでもあるので。。

 これらのことを思うとき、神様が自らの名を「わたしはある」として名乗られたことは、実に深みがあることだと言えます。そして、神様は、私たちに「私はある/いる」という神様の名を呼び

2024年1月8日月曜日

アイム・オッケー

 「アイム オッケー」

 旧約聖書イザヤ書43章1節、2節にこういう言葉があります。

「恐れるな。私はあなたを贖ったのだ。あなたは私の名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが、水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中をあるいても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 この聖書の言葉は、「恐れるな」と語りかけていますが、それは、「大丈夫だよ。心配しなくてもいいよ。」という神様からの語りかけの言葉です。
 私たちの人生には、様々な試練や試みと言ったことが起こります。どんなに順調で、人から順風満帆だと思われるように人生にだって、苦しみ悩むことは、何度かあるように思うのですが、どうでしょうか。まさしく、人生に、川の中を過ぎるときや、火の中を歩くような時があるんですよね。そんなときにも、神は、「大丈夫。心配しなくてもいいよ。」とそう語りかけてくださっているのです。
 私が、会社勤めをしているときの事です。仕事で問題を抱え込んで、悩んだり落ち込んだりしているときに、よく先輩が「大丈夫、命まで取られることはないから」と声をかけてくれました。そう言われると、少しだけ気が楽になる感じがしました。けれども、神が「大丈夫」は、「命まで取られることはないから大丈夫だ」と言うことではありません。「私が、あなたと共にいて挙げるから大丈夫だよ」とそういわれるのです。

 人生には、本当に本当に苦しいことや悩ましいこと、あるいは心配事を抱え込んで過ごすときがあります。私もそういう時を何度も過ぎしてきました。ある時は、母の死から始まって、娘たちの受験や、教会の様々な問題と、本当にいろんな事があった一年素図五しました。その時は心配なことや不安なこと、あるいは頭を悩ませることが一杯あって、正直なところ、心身共に疲れ切ってしまっていました。その時だけではありません、そういうことが何度もあったのです。
 そんなときにはね、静かに部屋にこもって、心を静めて祈るなんて事はできません。そんな時は、「ただ神に向って、『どうしてですか』と問いかけ、心の不満を神に語りかけるしかできなかったのです。しかし、ある意味それは、神に向かってなされる呻きような祈りであったということができます。
 試練の中で、神に不満をぶちまけ、「なぜこんなことの成っているのか」とつぶやく声ですら、神は耳を傾けて聴いてくださっているのです。そのことに気づいてから、私は、よくお風呂で、「神よ、どうしてですか。」と、自分の不満を神に語りかけていました。ひどいときには、祈りの言葉さえ出てこなくて、ふてくされて過ごすことさえありました。でも、それはそれで、私の神への意思表示だったのです。
 けれども、そんな私に、神はいつも寄り添ってくださっていました。そして、心の中に、「大丈夫」だと語りかけてくださっていたのです。もちろんそれは、言葉としてではありません。けれども確かに、神は私と共にいて、私を慰め、励ましてくださっていたのです。だからこそ、様々な試練やいろいろあった事を乗り越えてこられたのだろうと思います。
 この神が、私と共にいてくださるならば、これからもきっと、いろいろと思い悩み、落ち込むことがあっても、きっと「I’m OK、私は大丈夫」だと思える時がくるのだろうと思います。そして、あなたもこの神を信じ心に受け入れるならば「You are Ok、あなたも大丈夫」だと思えるようになると思うのです。