2024年1月9日火曜日

神様の不思議な名前

 

聖書の中で、神様がご自分の名前について語っているところがあります。その箇所は旧約聖書の出エジプト記という箇所の3章13節、14節です。そこにはこうあります。

モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」

ここのは、神様の名乗りがあります。この神の名乗りは、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民に向かってなされるのですが、そこで表された神様の名は「私はいる」というものです。この「私はいる」という言葉は、旧約聖書が書かれたもともとの原語であるヘブライ語ではאֶהְ יֶ(エヒィエー)という一つの単語です。これはヘブライ語の動詞は、動詞が人称を含みながら活用するからです。このエヒィエーは「私はある」との訳されますので、以下では「私はある」とします。

神様は、私の名は「私はある」であると言われます。実に奇妙な名前です。しかし、この名前は、とても大切なのです。というのも「ある」という動詞は、英語のbeであり、要は「存在する」ということを意味しています。つまり、神は、この世界に存在するすべてのものを存在させている存在の根源であるということなのです。ですから「あなた」が「今、ここに存在している」のは、あなたが自身の力や頑張りによって「あなた」が存在しているのではなく、神様が「あなた」という人を「存在」させているのです。

この「わたしはある」という言葉の「わたし」一人称単数うの代名詞です。ですから「わたしはある」という言葉の「わたし」の部分に、、だれもが、「Aはある」というように、「わたし」の部分に自分の固有名詞を入れることが可能です。そのときまさに「わたしはある」いう言葉には、その言葉を発した人自身の、「わたしはわたしである」という自認が生まれてきます。

 この自認する「わたし」は絶対的「わたし」ではありません。それは極めて相対的です。たとえば、ある高校で成績がトップの子がいます。その子の「わたし」は「自分は優秀だ」と自認する「わたし」です。そして周囲もこの子に期待を寄せています。しかし世の中には優秀な人間が数多くいます。そのような中に置かれると「自分は優秀だ」と自認する「わたし」は崩壊し、「自分は普通だ」あるいはばあいのよっては、「自分は劣っている」という自認をもって「わたし」を見ることすらあるのです。つまり、通常わたしたちが自覚する「わたし」という自分は、極めて相対的であり、他人の目から見た自分の姿なのです。

 そのようなわたしたちが、『は「わたしはある』というものである」と名乗る神様にむかい、「わたしはある」という名を呼び求める時、周囲に左右されない真の自己が現れ出ます。それは、神のよって存在させられている「わたし」の姿であり、神の目からみた「わたし」の姿なのです。神様は人間や世界を超越する絶対他者です。ですからその絶対者である神様の前に立つときに、そこにゆるぎのない真の自己の姿が立ち現れるのです。それこそが、まさに神の目からみた「わたし」の姿なのです。

 その神様の前に立ち現れた真の自己としての「わたし」と現実の自分自身の自我が自認する「わたし」との間には差異があります。自我とは、この世界の中で様々な経験をし、その経験を通して自分が自分自身の意識の中に思い描く自分の姿だからです。そしてこの世界で生きるわたしたちが経験することの中には、様々な試練や苦しみや悩みを経験があります。その経験の中で苦しみ、悩み、悲しみ、傷つき痛む「わたし」が、神様に向かい「わたしはある」という神様の名を叫び呼び求めるとき、その叫びはただ神様の名を呼ぶということに留まらず、ここに苦しみ、悩み、悲しみ、傷つき痛む「わたしがいる」という声にもなります。つまり「わたしはある」という名によって、痛みを通して神と人とが不可分に結びつくのです。そのような「わたしはある」という名前で神様は自らをエジプトで奴隷として苦しんできたイスラエルの民に現わしたのです。
 神様が「私はある」という名のものであるというとき、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を生かし、存在させているのは私(神)であるという宣言でもあります。それは、「私はあなたを大切に思っているよ。だから私は、あなたを生かし存在させているのだ」という神様の前言でもあり「私は、いつでもあなたと共にいる(エヒィエー)よ」という神様の語り掛けでもあるので。。

 これらのことを思うとき、神様が自らの名を「わたしはある」として名乗られたことは、実に深みがあることだと言えます。そして、神様は、私たちに「私はある/いる」という神様の名を呼び

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