詩篇49篇の黙想
この詩篇49篇には、この詩人(それは、表題に従えばコラと言うこと似なるのだが)の死生観がにじみ出ている。しかも、その死生観は旧約聖書においては極めて特異な死生観である。
一般に旧約聖書は、人間の死後に関心を寄せていない。むしろ生きているその生において如何に神の祝福を得て生きるかに関心が向けられている。そしてその神の祝福とは、長寿であったり、多くの子供であったり、財産と言った寝に見える形で表される。
ところがこの詩人は、それらのものがいっさい空しいと言う。そして、死んだなら人は等しく地の下にある陰府に下るのだと言うのである(11節12節)。もちろん、死んだ後、人は皆等しく陰府に下るというのは旧約的発想である。だからこそ、この地上で得る神の祝福に目が向けられているのである。だが、この詩人は、魂の救いに目を向けているのである(8節9節)。そしてこの魂の救いには贖い代が求められるのであるが、その贖い代を人は払いきることが出来ない。だれも払いきることが出来ないのである。
もしここで、この詩が終わっていたとしたならば、人の一生とはなんと空しいことだろうか。東方教会の伝統は、罪と死の関係をわれわれ西方教会と逆転させ、死と罪の現実を、この死の空しさのゆえに、人は罪を犯す者となるという風に捉える。人間の死という現実があるがゆえに、人間は刹那的この世の快楽を求め、そこに罪が入り込むというのである。このような見方の神学的是非はあるかも知れないが、極めて卓越した人間観察だと言える。
しかし、この詩人は、魂の贖いに目を向ける。それは、陰府から我々を贖い出す神の御業なのであり、キリストの十字架によって完成された神の救いの業なのである。
この人は死んだなら皆等しく陰府に下るという旧約的思想に立ちながら、その陰府から神は魂をあがないだして下さるということを、コラの子たちが詠うということは、何とも皮肉な出来事である。というのもコラという人物は、モーセとアロンに逆らい、この世の栄誉を求めて生きたまま地に呑まれ、陰府下った人物だからである(民16:1-35)。その子孫が、陰府から贖い出す神の御業をたたえる者となっていると言うことにも、我々は神の救いの歴史の不思議さ見ることが出来る。
旧約聖書全般を見れば、そこには確かに、神の前に如何に生きるかが問題とされ、その結果が生きている中に現れることが切に願われている。しかし、死後にも神の祝福があることが、所々に垣間見られている。この詩篇に先立つ48篇の最後の言葉は、「この神は代々限りなく私たちの神、死を越えて私たちを導く、と」となっている。この死を越えてと言う言葉は、死という事態を越えて死後まで導くと言う意味と捉えるのか、死線を越えてと捉えるのかによって意味は違ってくる。また、個人的な死を意味し死後の世界を導くと捉えるのか、個人的な死の現実があってもその子孫を世々代々に渡って神が、神の民を導くと言う意味にも捉えられる。おそらく、文脈から言うならば、それがもっとも適切であろう。
しかし、黙想の世界においては、この「この神は代々限りなく私たちの神、死を越えて私たちを導く、と」と言う言葉の後に、詩篇49篇が置かれているのはなんとも味わい深い事象である。
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